トガった彼女をブン回せっ! 第8話その3
『あなたを助けに来た者です』

スオーラ達が戦う侵略者にして人類の敵・エッセとは、動物などの姿をし、たいがいはオリジナルよりも巨大で、体表は金属のような物で覆われている。もしくは金属でできている。
そして口(もしくはそれに準ずる部分)からガスを噴射。そのガスを浴びた者は彼等の体表のような金属へと変質する。そしてそれ「のみを」捕食する存在。
しかし、決まった共通の姿を見た事がない。現れるのは必ず一体。そして同じ「姿」で二度現れた事もない。
今回はよりにもよって「バッタ」である。長く強靱な後ろ足が特徴の昆虫。その足で自分の体長の何十倍も高くジャンプする事ができる。
もし生き物の大きさが総て同じ大きさだったら。最強は間違いなく昆虫類だろうという人もいる。昆虫には硬い殻とその体長・体格からは信じられない力を発揮するのだ。
実際スオーラの目の前にいる巨大なバッタも、その一メートル近い体長を活かしてか、車のフロントガラスをいとも簡単に突き破ってしまっている。
いくら寸胴の身体といっても、頭が通ったから全身が通り抜けられるという訳ではなく、六本の脚をガシガシとガラスや車体に擦ったりして、何とか車の中に侵入しようと試みている。
スオーラは強靱な後ろ足に蹴られないよう気をつけて真横からバッタに飛びつくと、その胴体を力一杯抱き締めるように締め上げた。
[早く逃げて下さいっ!!]
スオーラは力一杯そう怒鳴る。それで我に返った運転手は、悲鳴を上げながら運転席から転げるように這い出てきた。
小さな女の子を拘束していた男も、彼女を放り出して車側面のスライドドアを開けて同じように車から転げ出る。
ガリガリガリガリッ!
その途端、巨大バッタの前足がガラスを擦る音が大きくなった。まるで何か目標を見つけたように張り切り出したかに見える。
バッタにしがみつきながら車の中を見たスオーラは目を見開いて驚いた。思わずバッタを拘束する腕の力がゆるんでしまったほどだ。
なぜなら。先程まで男に拘束されていた幼い少女が逃げていない。巨大バッタの姿に怯え、へたり込んで動けなくなっていた。
泣き出さないのが不思議なくらいにその表情からは不安と恐怖とが溢れ出している。だが泣き出してしまうのも時間の問題だろう。
スオーラはゆるんでしまった腕にもう一度力を込めると、フロントガラスからどうにか引き抜こうと踏ん張る。
ここは強引でも力技でいくしかない。魔法を使えば間違いなく、車の中の少女を巻き込んでしまう。スオーラはその一心で力を込めた。
すると巨大バッタの胴体がぷくっと膨らんだのだ。バタバタしていた足の動きまで止まっている。
その様子にスオーラの顔色が変わった。これはきっと予備動作だ。物を金属へと変えてしまうガスを吐くための。
そのためスオーラの腕に、脚に、これまで以上の力がこもる。このままでは目の前で取り返しのつかない事が起きてしまう。
目の前の少女が金属に変えられてしまう。もう二度と元に戻れない金属の像に。
この金属の化物・エッセと戦う力を授かった以上、もうそんな犠牲者を一人たりとも出したくない。その一心で全身に力を込める。
それでもこの場で戦えるのは自分ただ一人。変身して身体能力が上がっているとはいえ今の彼女は魔法使い。力技となると普通の人よりはマシというレベルでしかない。
でも、不向きだろうと苦手だろうとやるしかないのだ。
そうして引っぱり続けているスオーラの気持ちが勝ったのか。フロントガラスにめり込んでいたエッセの頭がズボッと引き抜けた。その勢いのままスオーラの身体は地面に転がるように倒れこむ。もちろんエッセを掴む腕は決して離さないまま。
それと同時に、上を向いてしまった頭がガスを噴射した。物凄い勢いで。それは間違いなく物を金属へと変えてしまうガス。間一髪間に合ったのだ。
そのガスも空気中に拡散して薄れると、その恐怖の効能も薄れて消える。とりあえずの危機は去った。あとはこのエッセをしとめるだけだ。
だがその力は凄まじい。外見からは信じられない力を発揮するのが昆虫類の特徴。それがこの大きさにスケールアップして発揮されている。
スオーラに胴体を掴まれたまま、必死の形相(?)で自由になっている脚を動かし、フロントガラスに空いた穴を目指しているのだ。凄まじい力である。
だが。
「なっ、なんだありゃ!?」
「化物だぁぁぁぁーーーーーっ!」
いくら日曜日で人も車も少ないとはいえ今は日中。人も車も「通らない」訳ではない。たちまち悲鳴と大声が上がり、注目の的となってしまう。
本当なら自分がこうして押えている隙に、誰かが車の中の少女を助け出してほしいのだが、通りすがりの普通の人間にそこまで頼るのは虫がよすぎるか。
いや。普通の人間ではこのバッタの姿に恐怖してしまうだろう。その隙に攻撃をされたら。結局犠牲者を増やしてしまう結果になるだけだ。
それだけじゃない。このバッタの少女ではなく周囲の野次馬達に向かったら、いくらスオーラでも対処し切れない。
バッタのジャンプ力や飛行能力をこのサイズにスケールアップしたと仮定すると、自分一人の力では追いつく事すら難しいだろう。だからこそ、この場で仕留めなければならない。
しかし自分の魔法をここで使っては被害がますます広がってしまうだけだ。威力が強すぎるし、魔法のない世界で魔法を使うのは充分注意しろと言われたばかりだ。
エッセの動きを止めながらしばし頭を巡らせる。だがエッセの方は相変わらずだ。それしかできない訳でもあるまいに、ただひたすらに車の中の少女を狙おうとしている。
何度も何度も穴に飛び込んでいるためか、次第にフロントガラスのヒビも大きくなり、そのうちガラスを壊して車内に飛び込んで行くだろう。それは絶対にまずい。
一か八か。スオーラはそう判断すると、バッタから腕を離した。
もちろん諦めた訳ではない。彼女はすぐさま車を回りこんで、開けっ放しの側面のドアから車内に飛び込んだ。
[大丈夫ですか、お怪我はありませんか?]
子供を落ち着かせるように、しかし早口の日本語で語りかけるが、少女は目の前の巨大バッタに怯えるだけでスオーラの方には反応をよこさない。
スオーラはそのまま少女を両腕で抱きかかえると、一気に車の外に飛び出した。同時にバッタの視線が自分――それと、抱きかかえている少女に向いたのをはっきりと確認した。
[こっちへ来なさい!]
挑発するようにそう怒鳴ると、彼女は助走もなく地面を蹴った。その身体は矢のような速さで高く舞い上がり、学校のフェンスの上に軽やかに着地を決めた。下にいた野次馬から「おおっ」という感嘆の声が漏れる。
バキバキバキッ!
突進し続けていた巨大バッタのエッセは、とうとうフロントガラスを粉砕。そのまま車中に飛び込んでから、スオーラと同じように側面のドアから車外に飛び出す。そして、
バッタの跳躍力でフェンスの上にいるスオーラに一気に襲いかかったのだ。もちろんスオーラはそのジャンプを軽くかわしてみせる。
(理由は判りませんが、何としてでもこの少女を襲いたいようですね)
かわされても避けられても、ただひたすらに懸命に、それこそ一途に少女を狙ってくる。それならば――
[……そう。そう。こっちです!]
フェンスの内側の留十戈(るとか)学園高校のグラウンド。幸いにしてここで部活をしている生徒はいないようで、がらんとしている。
スオーラは少女を両腕で抱えたままグラウンドに降り立ち、走り出した。当然エッセも同じように追いかけてくる。
「…………おねえちゃん?」
今まで怯えて黙っていた少女が、ぽつりと口を開いた。スオーラは少女の不安そうな表情を見てから、
[大丈夫ですか?]
「う、うん。おねえちゃん、だあれ?」
当然の疑問だろう。スオーラはエッセから懸命に避けながら、しかし少女を不安にさせまいと笑顔を作ると、
[わたくしは……あなたを助けに来た者です]
そこにエッセが飛びかかってくる。しかしスオーラはその間合いを完璧に把握していた。エッセが触れる直前に加速。さらにその勢いで高く跳躍。飛び込んだ場所からほとんどグラウンドの反対側にある、必要な道具などがしまわれている倉庫の屋根に着地する。
そこで少女を下ろして戦おうとしたが、何とエッセは地面に着地して再びあのガスを吐く予備動作を始めていた。脚を踏ん張り羽まで広げて胴体をぷくっと膨らませている。
このままではこの倉庫が「金属に」変えられてしまう。エッセの体表の「金属」に変えられた物体は、人類にとっては加工も再利用も不可能な「邪魔者」でしかなくなってしまう。
それはさすがにまずい。いくら戦いの為という大義名分があろうとも、学校にも迷惑をかける訳にもいかない。
スオーラは自分のかたわらに少女をそっと下ろして自分の背中に隠す。それから自分の豊かに膨らんだ胸に右手を当て、ぐいっと「押し込んだ」。
すると右手が身体の中にずぼっと入り込んでいく。やがて引き抜いた右手が持っていた物は――古そうな分厚いハードカバーの本だった。
彼女はその本を素早く開き、その中の一ページを破り取ると、エッセめがけて投げつけた。同時にエッセもガスを強く吐き出す。
バチバチッ!
投げつけたページは光の網のように大きく広がり、エッセが吐き出したガスを総て受け止め、あまつさえ跳ね返してみせた。倉庫は無傷である。
「す……すごーい! 魔法だーー!」
その「魔法」を目の当たりにした少女が驚いている。魔法という物がない世界で初めて見た「本物の」魔法。驚かない訳がない。
だが、その驚きの意味がガラリと変わる。巨大バッタが一直線にスオーラに飛びかかってきたからだ。もちろん目当ては彼女の後ろの少女だろう。
しかしスオーラは慌てずに、もう一度別のページを破り取った。そしてそれを今度は、自分にぶつかる直前でページを掲げてみせる。
ガツンッ!
まるで見えない壁に当たったかのように、巨大バッタの動きが空中で止まる。それだけではない。顔面から胴体、そして羽、六本の脚と、全身が凍りついていっているのだ。
そう。物を凍らせる魔法の力である。
だがこれはスオーラの魔力を多量に消費するし、制御するための精神力や体力も激しく消耗する。
術の威力としてはそう高い物ではないらしいのだが、おそらく向き不向きがあるのだろう。
もちろん火炎や電光といった魔法も使えるが、それは派手過ぎるか、威力が大きすぎて無駄に被害が広がるし人目も引いてしまう。そう考えての事だ。対象がもっと巨大ならそれでも良いのだが。
スオーラの額に汗が滲み息も荒くなった頃、ようやくバッタの全身が凍りついた。この間1分もなかっただろう。だがそれでも彼女はとても消耗していた。
だが、二メートルほど下の地面に凍りついたエッセが落下。その衝撃でエッセの全身が粉々に砕け散った時、彼女の消耗した顔の中に確かに笑顔が浮かんでいた。
自分のなすべき事をしっかりと成し遂げた喜びの笑顔。と同時にその場にガクンとしゃがみ込んでしまう。
「おねえちゃんだいじょうぶ?」
少女が心配そうにスオーラの肩を激しく揺する。スオーラはゆっくりとした動作で、激しく肩を揺する少女の手にそっと触れた。壊れてしまいそうな柔らかく、温かい、小さな手。
確かに自分が守り抜いた命の温かさ。そんな温もりのある小さな手だ。
《チスニキチカラナキラツチニモチトナ。ノイキチクチースニモチトイミーノチ?》
疲労の為「日本語」に変換するのを忘れていた言葉。キョトンとする少女を見てそれに気づいたスオーラは慌てて言い直す。
[あ、有難うございます。ケガはありませんか?]
今度は日本語だったためか、キョトンとしていた少女の顔がぱあっと明るい笑顔になる。
「うん。おねえちゃんありがとう」
「ありがとう」。
そのたった一言の言葉がスオーラの心と身体に積もっている疲れを、あっという間に吹き飛ばしてしまう。そんな気持ちを感じたスオーラ。
この世界で初めて人前で戦い、皆から言われた言葉。感謝の心。それである。
それが自分に信じられない力をくれる。それを改めて実感しているところだった。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ…………
空気を震わせる、何やら鈍い音が聞こえるまでは。
スオーラが音の方に目をやると、そこには細かく砕け散った巨大バッタ型エッセの遺体――の破片が次から次へと小型バッタ(正確には本物サイズ)に変わっていくところだった。早く変化を終えたバッタがスーッと羽を広げてこちらに向かってくる。
今度はスオーラの表情が一転。再び厳しい表情になると、とっさに自分の背に少女をかばう。
しかし、一旦ゆるんだ気持ちを立て直すのは歴戦の兵士ですら難しい。やり終えたと安堵した気持ちを引き締めようとするが、上手くいかない。
そんな焦りの中、飛びかかってきたバッタの一匹が、少女ではなくスオーラの手に喰いついたのだ。それも本を持ったままの右手を。
文字通り皮膚に突き刺さるバッタの顎。その痛みに本を掴む手が緩みかける。
だがそこは仮にも何度もエッセとの実戦を重ねているスオーラ。痛みを堪え緩みかけた手に一層の力を込めて本を掴み直す。むしろその本でバッタを叩き落とそうと振り回し出したほどだ。
しかし相手は次から次へと襲いかかってくるのだ。少女ではなくスオーラ自身を。
だから彼女の全身は、あっという間にバッタにたかられてしまっていた。長い髪も、奇妙な服も、そこから覗く素肌も、全部にバッタが食いついている。
痛みそのものは鋭いが耐えられないほどではない。だがそれも全身、しかも何百というバッタが噛みついているのだ。すぐに限界が来るだろう。
スオーラは背後にいる少女を巻き込むまいと、視界のおぼつかない中で少女から離れようと数歩歩く。
[身体を丸めて、伏せて下さい!]
だがそれでも自分が守らねばならない少女に声をかける。しかしそうやって口を開けた途端、バッタは彼女の口の中にまで入ってこようとする。
必死に唇を、そして歯を硬く閉じて体内への侵入だけはかろうじて防いだが、とうとう限界が来てしまった。
特に右手に走ったその強い痛みに、たまらず本を取り落としてしまったのだ。しかも本は、自分が立っている倉庫の屋根ではなく、その遥か下の地面に向かって落ちていく。
とっさに手を伸ばすスオーラだが、無数のバッタに阻まれて指先届かず。本はそのまま地面に落下。そして、スオーラに飛びついていたバッタの大群は一斉に離れ、一目散に……そう、我先にと今度は本に群がっていく。
その本のページから自分達を苦しめる魔法が生まれる。それならその本を無くしてしまえばいい。
そんなアイデアが生まれたのかそれとも何かの本能的な勘か。それはスオーラにも読み取れない。
しかし。何十いや、何百というバッタが本を食べ尽くそうとしている。共食いするような勢いで。それだけは理解できた。
ようやくバッタから解放されたスオーラをチラリと見た少女は、声にならない悲鳴をあげる。
それはそうだろう。彼女の全身いたるところから細く血が滴っているのだから。着ていた服も噛み切られてボロボロの穴だらけ。毛先の揃っていた綺麗な髪も乱れに乱れ、毛先もチグハグになっている。
さすがにまだ難しい事態が理解できる年齢ではないが、自分を守ろうとしてこうなった事は判る。少女は今にも泣き出しそうであった。
ところが。そんなボロボロのスオーラは、夢中になって本を噛み砕いているバッタ達を見下ろしているだけだった。
それを確認すると、穴だらけになった上着の袖のボタンを外した。そして袖を少しまくりあげる。
すると袖の裏に隠しポケットがあり、そこに何かの紙片が挟まっていた。彼女はそれを器用に引っぱり出す。
スオーラの魔法は身体の中から取り出した本のページを破り取り、魔力を注ぎ込む事で発動する。従って、破り取っただけではただの紙同然。
そのため、万が一本を奪われたり紛失した時の為、いくつかの魔法のページを別に取っておいたのである。
もちろんこのページを使う事にためらいがない訳ではない。これから自分がやる事は、もしかしたら自分で自分の首を絞める事になるかもしれないからだ。
だが自分の真下には倒さねばならない敵がいる。自分の後ろには守りたい小さな命がある。
その二つの想いが、彼女に強い決断をさせた。
取り出したページを広げ、いつもやるように魔力を注ぎ込む。一見何も起こっていないように見えるが、遥か下の地面に落ちた本の周囲に、ぽつり、ぽつりと小さな赤い点が浮かび上がっていく。
その赤い点から細い光が走り、別の赤い点を結んでいく。次々と。
いつの間にか、赤い点と赤い線で本の周囲が囲まれてしまっていた。もちろんバッタはそれに気づかず本を――そして時々仲間の身体を貪り続けている。
《VEPDA》
かろうじて聞き取れる不思議な言葉を呟くスオーラ。その表情はまさしく「苦渋の決断」を思わせる重い雰囲気の物だった。
その不思議な言葉が漏れると、本を取り囲んでいた赤い点と線の内側――そう、まさしく結界と表現すべき空間の中が真っ赤な炎に包まれたのだ。
取り囲んでいる空間はそれほど広い訳ではない。無数のエッセ達は炎から逃れようと押し合いへし合いしながら結界の外へ逃げようとしたり、結界を噛み砕こうと顎を駆使しているが、互いの身体をガリガリと擦るだけで全くの徒労に終わっている。
そうしているウチに炎は結界の中で竜巻のようなうねりを上げ、温度を一気に上げていく。
一般的な鉄の融点は千五百度。沸点は二千八百度と云われている。
エッセの身体は一般的な鉄でできている訳ではないが、それでも結界内部は相当な温度になっているようで、胴体や手足が飴のようにとろけ出している者もいる。とろけた手足がくっついて身動きが取れないままもがく者もいた。
声を出す事ができないのか悲鳴が全くないのが不幸中の幸いだ。もし声を出せるのなら極めて残酷な光景になってしまっていただろう。
鉄ですらこうなる高温である。その中心にあった紙でできた本など、とっくの昔に灰はおろか、その灰すら「蒸発して」いるやもしれない。
スオーラの世界における魔法は、魔法の発動方法が人それぞれ異なるだけでなく、一人で複数の発動方法を持つ事ができない法則がある。
彼女はあの本のページを実体化する事でしか魔法を発動できない。その「本あってこそ」のものだ。つまりその本がなくなってしまえば――魔法を使う事ができないのだ。
破り取った本のページであればゆっくり休息を取ればそのページは回復する。しかし本そのものが無くなってしまった場合でも、ゆっくり休息を取れば本が復活するかは判らない。
下手をすれば彼女はもう二度と魔法を使う事ができない。それを理解しての「決断」だったのだ。
これが最期の戦いかもしれない。スオーラはそんな思いで自分に残った魔力を術に注ぎ込む。だが制御が大変な魔法を立て続けに使っていたためか、凍らせる魔法を使っていた時以上に疲労しているのが自分でも判る。
一体でも厄介極まりないエッセを何十何百という数にしてしまったのだ。それは明らかに自分の戦い方のミスである。
おまけに昭士やいぶきの助力は得られない以上、ここで一網打尽にしておかねばならない。
彼女を支えているのはもはや意地以外の何物でもない。失敗すれば、文字通りもう後がないのだから。
だが。逃げ場のない場所でどんどん温度が上がり続ける炎を浴び続けては、さしものエッセも無事ではいられなかったようだ。
金属と結界が激しく擦れる音が、次第次第に小さく、そして途切れ途切れになっていくのが、屋根の上からでも判る。
それでもスオーラは先程のように油断する事なく気を緩める事なく。それこそ過剰なくらいの炎を浴びせるつもりで術に集中し続けている。
「なっ、何ですか、これは!?」
下から聞こえてきた驚く女性の声。その声でスオーラは術を少しだけ解いた。結界内の炎の勢いが弱まる。
そうして下を見ると、そこに立っていたのは以前この世界の警察署内で会った女性警察官だった。あの時と違って制服姿ではなかったが。
その後ろには彼女に付き添うように体育教師の峰岸(スオーラは名前は知らないが)がいる。きっとスオーラを追いかけてきたのだろう。
それから、スオーラが見た事もない若い男が一人、必死の形相で走ってくる。
[離れて下さいっ。まだとどめを差した訳ではありませんっ!]
スオーラは慌てて倉庫の屋根から飛び下りる。スオーラの身体能力を知らない婦警と峰岸が驚いて駆け寄るが、スオーラは難なく地面に着地。結界内の様子を見に駆け寄る。
叫んだり飛び下りたりした事で術への集中が途切れてしまい、炎はもちろん結界も消えていた。
幸いにしてバッタ型エッセの方は完全に消滅していた。金属が溶けるどころか「蒸発する」高温だったようで、こうして側に立っているだけで火傷しそうな熱気がまだまだ渦巻いていた。
その熱気で行く手を阻まれていた婦警がスオーラを見て、
「すごいケガじゃない! い、今救急車を……」
[わたくしは大丈夫です。それよりも倉庫の上に、エッセに狙われていた女の子がいます。彼女を助けてあげて下さい]
服も食い破られて肌も血まみれのボロボロの姿で「大丈夫です」と言われても説得力はないが、言葉の後半に驚いた婦警は相当に慌てた様子である。
スオーラは肌に突き刺さるような熱気がまだ残る中、結界の中心に足を進めた。やがてそれらしいところまで来るとしゃがみ込む。
そこには無論何もない。何も残っていない。金属が蒸発するような高温の中で無事でいられる本が存在する筈もない。
ページだけならゆっくり休めば復活する。もしかしたら本もそれよりずっと長い時間をかければ復活するかもしれないが、完全に「消滅」した物が復活するかどうかは判らない。
覚悟を決めたとはいえ、後悔が全くないかと言えばやはりウソになる。しかしエッセは完全に滅んだ。自分は確かに一つの命を守り切ったのだ。
戦いは終わったのだ。スオーラはようやく大きく息をついた。
ところが。
スオーラの頬に鈍い衝撃が走った。完全に気を抜いていたので身体が回転しながら倒れていく。
「娘をどこへやった、誘拐犯!」
怒りに満ちた、むしろ怒りしかない男の怒号。硬く握った拳を打ち下ろしたまま鬼の形相でスオーラに怒鳴ったのは、峰岸の後を走っていた見ず知らずの若い男だった。
「お、落ち着けお前。この人は……」
慌てた峰岸が男を止めに入るが彼はそれを振り解き、倒れたスオーラの胸ぐらを掴み上げて起こそうとする。
「さあ立て! 娘はどこだ! 出せ!」
「あ、パパ!」
倉庫の屋根の上から少女の声が聞こえる。彼女は倉庫の側に立つ大きな木にピョンと飛び移ると、器用に枝を伝って下りてくる。
「パパーーーッ!」
地面に下りた少女は、笑顔を浮かべて男に駆け寄っていく。
「パパ、パパ。このおねえちゃ……」
少女の言葉は途中で遮られた。
鋭い音と共に。

<つづく>


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