『真夏に咲いたライラック 前編』
珍しく涼しい、真夏のある土曜日の事だった。
その日の夜六時近くになって、相良宗介はようやく東京に帰ってきた。
都内の一高校生としての生活と、多国籍構成の極秘対テロ部隊<ミスリル>の軍曹としての生活。二つの生活をこなすのは確かに大変だが、それでもどうにかやっている。
今日も太平洋上の孤島にある基地での訓練を終え、ついさっき東京に着いたばかりだ。
自宅のマンション――正確には、細い都道を挟んだ向かい側のマンションの前に、見慣れた人物が所在なげに立っているのが見えた。
腰まである長い髪の先をリボンで結んだ少女だ。彼女は宗介の姿を認めると、小走りで駆けてくる。
「千鳥。どうかしたのか?」
宗介はその人物に声をかけた。
「あ、ソースケ。おかえり」
千鳥かなめは明るい笑顔で迎えてくれた。
かなめは彼が対テロ組織の軍曹である事を知っている。普段は高校生としてかなめを「護衛」する宗介がこうして東京を離れるのは<ミスリル>での任務があるからだ。
任務というからには、規模の大小はあれ戦闘行為に間違いない。
その戦闘行為を終え、こうして無事に帰ってきた宗介を見ているだけで、かなめは不思議とほっとして、落ち着いた気分になれるのだ。
そんな安堵感からの笑顔だからか、より一層美少女ぶりに磨きがかかったように見えるのは気のせいか。
その笑顔を見た宗介は一瞬言葉を失っていたが、いつも通りのむっつりとした無表情顔で、
「あ、ああ。今回は訓練だったからな。問題ない」
自分では平穏をたもったつもりでも、その声にはどこか落ち着きがなかった。いつもはむっつりと押し黙った無表情にも見える顔に、微かな変化が見えた。かなめはそんな変化に目もくれず、
「あんたも大変ねぇ。こっちで高校生やって、あっちじゃあっちでドンパチして。何考えてんのよ<ミス……」
かなめは言おうとしてハッとなり、口をつぐんだ。
<ミスリル>の事は秘密にしておかねばならない。いくら人通りのない夜――真夏だから暗くはないが――とはいえ気をつけるに越した事はない。
「あ、ご、ごめん」
彼女は素直に謝罪する。それから気分を切り替えるように空元気を出し、
「ところでソースケ。ごはんもう食べちゃった?」
「いや……」
ここへ来る途中に買い置きのカロリーメイトを一つかじったきりである。その答えを聞いたかなめはうつむいて、意味もなく爪先を地面にこつこつとやりながら口を開く。
「じゃ、じゃあさ……」
「一緒に家で食べない?」。ところが、その言葉があと少しというところで出てこなかった。
だが、自分自身をどうにか叱咤すると、思いきって顔を上げて彼を見て、
「……あ、あの。あのさ」
「どうした、千鳥?」
宗介の何の悪意もない真剣な目を見た途端、なぜか喉が詰まったように言葉が出なくなる。出る筈なのに出ない。出なくて焦る。八方塞がりである。
(どうして? ただ、いつもみたいに「一緒に夕ごはん食べよっか?」って言うだけなのに)
そう意識するほどかなめの顔はどんどん赤くなっていく。先程の安堵感がそのまま照れ臭さに変化したような、そんな感じである。
そんな顔を見られたくなくて、再びうつむいてしまった。
「……。どこか具合でも悪いのか?」
うつむいて口をぱくぱくとさせているかなめを不審に思い、宗介が怪訝そうな顔で訊ねる。
(別に好きな人にとっておきの手料理を食べさせてあげるとか、そういうのじゃないのに……。それに、ソースケを家に呼んで夕ごはんなんて何度もやってるんだから、こんなに照れる事ないじゃない)
自分を心配する宗介の声など耳に入っておらず、彼女自身の葛藤は続く。
(そうよ。だいたいこいつ、放っといたらロクなもん食べないし。あくまで慈悲よ。ほどこし。仕方ないから恵んであげるだけなんだから!)
そう思ってはいるが、今日の夜帰ると聞いて、夕食のメニューは彼の好物ばかり作っていた。もっとも、何を出したところで宗介が文句を言った事など一度もなかったから、本当に好物かどうかは怪しいものだったが。
「……千鳥?」
自分の呼びかけに全く答えない彼女に、宗介も首をかしげる。
(そ、それに、こいつはあたしの護衛でここにいる訳じゃない? だったら、近くにいた方が護衛だってやりやすいだろうし……って、何であたしの方がこいつに気を使わなくちゃいけないのよ)
そんな風に自分の中で大騒ぎしている。だが、しっかり自分の口から言わねば彼には伝わらないだろう。
「ソースケ。今日の夕食、調子に乗って作り過ぎちゃってさ。一人分食べてくれない? この季節じゃ日持ちしないし、残すのもったいないしさ」
決意して彼女の口から出た言葉は、心の中の葛藤とは全く違う言葉だった。言ってしまってから「あははは」と乾いた笑みを浮かべ、視線が宙を泳いでいる。
(はぁ。何でこう言っちゃうんだろ?)
かなめのそんな嘆きなど全く気がついた様子もなく、宗介の方も「そうなのか」と納得する。しかし、
「だが君は、三日前も『調子に乗って作り過ぎた』と言っていなかったか?」
かなめの乾いた笑みがそのまま凍りつく。どうやら律儀に覚えていたらしい。
「俺の覚えている限り、ここ五、六回の馳走の理由総てが『調子に乗って作り過ぎた』と聞いている。確かにどれも長期保存に適した料理ではなかったが、君は一人暮らしなのだから、いつも食べ切れない量の料理ばかり作るのはどうかと思う。気をつけるべきだ」
どこかピントがずれたようにしか聞こえない解釈を聞き、かなめの表情が少し険しくなった。
「そ、そうだったっけ? 今度から気をつけるわ」
言っているうちに表情がさらに険しくなっていく。
「そのセリフは前回も聞いたぞ。同じミスを何度もするとは、君らしくないな」
「こいつは……」
かなめの拳がふるふると震えている。
最初から素直に「一緒に食べよ?」と言えればいいが、なぜかそうできない。やろうとするとどうしても照れが入って、結局は照れ隠しのあまり、口で言わずに強引な力技になってしまう。
(どうして、す、好きでもないソースケ相手に、こんなに照れなきゃなんないのよ!)
その「好きでもない」相手のために、半日前から下準備に取りかかっていたのは彼女である。
そんな彼女の揺れ動く気持ちに全く気づいていない宗介がかなめの顔を覗き込み、
「どうかしたのか、ちど……」
宗介はそのまま頭をごつんと殴られた。
「何でもない! ほら、食べたきゃさっさと来る!」
かなめは、殴った手で乱暴に彼の腕を掴み、そのままずるずると引きずるようにマンションに戻っていった。


かなめは宗介を引きずったまま部屋に入り、明かりとエアコンをつける。それからテーブルに置きっぱなしのリモコンでテレビをつけた。
「座ってて、ソースケ。すぐあっため直すから」
テーブルにある皿のいくつかを持ってキッチンにかけ込み、その皿にラップをかけて電子レンジに放り込みながら声をかけた。
テレビからは、民放のニュース番組が流れている。日本の景気が悪いだの、失業率の悪化がどうの、どこかの政治家が汚職で逮捕されただのと、明るさとは無縁のニュースが延々と続く。
宗介が何気なく見たテーブルには、既に二人分の食事の準備がほとんどできている。
そう。どう見ても二人分なのだ。伏せて置かれた空の茶碗とお椀。それから箸がきちんと二人分並んでいる。
宗介は不可解に思っていた。調子に乗って作り過ぎた筈なのに、出ている準備は明らかに二人分。
食器棚からもう一人分を出さない限りこんな事はあり得ない。かなめは食器棚には全く近づいていないのだ。
「千鳥。なぜ二人分の食事の準備ができているのだ? 料理を作り過ぎたのではないのか?」
宗介には「最初から二人で食べようと思っていた」という、彼女の「言えなかった本心」が全く読み取れていない。
「うるさい! 食べたきゃとっとと席につく!」
少しはこっちの気持ちを察しろ、と言いたそうにきつい言い方で命じる。宗介も何か言いたそうだったが黙って椅子に座った。
それからかなめは冷蔵庫から色々取り出していたが、
「ソースケ。そこのお醤油取ってくれない? 入れちゃうから」
かなめがほとんど空っぽの醤油のペットボトルをぶらぶらとさせている。テーブルに乗った醤油さしの方も半分くらいしか入っていないから、入れておこうという考えだ。
宗介が立ち上がって醤油さしを持ってかなめに渡そうとした時――ベランダの方から何かの気配を感じた。押し殺したような鋭い殺気がほんの一瞬だけ。
宗介は醤油さしを持ったままその場で立ち止まり、その殺気に神経を集中する。
「何してんのよ、ソースケ?」
温め終わった皿をテーブルに置いたかなめが怪訝そうな顔をする。仕方なくかなめは彼が持ったままの醤油さしに手を伸ばした。
その時宗介は、はるか遠くにライフルの銃口の気配を確かに感じた。それは間違いなくこちらに――かなめに向いている。先ほど感じたものと同じ鋭い殺気がぴりぴりと伝わってきた。
その殺気が頂点に達する寸前、宗介はいきなり醤油さしを彼方のライフルの銃口めがけて投げつけ、さらに、
「伏せろ、千鳥!」
かなめに飛びついて、そのままフローリングの床に押し倒す。この間わずか一秒。訓練で培われた素晴らしい反応速度である。
だが、かなめには自分の身に何が起きたのかさっぱり判らなかった。いきなり宗介が醤油さしを持って動かなくなったと思ったら、次に気がついた時には自分が彼に押し倒されていたのだから。
「……ソ、ソースケ?」
頭の中が混乱してぽかんとしてしまい、そう言うのがやっとであった。
(な、何なの? まさかあたしにヘンな事する気!? だけどこいつに限ってそんな。いや、でも……)
真っ白になった脳に彼の重みと温もりを直に感じ、顔が火照って心臓がばくばくと高鳴り、口をぱくぱくとしたまま思考がぐるぐると激しく回転する。
宗介はしばらくそのままじっとしていたが、やがて慎重に身を起こした。もう銃口の気配はない。
「怪我はないか、千鳥」
宗介は彼女に手を貸す。混乱から立ち直りつつあったかなめは、とりあえずその手に捕まって立ち上がると、少々むっとした顔で訊ねた。
「……怪我はないんだけどさ。いきなりあたしを押し倒した理由っての、聞かせてもらえないかしら?」
「ライフルが君を狙っていた。そのため回避措置を……」
「そう。そりゃありがと」
しかし、表情は全く有り難がっていない。口の端がぴくぴくと引きつっている。
ヘンな事をされなかったという安堵の気持ちはあるものの、この過剰なまでの警戒心はどうにかならないのだろうか、と思いながら。
「ところで、お醤油は?」
かなめが手を差し出す。宗介は言葉に詰まって黙り込んでしまった。
そう。たった今、窓――の向こうのライフルの銃口――めがけて投げつけてしまったのだから。
黙ってしまった宗介を見て、かなめは周囲を見回す。すると、ベランダに出る窓の下に、醤油さしが転がっていた。
もちろん醤油さしは壊れ、中の醤油は全部こぼれている。窓ガラスが割れていないのが不幸中の幸いだ。きっと、蓋のプラスティックの部分が当たったか、窓枠にでもぶつかったのだろう。
かなめは拳をふるふる震わせていたものの、とりあえず無理矢理笑顔を作ると、
「で、ソースケくん? あれは一体何か、おねーさんに教えてくれないかな?」
いつも以上にお姉さんぶった、ぎこちない、形だけの笑み。宗介は脂汗を流したまま、
「さっきも言ったが、君を狙うライフルの狙いを少しでも逸らそうと、手にしていた醤油さしを投げてしまった」
帰ってきた答えに、かなめは殴りたくなる衝動を拳ごと懸命に抑えながら、
「それじゃ、大至急お醤油買ってきて。そこのコンビニでいいから」
一字一句区切って、彼に言い聞かせるようにかなめが言った。
「醤油が必要なのか?」
「あたし、お醤油のかかってない冷ややっこなんて、食べたくないんだけど」
「それは贅沢というものではないのか? 食事なら、必要な栄養分の補給と、空腹を満たせればいいだろう?」
我慢していたが、やっぱりかなめは拳を彼に叩きつけた。
「行ってきなさい、い・ま・す・ぐ!!」
取り繕った笑顔が、一気に般若を思わせる怒りの顔になり、ビシッと玄関を指差した。
「……了解した」
そう返事して二、三歩玄関に向かったところで、彼はかなめの方を振り向き、
「ところで、代金は……」
「どうするのだ」と言おうとした時、怒髪天を衝くかなめの形相を見て、
「……俺が建て替えておく」
戦場育ちの宗介ですら薄ら寒い「何か」を感じ、彼はそのままそそくさと出て行った。
ガチャンとドアが閉まる音が聞こえ、部屋の中に響くのはテレビの音だけとなった。
「まったく。これさえなければねぇ……」
彼女は大きくため息を一つついてから、壊れた醤油さしを片づけ、雑巾でこぼれた醤油を慎重に拭き取る。
ここがフローリングで助かった。もし床が絨毯だったら染みになっていたところだ。醤油の染みというのはなかなか落ちないのだ。
ぶつぶつ言いながらもテキパキと拭いていく。
いくら「自分を守るため」と言っても、戦場ではない日本で、毎日のようにこんな事をされてはたまらない。
しかし、かなめはそんな宗介を本心から嫌いにはなれなかった。
自分の事を、誇張抜きに命懸けで守ってくれる存在。不器用だけどひたむきで一所懸命な姿が、なぜか放っておけない気にさせてしまう。
平和な日本の事が全く判ってないのは、今までずっと苛烈な戦場で過ごしてきたからだ。そこで身についてしまった「悲しい」習性ゆえに、彼自身に悪気は全くない事は判っている。
直してほしいとは思っているが、責め続ける事もなぜかできなかった。
そんな事を考えながら床を拭き終わる。
テレビの方はニュースではなく、どこかほのぼのとしたBGMをバックに、レポーターが和やかに喋っていた。おそらく「街の話題」のようなコーナーだろう。
特に興味はなかったが、チャンネルを変える理由もないのでそのまま放っておき、何となく見ていた。
画面には、どこかの剣道だか柔道だかの道場が映り、その前で道着姿の外国人女性がインタビューに答えていた。暗い感じはないが、何となく表情の乏しい女性だ。
年はよく判らないが、多分若い。自分より少し上くらいだろう。
(ははぁ。日本の武道を学ぶ外国人ってトコかしらね)
日本人であるかなめにはあまり実感がないが、外国の人にとっては、今でも日本は「東洋の神秘の国」らしい。
未だ「サムライがいる」と真剣に思っている人もいるらしいが、その「神秘」に憧れる人は決して少なくない。
政治や経済的な面では諸外国と色々あるようだが、日本古来の文化や電化製品は他の国でも歓迎されている。
だから、わざわざ日本に来て柔道や剣道などはもとより、日本舞踊や華道・茶道を学ぶ外国人もいるらしい。
それを取り上げたというところだろう。
『……さんはその後、医療ボランティアとしてアフガニスタンを訪れた際に……』
レポーターのその言葉に、かなめの動きが止まる。
(アフガン……。ソースケが昔いたところだ)
かなめも詳しい事は聞いていないし、彼自身も滅多に話さないが、子供の頃アフガンでゲリラとして戦っていた事は少しだけ聞いている。
別にこの彼女と宗介には何の接点もない。強いて挙げれば「アフガンにいた」事くらい。
それなのに、なぜか彼女の事が気になってしまった。かなめは雑巾を持ったままテレビの前に行く。
『……数年前ですけど、まだ一〇歳くらいの男の子に助けられた事があるんです。分野が違うとはいえ、そんな小さい子に助けられたのが、すごく悔しかったので……』
外国人女性の苦笑しながらの言葉にかなめは、
(一〇歳くらいの男の子? まさか……)
一瞬ソースケかとも思ったが、それはないだろう。
数年前という部分は合致するが、一〇歳くらいという年齢は微妙にズレがある。彼であると断言はできない。
『せめてその子が言ったように「自分の身は自分で守れる」ようになろうと、合気道を始めたんです』
合気道は相手の力を利用したり、関節や身体の動きを利用して投げたり極めたりする技が多い。実戦に使えない事はないが、間違いなく護身に向いているだろう。
しかし、子供に負けたから始めたという理由を聞いて、何となく子供っぽい人だな、と思ってしまった。
「千鳥。言われた通り買ってきたぞ」
玄関の方で宗介の声がする。ビニールの擦れるガサガサという音が近づいてきた。
「これでいいのか?」
宗介がビニール袋から、かなめが普段使っている物と同じメーカーの醤油を取り出す。
「うん。ありがと」
それを受け取って、かなめは再びテレビに向かう。宗介も彼女が何を見ているのか気になり、画面を覗き込んだ。
かなめも自分の後ろで画面をじっと見ている宗介に気づいた。かなめは画面に映る彼女を指差して、
「この人、昔アフガンにいたんだって。あんたも昔いた事あるんでしょ?」
「ああ」
宗介は短く答える。目はテレビを見たままだ。
妙に真剣に見ていると思って彼を見ると、その顔は驚きに満ちていた。
「彼女の名は何というのだ?」
テレビを見たままの宗介が突然訊ねてきた。かなめはえっと言葉に詰まり、
「え、え〜と。判んない。途中からだったから……」
申し訳なさそうに語尾がだんだん小さくなる。
「そうか……」
宗介は一瞬だけ悲しそうな顔になると、そのまま黙ってしまった。
「もしかして、知ってる人なの? 心当たりがあるの?」
興味本意から、彼女は訊ねてみた。
「いや、何でもない。忘れてくれ」
「やだ」
かなめは即答していた。それからうつむいたまま静かに呟く。
「そんな風に言われたら、よけいに気になるわよ」
しかし、すぐさま顔を上げると、
「そりゃ、数年前までアフガンでゲリラやってたってのは、あたしもちょっとは聞いてるわよ。いい思い出なんてないのかもしれないけどさ」
かなめが聞いた話では、宗介がいたゲリラの村は敵勢力に壊滅された筈だ。彼はたまたま村を離れていたため無事だったとも。それからは苛烈な戦場で傭兵として暮らし、死と隣り合わせの生活だった事も。
彼の悲しい過去に触れるであろうこのテの質問はタブーだったかもしれない。かなめはそんな風に考えると再びうつむいて肩をすぼめ、ぽつりと呟いた。
「話したくなかったら……別に話してくれなくても、いいよ」
そして、そのまま宗介も黙ってしまった。聞こえるのはテレビから流れるコマーシャルくらいだ。
(やっぱり、辛い過去の話をさせる事はないよね)
特にアフガンでは、苦楽を共にしてきた仲間が全滅しているのだ。彼にとっては思い出したくもない過去の筈だ。
かなめは、面白半分の興味本意でそんな事を聞いてしまった、自分のあまりの無神経さに腹が立った。胸の奥がじわりと傷んで、涙が出そうになる。
戦争バカで、常識知らずで、不器用で、朴念仁で、鈍感で、無愛想で、融通がきかなくて、デリカシーのかけらもなくて、とっても変なやつだけど、その芯の部分は真面目で優しいし、こっちが思っているよりも、ずっと繊細で傷つきやすいのだ。この相良宗介という人物は。
……普段の彼を見ていると、とてもそうは見えないのだが。
かなめは気持ちを入れ替えて顔を上げると、
「さ。お醤油も来た事だし、ちゃちゃっとごはん食べちゃおう。冷めないうちにね」
いきなり明るくなったかなめにぽんぽんと肩を叩かれ、宗介は席につく。
かなめは宗介の分のごはんと味噌汁をよそって彼の前に置いた。それから自分の分をよそい、彼の向かい側に座る。
いざ食べようとした時に、宗介が何か考え込んでいるのが見えた。
「どうしたの? メニュー、気に入らなかった?」
かなめはテーブルに並ぶ(おそらく)彼の好物を見回している。
「いや。そうではない。君にはいつもこうして助けられている。君が謝る事はない」
いつもの調子だが、どこかぎこちない。それはかなめにはすぐ判った。
きっと、さっきの女性が気になっているのだろう。たとえば、昔お世話になった人に似てるとか。それとも、本当にどこかで会った事があるのか。
かなめも昔の彼を知りたい気持ちはあった。でも、辛い過去の話をさせるのは、やっぱり酷だ。
そう思ったかなめは、しばし黙考してから話題を変える事にした。
「じゃ、助けられてる借りを返すと思って、明日の日曜、あたしにつき合ってくれない?」
「予定はないから問題はないが。でかけるのか?」
かなめは彼から視線を逸らすと、
「最近できたフランス料理の店なんだけど、カップルだと割引になるってフェアを、明日までやってるのよ」
そこまで言ってから、急に言い方がぶっきらぼうになる。
「ベ、別に、あんたとは……カ、カップルでも恋人同士でも、何でもないけどさ。普段バカばっかりやってあたしに苦労かけてんだから、少しくらい役に立ってよね。それに、そこの魚料理おいしいって評判だから、食べてみたかったし」
最後の方は照れ隠しにしか聞こえなかった。無理矢理むすっとした顔を作ってごはんを口に詰め込んでいる。
「了解した。俺で役に立つのなら、君につき合おう」
だが宗介は、その申し出を快く引き受けた。
かなめの微妙な乙女心に気づいた様子は、もちろんなかったが。

<中編につづく>


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