『走れ走れ!蒸気バイク 前編』
いつも通りの清々しい空気。すっきりと晴れ渡った夏の朝。
ここ銀座にある大帝國劇場の中庭では、朝食を済ませた劇団員の桐島カンナと住み込み職員の大神一郎が実戦さながらの組手を行っていた。
「ほらほら隊長。動きが遅いよっ!」
カンナの拳が大神の顔面を襲う。彼は間一髪でその拳をかわす。
耳元で拳が空を切る鋭い音がし、まともに当たったらと思うと背筋が寒くなる大神。しかも、これでまだまだ本気ではないというのだから驚きだ。
彼は、まるで隊員の前で無様な姿は見せられん、とばかりに、馴れぬ空手の技をどうにかあしらっていく。
劇団員とは表向き。カンナの実体は帝都を守る極秘部隊・帝國華撃団花組の隊員だ。
大神も表向きこそ劇場のモギリ係だが、本当は帝國華撃団花組の隊長を勤める海軍少尉。
しかし、対するカンナの方も「琉球空手桐島流第二十八代継承者」の肩書きは伊達でも飾りでもない。
剣道や柔道ではかなりの実力を持つ彼に全くひけを取らぬ体さばきで、次から次へと拳、肘、蹴りを放って大神を追い詰めていく。
「これでどうだぁっ!」
カンナがさっき以上に鋭く踏み込み、再び彼の顔面に拳をくり出した時だった。
大神は再び紙一重でそれをかわすと、彼女がたった今くり出した左手首を掴む。すぐさま右手で彼女の襟を掴んだままその場で半回転。さらにその勢いで、投げる!
「しまっ……!」
カンナは自分の両足が一瞬浮いたのを実感する。自分は投げられている。このままでは背中から地面に叩きつけられる。しかし――
彼女はとっさに足を曲げ、叩きつけられる直前に足から着地してふんばった。
大神も一瞬ぎょっとして動きが止まるが、カンナならこのくらいの無茶はするだろうとふんでおり、すぐさま右手を離してその拳を彼女の腹に叩き込んだ。もっとも寸止めだったが。
「わ〜い。お兄ちゃんの勝ち〜」
その勝負の一部始終を、ベンチに腰かけてずっと見ていたアイリスが嬉しそうな声をあげる。
本名をイリス・シャトーブリアンといい、フランス生まれ。彼女もカンナと同じ帝國華撃団の隊員だ。
舞台では子役として、戦闘の時は類い稀な霊力を駆使して立派に戦う大切な仲間である。
「カンナ、大丈夫か?」
大神は心配そうにカンナの顔を覗き込む。投げた本人とも思えない言動ではあるが、この辺りが彼らしいところだ。
実際、彼女は無茶な着地をしたために足が少し痺れていたのだ。
「あ〜あ、負けちまった」
悔しそうな中にも「しょうがないや」と明るく割り切った笑顔で答えるカンナ。
「あたいも柔道家と戦った事はあるけど、隊長は力がない分を動きの鋭さで補ってる。油断ならないって判ってたのになぁ」
ガックリとうなだれて、自身が負けた原因を分析している。
一撃必殺を信条とし、猪突猛進な性分のカンナではあるが、ただ突っ込むばかりでは強くなれない。きちんと相手の動きを「読む」事にも長けている。
「隊長にとどめを刺そうとして、いつもより強く踏み込んで一撃を放ったが故に体重が前に移動して、投げをかわすのが一瞬遅れたのが敗因だ」
アイリスの隣に腰かけ、同じく勝負の一部始終を見ていたレニ・ミルヒシュトラーセが淡々と分析する。
帝國華撃団のモデルケースであった星組の元隊員にして、この春から帝國華撃団の隊員となったレニ。
未だその言動には感情表現が乏しく、口数は少ないものの経験に裏打ちされた冷静な分析力には舌を巻く。
「その一瞬が命取りになった、か。やっぱり一撃を外されると弱いんだよなぁ、あたいは」
とほほ、と言いたそうに肩を落としたカンナは、自らの負けを認めた。
カンナ自身が負けを認めた事もあって、アイリスはさらに嬉しそうにしている。
そんなアイリスはいつものふわりとしたスカートではなく、水兵が着るような涼しげなセーラー服に膝丈のズボン。そんな服装にゴーグルをつけたヘルメットを冠っていた。
ついでに言うと、肌身離さず持っている「親友の」くまのぬいぐるみ・ジャンポールの姿もない。代わりにあるのは、風呂敷に包まれた四角い物体だ。
アイリスは手早くその包みを解く。出てきたのは小さめの重箱だった。
「勝ったお兄ちゃんには、これあげる」
そう言って重箱の中のいなりずしを掴んで彼に差し出す。
「アイリス。これ、どうしたんだい?」
不思議そうな顔で尋ねる大神は、重箱の中を覗き込む。そこには俵型のおにぎりやいなりずし。サンドイッチや卵焼きなどがところ狭しと並べられていた。
アイリスは済ました顔で、
「今日は、紅蘭のバイクでお出かけするんだ。だから、かえでお姉ちゃんに手伝ってもらってお弁当作ったんだよ」
かえでお姉ちゃんとは大帝國劇場副支配人にして、帝國華撃団副司令でもある藤枝かえでの事だ。
先代の副司令である姉・あやめのあとに着任し、姉に負けじと頑張っている。その容姿も姉にそっくりだ。
「へぇ。さすがかえでさんだ。器用なもんだねぇ」
大神と同じように重箱の中を覗き込むカンナがしみじみとうなづく。
「アイリスだってちゃんと作ったもん。このおいなりさん」
手に持ったままのいなりずしを得意げにかざす。しかしそのあと恥ずかしそうに、
「……油あげの中に、ごはん詰めただけだけど」
と小さな声でつけ加える。するとカンナはにやりと笑い、
「そうか。だからごはん粒がついてるんだな」
カンナは言うが早いか、アイリスの頬についたままのご飯粒をつまむと、口の中に放り込む。そんなカンナの態度に少しむくれると、
「もう。カンナにはあげないもん。はいお兄ちゃん。あーんして」
アイリスは大神に持ったままのいなりずしを食べさせようとする。
「え? な、何か恥ずかしいな、こういうの……」
「せっかくアイリスが作ったのに、食べてくれないの?」
表情が一転して、途端に悲しそうな顔で伏せ目がちにこちらを見上げてくる。
異性関係には決して明るくない大神は、こういった態度を取られると弱い。苦笑いしながらも意を決して口を開け、彼女の差し出した小ぶりのいなりずしを頬張った。
「……うん。おいしいよ、アイリス」
口をもごもごとさせながら言うと、アイリスもすっかり上機嫌になった。
「あら、アイリス。こんなところにいたの?」
そう声をかけてきたのは当の藤枝かえでだ。
「さっきから紅蘭が待ちくたびれてるわよ。今日は二人で出かけるんじゃなかったの?」
「はーい。それじゃ、行ってくるね」
いそいそと重箱を包み直すと、アイリスは元気よく走り去っていった。


「遅いで、アイリス。何しとったんや?」
サイドカーを取りつけた蒸気バイクのそばで非難するのは李紅蘭。彼女もまた、アイリス達と同じ帝國華撃団の隊員である。
生まれは中国だが、初めて日本に来た時に神戸にいたためか、関西弁をそのまま「日本語」として覚えてしまっている。
アイリス程の高い霊力は持たないものの、華撃団で使用する機材類の整備を一手に引き受ける、機械にかけては右に出る者のいない天才である。
自身も発明を趣味として日々様々な物を作ってはいるが、その大半は何故か最後には爆発してしまう。
そのため、紅蘭設計のこのバイクに乗るのは少々度胸がいった。
「何しとるんや。このバイクは爆発なんかせえへん。安心しい」
紅蘭はそう言っているが、アイリスは疑わしい目で彼女を見つめている。
アイリスは何か言いたそうにしていたが「これから楽しい小旅行が始まるのだから」と思い直して黙った。
それに、このバイクは彼女が作った物の中で、数少ない「爆発しない」物だ。
アイリスは重箱の入った風呂敷包みを抱えたままサイドカーに乗り込んだ。
「紅蘭。工具箱が入れっぱなしだよ」
足にぶつかった金属製の箱を見て、アイリスがぼやく。
「ああ。でも、そのまま入れておいてや。道中何があるか判らんし。道具があれば、万一の時に修理もできるしな」
足元が少々狭苦しく感じるが、足で動かして隅に追いやってしまう。
「紅蘭! アイリス!」
再びかえでの声がした。揃って振り向くと、彼女は大きな木製の鞄を手に持ってやってくる。
「はい。キネマトロン。もし何かあったらすぐに知らせるのよ」
これも紅蘭の発明品だ。遠く離れた相手とも姿を見ながら話す事ができる、言うなれば持ち運び式のテレビ電話といったところだ。
「あ、そやな。『供えあれば憂いなし』とも言うし」
紅蘭は一旦バイクから降りると、キネマトロンを受け取って、バイクの後部にしっかりとくくりつける。
それら作業がすべて終わり、紅蘭が再びバイクに乗ろうとした時、
「紅蘭。あなた、その格好……」
かえでが困った顔で首をかしげて何か言いかける。
「へ? このカッコがどうかしました?」
紅蘭はきょとんとした顔で、上から下まで自分の格好をしげしげと眺めた。
彼女もいつものチャイナドレスではなく、飛行士用のジャケットに丈のぐっと短いキュロット・パンツ。足には頑丈そうな編み上げブーツといったいでたちだ。
「年頃の若い子が、やたらとももを出すものじゃないわよ」
かえでが顔をしかめて指差すのは、丈の短いキュロット・パンツから伸びる彼女の素足だった。
かえでの態度は、この時代の日本に「足」を露出させる服装がなかったせいだ。強いて挙げるなら車夫や職人。祭りの神輿の担ぎ手などが股引を穿いていた程度である。
膝下ならば洋装の普及のおかげで抵抗感も少ないが、ももを出すのはまだまだ「はしたない」とされていた。
実際路面電車の車内禁止事項の貼り紙に「たばこのむこと」「たんつばはくこと」「ふとももだすこと」という文句があったくらいだ。
それを聞いた紅蘭も、苦笑いしてごまかす。
「ま、まぁ、うち中国人やさかいな。それに夏やし」
それから紅蘭はバイクに乗ると、
「ともかく行くで、アイリス。準備はええか?」
「うん」
アイリスはゴーグルをかけながら答える。紅蘭もヘルメットをかぶってゴーグルをかけると、
「出発や!」
「行ってきま〜す」
紅蘭謹製の蒸気バイクは、エンジンを唸らせて銀座を出発した。


二人を載せた蒸気バイクは、一路北を目指して進んでいく。
帝都郊外にある荒川放水路(現在の荒川)。そこにある岩渕水門を見に行くのだ。
明冶四十三年に始まった荒川の改修計画の一環で、昨年(太正十三年)完成したばかりの大きな水門だ。ゲート部分に、赤の錆び止め塗料が塗られているところから、別名を赤水門という。
この辺りより上流では「荒川」と呼ぶが、もう少し下流へ行くと「隅田川」と呼称が変わる。
洪水が起きた時に隅田川が氾濫しないよう、溢れる水を放水路の方へ逃がして下町が洪水の被害を受けないようにするという仕組みだ。
しかしその荒川放水路の本当の完成にはあと五年の歳月を待たねばならない。
どんな物であれ、完成したばかりの物というのは名所になりやすい。それは(当時は)帝都郊外に位置するこの地でも例外ではなかった。
アイリスは珍しい物を見に。紅蘭はその水門の仕組み見たさに向かう訳である。
無論、改良に改良を加えた紅蘭のバイクの試運転を兼ねて、である。銀座から岩渕水門まで直線距離にして約十五キロ。試運転にはもってこいの距離だ。
蒸気バイクのエンジンが軽快な音を立てて少ない車を追いこし、路面電車と平走する。
「う〜ん。蒸気エンジンの調子もええな。最っ高に吹けとる。大当たりや」
次々と後ろへ流れていく景色を見て、アイリスがはしゃいでいる。それを見た紅蘭は、
「うちが改良に改良を重ねた四気筒十六バルブのエンジン! ピストン部分の材質に軽量硬化の特殊合金を使って、エネルギー変換効率を三十パーセントアップ! 蒸気自動車にもひけをとらないパワーとスピード! 羽根さえつければ、間違いなく空も飛べるで!」
本当なのか勢いなのか。立て板に水を流すがごとくスラスラとマシンの性能を切々と語っていく。
だが、逐一話してみたところで、アイリスにはチンプンカンプンだ。でも、
「アイリスにはよく判らないけど、すごいんだね」
「せや。むっちゃすごいんやで」
二人の明るい笑い声を乗せて、蒸気バイクは走っていく。ところが――
「あ、あら? 妙なや……」
今まで響いていたエンジンの軽快な音が、急に壊れた蓄音機のように途切れ途切れとなり、妙にスピードが上がらなくなってしまったのだ。
「アイリス。一旦止まるで」
走っていた街道の端に寄って、蒸気バイクを止める紅蘭。
「どうしたの、紅蘭? また壊れたの?」
調子よく走って気分の良かったアイリスが、不機嫌そうに彼女を非難する。
「そんな筈ないんやけどなぁ。おっかしいなぁ」
紅蘭はアイリスの足元にあった工具箱を取り出し、首をひねりながら各部を一つ一つ点検していく。
だが、そうしている間に昼も近くなり、太陽はだいぶ高くなる。夏の強い日差しが二人に注いできた。
「ふう。暑くなってきちゃったね」
「あ、こらあかん。どこか涼しいところへ……」
額の汗を拭いつつどこからか地図を引っ張り出す。周囲をきょろきょろと見回して確認すると、ここが王子だという事に気がついた。
この地には古くから集落があり、江戸の昔、徳川家が日光へ行く際に使っていた岩槻街道が通っている。紅蘭達がいるのも、ちょうどこの岩槻街道だった。
王子には桜の名所・飛鳥山(あすかやま)があり、「王子の狐」という落語の舞台にもなるなど、江戸の昔から人々に知られた土地なのだ。
しかし、太正に入ってから郊外への人口流出や工場の移転等で次第に都市化が進んで、住宅地や工場があちこちに建っている。それはここからでも充分に判った。
住宅地や工場があるなら、部品の調達も何とかなりそうだ。それに、時計を見ればもう昼。修理と休憩も兼ねて、どこか日陰でのんびりとする事に決めた。
それをアイリスに話すと、アイリスも休みたかったようで快く承諾した。


じりじりと照りつける日差しの中、日陰を求めてバイクを押していく紅蘭とアイリス。
地図を見ると、少し先に大きな神社がある事が判り、まずはそこを目指して歩く事にした。
地図の上だと少々遠く感じたが、歩いてみるとそれほどでもなく、すぐにその神社に到着する。
いかにも由緒正しそうな、大きな鳥居。鬱蒼とした木々の奥に見える社が二人を出迎えた。
日本人ではない二人には知る由もないが、ここは日本神話でも有名な伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)・天照大御神(あまてらすおおみかみ)を奉った王子神社だった。
しかし、誰しも考える事は同じなのだろう。二人と同じく涼みに来ている人たちも多い。生い茂る木が適度に日の光を遮り、別世界のように涼しかったからだ。
二人は仕方なく、そこから少し離れた場所にある別の神社へ向かった。
細く急な坂をどうにか降りて行くと、すぐにその神社に到着する。
王子稲荷神社と書かれた石の碑が建ち、そこかしこに、神社に奉られた稲荷神の遣いとされる狐の像が並んでいる。
見れば、本殿へと続く石段の左手に小さな滝があり「稲荷の滝」と小さな立て札までついている。
石段の右手には小さな池があり、石橋の先には小さな社が建っている。
どこをとってみても、典型的な神社の様相であった。
だが、こちらの方が涼みに来ている人が多かった。水があるのでは涼みに来る人が多くて当たり前だろう。しかし、
「紅蘭。ここでお弁当食べようよ」
小さな滝が一目で気に入ってしまったアイリスの宣言で、紅蘭もここでひと休みする事に決めた。これ以上ダラダラと動きたくなかったというのが本音だが。
とりあえず蒸気バイクを邪魔にならない場所へ止め、二人ともゴーグルとヘルメットを脱ぐ。それから重箱を持って適当に座れそうな場所を探した。
だが、ここで問題が起きてしまった。
中国人である紅蘭はともかく、アイリスは生粋のフランス人。金髪碧眼の欧米人種である彼女は、日本では嫌が上でも目立ってしまうのだ。
元々人なつこく壁を作らないアイリスではあるが、周囲の日本人はそうはいかない。「外国人」というだけで近寄り難く、一種の恐怖感すら感じてしまうのだ。
実際、人々はこわごわと遠巻きに二人――どちらかといえばアイリス――を見ている。しかし、
「あれ、帝國歌劇団のアイリスちゃんじゃないか?」
「そうだよ! 一緒にいるの、紅蘭さんだよ!」
「え、ホント!?」
「間違いないよ。俺、この間の舞台、観に行ったもん!」
帝都を代表する大スターの来訪とあって、一転して大騒ぎになってしまったのだ。
先ほどまでのこわごわとした雰囲気はどこへやら。あっという間に十数人の人々に取り囲まれる二人。
「アイリスちゃん、かわいい〜!」
「紅蘭さん、こっち向いて〜」
「何しに来たの、アイリスちゃん?」
「紅蘭。手品見せて手品〜〜」
「サイン下さい、サイン〜〜!!」
もう誰が何を言っているのかも判らない程の喧噪が巻き起こる。
二人はまるでおしくらまんじゅうの「あんこ」のようにギュウギュウと押し潰されてしまった。
人々の過熱ぶりに嬉しさがこみ上げる反面、これではゆっくり昼食もとれない。アイリスは少しでも人垣から逃れようと、その場にぺたんとしゃがんでしまった。
そんな時、取り囲む人々の足の間からアイリスの目に飛び込んできたのは、すぐそばに立っている石造りの狐の像が人混みに押されて傾いてしまい、像のそばで尻餅をついてしまった子供の上に倒れてくるところだった。
「あっ!」
アイリスはとっさに霊力を発揮してしまう。
その霊力が産み出した超能力によって、その狐の像は子供に被いかぶさる直前に一瞬だけ止まり、急激に角度を変えて子供の脇に倒れた。
どすん!
その音でみんなが我に返り、音のした方を向く。
子供の脇に倒れている狐の像。それを見て親らしい大人が慌てて駆けていく。
もうダメだと思っていた子供はきょとんとして、呆然としたまま尻餅をついている。
お祭り騒ぎのような喧噪が一瞬にして静まり返った。
「大丈夫!?」
人垣をかき分け、アイリスが真っ先に駆け寄る。そのあとで紅蘭も続く。
「僕の上に倒れてきた筈なのに……」
親に抱きかかえられている子供は、唖然としたまま小さく呟いた。
周囲の人々がしん、と静まり返る中、
「これは……きっと稲荷神様がお助け下さったんじゃ!」
人垣の中にいた老人がそう言い切る。
その妙に説得力ある言葉を聞いたその途端、みんなが一斉に「ありがたいありがたい」とその場で段上の本殿に向かって手を合わせる。つられてアイリスと紅蘭も揃って手を合わせた。
「紅蘭。アイリス……使っちゃった」
アイリスは、紅蘭だけに聞こえるように小さな声でぽつりと言った。人前で霊力を使う事は堅く戒められているからだ。
人間というものは、こうした「他の人が持っていない力」を持つ者を恐れる。そうした力がある事が人々に知られたら最後、疎まれ、蔑まれ、恐れられて、一人になってしまう。
そしてそれは、アイリス自身も身をもって体験している事だった。
しかし、だからといってこういった状況を放っておけないのもまたアイリスの優しさだ。
「……紅蘭、怒ってる?」
ばつの悪そうな顔のまま、彼女は紅蘭を見上げる。ところが紅蘭はアイリスの頭をこつんと叩いたものの、
「人助けに使ったんや。怒るわけあらへん」
笑顔でそう言ったあと、
「それにしても、バレんでよかったわぁ。感謝や感謝」
二人揃って一層強く祈るのだった。
それから、倒れた狐の像を大人四、五人がかりで元の位置へ直す。それから狐の足元に、アイリスは重箱の中のいなりずしをちょこんと乗せて、手を合わせる。それを見た他の大人達も、再び手を合わせた。
(うるさくしちゃってごめんなさい)
アイリスは心静かに祈りを捧げていた。

<中編につづく>


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