『爆走のトランスポーター 前編』
ある日の放課後。家庭科室の中では、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられていた。
というのはいささかオーバーな表現ではあるが、だいたい以下の通りである。
部屋の中央付近の蛇口は折れて水がちょろちょろと流れている。流しやコンロもその一部が壊れ、焼け焦げているといった具合だ。ガスの臭いがしない事からガス漏れがないのが奇跡的なくらい。
戸棚の扉という扉も無惨に破壊されており、数々の皿、計量カップ、包丁、まな板、おたま、しゃもじ、フライパン、大鍋、各種調味料などもその被害を受けている。
窓ガラスに至ってはひびが走って、一部は割れているという始末だ。
そんな部屋の中で、数人の男子生徒が目を回してのびている。少々怪我はあるようだが、命に別状はなさそうである。
そんな訳で、どう表現してみても中はメチャクチャ。例えるのなら台風一過かヤクザの殴り込み後の様相だ。
駆けつけて来た生徒会副会長・千鳥かなめは、この惨状をじろ〜っと一瞥した後、押し殺した声で、
「……さて。相良宗介くん。説明してもらいましょうか?」
とりあえず作ったかなり引きつった笑顔のまま、自分の前に立っている相良宗介に訊ねた。
平和な日常の出来事を、戦場の物さしでしか判断できないためにトラブルばかり巻き起こしてしまう、戦場で育った戦争ボケの帰国子女。「武の変人」と呼ぶ人もいる。
とりあえず戦闘能力はあるので生徒会の方から「安全保障問題担当・生徒会長補佐官」という怪しげな肩書きを与えられている。
その彼は、相変わらずのむっつりとした表情だが、自信に満ちた態度で胸を張り、こう言った。
「たまたまここを通りがかった所、彼女から誰も使ってない筈のこの教室から、何やら話し声がするという通報を受けたのだ」
かなめの後ろにびくびくして立っていた女子生徒が「間違いない」と首を縦に振る。多分宗介に「通報した」という生徒だろう。
かなめは「バカな事を……」という表情をありありと浮かべたまま、彼の言葉を聞く。
「調べてみると扉には内側から鍵がかかっており、中では数人の男子生徒が、明らかに良からぬ行為を行っていると断言できる会話をしていた」
言われて見れば、室内でのびている男子生徒の周囲にタバコの吸い殻やらひしゃげた缶ビールの空き缶やら割れたカクテルの瓶やらが転がっている。確かに学校内での飲酒・喫煙は良からぬ行為ではある。
「そのため、安全保障問題担当・生徒会長補佐官として速やかに鎮圧行動をとるべく、扉を破って教室内にスタン・グレネードを放り込んだのだが」
がすっ。
至近距離からのかなめの強烈な右フックが炸裂し、宗介はたまらずふらふらと後ろの壁によろける。
「……ソースケ。あたしの覚え違いじゃなかったら、スタン・グレネードっていうのは、すっごい音と光を出して、単に気絶させるっていうやつじゃなかったっけ? 何であんな風に教室がメッチャクチャになるのよ?」
むっつりとした彼の表情がやや翳る。
「……間違えて実弾を使ってしまったようなのだ」
げしっ!
今度は宗介は顎を思いきり蹴り上げられ、のけぞって後ろの壁に叩きつけられ、そのまま床に崩れ落ちる。
かなめは腰まである長い髪を振り乱して詰め寄り、そんな彼をげしげしと踏みつけ、遠慮なく蹴たぐり、転げ回す。
「あ、あんたね! なに実弾投げつけてんのよ! だいたいね、そういう物騒なモノ使ってんじゃないわよ! 単にドア開けて『やめろ』って言えばすむ事でしょ!?」
何とか立ち上がった彼も、さすがにバツが悪そうな顔になるが、
「た、確かに実弾を使ってしまったのは俺のミスだが、使ったのは幸いにも威力を抑えたものだ。大した怪我はない筈だ」
「そーいう問題じゃない!!」
痛烈な回し蹴りが宗介の首に炸裂し、彼はそのまま吹き飛んで五メートルほどごろごろと転がる。
「キャッ!!」
突然、宗介が転がっていった方から悲鳴が聞こえた。
慌ててそちらを見ると、転んで倒れている女子生徒が一人いた。転がった宗介が誰かとぶつかってしまったらしい。
「あ。ご、ごめんなさい。大丈夫!?」
慌ててその女生徒に駆け寄るかなめ。その生徒はぶつかったショックで小さなケースを取り落としていた。周囲にはその中身が転がっている。
それは、細長い銀色の筒だった。それが三本ばかり。そのうちの二本には何やら良く判らない機構がついている。
「あれ、それって……」
かなめが何か言おうとした時、彼女の目の前に、見なれた腕がにゅっと出て来た。
「千鳥。この女に近づくな」
やはり宗介だった。左腕でかなめを制止し、右手には愛用の拳銃・グロック19が握られている。
「女。どこの組織のものだ? 誰に頼まれた? 正直に言えば、命までは取らんぞ」
そう言って、かなめをかばうように立ちはだかり、転んだままの彼女の額に銃口を突きつけた。
しかし、こんな状況で何かを言える人間などそうはない。転んでしまった女生徒は怯えてしまうやら驚くやら困惑するやらで言葉が出てこない。
口をぱくぱくとさせて宗介と目の前の銃口とを見ている。そんな無言の彼女を見て、
「……さすがに、口は固いようだな。尋問は無駄か」
何を理解したのかうんうんとうなづくと、宗介は銃口を突きつけたまま、空いた手で銃のスライドを可動させた。
「そ・お・じゃ・な・い・で・しょっ!!」
かなめは後ろから自分の腕を宗介の首に絡ませ、グイグイと締め上げた。
「何とち狂ってんのよ、あんたは! ぶつかったのに謝りもしないで、その態度はなに!?」
もっとも、ぶつかる原因を作ったのは、かなめの回し蹴りである。
「お、落ち着け、千鳥……」
宗介は顔面蒼白になりながらもどうにか言葉を紡ぐ。
「その女は、吹き矢を、持っている。古典的な武器だが、あなどる事は、できん」
「吹き矢? あれはね、フルートっていうの! ただの楽器よ!!」
「君は、素人だからな。一見無害な物に、武器を仕込むなど、常識だ。楽器に、見せかけた、吹き矢……いや、小型の、拳銃の、かのうせいも、すてきれ……」
そのまま宗介は気を失った。かなめはそこでようやく宗介を離すと、
「このバカが失礼しました。あの……大丈夫でしたか?」
転んでいた女生徒は、ただただぽかんとするだけだった。


「……まぁ、事情の方は判りました」
宗介、かなめ、そして問題の女生徒――ブラスバンド部部長で三年生の柳沢あゆみは、宗介とかなめの担任・神楽坂恵里教諭の前で事情を説明する事となった。
「相良くん。あなたはいつになったら判るんですか。学校内で手榴弾を破裂させるなんて。ここはあなたが育った戦場でも紛争地帯でもないんですよ」
恵里は何となく額に手を当ててため息一つつくと、目の前の宗介にそう注意する。
「お言葉ですが、先生。使用されていない筈の教室に鍵をかけてこもっているというのは、どう考えても怪しい行動ですが……」
「それは先生にも判ります。ですけど……」
「早いうちに対策を講じる事が、より大きな被害を出さない手段なのです。幸い、今回は飲酒と喫煙でしたが、麻薬の常用や犯罪の計画を練っていたなどの場合も考えられましたので」
宗介の口から出た言葉に、さすがの恵里も困惑を隠せない。
「さ、相良くん。いくら何でも麻薬や犯罪というのは……」
「はい、そこまで。先生を困らせてどーすんのよ、ソースケ」
みかねたかなめが宗介を止めに入る。気の弱い先生の事だ。このままだったら泣き出すかもしれない。
さすがに恵里も宗介の起こす事態に慣れてきたのか、もう一度ため息をつくとかなめの方を見て、
「千鳥さんも、相良くんに注意をするのはともかく、あまり過激にならないようにね」
「……はい。すみません」
さすがのかなめも今回ばかりは小さくなっている。
「それで……柳沢センパイ。フルートの弁償ですけど、あたしとソースケで何とか折半しますから」
愛用の楽器を壊されて怒っているだろうな、という事でかなめはそう切り出すが、肝心の彼女は明るく笑って、
「弁償はいいわよ。これ、昨日落っことしてキーを壊しちゃったから、どのみち修理に出すつもりだったし」
あんな事があったばかりだというのに、さばさばとした態度である。だがかなめは、
「いや。でも……」
「大丈夫。それに、フルートって細いから、ちょっとした衝撃で管がへこんじゃうのよね」
そう言って彼女の手に持った管には、ほんの少しだがへこんだ箇所がある。
フルートはケースに入っていても、強い衝撃で管がへこんだり曲がったりという事が起こりやすい。
そして、へこんだ管で綺麗な音など出る訳がない。それだけに扱いは慎重を要するのだ。
「修理の手配はしておくわね。わたしが高校の頃からこのブラスバンド部がお世話になってる小さな楽器屋さんがあるの。腕のいい職人さんを知ってるし、何とか急いで修理してもらえると思うから」
恵里はこの学校の卒業生でブラスバンド部に在籍していた関係から、顧問でもある。その時からのつてを頼ろうというのだ。
「判りました。お願いします」
柳沢がぺこりと頭を下げる。つられてかなめも一緒に頭を下げた。宗介はかなめの手で無理矢理頭を下げさせられる。
「でも、もうすぐコンクールでしょう? 間に合わなかったら楽器はどうするの、柳沢さん?」
恵里は柳沢を心配そうに見つめると、彼女は苦笑いを浮かべて、
「あ、先生。それは大丈夫です。家にもう一つありますから。それを使います」
ポジティブ・シンキングというやつだろう。何事も前向きに明るく考える質なのかもしれない。
陣代高校のブラスバンド部は活動が盛んである。昔、全国高等学校総合文化祭という良く判らないがすごそうな催し物に都の代表で出た事もあるとかなめは聞いている。
周辺の学校からも一目置かれ、ブラスバンド部目当てで受験する生徒も(たくさんではないが)いる。
それを知っているだけに「コンクール直前のアクシデントとは、ますますシャレにならない」とかなめの顔が引きつる。
彼女は「本人が気にしていないからいいや」という考えができるほど、割り切れる思考の持ち主ではない。
恵里はそんなかなめの表情をちらりと見た後、
「柳沢さんもああ言ってる事だし、あまり気にしないでね。それから相良くん。家庭科室の片づけはきちんとやっておくように」
「は。了解しました」
背筋をビシッと伸ばし、宗介は即答した。


それから一週間後。宗介とかなめが放課後に生徒会室に来た時、部屋の中にはクラシックの音楽がかかっていた。
かなめはその音楽を聞きながら部屋の奥に静かに佇んでいる、白い制服姿の青年に訊ねた。
「あの……センパイ? どういう風の吹き回しですか、これは?」
その物言いに違和感を覚えた彼はラジカセを止め、居住まいを正すと、
「千鳥くん。私は音楽を鑑賞しているのだが。そういった言い方をされるとは心外だな」
彼は物悲しくため息をつくと、
「確かに、音楽の趣味の違いは認めるが、人生にはゆとりが必要だ。音楽を楽しむゆとりすらないのかね、君は?」
「いえ、あの、そういう事を言いたいんじゃなくってですね……」
「また始まったか」と言いたげに眉をひそめるかなめ。
彼――この陣代高校の生徒会長である林水敦信は、そんなかなめの態度を非難はしても腹を立てている様子はなかった。
高校生にもかかわらず、妙に落ち着き払った物腰で、不思議と威厳や貫禄がある。かなり頭も切れ、学力という意味でも頭脳明晰。
そして、有無を言わせぬ屁理屈が得意。一言で言うなら「文の奇人」と言ったところか。
そんな彼は適当に席につこうとしている二人に構わずラジカセのスイッチを入れた。再びラジカセから音楽が流れ出す。テンポや雰囲気から察するに行進曲っぽい。
「センパイ? これ、何ていう曲なんですか?」
そう言いながら、ラジカセの脇に開きっぱなしで放ってあるカセットテープのケースをレーベルを見る。だが、レーベルには何も書いてない。
「今度の日曜に我が校のブラスバンド部が出場する、コンクールの課題曲だそうだ」
今ラジカセから流れているのは、どこかのプロの楽団の演奏なのだろう。一糸乱れぬという形容がぴったりの演奏が続いている。
「何事もそうだが、特にこういった楽団の演奏というものはチームワークが要求される。無論指揮をする人間も重要だが、その指揮に、演奏をする者に。いや、互いが互いの気持ちを合わせなければ、ただの雑音にしかならない」
「会長閣下のおっしゃる通りです。いかに優秀であっても、一人一人が勝手に行動するような軍隊に、勝利はあり得ません」
今まで黙っていた宗介が真面目くさった顔で言った。以前かなめが「生徒会長は一番エラい人なの」と教えたせいもあり、妙に馬鹿丁寧である。
「そのたとえは正論だが、少々違う。私は、音楽とは勝敗を競うだけのものではないと思っている」
林水はそのまま窓の外を見た。そして、眼鏡のブリッジをくい、と上げると話を続けた。
「確かにコンクールは技術などを競う場だ。他の者と己を見比べ、第三者の意見で己の実力を知り、高みに向けて切磋琢磨する。それは非常に重要な事だ。だが、コンクールで優勝をしたからといっても、それが勝利であるというわけではない」
かなめには良く判らなかったが、少なくともテレビの音楽番組で多く取り上げられるアーティストだからといって歌が上手いとは限らないようなものか、と勝手に解釈した。
「申し訳ありません、会長閣下。自分が浅はかでありました」
「いや。謝る事はない。これは私の偏見に過ぎん」
そう言った時に曲が終わる。彼は静かな動作でテープを止め、すぐさま巻き戻す。その時、突然放送が入った。
『3−1の柳沢あゆみさん。至急職員室の神楽坂の所まで来て下さい。3−1の柳沢さん。至急職員室の神楽坂の所まで来て下さい』
その放送に「おや?」といった表情に耳を傾けていた宗介とかなめ。
「この放送。さっきもあったな」
「……そう言えばそうね」
確か十分くらい前にも同じ放送があった。にもかかわらず彼女は職員室へ行っていないという事になる。宗介は素早く考えを巡らせた。
不慮の事故。急性疾患。負傷したためにその場を動けない。「行くな」との脅迫を受けている。仇敵に会い交戦中。あるいは尾行中。はたまた尾行を撒いている……。
「……最悪、刺客に襲われて命を落としたという事も」
いつの間にか声に出ていた宗介の考えを聞き、かなめはすかさずその背中に容赦なく蹴りを入れる。
「あんたね! いい加減その物騒な戦争ボケ思考はやめろって言ってるでしょ!?」
後ろから蹴られてつんのめった宗介は、転ぶ寸前に体制を立て直す。
「しかし、あらゆる状況を想定し、対策を講じるべきだろう」
「あのね。だったら、せめて『平和な日本の学園生活』に起こりそうな事態を考えなさい! どこの世界にそんな高校生がいるってのよ」
宗介の相変わらずの「戦争ボケ」思考に心の底から嘆くかなめ。そんな二人を見た林水は、
「仕方あるまい。千鳥くん。相良くんと二人で職員室へ行きたまえ。そして、神楽坂先生にこの事を報告して指示を仰ぐように」
「あの……。何であたしとソースケが行かなきゃならないんです?」
間髪入れずにかなめが嫌そうな顔で質問する。
「これは私の推測に過ぎないが、おそらく先週の一件に関する事だろう。そうだとすれば、君達二人はあながち無関係ではあるまい」
「先週の一件」で、かなめの顔が渋いものになる。
「……判りました。行ってきます」
かなめは渋い顔のまま、宗介を引きずって生徒会室を出て行った。


宗介とかなめが職員室の中に首を突っ込むと、恵里は自分のデスクで何かやっている所だった。二人は一応「失礼します」と言ってから職員室に入り、彼女の所へ向かう。
「あの、神楽坂先生。柳沢センパイ来ました?」
不意に声をかけられた恵里は、少々驚いた様子でやって来た二人を見ていたが、
「それがまだなのよ。コンクールまで日がないから、絶対に帰ってないと思ってたんだけど……」
そう言って小首をかしげる。
「先生。彼女を呼び出したのは、先日の一件に関する事でしょうか?」
「ええ。修理に出していたフルートがさっき学校に届いたの。渡しておかないとならないでしょ?」
そう言って「取扱い注意」のシールがついた宅配便の箱を取り出す。それから宗介の方をじっと睨むように見つめると、
「あなたに言われないうちに言っておきますけど、これは不審物ではありませんし、危険物の可能性も全くありませんからね」
ビシッと人さし指を立てて説明する。しかし、肝心の宗介はやはり信じていない。
「安心はできません。中を確認していない以上、危険物の可能性がない訳ではありません。校内の安全を最優先に考えますと、最低限の用心はしておくべきかと。せめて自分に検査を……」
「あんたが何もしないのが、一番安全よ」
かなめが彼の後頭部をごつんと小突いた。
「それにしても、柳沢さんがいないのならブラスバンド部の他の部員が来ても良さそうなものだけど……」
恵里がそこまで言った時、ふと何か思い当たる事があったらしく、少々考え事をしている。その彼女の微妙な変化に気づいたかなめが、
「どうかしたんですか?」
「トレーニング中かも……」
「トレーニング?」
かなめがおうむ返しに訊ねた。
「ええ、そうよ。こういう楽器を演奏するのはね、すごく体力がいるのよ。二、三時間も練習した後は、顎ががくがくして口が半開きのまま動かなくなったりとかね。だから体力をつけるためにジョギングをしたり、腹式呼吸のために腹筋を鍛えたりとか……」
恵里が自分の高校時代を振り返っているのか、どこか懐かしそうな目になる。しかし、そんな事を知らないかなめと宗介はぽかんとするばかりだ。
「楽器の演奏なのに、腹筋とかするんですか?」
「ええ。腹筋がしっかりしてないと、ちゃんとした腹式呼吸はできないから。わたしが高校生の時には、週に一回部員全員でやってたわ。それなら連絡がつかないのも判るけど、今日はコンクールが近いからやらなくてもいいって言っておいたんだけど……」
と、そこまで言った時、職員室に問題の柳沢あゆみが入って来た。学校指定の体操服姿で、首からタオルをかけている。
制服の時はさほど感じなかったが、長身の割にスタイルの方はあまりよろしくなく、どちらかといえば少々凹凸に欠けるスレンダーな体型だ。
しかし、走り込んでいるからだろう。すらりとしてバネのありそうな脚を見れば、ブラスバンド部というよりも陸上部などの方が似合っているかもしれない。
「神楽坂先生。さっき放送があったって聞いて来たんですけど」
「ああ。柳沢さん、待ってたのよ。修理に出していたフルートが届いたの」
それを聞いた彼女はぱっと目を輝かせて恵里から箱を受け取る。
「有難うございました、先生。まさかこんなに早く届くと思ってなかったから……」
柳沢がお礼を言おうとした時に、
「神楽坂先生、お電話です」
受話器片手の教頭が大声で彼女を呼ぶ。彼女は「ちょっと待ってて」と小さく言って電話に出る。
最初のうちは軽く頭を下げたりと何やら嬉しそうであったが、次第に少々困った顔になってきて、そのまま受話器を置いた。
そして、何か考え事をしながら三人の元に戻って来た。
「あの……何かあったんですか?」
不思議に思ったかなめが恵里に訊ねる。
「電話は修理を頼んだ楽器屋さんからだったんだけど……」
恵里は、そこで一旦言葉を切った。
「いつもコンクールとかの時に楽器の搬入出をお願いしてるんだけど、ご主人が腰を痛めたらしくて、楽器搬入出の人手が足りないそうなのよ。車の手配は大丈夫なんだけど、せめて楽器を運ぶ人が二、三人いないと……」
弱々しく困り果てた様子で、恵里が力なく呟いた。
「先生。それならば、自分にやらせて下さい」
突然宗介が口を開いた。
「人出は多い方がいいでしょう。それに、自分ならば車の護衛を兼任する事もできます」
その発言に柳沢は驚きのまなざしで、
「え……と相良くんだったわよね? ほんとにいいの? 搬入出って結構力いるし。それに、予定とかあるんじゃないの?」
「大丈夫です。どうか、ご心配なく」
宗介は柳沢に向かって淡々と言い切った。
「ちょ、ちょっと待って……」
いきなりの宗介の発言に、かなめは内心で少々うろたえていた。こういう場合、さっさと宗介を追い払うか関わらせないようにするのが、騒ぎを起こさない一番の方法だ。
だてに長い事彼と一緒にいる訳ではない。人間は経験から学んだ事は決して忘れないものだ。
「千鳥さん。あなたが不安になるのも判るけど、彼が自分から言い出した事よ。何の考えもない訳じゃなさそうだし、やらせてあげても……」
「いーえ! ソースケが行くくらいならあたしが行きます。その方がマシです。ええ、絶っ対」
恵里の言葉を遮るかのようなかなめの発言。妙に力が入っている。鬼気迫ると言ってもいいくらいだ。
「千鳥。残念だが、君は力仕事には向いていない。俺の方が適任だ。それに、輸送任務なら幾度も経験している。現に数年前南アフリカで……」
「そんな昔話はいいの! そんな風に安請け合いして、何回バカやったと思ってるの!?」
その迫力にむっつりへの字口のまま黙ってしまった宗介と、ぜーぜーと肩で息するかなめとを見比べた恵里は、
「じゃあ、こうしましょう」
ぱちんと手を叩いて、こう提案した。
「二人にお願いしましょう。それならば文句はないでしょう?」
恵里の提案に、かなめの目が点になった。ぽかんと大口を開けて突っ立っている。
「あの……先生。今なんて……」
「俺と千鳥が搬入出の手伝いをしろ、と先生はおっしゃったのだが?」
「んなこたー判ってるわよ!」
宗介の言葉にかなめが喧嘩腰になりかけた時、絶妙のタイミングで柳沢が割って入った。
「二人とも。無理しなくていいよ。うちの部員にだって男子はいるし、ほんとはこっちでやるのが筋なんだから」
確かに。柳沢の言う事はもっともである。部外者よりは部員の方が楽器の扱いも手慣れているのは間違いない。
「あ……でも」
かなめが何か言いたそうに口の中でもごもごとやっている。
「いや。俺達がやった方がいいだろう。心配はいらん。こっちはプロだ。問題はない」
宗介が胸を張って柳沢に言い切った。そこだけを見れば自信に満ちあふれた頼れる人材に見えなくもない。
その様子に柳沢の方も折れた。
「判ったわ。じゃあ二人にお願いするわね。これから楽器屋さんと相談してスケジュールとか決めなきゃならないから、決まったら千鳥さんの所に電話する。それでいい?」
宗介は静かにうなづいた。かなめはがっくりとうなだれるしかなかった。

<中編につづく>


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