『日本人の惣菜 中編』
従業員用の控え室の扉を大きく開けたグリシーヌは、その場で硬直してしまっていた。
その場にいたエリカと花火は問題ない。大神も問題はない。
問題なのは加山がいた事だ。
グリシーヌも大神達と同じ巴里華撃団の隊員である。大神が来た当初は自分が名門貴族という事もあり、人の下につく事をよしとしなかったのだが、大神の人柄を認めてからは素直に隊員として共に戦っている。
そのため、華撃団の関係者だと思っていない加山がいる前で、堂々と大神を「隊長」と呼んでしまった事で慌てているのだ。部外者に秘密をばらしてしまったと内心恐慌に陥りながら。
だから硬直した姿勢のまま、口をぱくぱくとさせたまま脂汗を流している。威風堂々たる貴族である反面、ウソや隠し事が大の苦手なのだ。
部外者の前で「隊長」と呼んでしまった事をどう取り繕うか。彼女の頭の中はそれを除いて真っ白になってしまった。これでは思い浮かぶアイデアも思い浮かびはしない。
しかし大神はそんな彼女の胸中に気づく事なく、
「グリシーヌ。一体どうしたんだい、そんなに慌てて」
彼はそばにあったミネラルウォーターの瓶詰めの封を切って、そのまま彼女に手渡す。それからグラスを渡そうと見回している間に、グリシーヌは気が動転しているのかそのままラッパ飲みで一瓶飲み干してしまった。
普段なら「貴族がそんな不作法な真似ができるか」と言いそうではあるが、それだけに彼女の動転具合が想像できた。
「ともかく落ち着いてくれ、グリシーヌ。俺に用があるんじゃなかったのか?」
彼女は空の瓶を持ったまま大きく息を吸ったり吐いたりして呼吸を整えると、ようやく大神の方を見やって、
「いや。本来用があったのはタイ……ではなく、その友人の方だ。確か貿易商のカヤマと言ったな」
グリシーヌは普段以上に生真面目な顔で加山の前に立つと、きっぱりとこう言い放った。
「貴公、一週間以内に『ショーユ』というものを手に入れる事は可能か?」
『ショーユ!?』
大神と加山が口を揃えて問い返す。
「お醤油ね。日本の伝統的な調味料の」
花火がグリシーヌにそう訊ねると、
「そ、そうだ。そのオショーユだ。日本の駐在所に問い合わせたら一ヶ月はかかると言われてしまったのだ。それでは間に合わんのだ。手に入るのか、無理なのか。答えよ」
貴族らしい上から目線と言えなくもないが、人に物を頼む態度ではない。しかしグリシーヌは良くも悪くも貴族である。人に物を頼む事などあまりあるまい。貴族でない人間相手には特に。
「一週間以内という条件がなければ何とかなりますが。そもそもなぜ醤油をご所望に?」
加山の疑問も当然である。この西洋の巴里の街で醤油が必要になる事態が想像できないからだ。
するとグリシーヌは口をつぐんでどこから説明したものかと少し考え込み、
「貴公らは、フランスのかつての国王・ルイ十四世という人物を知っているか?」
唐突な質問に二人の男は顔を見合わせると、
「ルイ十四世? 確か『太陽王』って言われてた人だよな?」
「ああ。『朕は国家なり』って言った人か」
大神と加山の即答ぶりに、グリシーヌはどこか感心したようにうなづくと、
「うむ。そのルイ十四世の時代、宮廷お抱えのコックだった人物の手記が、このほど発見されてな。そこには宮廷の晩餐会の料理や王に出していた食事の作り方が詳細に書かれていたのだ」
ルイ十四世の時代といえば、フランス王宮文化の最高潮の時代と言っても過言ではなく、その時に生まれた物が現代のフランスの文化を形作っているといっても決して言い過ぎではない。
「宮廷の食事ですか。エリカも食べてみたいです!」
今まで黙って聞いていたエリカが、すかさず会話に割って入る。
「宮廷の晩餐会と言えば、たくさんのごちそうが並ぶんですよね? その中には、きっとプリンもあるに違いありません」
「いや。プリンがあるかどうかは……」
エリカの力説ぶりに大神は苦笑いするが、グリシーヌは慣れた扱いでエリカの発言を無視すると、
「そこで、そのメニューを再現してみようという話が持ち上がったのだが、いきなり暗礁に乗り上げてしまったのだ」
「そりゃまたどうして?」
大神がグリシーヌに訊ねるが、それに答えたのは加山の方だった。
「その作り方の中に醤油が出てくるからだろう。そうですよね、グリシーヌさん?」
グリシーヌは「自分のセリフを取られた」と言いたそうに、一瞬キツイ目で加山を睨むが、すぐに元に戻ると、
「その通りだ。その手記によれば『肉料理の隠し味に最適だ』として、よく使われていたらしいのだ」
意外な日本の食材の活躍に大神と花火が驚いていると、
「そもそも醤油は、江戸時代には海外に輸出されていた事実がある。フランスに渡っていても何の不思議もない」
加山がなんて事のない口ぶりでそう説明した。その事実に一層驚く二人。すると彼は水を得た魚のような勢いでスッと立ち上がると、
「そもそも醤油の輸出は西暦一六四七年に始まったと伝えられている。三代将軍・徳川家光公の時代だ。コンプラ瓶と呼ばれた、高さ二十センチほどの陶器の瓶に入れられてオランダやポルトガルに運ばれ、そこから欧州各地に伝わったらしい」
身ぶり手ぶりを加えたその言い様はまさしく「立て板に水」。大神達も感心するばかりだ。
「しかし、その割に現在のフランスではショーユは使われておらんようだが」
グリシーヌの疑問ももっともである。そんな古い時代から結構な量が輸入され、かの国王すら愛用していた事実がある商品だ。それが現在に何らかの形でも残っていないというのは不思議である。
フランスは自国の文化や伝統に並々ならぬ誇りを持っている。自分達の物が最高という自負もあって他国の文化や伝統を軽視する傾向がある事はある。
しかし、本当によい物であれば素直に取り入れるし、輸入に頼らず自分達でも作ろうとする心意気はある。
「それは、当時のヨーロッパ人が醤油の製法を全く知らなかったからですね」
加山の言う通り、製法が全く判らなかったため結構な量を輸入していたという記録がフランスに残っている。
「当時発行された百科事典にも醤油は載っていたんですが『ある種のキノコを発酵させて製造するようだ』と、日本人からすれば笑い話のような記述があったくらいですからね」
日本の醤油は大豆と小麦などを複雑に発酵させて作る。だがそれを知っていたとしても日本とヨーロッパは気候風土が違い過ぎる。同じような発酵をさせる事は限りなく不可能に近い。
「それに、その当時はまだまだ日本でも醤油を大量生産・大量輸送できる技術力がありませんでしたし、日本から運ぶのにも一ヶ月以上かかった。結構な量といっても一般にまで広まる量ではありません。そのため極めて一部の王侯貴族くらいしか口にできなかったのでしょう」
いくら「結構な量」といっても、一部の人間しか知らないのであれば、現在に残っていなくとも無理はないだろう。
「でもグリシーヌの家もかなりの名門貴族なんだろう? ご先祖様とかから、そういう話は伝わってないのかい?」
大神からすればふと沸き上がったたわいない疑問だが、名門貴族である事に並々ならぬ誇りを持つグリシーヌからしてみれば「こんな事も知らなかったのか」と侮辱されたに等しい。
もしこれが隊長と認めた大神の発言でなければ、その場で激昂して愛用の斧槍を振りかざしていた事だろう。
「我が祖先が領地にしていたのはフランス北西部のノルマンディだ。ここ巴里ではない。名門とはいえ王家に連なる貴族ではなかったからな。貴公の言う『極めて一部の王侯貴族』には入らなかったのだろう」
一口に貴族と言うが、爵位や家柄と言ったものが自然に序列を与えていたのだ。ブルーメール家は爵位の中でも上位の「公爵」になるが、そこが貴族階級の頂点という訳ではないのだ。
少しばかり不機嫌な顔になってきたグリシーヌの表情を伺いながら、加山は話を続ける。
「ですが、一部とはいえ人気が出てきたため、醤油の輸入量を増やそうとしたんでしょうね。そこで中国や東南アジアの安価な醤油が出回り始めたんです。しかもそれを『日本の醤油』と偽って」
少し暗い顔になった加山はそう説明すると、話を続けた。
「中国や東南アジアの醤油は、日本の物とは明らかに味や風味が異なるんです。無論それはそれで味があるのですが、前のと違うじゃないかという苦情が多くなってきて、醤油自体の人気が落ち込んでしまったんですよ」
同じものでも作られた場所が異なれば味も風味も変わる。それを「産地が違う」と受け取らず「質が変わってしまった」と誤解したのが運の尽きだったのだろう。
もちろんきちんと日本産ではない事を明記した物もあったろうが、大半は偽造品だ。
事実、そうした偽造の醤油を入れていたであろうコンプラ瓶も発見されている。明らかに日本人ではない人間が「漢字を見真似て適当に書いた」メチャクチャな、文字とも言えない文字が記されている瓶だ。
「加えて市民革命などでほとんどの王侯貴族は没落の一途を辿ってしまったので買う人間がいなくなってしまった。そうした理由があって、今日のヨーロッパでは醤油は使われていないんです」
「そうだな。言われてみれば明冶になってから外国の物や文化をどんどん輸入している話は聞くけど、輸出に関しては浮世絵や刀剣、それから絹糸くらいしか知らないな」
大神も自分の数少ない知識を引っ張り出して、加山に負けじと発言する。
そんな彼らの発言を、珍しく口を挟まず黙って聞いていたグリシーヌだが、
「……大層ためになる話ではあったが、こちらの質問には答えてもらえていないな。結局のところ、ショーユは手に入るのか?」
少しばかりムスッとした不機嫌な顔のまま静かに言う。すると加山の方はそれを気にした風もなく、
「そうですね。隠し味に使われていたのであれば、そう大量に使う事はないと思います。自分が日本から持ってきた醤油が、まだ二升ほど残っていますので、一升分をお渡しいたしましょう」
また出てきた聞き慣れない言葉に、グリシーヌが困った顔になると、声を潜めて加山に訊ねる。
「……その、イッショウというのは何だ?」
彼は「ああしまった」と一瞬だけ表情を引きつらせると、
「『升』というのは日本の単位の事で、こちらの単位にしますと、大体一.八リットルくらいの量になります」
その答えに、グリシーヌは不機嫌だった顔をパッと輝かせると、
「そうか、助かる。では明日にでも我が屋敷の方へ。メイド達には貴公の来訪の事は伝えておく。では」
そう言うとすかさず踵を返して部屋を出ていくグリシーヌ。きっと醤油が手に入る事を報告しに行くのだろう。
部屋に来た時とは正反対の落ち着きある軽やかな足音が遠ざかると、大神は半分呆れたような顔で、
「……お前、醤油なんて持ってきてたのか」
「そりゃそうさ。故郷の味が恋しくなった時のためにな」
加山が胸を張って偉そうに答える。
今の日本は江戸時代の頃と違い、海外に住む日本人と中国人に向けてだけ細々と醤油の輸出を行っているのが現状だ。親しい人が個人的に運んでくるケースも多々あるが。
昔に比べれば大量に生産・輸送できるようになったとはいっても、かつての王侯貴族のような需要は望むべくもないのだ。
「だったら、こっちに少しくらい分けてくれたって。ムニエルやソテーもいいけれど、やっぱり魚は焼いて醤油を一たらしが一番だからな」
あまり上手とは言えない身ぶり手ぶりを加えて大神が説明する。すると加山も「そうだよなぁ」と言いたそうに妄想の世界に入り込む。
炊きたての白いごはん。千六本に切った大根の味噌汁。おかずは少し焦げが出るくらいに焼いためざし。そこに大根おろしをちょんと添えて。まさしく純和風の朝食風景である。
それから揚げたてコロッケにウスターソースを……。
いきなり割り込んできた妄想の洋食に目を見開いた加山は大神の手が「何も持ってない」事を見てとると、
「大神。さっきお前に渡した紙袋は!?」
大神はそこで初めて自分が紙袋を持っていない事に気づき、自分の周辺をあたふたと探しまくる。
紙袋はすぐに見つかった。
「? どうしたんですか大神さん。変な顏して」
紙袋はずっと黙って話を聞いていたエリカが持っていた。いや。黙って聞いていたと言うのは少々語弊がある。
なぜなら彼女の口はずっとモグモグと動いており、手には食べかけのコロッケが。
『あーーーーーーっ!?』
二人の男の叫び声に構わず、エリカは食べかけのコロッケをポンと口に放り込んでしまった。
大神が大慌てでエリカの持つ紙袋を奪い取ったが後の祭り。袋の中身は当然空である。
彼女はそんな二人の焦り顔を完全に無視して、指についた油や衣を自前のハンカチで綺麗に拭き取ると、
「『ゴチソウサマデシタ』。日本は食べ終わったらこう言うんですよね?」
ぱちんと両手を合わせ「合ってますよね?」と言いたそうな無邪気な笑顔で大神、加山、花火を交互に見やるエリカ。
その笑顔の前にはさすがの二人も怒る気力が失せてしまった。大神と加山はガクンと肩を落とすと、
「どうするんだよ加山。これ、コクリコの分の筈だったろう?」
「それを言ってくれるな大神。食べ物の恨みは恐ろしいって言うからなぁ」
まさしく「トホホ」というため息が似合いそうな光景であった。


数日後。加山の姿は自分の店・櫻花堂(おうかどう)近所の市場にあった。アルバイトの青年・オレオールも一緒である。
オレオールの手にはニンジンと玉ねぎが入った大きな手提げ袋がぶら下がっている。一緒といってもこれではただの荷物持ちである。
櫻花堂でアルバイトを始めてから、こうして加山の買い出しにつき合わされる事がたびたびあった。
オレオールにしてみれば少しでも空き時間を使って勉強を進めたかったのだが、加山の「閉じ籠ってばかりじゃダメだ。気分転換代わりにつき合え」の一言でこうして買物につき合っている。
最初のうちは言葉がおぼつかないので、いざという時のためかと思っていたがそんな事は全くなく。現に加山はジャガイモの山を前にして、そこの店主と値引き交渉の真っ最中であった。
彼の話すフランス語は、実は文法や発音がかなりメチャクチャなのだが、なぜか通じてしまう不思議な雰囲気と取っつきにくさのない明るさがあった。
始めのうちは正しいフランス語を話してもらいたいと、間違える度にいちいち訂正していたのだが、あまりにも頻繁なのと一向に直す気配がないので諦めてしまった。
そもそもフランスに渡って半年も経っていないのに、メチャクチャなフランス語でとはいえここまで他人と話せる事自体がすごいのだが。
だが、このメチャクチャなフランス語は実は本当の意味で「メチャクチャ」ではないのだ。
加山がここ巴里にいる理由は情報収集はもちろん、それに必要なパイプを作る事。そんな作業はいくら加山といえども一人ではとても不可能な事である。
そのため加山は自分の部下を櫻花堂社員としてここ巴里に連れてきているし、華撃団に協力的なフランスの極秘組織や秘密結社との繋がりも持っている。
この一見「メチャクチャな」フランス語は、彼らの同士だけが覚えて使う特殊なフランス語なのだ。だからそれを知らない人から見れば文法ミスかトンデモない訛りにしか聞こえないのだ。
もちろんそれほど流暢ではないが、きちんとしたフランス語を話す事もできる。そのくらいできなければ情報収集部隊のトップは勤まらない、という事だ。
『……そうか。やっぱりそう簡単には見つかってはくれないか』
『ええ。一筋縄では行かないって事ですね』
『でも、これまでバラバラと思っていた敵怪人が一まとまりになったんだ。どこかにアジトらしいものがきっとある筈なんだが』
『そうですね。こっちももう一度先入観を捨てて、探してみます』
市場の中で小声とはいえ堂々とそんなやりとりをしている加山と店主。この店主ももちろん味方の極秘組織の一員である。
無論言葉だけでなく、独特な身ぶり手ぶりも加えて互いに秘密の情報を伝えあっている。
それが終わった加山は交渉成立と見せかけて店主と握手し、代金を払ってジャガイモがたくさん入った紙袋を受け取り、両手で抱えるようにして持つ。
「いやぁ、待たせて済まなかった。あとは肉を買っておしまいだ」
そう話す加山の顔は、一つの仕事をやり終えた充足感に満ち満ちた笑顔を浮かべていた。もちろん演技である。
「……いつも思うんですけど」
オレオールは、何となくその笑顔から視線を逸らして加山に訊ねた。
「買物の時、ニンジン、玉ねぎ、ジャガイモ、肉ばかり買い込んでいますけど、他にも野菜や果物はたくさんありますよ」
すると加山は少し口をぽかんと開けたまま何やらうなづいていたが、やがて偉そうに胸を張ると、
「それはだな。俺が昔日本の軍隊に『徴兵されてた』事に由来する」
当時の日本では、成人男子は一定期間軍隊に入ってそこでの教育を受ける事が義務とされていた。
嫌がる者も大勢いたが、当時はこうして「国のため」の義務を果たした男こそ立派な成人男子と見られていた節もあったので、よほど大けがをしたとか病弱な者でない限りは、結局行かされる事がほとんどだった。
もっとも徴兵を終えて軍から離れたところで、戦争などの軍隊が必要となった事態には召集されて戦う事になるのだが。
大神や加山は自分から士官養成の兵学校に入学しているので徴兵ではない。言うまでもない事だが、これは本来の身分を隠すための話である。
「日本軍の食事にはニンジン、玉ねぎ、ジャガイモ、肉の四つの食材を多く使う。味付けを変えただけでいろんな献立にできるからな」
これらは煮ても焼いても食べられるし、この組み合わせは栄養的にも非常に優れている。
そのため日本の軍隊や教育機関で出される食事は、これらを使った献立が圧倒的に多かった。
それにもし戦争ともなれば現地に運べる食材は、やはり長期保存が利くもの。それは限られてくる。だから使う材料は同じでも違う献立に見せる工夫を編み出す技術も必要になってくるのだ。
いくら何でも毎回同じ食事が続き過ぎては飽きられてしまい、隊の士気にも関わってくる。「食」というのはそれほどまでに重要なのである。
「この四つさえあれば、あとはカレイ粉を入れればカレイライスに。味噌を入れれば豚汁に。醤油で煮込めば肉じゃがに。ドミグラスソースやルゥを入れればシチューにだってなるんだぞ。実に合理的じゃないか」
両手で袋を持ったまま、器用に指折り数えて料理の名前を上げていく加山。
「特に日本の海軍では、毎週土曜日の昼は必ずカレイライスを食べるんだ。海ばかり続く船の中で、少しでも曜日の感覚を忘れないようにという配慮でな」
その辺りは現役の海軍士官だけあって、説明にも澱みがない。
余談だが日本の海軍では「カレイライス」という呼び方が多く、陸軍では「ライスカレー」という呼び方が多かった。
呼び方は異なっていたが、両者の間に特に違いはない。当時の海軍と陸軍はお世辞にも仲がいいとは言えず、単に「相手と同じ呼び方なぞ御免だ」という意地の張り合いがその理由とされている。
「そういえば、フランスでカレイライスって見かけた事がないけど、やっぱり米がないせいか?」
「ああ。それはフランス人が全般的に辛い食べ物が苦手だからだと思います」
加山の疑問に、今度は青年の方が澱みなく答える。
「一応、どこかの地域に香辛料で仔羊の肉を煮焼きした料理があるとは聞いた事がありますけど。フランスで好まれる香辛料は辛さの強いものではなく香りの鮮やかなものですから」
その答えに加山も短いフランス滞在中に食べた料理を思い浮かべる。
言われてみれば、確かにフランスにはピリッとした辛みの利いた料理はほとんどなかった。日本人には馴染みのない、よく知らない香りを出す葉は結構見かけたし食べてもみたが。
「俺はてっきりイギリス生まれの料理だからだと思っていたが」
「そういう一面もあるかもしれません」
加山の冗談ぽい発言に青年は苦笑する。
カレーはもちろんインドで生まれた食べ物だ。だが、イギリス人が自国に持ち帰り、そこでアレンジされたものが日本に伝わったのだから、『カレイライス』はイギリス生まれであると言えなくもない。
そしてここフランスはイギリスとは昔から仲が悪い。海峡を隔てた隣の国のため、過去幾度も戦争があった。険悪な仲と言うよりは「ライバルにしてソリが合わないケンカ友達」程度であるが。
しかし元来の自国の文化が最高と自負しているフランス人の気質が、他でもないそんなイギリスの物を素直に受け入れるとは思えない。加山の発言はそうしたフランス人の性分をつついたものだ。
「そうだな……こういう話が出てきたから今夜はカレイでも、と言いたいところなんだけどな。済まんがまたコロッケで勘弁してもらえないか」
加山がどこか申し訳なくそう言うと、青年の方は淡々と、
「わざわざ振る舞って下さる食事に、あまり文句をつける気はありませんが。何故ですか?」
すると加山は「それはだな……」と、どこか勿体ぶったように前置きをすると、
「モンマルトルに今、シルク・ド・ユーロっていうサーカス団が来ているだろう。そこの団員の女の子に、コロッケをごちそうする事になっちまってなぁ」
そこの団員とはもちろんコクリコの事である。
あの後ステージを終えてやってきたコクリコは、自分の分のコロッケがない事に大層腹を立てていた。その理由を聞いてエリカに大人ぶってお説教までした始末だ。
今回は全面的にエリカが悪いのだが、年下の人間にお説教をされるシスターという絵面があまりにも気の毒に感じられ、今度もう一度作ってきますよと仲裁に入った加山が約束を取りつけたのだ。
「コロッケもジャガイモと玉ねぎ、それから肉が入ってるからな。これらの材料があれば作れる」
「まかせておけ」と得意げな顔の加山。しかしオレオールの方は微妙な困惑顔になると、
「……また、ショーユとかいうヤツをかけるんですか?」
「何だ? 気に入らないか、あれ?」
日本ではコロッケにはウスターソースをかけるのが定番だ。一応フランスでもウスターソースを手に入れる事は容易なのだが、加山はなぜか醤油にこだわっている。
特に「何にでも醤油をかける性分」という訳ではないのだが。
「いえ。味はともかく、あの匂いがどうにも苦手でして」
かつては「肉の隠し味に最適」と云われ重宝されていた醤油だが、それはあくまでも「味だけ」なのだろう。
どこの地域にも「味は良いのだが匂いが苦手」という食べ物は結構あるものだ。日本のくさやや納豆がまさしくその代表選手だし、フランスの匂いの強いチーズにはさすがの加山も二度と食べたくないと言い切ったほどだ。
コロッケに醤油をかけると熱いうちなら美味しいのだが、冷めてしまうと醤油の塩っぱさと味のきつさが際立ってしまう。
せっかく日本の食べ物を食べてもらうのだから、嫌われてしまっては元も子もない。少しでも日本を好きになってもらいたい。加山の狙いはそこにもあった。
美味しいものを食べて幸せな気分になれるのは、洋の東西に関係はないのだとばかりに。
「そうか。コロッケにするのなら、キャベツも買っていかないとな。あれの千切りを添えるのも日本流だ」
そう言いながらキャベツを探してきょろきょろする加山に向かって、オレオールはキッパリと言った。
「でしたら、もう少し考えて買物をして下さい。誰が持つんですか、既に両手が一杯なのに」
加山は両手一抱えほどの袋に入ったジャガイモ。青年は玉ねぎとニンジンの入った袋を両手に持っている。
「……どうするか」
「自分で考えて下さい」
オレオールは冷たくそう返答すると。加山を残してさっさと歩き出してしまった。

<後編につづく>


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