『日本人の惣菜 前編』
花の都と呼ばれる巴里の空の下。随分と調子の外れた歌が響いている。

ワイフ貰つて 嬉しかつたが
何時も出てくる副食物(おかず)はコロツケ
今日もコロツケ 明日もコロツケ
これじや年がら年中 コロツケ
アハハハ アハハハ こりや可笑し

そんな「日本語の」歌が、申し訳程度の厨房に響く。
歌の主は小さなガスコンロの前に立つ日本人の青年だ。白い上下のスーツの上から木綿のエプロンという妙な姿。
手には菜ばしを持ち、ガスコンロの上では煮立った油で満たされた鍋が一つ。
その油の中で踊っているのは、歌にもあるコロッケである。微妙にいびつな小判型に整えられた、黄金色ではなくキツネ色のコロッケ。
「う〜〜ん。我ながら、結構うまくいったかな」
こんがりとキツネ色に揚がった衣をしげしげと眺める日本人。彼は揚がったコロッケを新聞紙を敷いた大皿の上にちょんと置く。余分な油を切るためである。
そんな彼の背中を不思議そうに眺めている、典型的な西欧人青年の姿があった。
「カヤマ社長。さっきから何を作っているんですか?」
「社長」と呼ばれたエプロン姿の日本人・カヤマは、揚げ終わって油だけになった鍋の火を落とすと、
「確かに一応は『社長』だけど、年も近いしそんなに偉いモンじゃないから、名前だけでも別に構わないぞ」
まだ二十代前半という若さのせいもあるが、生活感溢れそうなエプロン姿では社長らしい威厳も何もないだろう。
その若き社長の名は加山雄一。旧き西欧の人間が黄金の国と呼んだ、日本出身の典型的な日本人である。
だがその正体は、日本の首都・東京で組織された、霊的な力を以て都市を守る特殊部隊『帝国華撃団』。その情報収集部隊「月組」の隊長職を勤める人物だ。同時に日本海軍の士官でもある。
帝国華撃団の成功を見て、第二の帝国華撃団ともいえる組織がこのフランスは巴里にも設立された。加山の本当の役目はここ巴里に情報のパイプを作るのと同時に、ヨーロッパの情報戦のやり方を学ぶためである。
日本と違いヨーロッパの国境は陸続き。そのため過去幾度も戦があった。戦というのは互いの武力がぶつかるだけではない。
お互いが相手の情報を得ようと、同時に自分達の情報を守ろうと、あの手この手を尽くしてきたのだ。その技術の蓄積は島国日本の比ではない。
しかしそんな事情を公にできる訳もなく。そのため加山は「貧乏士族の三男坊。異国で一旗上げるためにやってきた」と豪語した、貿易商を営む青年という事になっている。
青年はそんな加山が雇ったフランス人。名をヴァンサン・ジュール・オレオールという。
日本の事を「東の果てのド田舎」としか見ていない者ばかりのフランス人にしては、日本人・加山の事をかなり好意的に扱っている人物だ。
それは、オレオール自身もフランス南部の片田舎から弁護士になりたくて巴里に出てきた身であり、「肉屋の息子で終わってたまるか」という、世の中でのし上がっていきたいという気持ちが、加山の「異国で一旗上げる」という心境に共感したからである。
加山が行っている貿易商。といっても、そのやり方はいろいろある。彼がやっているのは主に仲介役だ。
日本の物を巴里で売りたい会社と巴里の物を日本で売りたい会社を探し出し、紹介し、取引が成立した暁には二者の間に入ってその仲介料を得る。
あまり儲かるとは言えないし、賢いとも言えない商法ではあるが、諜報活動という本業を疎かにはできない。
商売の性質上どこのどんな会社の中に入って行っても文句を言われる事はない。どこにでも入って行けるという事は、それだけ本来の情報収集任務がやりやすくもなるという事だ。顔が広くなる分危険も増すが。
その辺は加山本来の飄々とした態度と口八丁手八丁ぶりを発揮して、ある程度の営業成績を上げる事ができている。
仲介役とはいっても規模は小さいので大きな社屋は必要ない。しかし個人でやっていけるほど楽な商売でもない。
そのため巴里の街の一画に小さな部屋を借り、「櫻花堂(おうかどう)」という屋号を掲げ、月組の部下を社員とし、フランス人の青年・オレオールをアルバイトに雇って会社経営をしているのだ。
無論そのアルバイトであるオレオールが、華撃団の活動を知る事は一切ない。
そのオレオールは加山の社長「らしくない」様に困ったような仕草をすると、
「それにしてもこの匂いは何ですか? いい匂いではあるんですが」
「ああ。これぞ我が日本の典型的かつ先進的、そして庶民的なおかずで、コロッケという。一つ食べるか?」
加山は無駄に胸を張って偉そうにそう言うと、山と積まれたコロッケの中から一つを取り出し、適当な皿に乗せて青年に差し出した。
「日本ではウスターソースをかける事が多いんだが、ここはあえて『ニッポン』を強調する意味で、醤油をかけるとしよう」
加山は日本から持ってきた醤油さしから醤油を一たらし。こんがり揚がって熱々のコロッケから、熱の通った香ばしい醤油の香りが漂う。
その未知の香りに顔をしかめたオレオールは、「手づかみでいけよ」と言う加山の言葉通り、揚げ立てのコロッケをそっと掴んでかぶりついた。
「熱!!」
揚げ立てコロッケの予想外の熱さに、口の中のコロッケを皿の上に吐き出したオレオール。その様子を遠慮のない大笑いで眺める加山。
だが彼を笑うのは少々酷かもしれない。そもそもフランス人はあまり熱い料理や冷たい料理に縁がない。日本人にとっては熱々で美味しい料理も、フランス人からすれば熱すぎて食べられない料理となってしまうのだから。
事実、オレオールは半分泣きそうになりながら、
「ひどいですよ。こんな熱いの食べられません!」
「そうか。でもこの熱々がいいんだがなぁ」
案の定のリアクションに、加山は少々残念そうな顔になると、
「少し残しておくから、適当に冷めた頃を見計らって食べていいぞ」
加山は揚げたてのコロッケを新聞紙で包み、さらに適当な紙袋に納めると青年を振り返った。
「じゃあ俺はこれから出かけるから、ここで勉強していて構わない。電話には出てほしいけど」
元々そういう契約でオレオールを雇っているのだ。この辺りは繁華街からは少し外れた場所にある分静かで、勉強をするにはもってこいなのだ。彼も「はい」と小さく答える。
「じゃあ行ってくる。弁護士の勉強、頑張ってくれよ」
「有難うございます。行ってらっしゃいませ」
オレオールの丁寧な挨拶に見送られ、加山は「櫻花堂」を後にした。


コロッケを山ほど抱えた加山がやって来たのは、巴里有数の繁華街であるモンマルトルである。その一画にある、一際目立つ猫を模した看板。そこが彼の目的地だ。
「Les Chattes Noires」。シャノワールと発音する、フランス語で“黒猫”を意味するキャバレーだ。ステージ上で繰り広げられるダンスやコメディーといったパフォーマンスを観ながら食事をとるスタイルの店をフランスではそう呼ぶ。
この巴里にも格式の高い高級な店から気軽に入れる庶民的な店まで多種多様なキャバレーが存在するが、シャノワールは比較的庶民にも優しい料金設定の店だ。
だからと言って高級感がない訳ではない。料理だけをとっても下手なレストランなどよりよほど美味しいと評判なのである。
加山がコロッケを抱えてこの店に来たのには、もちろん理由がある。
日本の海軍士官養成機関・海軍兵学校時代の同期生が、ここで働いているからである。
同期生の名は大神一郎。兵学校での成績は常にトップクラス。主席で兵学校を卒業した優秀なエリートである。
そんなエリートが何ゆえこんな異国のキャバレーで働いているのかといえば、このキャバレーこそ、加山が属する帝国華撃団の巴里版とも言える「巴里華撃団」の総本部だからである。
加山が情報収集部隊の人間であるように、大神は表立って霊的な脅威と戦う実動部隊「花組」の、それも部隊長という地位にある。
そのため、この度巴里に新しく設立された巴里華撃団実動部隊の隊長職をも兼任している。名目上は「後進指導」という事になるが。
無論店のほとんどの人間はその事実を知る事はない。しかし隊員達だけはその地下に隠された基地の存在を知っており、非常事態が起こるとたちまち巴里を守る戦士の姿を見せる事となる。
そんな時が来ない事を心から祈りつつ――

加山は勝手知ったる顔で堂々と「裏口から」店に入る。時間的にそろそろステージが始まる頃合でもあるので、裏方はそれこそ日本の通勤時間の電車を思わせる混雑ぶりである。
その混雑の中、ピンクの燕尾服を着た、小柄な少女とすれ違った。
「あれ。確かイチローのお友達の人だよね?」
わざわざ歩みを止めて加山に声をかけてきたのは、このシャノワールでステージに立つ、マジシャンのコクリコである。
本来はこの巴里に来ているサーカス「シルク・ド・ユーロ」の団員なのだが、時折こうして出張してこの店のステージに立っている。
それは彼女こそが巴里華撃団の隊員の一人だからであり、頻繁にこの店に出入りしても怪しまれないようにというカモフラージュの目的もある。
しかしお互い華撃団の事は口外していないので、そういう事情は知らない事になっている。なのでコクリコからすれば大神の友達の貿易商という事しか知らない。
「いや、どうもこんばんわ。これからステージですか?」
自分の半分ほどの年かさのコクリコに対しても、微妙に丁寧な言葉遣いを崩さない加山。
出会ったばかりの頃は、自分の事を「ミー」と呼んだり語尾に「ザンス」をつけたりと少々ふざけた言い回しをわざとしていが、今はさすがに止めている。
「うん。よかったら観て行ってよ」
笑顔でそう答えるコクリコだが、加山はちょっと困った笑顔を作り、
「そうしたいのは山々ですけど、大神のヤツを探してましてね。今日は確か夜遅くからの仕事って聞いたんで、今はヒマしてる筈なんですけど……」
こうしたキャバレーは、店によっては明け方までステージのプログラムが組まれている。いわゆる「早番・遅番」というやつで、今日の大神は遅番だと聞いているのだ。
「うん。多分従業員用の控え室にいると思うよ。……うわぁ、何持ってきたの。いい匂い」
コクリコは加山の持つ紙袋に目ざとく目をつけ、顔を近づけて鼻を鳴らしている。
「ああ。日本の食べ物を作って、持ってきたんですよ。こういう異国にいると、たまには故郷の物が恋しくなりますからね」
「食べ物」という言葉にコクリコは嬉しそうな顔になると、彼女が口を開く前に加山が、
「判りました。少し残しておきますよ。大神に預けておきますから。ステージ頑張って下さいね」
「うん、有難う!」
元気よく両手を振ってステージの袖に駆けていくコクリコを見送り、加山は従業員の控え室を目指す。
そろそろ控え室という曲がり角で、彼は緑のコートの人物とぶつかりそうになってしまった。
「あっ、ロベリアさん!?」
加山が小さく声を上げる。緑のコートの人物――ロベリア・カルリーニは、けだる気な目を加山に向けると、
「何だあんたか。何か用かい、こんな所まで」
特に興味なさそうに加山を見るロベリアだが、彼の方は微妙に懐を警戒している。以前ロベリアに財布を掏(す)られた事があるからだ。
実は彼女――ロベリアはたった二十年の人生で巴里始まって以来の大泥棒の名を欲しいままにした人物であり、本来は投獄されている身だ。
しかし巴里華撃団の隊員に足る莫大な霊力の持ち主と判り、超法規的措置として、華撃団で働く事を条件にこうして娑婆に出ている身の上だ。
にもかかわらず手癖の悪さは相変わらずで、大神がその餌食になる事も多い。
それを知っているための露骨な警戒心に、ロベリアはつまらなそうに髪をくしゃくしゃとかくと、
「そんなしみったれた財布、子供だって狙いやしないよ。……何だそれ」
コクリコと同じように、加山の紙袋に興味を示したロベリア。彼に構わず袋の口を開けようとしているのがコクリコとの違いだ。加山は特に抵抗せずさせるがままにしている。
「日本の食べ物ですよ。コロッケって名前でして。いわば『日本風のクロケット』と言ったところでしょうか」
「クロケット、ねぇ」
キツネ色のパン粉に被われた楕円形の物体を見て、ロベリアがほおと小さく唸る。
コロッケの原型は、フランス料理の「クロケット」だと言われている。
クロケットとは、ホワイトソースとミンチ状にした肉や魚を混ぜた「種」にパン粉をつけて揚げた料理である。主にメインの料理の付け合わせとして出されるものだ。
もちろん明冶の文明開化と共に西欧のあらゆる文化が日本に輸入された際、この「クロケット」も伝わっている。
だが当時の日本人は「ホワイトソース」というものがさっぱり判らなかったのだ。今まで日本に存在すらしなかったものだから、判らなかったのも無理はない。当然作り方すら知る由もない。
そのため数少ない伝聞を元に、それに似て、しかも日本で容易に手に入る代物――茹でて潰したジャガイモをホワイトソースの代用に使って、パン粉をつけて天ぷらのごとく揚げた料理が生まれた。それが「コロッケ」である。
そのため加山がとっさに言った『日本風のクロケット』とはまさしくドンピシャリ、なのである。
「ふーん。ワインには合いそうにないけど、ビールなら合いそうだな。邪魔したね」
そう言いつつ袋から一つ取り出してその場を立ち去るロベリア。すっかり冷めてしまっているので、先程の青年のような目に遭う事はあるまい。
たくさん作ってきたので、一つくらい減っても問題はない。加山はそう思い直して控え室へ向かった。
『いよぉ、大神。いるか?』
日本語でそう言いながら控え室のドアを開けた加山だが、そこに大神の姿はなかった。代わりにいたのはエリカ・フォンティーヌと北大路花火の二人である。
二人とも巴里華撃団の隊員である。もちろん互いの正体は話していないので、彼女達も加山の事は「大神の親友」という事しか知らない。
「あ、こんばんは。大神さんなら今いませんよ?」
赤い法衣を着た赤髪の元気なシスター、エリカがそう説明してくれる。黒髪黒服の花火の方は、折り目正しく加山に頭を下げると、静かに口を開いた。
「大神さんに何か御用でしょうか。よろしければ私がお伝え致しますが」
「ちょっと聞いて下さいよ。せっかく今日はステージがないから、大神さんを誘って夕食でもと思っていたら、今日大神さんがお仕事なんですよ」
花火の前にずいと出る形で加山に詰め寄ったエリカが唐突に話を始める。しかも全く関係のない話を。
「は、はあ」
「プリンが美味しいお店を苦労して見つけたのに。大神さんを待ってたらお店が閉まっちゃいます」
少しムスッとした顔でとうとうと喋り続けるエリカ。三度の食事全部がプリンでもいいと言い切るくらいプリンが大好きな彼女らしいセリフだ。
「だから一人で行こうと思っているんですけど、やっぱりそれじゃ寂しいし。こういうごはんはみんなで食べる方が絶対に美味しいですから!」
ギュッと両拳を握って力説するエリカ。しかしこの勢いには、さすがの加山も閉口気味だ。
するとエリカは――やっぱりというか、加山の持つ紙袋に詰め寄ると、
「わぁ、これ何なんですか。何やら美味しそうな匂いがします」
袋の上からジーッと見つめて黙ったエリカに、加山はようやく口を開ける事ができた。
「ああ。これは日本の『コロッケ』という食べ物ですよ。久しぶりにあいつと日本を偲んで、と思いまして」
「美味しいですか? 美味しいんですか?」
そんな加山の説明を全く聞いていないのがまる判りの表情で、ジリジリと彼に詰め寄るエリカ。加山は苦笑いをしたまま袋の中からコロッケを一つ取り出して、
「まだたくさんありますから、お一ついかがですか。ほら、花火さんも」
「え!? いいんですか!? 有難うございます! おお神よ。この心優しき男性にご加護を!」
加山が差し出すコロッケを見て、瞳を輝かせ声弾ませてシスターらしく礼を言うエリカ。一方花火の方は「有難うございます」と静かに礼を言ってコロッケを受け取る。
「済みません。お皿やフォークとかないもんで、手づかみで食べさせてしまって」
「うわぁ……表面がカリカリサクサクで。すっごくいいですぅ」
加山の謝罪に構わずコロッケにかぶりつき、うっとりとした目になるエリカ。花火もどこかおそるおそる、そして小さく口を開けてコロッケをかじる。
「クロケットのようですけど、食感が少し違いますね。中身もこれは……ジャガイモでしょうか」
「さすが花火さん。ご名答です。申し訳程度に挽き肉と玉ねぎも入ってますけど」
初めて食べるコロッケの材料を一発で見抜いた花火の味覚に、演技抜きで大げさに驚く加山。するとそこへようやく大神がやって来た。
「なんだ加山、来てたのか。それにエリカくんや花火くんも」
そして二人が食べているコロッケを見た大神は、
「おい加山、どうしたんだそのコロッケ」
「俺が作った」
袋を抱えたまま、堂々と胸を張って力説する加山。
二人がいた海軍兵学校を始めとして日本の軍隊は、その食事にかなり西洋の料理を取り入れていた。中でもカレーライスやコロッケは人気のメニューであった。
それが生徒や軍人達を通じて広く市民に広まり、一般家庭でもよく食べられる定番の料理となったのだ。
だから、作り方なら二人とも一応程度には心得ているのだ。それを再現する技術的な問題はさておくとしても。
「そうか。お前は器用だからな。うらやましいよ」
そういう大神は、加山から差し出されたコロッケを受け取ると、これまた豪快に大口開けてかぶりついた。
「……うん、うん。これだこれだ。懐かしいなぁ」
「懐かしいって。まだ半年も経ってないだろう、日本を離れて」
間髪入れない加山の言葉に、一同が笑いに包まれる。
「しかし、熱々だったらもっと良かったんだがな」
湯気の全く出ていないコロッケの断面を見て、少し悲しそうになる大神。だが加山は、
「仕方ないさ。作ってから時間も経っているし。それにフランスではあまり熱いのは受けが悪いようだから」
加山は自分の会社の人間に食べさせた時の反応を話す。
「そうですねぇ。言われてみればそこまで熱い食べ物って、フランスにはないですね」
自分の記憶を反芻するかのようなエリカの言葉に花火も乗ってくる。
「そもそもフランスには『揚げる』料理自体が少ないですから」
「えっ、そうなのかい、花火くん!?」
大神が驚きの声を上げる。声には出していないが加山も驚いている。コロッケの原型と云われているクロケットはこのフランスの料理の筈。それは揚げて作るのではないのか、と。
「フランス料理の調理は『焼く』と『煮込む』が多いんです。クロケットも揚げると言うよりは多めの油で焼くという方が近いかもしれません」
もちろん「揚げる」料理が全くない訳ではない。しかしそれは田舎や労働階級などの低所得者、悪く言うなら「貧しい者」用の食事がそれに該当する。
それは鮮度の落ちた食材や、骨や皮が多く食べづらい部位の肉でも、高温の油で長時間揚げれば食べられるからというのがその理由だ。同時にカロリーが高くなるので少ない量でも満腹感を得やすいというのもある。
そのため上流階級の元で発展してきた料理には「揚げ物」が皆無と言ってよく、いわゆる「庶民の味」と呼ばれるものや田舎の家庭料理になって初めて揚げ物が含まれてくる。
そうした偏見が薄れて来たのは本当につい最近になってからだと花火は説明する。それでもクロケットのように「添え物」として扱われるばかりで、日本のコロッケのように主菜として扱われる「揚げ物」はまず見当たらない。
「……文化の違いっていうやつかなぁ。日本はこういうコロッケやトンカツはもちろん、天ぷらだって立派な『揚げ物』の主菜だし」
フランスに随分慣れてきたと思っていた大神も、まだまだ文化の違いの壁は厚いと痛感していた。
「確かに大神の言う通りだが、同時にコロッケは裕福でない一般庶民の味でもある。悪く言うなら『貧乏人』の食べ物かもしれん」
遠く離れた国での微妙な相違点に加山は一人うなづいている。
「確かに庶民の味だよなぁ。近所の肉屋で一個二銭も出せば買えたからなぁ」
大神も帝都東京での暮らしを思い出しつつ口を開く。
「ニセン?」
「ああ。日本のお金の単位の事だよ。一円の百分の一が一銭。一銭の十分の一が一厘(りん)って言うんだ」
エリカの質問に大神が答える。
正確には日本の通貨単位は「円」で、銭や厘は補助単位と呼ばれるものだ。
ここフランスの通貨単位は「フラン」であるが、サンチームという補助単位も同時に使われる。ちなみに百サンチームで一フランである。
「こっちのお金に直すと……二銭は、おおよそだけど二十サンチームくらいになるのかな」
大神がそう言いながら加山に話を振ると、
「そう言われても、日本とフランスでは随分と物価が異なるからな。単純な計算上だけで合うとは限らん」
表の顔は貿易商なので、一応詳しそうにそうつけ加える加山。
「ともかく安いおかずって事は間違いないよ。十年くらい前に日本で『ドッチダロネ』っていう喜劇があってね。その劇中歌に『コロッケの唄』っていうのがあったんだ」
大神も東京にいた頃は、劇場の従業員という表の顔を持っていた。そのためある程度の知識を詰め込んである。
「要は『お嫁さんを貰ったのはいいけど、食卓には毎日毎日コロッケばっかり出てくる』っていう歌詞なんだけどね。こういう歌にもなるって事は、それだけコロッケが浸透していた訳だし。毎日買って来れるんだから、その安さも判るだろう?」
「そうですねぇ。毎日こんなカリカリサクサクなのを食べられるなら、幸せですよねぇ」
大神の話を右から左に聞き流し、エリカは勝手に加山の袋からコロッケを取り出しては頬張っている。
「うわっ。あんなに持って来たのに、もう三つしか残ってないぞ」
加山は袋の口をくるっと折り畳むように丸めて閉じると大神に手渡した。
「済まんがこれはコクリコさんに渡してくれ。さっき彼女に会って頼まれたんだ」
大神は「判った」と快諾すると、その袋の口をしっかり摘み、それを抱くように持った。「もうくれないんですか?」と口をモグモグとさせながらむくれるエリカを放っておいて。
その時だった。外からものすごい足音が響いてきたのは。それこそ音だけで急いでいるのがすぐ判るような。
その足音は控え室の前で止まると同時に、扉が派手な音を立てて勢いよく開く。
「隊長はいるか!?」
珍しく声を荒げた足音の主は、何とグリシーヌ・ブルーメールだった。

<中編につづく>


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