「Baskerville FAN-TAIL -prototype-」
周囲に何もない街道を歩く一人の男がいた。
ボロボロの黒い外套に身を包んだ十代後半の小柄な男である。
手入れのされていないバサバサの黒髪が彼の表情を隠しており、外套の下は黒い拳法着。
「……腹減った」
街道の先に小さく見えてきた、旅人相手に商売をするイン(食堂兼宿泊所)を恨めしそうに睨みつけた。
当たり前の反応である。彼の路銀はほぼ底をついており、一番安い食事——コップ一杯の水と堅パン二枚が買えるかどうかの額しか残っていない。
「半分くらい、売ってもらえねぇかな」
ほぼ無謀としか思えない一縷の希望にすがりつつ歩を進めた。
もちろん、彼——旅の武闘家バーナム・ガラモンドの「一縷の望み」はもろくも砕け散った。


街道を行くのは徒歩の旅人だけではない。町と町の間を行く乗合馬車という物がある。
物によっては荷物を運ぶついでに人を乗せるタイプも多く、布教の旅を続ける牧師オニックス・クーパーブラックも、そんな乗合馬車に乗る一人であった。
旅用の牧師の礼服と綺麗な外套に身を包んだ青年であり、容姿端麗というよりは人懐こさが表情ににじみ出た親しみやすいタイプである。
彼の隣で手綱をとる馭者は、
「牧師様。この先のインで少し馬達を休ませますので、その間お食事をされてはいかがでしょうか」
「わかりました」
オニックスは馭者にそう答え、自身も街道の先を見つめる。
その先には確かに安普請のインがある。昔から建っているであろう事が、あちこちのヒビや汚れから見て取れる。
しかし。インに到着した時に、その建物の前でひっくり返っている黒い人影は、どう見ても典型的な光景とは思えない物だった。
「またですか……」
だいぶ困った顔で黒い人影を見るオニックスの言い方は明らかにその黒い人影——バーナム・ガラモンドの事を知っている風であった。
「……メシおごれ」
「何度目の金欠ですか」
地面にひっくり返ったままのバーナムに声をかけられたオニックスは、実に冷ややかに言い切った。
「何度言っても【節制】という言葉を理解しない方に差し伸べる手はありません」
そしてインの中に足早に入って行く。もちろんバーナムを残して。
「ふざけんじゃねぇ、インチキ牧師が」
本当は叫びたかったが、その元気もないバーナムは枯れた声で呟いただけだった。


インで休憩を終え約二時間乗合馬車を走らせて着いたのは、シャーケンという港町であった。
この国では首都に続いて二番目に大きな町であり、港町だけあって海産物が非常に有名である。
乗合馬車はここで海産物を乗せ、また元の町に戻って行く。
お礼を言って乗合馬車を降りたオニックスは、懐から封書を取り出した。

『現役も引退したし、娘も大きくなった。
 隠居する前に久しぶりに会いたいものだ
            ドム・バンビール』

そんな短い手紙が彼の元に届いたので、この町にやって来たのである。
この町に来るのは五年ぶりになるが、町の様子はちっとも変わっていない。
彼は五年ぶりの懐かしさに浸りたい、しかし旧友に一刻も早く会いたい、そんな相反する気持ちを抱えたまま通りを歩いていた。
「きゃああっ!」
前方から聞こえてきた鋭い悲鳴で思いにふけっていた頭が覚醒する。
するとオニックスに向かって男が駆けて来るのが見えた。
明らかに男の物とは思えないカバンを鷲掴みにし、必死の形相で駆けて来るのだ。
「どけぇっ!」
周囲の人間を怯ませる形相と怒声。
しかし彼は慌てず騒がず外套の下に隠し持つようにしている「日本刀の」鞘を掴む。そして、
「ぐうっ!?」
ひったくり男とオニックスがすれ違った直後、男は苦悶の表情を浮かべながらよろよろと二、三歩歩き、そのまま地面に倒れた。
すれ違いざまに柄の先端——柄頭(つかがしら)を男の脇腹の急所めがけて叩きつけたのである。
「この広い町のどこかで、必ず誰かがはた迷惑な騒動を引き起こし、巻き込まれる。
だからこそ、ここへ来れば——どんな職種であれ——仕事にあぶれる事はない、とまで云われている」
誰が言い出したのかもわからないそんな謳い文句が思い浮かんだ。確かにその通りの町だと。
そこへ更に駆けて来たのは警察官の制服を着た若い女性だ。おそらくまだ二十歳そこそこの、おそらく新人だろう。
彼女は倒れている男に意識があるのを確認しながら、鷲掴みにしていたカバンをもぎ取る。
そこへよたよたと歩いて来た老婆に、
「このカバンはあなたのですか?」
「は、は、はい。ここ、こちらの牧師様が……」
老婆はオニックスを見て「この人が助けてくれた」とばかりに微笑む。女性警察官もカバンを老婆に渡しながら、オニックスに頭を下げて礼を言う。
その時にチラリと見えた、外套の下の日本刀の柄を見て、
「あ、あの。つかぬ事を伺いますが、もしやオニックス・クーパーブラック牧師では?」見知らぬ筈の女性にいきなり自身の名を問われ、さすがの彼も一瞬慌てそうになってしまうが、
「日本刀を持つ牧師なんて、そう何人もいないでしょう。父から聞いています。わたしはドム・バンビールの娘で、グライダと申します」
「えっ、そ、そうなのですか?」
何とも嬉しい驚きである。この何が起こるかわからないのも、この町の魅力なのだ。


「世話になった。ホント感謝する!」
安普請のインの食堂の小さなテーブルに、うず高く積み上げられた皿の山の奥から聞こえた喜びの声。
当然皿を舐めつくすように平らげた結果である。男の小柄な身体のどこに入って行ったのかを調べたくなる学者はきっと多いだろう。
その様子を目の当たりにしていた初老の男は、
「バーナムさんと言いましたね。武闘家という方は皆こんなに食べるのですか?」
バーナム。先ほどインの前で行き倒れのように倒れていた旅の男である。
それを見かねた初老の男が食事代を持ってくれたおかげで、こうして久しぶりの食事にありつけた。感謝しかない出来事だが、それにしても食べすぎである。
「……ああ。俺はまだまだ修行中だからな。燃費が悪ぃんだ」
わかるようなわかりたくないような大食いの理由。バーナムはテーブルに両手をつき、更にテーブルに額をつけるように頭を下げた。
「今時一宿一飯の恩義なんて流行らねぇかもしれねぇが、俺にできる事があったら何でも言ってくれ」
一飯はともかく一宿は提供していないのだが。男の笑顔が苦笑いに変わる。
「今後困っている人がいたら、助けてあげて下さい。それで充分です」
そう言って初老の男は立ち上がる。その時バーナムは初めて彼の姿をよく見てみた。
白髪交じりの短い髪。特に特徴のない容姿の唯一の特徴である立派な口ひげ。
着ているのは警察官の制服で、腰には確か高官だけが下げられる刃渡り三〇センチほどの警察正規品の短剣がある。
視線を上げると左胸についた階級章のピンバッヂが見えた。それは高い階級を示す金色で、その下には名前が書かれている。
《DOM BANVILLE》
高い階級の警察官であるドム・バンビールは、
「私はこれから町へ帰るが、君はここに泊まっていくのかい? 町へはもうすぐだが」
するとバーナムは申し訳なさそうに頭をかくと、
「いや。宿代まで借りを作るわけにいかねぇからな。歩くか、野宿でもするよ」
ドムはバーナムの発言を聞いて「そうか」とだけ呟くと、店から出て行った。


オニックスとグライダは並んで町を歩いていた。
「そうでしたか。昨年お母様を亡くされたのですか」
グライダから話を聞いたオニックスは、小さく口の中で祈りの言葉を呟く。
死因は殺人。厳密には強盗殺人。真正面から心臓を一突きで殺されていた。
警察は強盗殺人で捜査しているが手がかりは全くない。
だが不思議な事に部屋はメチャクチャに荒らされてはいたが、無くなっていた物は全くなかったのだ。もちろんグライダはそこに疑問を持って上に訴えた。
しかし組織の縦社会。上からの決定に意義や不満はあってもそれをおいそれと覆せる訳がない。
「それでも父の同期の方には相談しているのですが、やはりこういう組織ですからなかなか……」
「同期の方、ですか」
同期の名はスズエ・ド・ナーカン。階級は同じだが部署が違うそうで、代々貴族のためか誰にでも尊大な態度をとる人物だ。
加えていろいろ後ろ暗い噂の絶えない人物でもあるので、部下からはあまり好かれるタイプではないという。
グライダが話の続きをしようとした時、手で「ちょっと待って下さい」と合図する。
彼女は耳のイヤホンに手を添えてじっと立っている。どうやら無線に何か連絡が来たようだ。
そしてその連絡が終わったようだ。
「牧師様。本当は部外者には他言無用なのですが……」
グライダは周囲を警戒しつつ声をひそめて話を続ける。
「警察署からの連絡でボルド・ルニックという殺し屋がこの町に来ているという情報が入りました。わたしは警戒に入ります」
微妙にぎこちない敬礼ののち去って行ったグライダの背中を見送るオニックス。
「この広い町のどこかで、必ず誰かがはた迷惑な騒動を引き起こし、巻き込まれる」
再び思い出したそんな謳い文句。どちらにもならなければいいと思いつつ。
二時間後。シャーケンの町外れにて、ドム・バンビールの遺体が発見されるまでは。


被せられた帆布をそっとめくり、遺体を確認したグライダは、さすがに涙をこらえる事ができなかった。
昨年の母に続いて父もこんな形で喪うとは思ってもみなかったからだ。
騒ぎを聞いて宿から駆けつけたオニックスもグライダのかたわらに立ち、静かに鎮魂の言葉を呟いている。
「……死因は真正面から心臓を一突き。母と同じ殺され方だったそうです」
検死をした検死官から聞いた事をグライダが話す。
母親に続いて今度は父親まで。しかも殺され方も同じ。何らかの理由で馬から降りたところを一突きされたのだろうとの事だった。
「そういえば検死官が父の右人差し指に土がついていたと。地面に何か書いていたようです」
死の間際犯人に繋がる何かを書き残す、ダイイング・メッセージというものだろうか。
「何か書き遺していたのですか?」
「それが……人差し指の先には凹みが五つ並んでいただけだったそうです。もう何が何だか……」
確かにそれだけでは何を書きたかったのか、何を伝えたかったのかわかったものではない。
だがオニックスは違った。今際の際に人差し指が書いたであろう「五つの凹み」。

 ● ● ●
 ● ●

それが何かわかったからだ。
その時、周囲の野次馬達の声がすっとかき消え、人垣がさっと割れた。
何故かはすぐにわかった。殺気である。隠そうともしない殺気が周囲の人間に恐怖感を与え、そうしたのだ。
割れた人垣に目をやると、全身黒ずくめの小柄な男がゆっくり歩いてくるのが見えた。
オニックスはその男を見て、
「バーナム。いったい何をしに来たのですか?」
いきなり現れた男と顔見知りな事に少し驚いたグライダは、
「な、何かご用ですか? 関係ない方は……」
その声はわずかだが震えていた。新人警察官にとって、この殺気は耐えも流せもしないだろうから無理もない。
バーナムはドムが地面に書き残した(?)らしい「五つの凹み」をちらりと見て、
「ドム・バンビールっておっさんが殺されたって聞いてな。ついさっきたらふく食わせてもらった恩人だ。関係なくはねぇよ」
感情を押し殺した低い声で彼が答える。
無茶苦茶でしかない理屈だが、次の言葉にはグライダが驚いた。
「別れ際『困っている人がいたら、助けてあげて下さい』って言われててな。あんたが困ってるって言うんなら、助けなくもない」
親を殺されているのだから、困っていない訳がないのだが。そんな思いでぽかんとしてしまうグライダ。
「後ろから心臓を一突きにするやり口は結構あるが、こんな町外れとはいえ目撃者がいないって事はプロの仕業だろ。こういう殺し方をするプロで有名なのは……」
その直後バーナムの口から出てきたのは、先ほど知らせがあった「ボルド・ルニック」の名であった。
「なぜあなたがその名を!?」
「有名だからだよ。とはいってもこの国じゃそうでもないかもしれねぇが」
グライダの疑問にバーナムはサラッと答える。
そして人垣の向こうに目をやった。そこには位の高い人間が乗っていそうな立派な馬車が見えた。
バーナムと視線を合わせたくないようなタイミングで、その馬車は走り出した。
「おい。紋章で鈴が入ってるお偉いさん、思いつかねぇか?」
バーナムの視線は、もう角を曲がって見えなくなっても馬車の方を見続けていた。
「鈴ですか? 父と同期のスズエ・ド・ナーカン殿の紋章がそうですが」
「そんな偉い方の馬車が、どうしてこんな場所に?」
グライダとオニックスの疑問に、バーナムは足元の石をカツンと蹴り飛ばすと、
「その馬車に乗ってたんだよ、ボルド・ルニックの野郎がな」
もう関係あるとしか思えない。たとえなかったとしても殺し屋をかくまう奴はブン殴っていいと自身の勘が言っている。
バーナムは野次馬を視線だけでどかし、馬車が消えた方へ歩いて行った。


夕暮れ時の人通りの絶えない町を、バーナムはズンズンと歩いていく。殺気は先ほどよりは収まっているが、それでも周囲の人をひるませている。
「どこへ行くつもりですか?」
さっきからバーナムの後ろを着いてきていたオニックスが、不意に声をかける。
「何してんだ。てめぇはとっとと葬式の準備でもしてろ」
オニックスの方を振り向かずにバーナムはそう答えた。そして続けようとした時に、
「その前にやる事がありますよ」
音量はないがキツイ口調で、オニックスは言った。
「昔、大ケガをしたボクを助けてくれたのが彼なんですよ。あなた同様敵討ちに行く理由は充分だと思いますよ」
そう言いながら、外套の下で自分のわき腹にそっと触れる。治療の時の彼の温もりを思い出すかのように。
「……若干物騒な単語が聞こえましたが、ここで止まるなら聞かなかった事にしますよ」
何と。二人の後ろにグライダが着いてきていた。
「敵討ちなら両親を同じ人間に殺されたわたしに一番の権利がありますよね?」
グライダが握っているのは、父であるドムが下げていた、刃渡り三〇センチほどの短剣。
「それにあなた方ではスズエ・ド・ナーカン……の屋敷は知らないでしょう」
一瞬「殿」をつけようとして止めた、怒りを押し殺した声。
バーナムとオニックスは顔を見合わせる。これは放っておいても着いてくるか独自に乗り込んで行きかねない。
その時、自分達の周囲の景色が一変した。
夕暮れの町並みから何もないが純白でキラキラとした謎の空間に。
そして「三人の」目の前にいきなり現れたのは、全身を覆うマントを纏った女性の姿だ。マントはもちろん顔も金属でできている。
だが、そのマントの左胸の部分に記されている五つの丸印。それはドム・バンビールが遺したとされるダイイング・メッセージと同じだった。
『人々ノ願イガ頂点ニ達シマシタ』
金属でできた女性は、大人の低い声と幼女の高い声が混ざった声で話し出す。
『世ヲ正スタメ、ばすかーゔぃる・ふぁんているタルアナタ方ノ出動ヲ要請シマス』
バーナムとオニックスの視線が謎の女性に向けられる。それを見たグライダは、
「えっ、な、何、これ、どうなってんの、それにバス……って何!?」
聞きたい事が後から後からあふれて言葉になっていない。
そんなグライダを見て驚いていたバーナムとオニックス。バスカーヴィル・ファンテイルでない筈のグライダが、ここにいる筈がないのだから。
すると金属の女性が静かにグライダの方を向くと、
『我ハこーらん。世界トばすかーゔぃる・ふぁんているトヲ繋グ使者。数多ノ人々ノ祈リヤ願イヲ受ケ止メ、ソレヲ現実ニスルヨウ働キカケル者デス』
「相変わらず上から目線で人使いが荒いな」
バーナムの文句に答える事なく、コーランと呼ばれた金属の女性の話は続く。
『コノしゃーけんノ町ノ貴族ニシテ警察情報局長すずえ・ど・なーかんハ、ソノ役職ヲ悪用シ、邪魔ナ人物ヲ左遷モシクハ殺害シ、従ウ者ヤ使エル者ハ大金デ懐柔シ、自分ニ都合ノイイ組織作リヲシテイマシタ。従ワズ懐柔デキナイ警察警備局長どむ・ばんびーるハ一番ノ邪魔者』
父の名が出てきて、グライダの表情が一瞬こわばる。
『どむ・ばんびーるニ警告、モシクハ心ヲ折ルタメ、妻ヲ殺害。シカシソレデモ折レナカッタタメ本人ヲ殺害。コレガ事件ノ真相デス』
当然グライダは信じられない、という表情である。
好かない人物だったとしても、そこまで堂々と不正を働いていた事。自分のわがままを満たすためとしか思えない事。いきなり言われては信じられなくて当然だ。
だが過去の彼の振る舞いを思うとつじつまも合うし筋も通る。納得できてしまうのだ。
「コーランさん、でしたね」
しばし無言の時間が流れた後、グライダが静かに口を開いた。
「わたしも行っていいんですよね?」
『コノ場ニイルトイウ事ハ、ばすかーゔぃる・ふぁんているタル資格ガアルトイウ事。ゴ自由ニドウゾ』
コーランはマントの中から右腕を出し、ドムの形見となった短剣にそっと触れた。
すると刀身が鞘ごとスルスルと伸び、立派な長剣の長さに変わった。
驚きながら鞘から剣を抜くと、その刃は炎のような赤い色をしていた。
自分の燃え上がる復讐心、相手を許せぬ怒りの炎。それが具現化したような赤であった。
『アナタガ警察式ノないふ格闘術ガ得意ナ事ハ知ッテイマスガ、長剣ガ武器ノ方ガ戦イニナリマス。ソチラモオ得意デショウ』
確かにグライダは訓練生時代にナイフ格闘術で指導教官から何度も褒められている。
けれど普通の剣も扱えないわけではなく、そちらも充分立派な腕前である。
『報酬ハイツモ通リ、成功シテカラ支払ウ。諸君ラノ健闘ト任務遂行ヲ祈ッテイル』
紋切り型の文句を言いながらコーランの姿が薄くなり、周囲の白に溶け込んで消えた。
そして周囲の風景は元のシャーケンの町中に戻る。道行く人々はこれまでの事に気づいてすらいない。
いきなり風景が戻った事に驚いているグライダに、バーナムが遠慮なく声をかける。
「おい。そのスズ……の屋敷ってドコだよ?」

<To Be Continued>


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