『真夏に咲いたライラック 中編』
翌日。少し薄曇りの天気の中、二人は雑誌を見ながらお目当てのフランス料理店に来ていた。
店の日除けには凝った文字で「L’AMPHORE」と書いてある。フランス料理店なのだから、おそらくフランス語だろう。
かなめが持っている雑誌によると「パリのモンマルトルに本店を持ち、材料も総て現地直輸入品を使うというこだわりを持つ」と書いてある。
店の前には、開店前だというのに五、六組のカップルが行列を作って待っている。かなめと同じく「カップルは割引料金」が目的なのは間違いなさそうだ。
「うわ。やっぱり、みんな考える事は同じね〜」
行列を見たかなめががくりと肩を落とす。結局は同類なのに呆れ果てた顔でため息までついていた。
でもここまで来て「じゃ、帰ろっか」という気はなかった。店は結構大きめなので、店が開けばすぐにでも席につけるだろうと考え、開店までの三〇分。二人でのんびり待つ事にした。
「ほら、ソースケ。これこれ」
かなめは雑誌に載っている写真を指差している。
「『高級感の割にリーズナブルな店。気取らずにフレンチを味わう事のできる貴重な存在のレストランだ。魚料理が特に美味。本場のパン職人が自ら焼くフランスパンも忘れずに』」
宗介は写真に添付されている文章を小声で読み上げる。それからかなめの方を向き、
「これを食べるのか?」
「うん。フランス料理って、どうしても高いイメージがあるけど、ここのは安くておいしいのが売りなんだって」
かなめは得意げにそう語る。宗介はフランスパンの写真を見て、
「アフガンで食べていたナンはもっと薄かったな」
ナンというのは小麦粉の生地を薄く焼いた、パンのようなものである。これに調理した肉や野菜を乗せたり包んだりして食べるのが、アフガンでの一般的な食事だ。
「そりゃアフガンとフランスじゃ全然違うでしょ」
かなめは間髪入れずにそう言い返してから、ふと思い出したように、
「あんた、向こうじゃ変な干し肉とか軍用の野戦食とかじゃなくて、普通のごはんも食べてたの?」
「いくらゲリラの村でも、まる一日戦争と背中合わせだった訳ではない。普通の料理を食べた事くらいある」
言われてみれば、確かにその通りだ。
「ごめんごめん。何かさ、あんたが普通の食事してるシーンって想像つかなくて」
かなめの頭には、宗介がエプロン姿で自炊し、料理を黙々と食べているシーンが思い浮かんだ。彼がつけているエプロンは、なぜか白いひらひらのレースがたくさんついた可愛いものだった。
「なぜだか判らんが、ひどく失礼な物言いに聞こえるのだが」
宗介が憮然とした顔でいるのを見て、かなめが苦笑する。その光景は、仲睦まじいカップルにしか見えなかった。本人達がどう思っているかは知る由もないが。
「そこの君、一人?」
いきなりかなめの後ろから軽そうな男の声がした。
(一人かどうか、見りゃ判るじゃない!)
隣に宗介がいるにもかかわらずこんな声をかけてくるとは、よほど厚かましいやつだろう。
普段はカップルに見られるのを嫌がっているのに、こういう時だけそう見られたいとは。我ながら調子がいいなと思いつつも、完全に無視を決めこむ。
「もちろんおごるよ。だから俺と入らねー?」
無視しているのに、随分馴れ馴れしく声をかけてくる。かなめは無視を続けるが、どうも様子がおかしい。ちらりと後ろを見ると、その男はかなめではなく、彼女の後ろに並んで文庫本を読んでいる女性に声をかけていた。
かなめよりも低い身長で、茶色の髪。青いワンピース姿だ。しかし文庫本を見ているその顔立ちは明らかに日本人ではなく、白人である。
おまけにカップルや家族連ればかりの行列の中で、女性一人というのはどこか浮いて見えた。
「お断りします」
文庫本に目を落としたまま、淡々とした返事を返す。相手の顔を見ようともしない。
「んな事言うなって。別に下心なんて。俺はただ君と食事を楽しもうと……」
男の白々しいセリフを聞いて、かなめは声を上げて笑いそうになった。こんな男が下心なしに声をかける訳がない。
「固い事言うなよ。なあ……」
そう言って彼女の肩に手をかけた。彼女はうっとうしそうにその手を取ったまま男の方を振り向くと、ほんの少しだけしゃがんだように見えた。
その途端、男の身体が一瞬でくるりと天地逆転し、彼女の足元に転げ落ちる。
「手加減なしで、もう一度やりましょうか?」
情けなく立ち上がろうとしている男を冷ややかに見下ろして淡々と言うと、男の方は無言のまま足早に去っていった。彼女の方は何事もなかったように文庫本に目を落とす。
かなめはその光景をぽかんと見ていたが、宗介の方はその女性が何か武術をやっていると見抜いた。別に何もせずに男の身体が宙を舞った訳ではない。掴んだままの手を持って男の足を払っただけだ。
「読書中失礼する」
宗介がいきなりその女性に声をかけた。
「昨日ニュース番組に出ていなかったか?」
何の前置きもなくそう言われた彼女は、不思議そうな顔で本を下ろし、何だか判らない様子のまま軽くうなづく。
時として宗介の記憶力は侮れないものがある。そう言われてよく見れば、彼女はあの時テレビに出ていた女性であった。その一言でかなめも昨日のニュース番組を思い出した。
そして、それを見ていた宗介が一瞬だけ悲しそうな顔をしていた事も。
「ソースケ……」
かなめが不安そうな顔になった。あの時一瞬だけ悲しそうな顔になったという事は、悲しい思い出があるのかもしれない。誰だって悲しい思い出などに触れたくはない。それなのに――
「『カシム』という名に覚えはないか?」
カシム。アフガンでゲリラをしていた頃の宗介の呼び名だ。やはりその時この女性と出会っているのだ。
かなめは自分の知らない戦場で、自分の知らない過去を共有している(かもしれない)二人を見て、強烈な疎外感を感じていた。
その女性は少しの間宗介の顔をじっと見つめていたが、すぐに彼女の表情が凍りついた。
「カシム……。ひょっとして、あなたが? バダフシャンで会った、あの時のカシムなの?」
ぽかんと口を半開きにしたまま、震える指で宗介を指差す彼女。彼は小さくうなづくと、
「お、驚いたわ。随分見違えたから、言われなかったら判らなかったわ……。もちろん覚えているわ。命の恩人を忘れるほど、薄情じゃないわよ」
笑いたいのか驚きたいのか、どちらにもとれる複雑な顔で宗介を見上げている。彼女は宗介はもちろん、かなめよりもずっと背が低いのだから。
「ねえ、ソースケ。この人……昔の知り合い?」
かなめが彼の背中をつついている。彼女はかなめを見た途端、
「あら、彼女ですか? カシムも隅に置けないですね」
そう言うと小さく微笑んだ。
いつもなら真っ先に「違います!」と言っているところだが、今日ばかりは「カップルは料金割引サービス」を利用したいがため、あいまいにうなづいただけだった。
「でも、彼女と一緒のところにお邪魔するのも悪いですよね……」
そう言ってせっかくの再会を悲しむように目を伏せるが、かなめの方が申し訳なさそうに、
「そんな事ないです。むしろ、あたしの方が邪魔なんじゃ? 数年ぶりの再会なんですよね?」
思いがけない場所で再会した二人。何があったかは知らないが、敵対していた者同士ではなさそうだ。積もる話もあるだろう。むしろ、自分よりも彼女の方がこの場には相応しいのではないか?
心配がないと言えば嘘になるが、それでも自分のわがままを押し通すのは気が引けた。
「だが千鳥。今日は君につき合う約束の筈だ」
「だけど、それじゃこの人が……」
宗介とかなめが小声でぼそぼそと言い合っていると、彼女の方がぽんと手を叩いて、
「では、三人で食事にしませんか? もちろん代金はわたしが持ちますから」
そう提案した。二人は少し迷ったが、了承した。


それから間もなく店が開店し、客は店内に入ってテーブルにつく。三人は店の奥の方に案内された。
席に座ってから水とメニューが置かれる。そこで初めて彼女はリラ・アンフィルミエールと名乗り、宗介が今はカシムと名乗っていない事を聞いた。
「あの……お二人って、アフガンで出会ったんですよね?」
かなめが話の口火を切った。
「そうだが?」
かなめの隣にいた宗介がそう答えると、
「聞いても、いいのかな? ……その……その辺の事、色々……」
かなめの声がだんだんと小さくなっていく。二人とも気にした様子は見られないが、かなめとしてはやっぱり気になってしまう。
「やっぱり、彼の事、気になります?」
「気になるわよね」と言いたそうな目。別に悪意は見られない。単に無理もないと言いたそうな雰囲気だ。
黙って気恥ずかしそうにうつむいたかなめを見て、リラはその胸中を何となく察したようだ。
「いいわ。わたしが話してあげます。いいでしょう?」
リラは宗介にそう訊ねる。彼も少し間を置いてうなづいた。
コップの水を一口飲んでから、リラの話が始まった。

     ●

リラはフランスのパリで生まれた。実は、リラは今来ているこの店の本店のオーナーの孫娘なのだ。
しかし、彼女は料理でも経営でもなく、医術の方の才能に恵まれていた。その証拠に、一三歳の時点で飛び級で大学に入り、一六歳で博士号をとったくらいだ。
その後アフガン難民を助けるボランティア・チームに参加。難民キャンプや小さな村々を回って医療活動を続けていた。
その日はソビエト連邦との国境に面した、アフガニスタン東北部のバダフシャン自治州にいた。
村から村への移動の最中、あやまってトラックの荷台から落ちて地面に投げ出されたところから、彼女の運命が変わってしまった。
荒涼とした大地に叩きつけられ、衝撃で息もできぬまま慣性の法則に従ってゴロゴロと何回転もする。その間地面の凸凹に全身をぶつけ、彼女は全身砂埃にまみれた。
彼女が落下した事に気づき、一〇〇メートルほど行ってから車が止まった時、突然車が大爆発を起こした。たまたまそこに埋まっていた地雷を踏んでしまったのだ。
リラが身を起こした時、彼女は爆発の余波に髪をなびかせながら、その場に呆然とする事しかできなかった。
いくら医学を学んでいても、地雷に吹き飛ばされた人間を助ける方法までは彼女は知らなかった。
誰か生き残りがいるのかも。今あの中から助け出せば、何とかなるかもしれない。そんな考えすら、今の彼女にはなかった。燃え上がる車の残骸を、何の感情もない凍りついた表情のまま、見るとはなしに見ていただけだった。
我に返ったのは、燃え上がっていた炎がかなり小さくなってからだ。
地面に落ちた時に身体を強く打ったが、骨に異常はなさそうだ。
このままここにいても仕方ない。死にたくないならここから移動するしかない。この場にいても何も変わらない。自分が乾きと飢えで死ぬ以外は。
冷酷にも感じるが、こうだと決めた時の女性は何よりも強い。
まずは自分が生き延びる事。少なくとも、この医療チームが地雷にやられた事を、誰かに報告しなければならない。
トラックが向かう筈だった、この先の村まで行こう。村まで行けば、電話でも車でも、連絡を取る手段の一つもあるだろう。そう信じて。
彼女はゆっくりと、まっすぐ歩き始めた。しかし、この足元のどこに先程のような地雷が息を潜めて狙っているか、彼女には見当もつかなかった。


歩き始めてどのくらい経っただろう。幸い地雷も踏まないし砂嵐はないものの、上からは太陽の光が容赦なく降り注ぎ、乾いた風が髪と服をなぶっている。おまけに今の彼女には水も食料もない。
理論上なら、水や食事を採らなくともしばらくは生存が可能だが、歩き続ける事と太陽の光が、彼女の体力を容赦なく削り取っていく。
夜を徹して歩き、まる一日が経った頃、彼女は何もない大地に倒れ伏していた。
頭の中は朦朧とし、もはや自分が立っているのか倒れているのかも判らない程だった。
薄い青だったシャツとジーンズはもちろん、肌と髪も砂埃で元の色が判らなくなるくらい薄汚れていた。
瑞々しいと形容される若い女性特有の肌は、吹きつける乾いた風と水分不足で荒れてかさかさになっていた。
地雷があるかもしれない恐怖と戦って、神経は極限まで疲労していた。
虚ろに窪んだ目の下には隈ができ、眼球も充血して真っ赤になっていた。
慣れない道を延々と歩き続けたために、足の筋肉がぱんぱんに張っていた。
一人前に元気だった少女が、たった一日で驚くべき変容を遂げていた。もし仮に、リラの両親が今の彼女を見ても、一目でそうだと判るかどうか。
(死んじゃうのかな……)
倒れたまま彼女は心の中で呟いた。不思議と悲しくはなかった。
医療チームに参加してわずかな日数ではあったが、その間幾人もの人間の死を見てきた。自分もその仲間入りをするのか。誰にも看取られる事もなく。
リラの胸中は漠然とした悲しみに包まれていたが、それでも涙は出なかった。いや、そのための水分も、今の彼女には残ってなかったのかもしれない。
目の前に黒い影が覆いかぶさった。これが死神なのかな……そう思って、リラは静かに目を閉じた。


結果から言うと、リラは助かった。彼女が意識を取り戻したのは、床からの振動でだった。
(わたし……生きてる?)
うっすらと目を開けると、狭いトラックの荷台だという事が判った。幌が被さっており、薄暗い天井が見えている。そばに幾人かの人間がいる事も判った。
だが、自分はどうやって助かったのだろう。
頭の中がぼんやりとしたまま、どうにか首を少しだけ動かすと、粗末な服を着た青年と目が合った。彼は彼女を見て「何も喋るな」と言いたそうに手を振り、近くにいた誰かに声をかけた。
すると、座っている人達をかき分けるようにしてやってきたのは、一人の大柄な白人男性だった。
先程の青年と似たり寄ったりの粗末な外套とターバンをまとったがっしりとした体格で、彫りの深い顔に短い口ひげと顎ひげをたくわえた男だ。素人目にも冷静沈着で、戦いのプロと判る雰囲気を漂わせている。
彼は彼女の身体をそっと起こし、「飲みなさい」と言いたそうに自分の水筒を手渡した。
リラは震える手でそれを受け取り、口の中に押し込むように水筒を傾けた。口の端からこぼれるのも気にせず、水筒の中の水を喉を鳴らして身体の中に流し込む。
それから彼の手からレーションを受け取ってほおばると、それをさらに水で流し込むようにして食べる。
さらに、最初に目が合った青年も、自分の水筒とレーションを差し出す。リラはそれも一気に押し込んだ。
少しむせたものの、ようやく溜めていた息を大きく吐き、空の水筒を名残惜しそうに握りしめた。
『英語は判るかね?』
男はリラが充分落ち着くのを待ってから、英語でそう語りかけた。
アフガニスタンはパシュトゥー語(アフガン語)、アフガン・ペルシャ語とも云われるダリー語が主流だ。
リラもペルシャ語の簡単な挨拶、治療によく使う決まった言い回しなら何とか覚えたが、それでも日常会話となると少々きつい。フランス語の方が有難かったが、ペルシャ語に比べれば英語の方が理解できる。
『英語なら、何とか』
まだ回復しきっていない弱々しい声でそう答えた。
『女性に対して失礼なのは承知だが、ボディ・チェックをさせてもらった。武器を携帯していないところを見ると、君が医療ボランティアとしてこの地へ来たのは間違いなさそうだ』
ウェスト・ポーチの中のパスポートやIDカードを見たのだろう。それにボディ・チェックという事は、意識のない間に色々「身体を」調べられたという事。年頃の女性としては恥辱に等しい事だ。
しかし、なぜかその男を見ていると大目に見ようという気になってしまう。それに、いくら治安が悪くても、死にかけている女にヘンな事をする輩もいないだろう。
この男は信じてもいい。一六年しか生きていない彼女でも、男からそのくらいの雰囲気は感じ取れた。
リラはゆっくりとではあるが、事情を話し始めた。自分が移動中にトラックから落ちた事。その直後地雷でトラックが吹き飛んだ事。その光景を見て何もできなかった自分が悔しかった事。それからずっと飲まず食わずで歩いて倒れた事。男は黙って聞き続けていた。
『あなたが、助けてくれたのですか?』
男は小さく首を振り、
『あなたを見つけたのは、そこにいる彼だ』
男が指差したのは、自分のそばに腰かけていた小柄な人物だった。多分一五〇センチそこそこしかない自分と大差ないくらいの。
みんなと同じような粗末な外套を着込み、ライフルにしがみつくようにしてじっと座っている。
顔は日に焼け、ぼさぼさのまま伸ばし放題の黒い髪にバンダナをして、目は無気力で静かな光をたたえたまま、じっと虚空を見つめていた。
その横顔を見て、リラは驚くしかなかった。
彼は子供だったのだ。おそらく一〇歳そこそこ。どう見ても自分より年下。どうりで小柄な筈だ。おまけにその顔立ちは東洋系。
でも、リラは驚くのを後回しにして、早速礼を言った。
『ありがとう。あなたが助けてくれたのね』
彼はこちらに目線を送っただけで、何も答えなかった。英語が判らないのだろうかといぶかしむ。
その様子を見た、子供の隣にいた老人が何か告げ、さらにリラに向かって何か話している。しかし、訛りが激しい上に早口なので、何を言っているのかはさっぱり判らなかった。
『「人付き合いが苦手なやつだから、気を悪くするな」と言っている』
白人の男が淡々と通訳する。
「俺が、助手席に、いた時、君が、倒れる、ところが、見えた。苦しんでいる、者に、手を、差し伸べるのが、慈悲の、心と、教わった」
その子供は、明らかにこの国の人間ではない自分に合わせて、一語一語区切るようにゆっくりと喋った。だがその中身は、子供とは思えない冷徹な考え方だ。
リラはぽかんとしてその子供を見ていた。
「……わたしは、リラと、いいます。あなたの、名前は、何ですか?」
リラは、随分とぎこちない発音のペルシャ語で子供に話しかけた。少し間が空き、子供の方がぽつりと短く、こう名乗った。
「……カシム」

     ●

「……あんたって、そんな頃から無愛想だったんだ」
一区切りついたリラの話を聞いたかなめがため息混じりに感想を漏らす。同時に今と変わらぬ不器用な優しさを持つ人間だった事を知り、何となく頬の辺りがゆるんでくる。
「そんな頃って、今もなんですか?」
リラの問いにかなめは首を縦に振り、
「そりゃもう筋金入り。愛想はないし常識ないし。こっちに迷惑かけっぱなしで、困ったやつなんですよ」
かなめが再びため息をつく。だが、ただ迷惑がっている顔とは、少し違って見えたが。
話を聞いて、かなめはリラにちょっとした親近感を覚えた。
リラも、自分と同じなのだ。宗介に命を助けられている。彼が助けてくれたから、今の自分がある。
疎外感など感じる必要はない。少なくとも、彼に感謝している気持ちだけは、充分共有しているのだ。
「で、その後が大変だったんです。いきなり別のトラックが攻撃してきて……」
リラが少しだけ目を伏せて、話の続きが始まった。

     ●

ガガガガッ!
トラックの幌の向こうから、断続的な銃声が聞こえてくる。鋪装されていない荒れ地に加え、攻撃を避けるために荒っぽい運転になっている。車内の揺れはさっき以上だ。
テーマ・パークのアトラクションなど比べ物にならない振動。それに周囲に漂う殺気。飛び交う銃声。それを感じたリラは、ここが戦場と隣り合わせの地である事を、改めて感じていた。
荷台の男達はダンボールを盾に、ナイフで切り込みを入れた幌の隙間から銃口を突き出して反撃している。リラは白人の男に言われた通りにピタリと伏せていた。
しかし、まだ体力が元に戻ったとは決して言えないコンディション。乗り物酔いのように気分が悪くなってくる。
そんな時、運転席の方からガシャンという音と激しい衝撃が車内を襲った。その衝撃で積まれたダンボール箱が崩れてくる。リラは白人の男がかばったおかげでどうにか無事だった。
運転席の男がこちらに向かって大声で叫ぶと、男達がダンボール箱をどかしつつ、銃を持って次々と車の外に飛び出していく。もちろんカシムと名乗った子供もだ。
白人の男は彼女のそばにいくつかのダンボールを並べると、
『あなたはここで耳を塞いで伏せていなさい』
サブマシンガンを片手に飛び出して行き、リラは車内にぽつんと取り残された。
耳を塞いでいても、連続した銃声、何かが爆発する音、男達の怒号がガンガン耳に飛び込んでくる。もちろん弾がトラックに当たり、幌を突き破って飛び込んでくる音も。
間違いなく、彼等は戦っているのだ。しかも、その数はカシムを入れても六人しかいない。
これはゲームでも訓練でもない。まぎれもなく撃たれれば死ぬ実戦なのだ。リラは強く耳を塞いだまま、身体が竦んで動けなくなっていた。
(早く終わって!)
そう祈り続ける事しかできなかった。同時に自分の無力さをこれ以上ないくらい感じていた。
自分は人々を助けるのが仕事の筈だ。なのに、この戦場では何の助けにもなっていない。
助けに来た筈なのに、何もできない。逆に助けられている。今の彼女を包むのは、戦場の殺伐とした空気と、愕然とした絶望感だけ。
そこから生じた暗く沈んだ気持ちを抱えるように、彼女は背と膝を曲げて胎児のように丸くなっていた。
そんな時、ごろんと転がってきた、ロシア語が書かれた荷物が目に止まった。
(今戦っているのは、ソ連軍なのかな?)
アフガン人達が乗ったトラックにソ連製の荷物があるという事は、彼等は軍の基地などからこれらを盗み出したのだろうか。それで追われているのなら自然だし、納得もいく。
ソ連との国境に面したここバダフシャン自治州では、アフガンのゲリラ達がソ連軍と戦っていると聞いている。
彼等はきっとアフガンのゲリラなのだろう。ゲリラならば、軍の物資を奪って、それで食料や弾薬を補給する事もあると聞いている。
ソ連が正しいのかゲリラ達が正しいのか、それはリラには判らない。納得がいかないから、正しいと思った事がぶつかりあう訳だから、それが武力抗争になるのは昔からそうだ。
だからといって「戦争はやめよう」と訴えて簡単に終わる問題でない事も判っている。特に、このアフガンに来てからはそれを身体で実感している。
やがて、銃声がピタリと止んだ。
リラは耳を塞いでいた手をそっと外す。戦況はどうなったのだろう? カシムという子供は? あの白人男性は? アフガンのゲリラ達は? そして、自分はこれからどうなるのだろう?
だが、それを確かめるため外を見る度胸はなかった。もし……もしも、あの人達が血まみれで倒れて死んでいたら――そう思うと身体が動かなかった。
やっぱり自分は何もできない。医術を持ちながら何もできないのだ。こうして怖くて震えている事しか。
突然、トラックの荷台をどんどんと叩く音がした。思わず身をすくめて固くする。だが、
「下りろ。荷物を、積み変える」
カシムの淡々とした声を聞いて、リラはようやく安堵する事ができた。

<後編につづく>


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