『時にはTAKE IT EASY ! 前編』
『常識』というのは一つの宗教だ。
相良宗介は、時々そう感じることがある。
そもそも、ほとんどの宗教とはその教義により自己の行動を律し、精神的な高みを目指すものだ。
神にすがるだけの他力本願的な宗教でも、己の修行により煩悩を断とうとする宗教でも、根本的には同じだ。
ならば――『日本人の常識』のとおりに行動する人々は、『日本人の常識教』の信者ということになるだろう。
そもそも、『常識』というものは、たいてい宗教に端を発している。
そして、どんな宗教にも、狂信者はいるものだ。
『日本人の常識教』の信者にも、狂信者は少なからずいる。いや、かなり多いといってもいいだろう。
彼らにとって、『常識』とはイスラム教のコーランにも匹敵する最高の経典だ。
まあ、それはいい。問題は、彼らの信じる『日本人の常識』を守らない『日本人』を彼らが認めないことだ。
当然、彼らと同じ『日本人』でありながら『日本人の常識』を破る者には――狂信者による粛清の手が伸びる。いわゆる異教者の弾圧だ。
しかし。公共のマナーやルールは守らねばならないが、他の国の『常識』で生きている者を己の『常識』、すなわち『教義』と違うからといって弾圧するのは愚かな行為だ。
まあ、狂信者とは異教徒と邪教徒の区別もつかぬ者のことを言うのだろうが。
しかし、自分、相良宗介の周りにはそういう狂信者が異常に多いように思われる。
なぜか――本当に、なぜか! 彼らは俺の(きわめて常識的だと思われる)行動を弾圧したがるのだ!
たまたま、俺が育ったのが戦場で、故に自分は『戦場の常識』のもとに生きている。それでいいではないか?
そう――文化交流に来ていた他校の校長を、スパイだと思って即座に拘束・自由を奪ってから警衛兵に通報したとしても――誰が俺を責められようか?
俺を責める者は、外国に行ったら即座にその国の常識に染まることのできる、主義主張のない者なのだろう。己の文化に誇りを持つ者ならば、きっと俺の行動を理解してくれることだろう。
宗介は、心の底からそう思う。思うのだが――それが机上の空論だということもわかっている。
どんな理由があろうと、学校の評判を貶めた者は、ハリセンで吹っ飛ばされるのが定めなのだ。
――彼は、クラスメートの千鳥かなめにハリセンで吹っ飛ばされてから地面に激突するまでの数秒間に、そんなことを考えていた。


「ぜえ、ぜえ、ぜえ……」
千鳥かなめは、地面に叩きつけられ昏倒した宗介を睨み、荒い息をついた。
彼女の背後では、数人の教師が他校の校長の救出作業に当たっている。陣代高校の校長は、あまりのことに校長室に引きこもってしまった。
「まったく! ソースケはいっつも事態を悪化させるだけなんだから」
「まあそう言うな千鳥君。連絡を行き届かせていなかった、私のミスだ」
「ちゃんと、『今日、他校の校長が来る。失礼と機密漏洩の無いように』って言ってたじゃないですか?」
「相良君には顔写真を見せておくべきだった。彼なりに、今日という重要な日の平和を守ろうと努力したのだろう。くだんの校長先生も、『三秒以内に所属と姓名、職業を述べよ』と言われた時点で素直に従ってくれれば、ゴムボール弾を撃ち込まれずにすんだのだが……」
「無茶を言わないで下さい、無茶を」
かなめが苦笑する。
確かに、いきなり殺気だった男子生徒にそんなことを言われても、うろたえる以上のことができるかどうか。
「まあいい。勝手に校内を徘徊しないように、という警告を無視したのは向こうだ。危ういところで銃刀法違反は発見されていないようだからね」
「そ、そーいう問題ですか?」
「そのとおりだ。相良君の行動は適切だったよ。一人の例外を許せば、蟻の穴から堤が崩れるように学校の秩序は崩壊する。今回は、『警備システムの誤作動』ということにしておこう」
「はあ……」
かなめは、宗介の格好をしたロボットが無表情に警備をしている姿を思い浮かべた。まあ、実物とあまり差はないような気もするが。
「生徒会長! 校長を縛っている縄がほどけません! プロ並の技術で縛られています!」
「ふむ……剣道部の主将に妖刀・鬼沫死剣(きまつしけん)を持って来るように伝えてくれたまえ。学生にとっては恐るべき名刀だ」
「ちょっ――縄を日本刀で切るつもりですか!? 一緒に校長も斬っちゃうかもしれませんよ?」
例の校長の救出作業にあたっていた生徒への林水の返答を聞いて、かなめはとりあえず突っ込んだ。
「好つご……いや、尊い犠牲だな」
「『好都合』も『尊い犠牲』も間違ってます! 縛られている人を助けるために縄を切るんでしょう!? その人を斬っちゃったら本末転倒じゃないですかっ!」
「ふむ……。いやはやまったく、冗談のわからない人間だね、君は」
「なんか納得したような『ふむ……。』ってなんですか!? それに、冗談だと思って欲しいのなら普段から常識的な行動をとっていてくださいっ! はあ、はあ……」
だんだん酸欠を起こし始めたかなめを、林水はどこ吹く風といった様子で眺めた。
「さて……やはり一番妥当な解決策は、相良君を起こして縄を解いてもらうことだな」
「……最初からそうすればよかったじゃないですか……」
などとぼやきつつ、かなめは気絶している宗介に接近した。
だが、すでに意識を取り戻していたようだ。宗介は、どこかよろけた足どりで起き上がった。
「ソースケ。ちょっと、あの人の縄を――」
かなめの言葉は、そこで途切れた。
彼女の鼻先30センチの位置に、微動だにせぬ銃口があった。無論――その銃を持っているのは宗介だ。
「ちょ、ちょっと――?」
「黙れ」
かなめがうわずった声をあげると、宗介が――普段より目を険しくした宗介が鋭い声で制止する。
「怪しい女め、近寄るな。両手をあげろ。身体検査をさせてもらう」
かなめはわけもわからず両手を肩の位置に上げる。宗介はそれを確認してから、開いた左手を彼女の服、胸元のあたりに伸ばした。
がしっ。
「何!?」
神速ともいえる動きで――かなめの手が宗介の左手を掴んだのは、次の瞬間であった。
「なにやろーとしてるのよっ! この……痴漢!」
銃を撃つ暇はなかった。かなめのハリセンが袈裟懸けにクリーンヒットし、宗介は地面に叩きつけられる。からからと音を立てて、宗介愛用のグロッグ19が床を滑ってゆく。
「馬鹿な……俺を一撃で倒すなど、貴様、何者……!」
「何者!? いまさら何を言うつもりかと思えば! 見損なったわよ、ソースケ!」
「……誰だ、それは?」
宗介の意外な一言に――周囲の空気が凍りついた。
「……は?」
「その、『ソースケ』とは誰だと言ったのだ」
「えっと……相良宗介、つまりあんたのことだけど」
「俺? いや、俺は相良宗介などという……相良宗介……?」
よほど意外だったのか、宗介は愕然とする。それからしばらく考え込み、
「俺は……俺は、誰なんだ!?」
「………………マジ?」
長い沈黙の後に……かなめはとりあえず、それだけを言った。新たな騒動の到来を確信しながら……


「ウルズ7が記憶喪失!?」
その情報は、<レイス>を通じて瞬く間に<ミスリル>上層部へと伝わった。
その報告を聞いて――最も動揺したのは、この人だった。
「ぬうおぉぉっ、抜かった!」
「どうかしましたか、マデューカス中佐?」
リチャード・マデューカスの上げた凄絶な呻き声に、アンドレイ・カリーニンが少々身を引きつつ訊く。
「ウルズ7――相良宗介軍曹はすでに<ミスリル>には欠けてはならない戦力となっている」
「まさか、<ラムダ・ドライバ>搭載のASが、また……?」
カリーニンの表情が険しくなる。
<ブラック・テクノロジー>の産物である<ラムダ・ドライバ>システム搭載のASに、通常兵器は役に立たない。
<ラムダ・ドライバ>搭載機に対抗できるのは、<ラムダ・ドライバ>搭載機のみ。
そして今のところ、<ミスリル>唯一の<ラムダ・ドライバ>搭載機<アーバレスト>を操縦できるのは、相良宗介軍曹ただ一人なのだ。
もしも、宗介が記憶喪失に陥っているというこの状況で<ラムダ・ドライバ>搭載機がテロ行動を始めたとしたら……大変なことになる。
だが、カリーニンの予想は完全に外れていた。
「違う、大佐殿だ! 彼女が『動く』絶好の口実を作ってしまった……!」
「……そういえば、大佐殿は今新型OSの視察に東京にいましたな……だが、クルツとマオがいるので、心配はないでしょう」
「気休めはよしたまえ。こんなことなら、クルーゾーをつけていればよかった……!」
「……」
珍しく感情をあらわにするマデューカスを見て、娘を嫁に出す直前のガンコ親父を連想したのは、カリーニンだけではあるまい。


一時間後、宗介のマンションにて。
「困った……」
「そうね……これからどうしようか」
「……なぜ、君までここに居座るのだ?」
宗介が、不思議そうにかなめに問いかける。
あのあと、縛られたままの校長は放っておいて、宗介とかなめは下校したのだ。
宗介の家に連れて行く、と言ったら、彼は意外にもあっさりと承諾してくれた。
『どこに連れて行く気だ。そこが俺の家だという保証はどこにある。罠にでもかけるのではないか?』
ぐらいは言われると思ったのだが……
(もしかして、戦争バカが治ってる……って、こと?)
いや……いきなり銃を突きつけられたことを考えると、『戦争バカ化』進行中の状態と言ったほうが正しいかもしれない。あれほどのボケを、後天的に獲得できるかには疑問があるが。
記憶喪失について、かなめに詳しい知識はないが、行動する原理そのものが変わるのだろうか?
彼が、平和ボケだがトラブルを起こさない、そして傭兵などではない、危険な任務もしない、普通の日本人になれるのだろうか……?
(だとしたら、記憶喪失のままでもいいかもしれない……)
かなめはちらりと、宗介を盗み見る。
先ほどからしきりに首をひねっている彼からは、常に周囲の危険に気を配っている傭兵の印象はまるでない。
かなめのことも忘れているようだが……悪印象はもっていないらしい。
「不思議だ……思い出そうとしても……」
(思い出さなくても……いいかもしれない)
彼女の脳裏によぎるのは、宗介が『任務』に出かけている時の不安感。彼と共に生きる日常が、明日にでも壊れる危険性があるという恐怖。
宗介がいないと、どこかぽっかりと穴が開いたような妙な違和感を覚えるのだ。あるべきものがない。いるべき人がいない。
もう……宗介はかなめの日常にいるべき存在、いなければ寂しい存在になってしまったのだ。
彼の記憶が戻らなければ、『任務』に行かないですむ。遠く離れた戦場で、孤独に死ぬことも……無い。
自分勝手な考えだ、とは思う。
<アーバレスト>を動かせる唯一の人間、つまりは宗介がいなくなれば、<ミスリル>は今後の戦いで苦戦を強いられるだろう。クルツやマオ、テッサの危険も思い切り跳ね上がる。
そもそもかなめの護衛という任務がなければ宗介が陣代高校に通う必然性がない。かなめの近くにいる必要もない。
それに、かなめはテロリストに狙われる身なのだ。平穏な生活など、テロリストが壊滅するまで訪れはしない。
それでも――
「ねえ、ソースケ……ソースケは、なにもかも思い出したい?」
かなめは、宗介を振り向いた。が――
「不思議だ……どうして目をつぶっていても、銃の分解整備ができるのだろう」
言葉どおりのことをしながら真顔で問いかけてくる宗介を見て、かなめは全身の気力が萎えてゆくのを感じた。
「む!?」
次の瞬間――宗介が、銃を放り出して突っ込んできた。抱きつくようにタックルし、窓から離れた地面へ押し倒す。
「危ない、狙撃銃が――!」
「きゃああっ!? 行動原理変わってないし!?」
(すでに戦争バカが骨まで達していたんかいっ!)
かなめが慌てて、宗介を押し退けようとした時――何の前触れもなく、ドアが開いた。
宗介が、素晴らしい速さで銃を抜く。さっき整備していたのとあわせて、二丁持っていたらしい。
その銃口の先には――驚愕の視線でこちらを見つめるクルツとテッサ、そしてマオの姿があった。
考えるまでもなく、彼ら三人の目に自分たちはどう映っているのかかなめには予測できた。
「……邪魔したな」
と、クルツ。
「さ、テッサ。ちょっとおねーさんと喫茶店で時間を潰しましょう」
と、マオ。
「そんな、かなめさん……不潔です、反則です!」
と、テッサ。
「違ーうっ!」
宗介を跳ね飛ばして、かなめは絶叫した。


「……なるほど」
マンションの向かいにある、マンションの屋上で。
<レイス>は、ライフルを片付け始めた。
十分前に、彼には極秘の任務が与えられていた。
その内容は『記憶喪失中の相良宗介の能力を確認せよ』である。結果は、<レイス>から見ても合格であった。一瞬の内に、こちらの射線から逃れたのは見事の一言に尽きる。しかも、意識しての行動ではないだろうが<エンジェル>をかばっていた。
「記憶がなくても、本能は傭兵のままだということか……役に立たないようならあのまま射殺してしまおうかとも思ったが」
一瞬、どこにでもいそうなオバサンに見せかけるための変装マスクの狭間、唯一の『素顔』である瞳が酷薄な光を宿した。
しかし、『狙撃用ライフルの入ったボストンバッグを抱えて殺気を放っている、どこにでもいそうなオバサン』という光景は、非常に不自然かつ間抜けであった。


「つまり……」
テッサは、軽い衝撃を受けたようによろめいた。
「なーんにも、覚えていないんですか?」
「どうやら、そのようだ」
シンプルな答え。だが……いつもの、上官に対する言葉づかいではない。記憶を失っていることで、テッサが上官だということも上官への対応の仕方も忘れ去っているのだろう。
さらに言えば、テッサはまだ自分の階級を記憶喪失後の宗介に明かしていない。ただ、友人のテッサと自己紹介したのみだ。
「マッカラン大尉のことも? ガウルンとかいうテロリストのことも? 一緒にすごした、あの夏の日の甘い思い出も?」
最後のセリフに、かなめの耳がぴくんと反応する。だが、かろうじて問いただすのをやめたようだ。
「ふむ……テッサ、とか言ったか。俺と君とは、結局のところどういう友人関係なのだ?」
宗介の言葉を聞いて、テッサのほおが少し赤くなる。
「ああ、そういうふうに呼んでもらえるなんて、嬉しいです……もう一度、呼んで下さい……」
「? テッサ……か?」
「もう一度……」
「テッサ」
「もう一度……」
その瞬間、ついにかなめの忍耐ゲージが底を尽いた。
「ええい、長々とミョーな雰囲気作るんじゃないわよっ!」
叫んで、テーブルを叩く。テッサがちょっと涙目になった。
「そんな、怒らなくても。こう見えても、サガラさんの記憶を戻すように深層暗示を……」
「どう見ても、何も知らないソースケを洗脳しているようにしか見えないわね」
「洗脳ではありません! クリアーかつフリーな友人関係をですね……」
「素性を隠しておいて、クリアーな関係もないもんだわ」
激しく口論を続ける二人を見て、宗介の額に冷汗が浮かぶ。
「よくわからんが、非常にまずい事態のようだな……」
「適切な状況認識だわ」
マオがしみじみと感想を言う。
「ほら、なんか言ってやれば? あんたを取り合って争ってんだからさ」
「ふむ。俺をかけて争っている……のか? 言っておくが、俺を雇うには相応の報酬がいるぞ」
「黙ってなさい!」
余計なことを言った宗介の脳天に、かなめのハリセンがヒットする。宗介はしばらく頭を抱えて悶絶していたが、
「そうか……たった一つだけ、思い出したぞ」
「ええっ!? なにを?」
宗介は堂々と宣言した。
「平城京遷都は794年だ」
「優先順位が低い上に間違ってるっ!」
かなめの怒り(と言うか、ハリセン)が炸裂し、宗介は壁まで吹き飛ばされた。
「優先順位は低くないと思うのだが……」
壁に叩きつけられたまま、不服そうに言う宗介。
「でも、かなめさんのハリセンで記憶が少し戻ったと言うことは……ショック療法が効く、ということですね」
ショック療法とは、記憶喪失の患者に施す最もポピュラーな治療法である。
まあ、たいていの場合、物理的ショックよりも精神的ショックの方が有効なのだが……
「なるほど……」
深く肯くかなめを見て、何か危険を感じたのか、宗介がじりじりと後退する。
「って、逃げなくていいってば。……やっぱり、記憶喪失のままじゃ駄目よね」
しみじみと呟くかなめに、テッサが哀しそうな表情を向けた。
「……気持ちはわかります。わたしもさっき、このままサガラさんが私の階級を思い出さなければいいのに、と思いましたから。でも、私はなによりも先に戦隊長です。サガラさん一人のために他の隊員の死亡率を引き上げるような真似は、できません」
「それは、そうだとおもうけど……でも、記憶が戻らなかったら『任務』はできないんでしょ?」
その時、宗介が口を挟んだ。
「……俺の記憶が戻ったら、何か不都合があるのか? 俺になにか脅迫される材料を知られているとか」
べしん!
かなめのハリセンが再び宗介を打ち倒した。
「どう!? 何か思い出した?」
半ばやけくそでマオが問うと、宗介はゆらりと立ち上がり、右拳を固めて顔の前に掲げた。
「……キング・オブ・ハートの名のもとにっ!」
すると、宗介の拳にトランプのハートマークと王冠をあしらった紋章が浮かび上がった!
「それ、誰の記憶だぁっ!」
かなめが宗介を張り倒すと、宗介の拳から紋章が消え、目の焦点も元に戻る。
「ふむ……なぜ、別人格の記憶が出てきたのだろう」
「惜しいなあ……あのままなら、石破天驚拳とかできたかもしれないのに……」
クルツが悔しそうな顔をするが、誰も聞いてはいなかった。
「さて、どうする? やっぱり、このままショック療法を続ける?」
「そういえば……」
そのとき、クルツが当然のように言った。
「病院ではなんと言われたんだ?」
それを聞いて、かなめと宗介が顔を見合わせた。
「あ。そういえば、病院に行ってなかったっけ」
「おいおい」
「とりあえず、CTスキャンをかけてもらいましょう」
そういう訳で、一行は病院へと移動した。

<後編に続く>


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