トガった彼女をブン回せっ! 第6話その5
『……よく帰って来たな』

そういった事も含めて明日また考えようという事になり、この場はお開きとなった。昭士とスオーラは鳥居が手配したパトカーに乗っている。同じく顔見知りの門山(かどやま)という私服警官――刑事も一緒である。
自分の世界よりも遥かに進んだ高い技術で作られているのが丸判りのそのパトカーのスタイル・内装に、さしものスオーラも目を点にして驚いていた。
そんな風にきょろきょろと見回してばかりのスオーラを見て、運転席に座った鳥居が、
「何だ。あっちの世界とやらには車がないのか? あんなごつい車運転してきたクセに」
「あ、ああ。ああれは特別。ほほ、本当は百年くらいは前の、すすっごい、ふ、古い、ヤツ」
「ふーん。フォード何とかとかいうヤツか?」
鳥居の頭にも「自動車黎明期」の頃の車の姿が浮かび上がる。
《あ、アキシ様! この車とても早いです。それにほとんど揺れません。すごいですね》
これでも相当速さを抑えているのだが、最大時速五十キロが精一杯のスオーラの世界基準からすれば信じられないスピードなのには間違いない。それから揺れの少なさも。
窓の向こうに流れる景色の早さにガラスに貼り付き、年甲斐もなく目を輝かせているのがよく判る。景色に夢中になる幼い子供のようにも見えて、何となく心が微笑ましい温かさで一杯になる程に。
《この世界にはエッセを倒すために何度か訪れた事がありますが、こうしてゆっくりと景色を見るのは初めてです》
「えっ、そ、そ、そうだったの!?」
さすがにその言葉には驚く。
《わたくしが一人ムータを授かり戦いを続けていました。あの戦いの直前に残りのムータを賢者様からお預かりしてこの世界に来て、アキシ様達と出会ったのです》
その出会いは最悪だったろう。出合い頭に竹刀の一撃を受けて昏倒してしまったのだから。それも顔面に。
《夜なのにとてもきらびやかで明るい街なのですね。まるで昼間のようです》
昼間のようというのは大げさかもしれないが、ガス灯の明かりしか知らない人間からすれば、きっとそう見えるだろう。
彼女はこの世界の人間ではない。逆にこの世界の事ならあらゆる事が「驚き」に違いない。そういった意味では「幼い子供」と同じなのだ。
その「教育係」も同じの昭士。プレッシャーはいかばかりかと思っていたが、それほど気負った様子がない。
それは傍若無人のワガママ暴力女と世間で認知されている妹いぶきに振り回され、暴言暴力を振るわれているおかげで、女性に対する接し方がかなり淡白だからだ。
「どうせ女なんて」とどこか割り切っている。もちろん全ての女性がそうではないと判っていてだ。
だが男の方を優先して親切にしているという事は全くない。ちゃんと親切にするべき状況では性別に関係なくどちらにもきちんと親切にしている。
内面外見含めこれだけの美少女に様付きで呼ばれ頼られているのだ。自分で大丈夫だろうかと緊張したり、良いところを見せようとして調子に乗ったりするのがたいがいの男というものである。
幸か不幸かそれがない。そこが安心できる部分でもあり、同時に不安な部分でもある。鳥居はバックミラーから見える後部座席に座る二人を見て、そんな事を思った。
ふとその時、助手席に座っていた私服警官の門山が右手を懐に伸ばす。取り出した手にあったのは携帯電話。
「はいこちら門山……あ、これは所(ところ)さん!」
門山の声が緊張の為わずかに強ばり、背筋がピンと伸びる。それを聞いた昭士の表情も「嫌な予感がする」と少し曇った。
「はい。……はい。今一緒ですが。これから自宅へ……。はい、判りました。伝えておきます」
その短いやりとりで電話は切れた。
「昭士君。おじいさんが君の家で待ってるそうだよ」
やっぱり、と昭士はガクッと首を倒す。嫌な予感大当たりである。
昭士の祖父――所 修伍(ところ しゅうご)は、正確には母方の祖父だ。隣の市の警察署で署長を務めている。
だからいぶきの「悪行」で被害を被っている一人と言える。警察官としてはそれなりに優秀らしいのだが「自分の孫娘もろくに躾できないのか」と、悪い評価が先行してしまっているのだ。
別に署長の権力でいぶきのしでかした事を揉み消している訳ではなく、時にはいぶきを一晩留置所に放り込んだ事もあった。その時にはそんな風に責める人ですら「やり過ぎです」と眉を顰めた程だ。
しかしいぶきが「その程度で」反省する訳もなく。これが地方の小さな市でなければとっくに署長を首になって交替させられているだろう。
特に厳格とか怒ると死ぬ程怖いとかそういう事はないのだが、昭士は申し訳なさからあまり会いたいとは思っていなかった。


パトカーが昭士の家の前に停まる。別にサイレンを鳴らして走ってきた訳ではないので、辺りは静かなものである。
それに祖父やいぶきの事があるので、この近所の人ならばここにパトカーが停まった程度で騒ぐ事はもうない。
昭士の家はこじんまりとした三階建ての家だ。といっても一階部分はほとんど駐車場スペースになっているので、間取り自体は二階建てと大差ない。
暗くてよく見えないがそんな建物を見たスオーラは首を上に向けたまま、
《ここがアキシ様の家ですか?》
「う、うん。せ、せ、狭いでしょ」
あちらの世界でスオーラの家の「別荘」を見ている事もあり、こんな狭い庶民の家にお嬢様の彼女がどんなリアクションをするのか。昭士はそちらの方が気になってしまった。
別に卑屈になっている訳ではないのだが、やっぱり生まれや育ちの差というものは言動の端々に出てしまうものだから。
スオーラは一通り周りを見渡してから、
《集合住宅や商業施設でもないのに二階以上の高さがある建物は、こちらでは珍しくないのですか?》
「……え?」
昭士の予想を越えたスオーラの問いかけに、昭士は本気で驚いて聞き返してしまう。
《わたくしはこうした建物に関する知識はありませんが、三階以上の建物は作るのがとても難しいと聞いています。その難しい建物がこんなに沢山、それも一般家屋にまであるなんて。この世界の技術は相当進んでいるようです》
本心から感心した言葉がもれるスオーラ。放っておいたらずっと上を見上げていそうな雰囲気がある。
しかしそれは玄関が開いた事で中断された。そこに立っていたのは祖父・修伍だ。定年間近の年齢ではあるが、それを感じさせない若々しいキビキビとした歩みで昭士の前に来ると、
「話は母さんから聞いた。……よく帰って来たな」
まるで小さい子を誉めるように、彼の頭に手を乗せて優しくそう告げる。もちろん母さんとは昭士の母親であり、自身の娘だ。それから背の高いスオーラをやや見上げるように、
「この方が別の世界から来たというお嬢さんか」
ふとその視線が険しいものになった。まるで犯人か否かを見極めようとする時のように。警察官の習性、のようなものだろう。彼女を上から下まで観察してから、
「……服装に関しては気に入らぬが、お嬢さんそのものは信用できそうだ」
修伍の判断を「年寄りだから」と決めつける事もできないだろう。
この世界でのスオーラの姿は、割と身長のある大人の女性。冷たい雰囲気のある美人だが、育ちのいい品の良さがにじみ出ている、と言えばいいのか。
だがその服装が問題だ。
カラフルと言えば聞こえのいい、縫製パーツごとに全然色の違う丈が短い長袖のジャケット。その下は白いスポーツブラのようなもの一つきりでくびれた腰や形のいいへそが丸見えである。
下はマイクロミニの黒いタイトスカートで、少し動いたらパンツが見えてしまう長さだ。脚には脚線にピッタリとした革のサイハイブーツ。
初めて見た時に「昔のロックだかメタルだかパンクだか」と言った人がいたが、修伍の年齢からすれば若い頃に見た「不良少女」そのものと言ってもいい格好だ。
モデルのような抜群のスタイルと相まって、外見だけなら「真っ当な」職業の人間には見えないだろう。白いマントも込みで。
それでもスオーラ自身は信用できそうだと見抜いたその眼力は、さすがベテランの警察官といったところだろう。
「それから鳥居君に門山君。いつも面倒をかけているね。そちらの署長にも礼を言わねばならんな」
年若い二人に対し、深く頭を下げて感謝する修伍。所属が違うとはいえ遥か上の階級の人間にそこまで頭を下げられ、若い二人の方が逆に恐縮して畏まってしまう。
「で、では、我々はこれにて失礼致します」
かなり緊張した口調でぎこちなく敬礼をする鳥居に頭を下げる門山。修伍も「うむ」と一言小声でうなづいている。
その様子を見たスオーラが、小声で昭士に訊ねた。
《アキシ様。あれは一体何なのですか?》
「あ、あ、ああ。けけ『敬礼』っていう、け警察がやる……あ、あ、挨拶みたいな感じ」
昭士も祖父から「組織によって多少は違う」と前置きされて聞いた話だが、屋外もしくは帽子を被っている場合、右手を帽子横のボタンに当てるように挙手する、いわゆる一般的に云われる「敬礼」。屋内や帽子を被っていない場合は、単に上体を少し傾ける「おじぎ」。
だから制服制帽の鳥居は敬礼をし、私服警官の門山はおじぎをしたのである。
そんな二人が慌ててパトカーに乗り込むのを見届けた修伍は、
「昭士。そのお嬢さんを家に入れなさい」
そう言うと自分がすたすたと家に入ってしまった。昭士もスオーラに「こっち」と促して中に入る。
この家は一階部分のほとんどが駐車場スペースになっており、一階には家の入口しかない。そこから狭い階段を上がり、二階に上がると本来の玄関があるという構造になっている。
「ここ、ここで、くく靴を脱いで」
昭士が土間で靴を脱ぎ、隅の方に靴をどかす。それから来客用のスリッパをひょいと出して床にポンと置いた。
「ここ、こっちのスリッパっていうヤツに、はは履き替えるんだ」
《靴を脱ぐのですね。ちょっと待って下さい。この靴は脱ぐのが難しくて》
サイハイブーツは太ももくらいまで高さがあるから、確かに脱ぎ履きはしづらい。彼女の物は脇にファスナーが付いているが、それでも少しヒールがあるせいか片足になるとふらふらしてやりにくそうである。
そもそも彼女の世界では、靴を脱ぐのは寝る時くらいだそうで、家に入るたびに脱ぎ履きはしないという。おまけにこの姿は「変身した」姿。この靴を脱いだ事は本当に数えるくらいしかないという。
それでも何とか脱ぎ終わったブーツを壁に立てかけるようにして置いたスオーラは、昭士に言われた通りスリッパに履き替える。
《これはサンダルよりも軽くて履きやすいですね》
さすがにスオーラの世界にもサンダルはあったようだ。何となくホッとしている昭士に、修伍が部屋の中から首だけ出して、
「何をやってるんだ昭士。早く来なさい」
昭士は「こっち」とスオーラの手を引くようにして六畳の和室――角田家のリビングに案内する。
そこには修伍を含めた一家が全員座卓についていた。
まず修伍。それから父・克央(かつひろ)に母・さくら。彼等に向かい合うようにして座らされているいぶき。その隣に座布団が二枚並んでいる。
昭士は部屋に入る時にスリッパを脱ぐよう言うと、スオーラは素直に従う。いちいち脱ぎ履きする事に少々面倒という感想は持っていたが。
昭士はいぶきの隣にちょんと正座したが、スオーラの方は座布団の前で立ったまま「どうしたらいいのだろう」と不安そうな目で昭士を見、同じように座ってみた。
都合六人が座卓について無言の間が流れる。
昭士が話をしてはいたものの、実際に「異世界から来た魔法使い」を目の当たりにすると、言おうとした事聞こうとした事が、案外出てこなくなってしまう。そんな気まずい空気を含んだ無言の間。聞こえるのは小さな時計の駆動音くらいだ。
「さて。まずは何から話したものかな」
これではいかんと修伍が話の口火を切った。続いてさくらが少し固い表情で、
「こちらのお嬢さんが、前に話していたスオーラさん……なのね。初めまして、昭士といぶきの母でございます」
「お、お、お母さん。すすスオーラは日本語判らないって」
昭士は横にいるスオーラに母の言葉を伝える。
《わたくしはこの世界とは異なるオルトラという世界から来た者です。モーナカ家の三女にしてジェズ教キイトナ派の見習い僧、ソレッラ僧スオーラと申します。どうかスオーラとお呼び下さいませ》
スオーラも自己紹介をするが、当然何を言っているのか判らない。おまけに長い。判るのは昭士といぶきだけだ。
「長ったらしい自己紹介ね。いちいち自分の家から身分から説明しなきゃ気が済まないの、このバカ女は?」
当然いぶきがケチをつけ文句を言ってくるが、修伍に睨まれて渋々黙る。さすがのいぶきも祖父にまで逆らう気はないようだ。
「え、え、えと。な名前はス、スオーラ。み、み、見習いの僧侶で。こ、この姿はここの世界だとこうで、元の世界だと、ぜん、全然違う、かか格好で」
「そのくらいの事、もうちょっとちゃンと説明できないの?」
ドモる故に途切れ途切れの説明にも、当然いぶきがケチをつける。しかし今度母親に睨まれてそれ以上喋るのを止め、矛先をスオーラに向けた。
「それにあンた、魔法でこっちの言葉喋れた筈よね? ナンでやンないのよ」
《わたくしの魔法は基本使い捨てです。一度使うと充分休息を取らない限り、再び使う事はできません》
前にも話した説明を律儀にもう一度するスオーラ。聞いてきたいぶきはつまらなそうにするだけだ。
一方祖父と父母の三人は「魔法」という単語にいぶかしげな顔をするのみである。話だけは聞いていたし、目の前にその使い手がいるにも関わらず。
だがそれは無理もない反応だろう。この世界には魔法が存在しないのだから。自分の世界に存在しない物の存在を理解しろというのは正直無茶苦茶である。
またもできた無言の間。それを破ったのは、今度はさくらだった。
「……正直に言って、あなた達がスオーラさんのお手伝いをするのは、賛成できないわ」
昭士は「そう言うだろうな」と心の中で思った。そしてそれを正直にスオーラに伝える。
「あなた達や鳥居さん達のお話しを聞く限り、あなた達でなければできないそうだけど、それでもやっぱり無理よ。自分の子供が命懸けで戦う……死ぬかもしれない事に賛成をしろなんて」
昭士が訳した言葉を聞いて表情が曇るスオーラ。同時に「当然だろう」とも思った。誰かがやらねばならない事であっても、死ぬかもしれない事に賛成してもらえるとは思っていない。
そもそもスオーラは昭士達をこうして巻き込んでしまった事自体を辛く思っているのだから。
だが修伍は正反対だった。
「なぁさくら。昭士ももう十五。古くは元服と言って一人前に扱われた年頃だ。それに男子たるもの人々を守るために尽力を尽くす事が、悪い事とは思わん」
「それはお父さんが警察官だから。二人ともまだ高校生なのに」
ずっと無言のままの父・克央を挟んで、修伍とさくらが言い合いになる。にもかかわらずずっと黙っている。
元々優しいがどこか影の薄い印象のサラリーマンの父。だが二人に挟まれても苛立った様子すらない。
「……昭士」
その父がぽつりと静かに口を開いた。大きくもないし威圧感の欠片もない優しい声だったが、修伍とさくらの口論を止める、不思議な力があった。
「……お前はやりたいのか。それを」
それとは当然化物と戦う事だ。昭士はストレートに聞いてきた事に少し驚き、一瞬口ごもってしまう。
やらねばならない事だと覚悟を決めて腹はくくったつもりだったが「やりたい事か」と問われると答えに戸惑ってしまう。
「悪い事ではないようだし、やりたいのなら止めはしない。ほら、昔からよく言うだろう」
克央は名言だかことわざだかを引用しようとして「何と言ったかな」と思い出そうとしている。やがて思い出したらしくポンと手を打つと、
「『人間にはそれぞれ持って生まれた使命がある』。だったかな」
それを聞いた一同(日本語が判らず、昭士が訳していないスオーラを除いて)は「正しい言葉なのか」と一瞬考え込む。
「昭士といぶきは、他の人と違ってそれがこの年で判ってしまっただけだ。お父さん達にできるのは、その手伝いや応援くらいのものだ」
その言葉は偶然か、スオーラの父と全く同じ言葉だった。
影が薄く気弱そうな印象に見える父だが、言う時は言う。決して強さはないが重みと説得力がある。そんな父の言葉に、
ダンッ!
物凄い音。座卓を力一杯叩いた音だ。その音に皆の視線が向いた先は――いぶきだった。彼女は今にも不満を爆発させそうに顔を真っ赤にして、
「ナニ勝手に『イイ話』みたいな事言ってンのよ! 勝手に人のやる事決めてほしくないンだけど!」
座卓があってできないが、その勢いは自分の父親に殴りかからんばかりである。昭士は慌てて止めようとするが、止まる訳がない。
顔面にいぶきの肘が叩き込まれ彼の身体が後ろに吹き飛んだ。スオーラを巻き込んで。
『いぶきっ!!!』
それを見た祖父と父母が一斉にいぶきに怒鳴りつける。
「なぜお前は加減というものをしない! 仮にも剣を学ぶ者ならば己の力量と相手の力量を計り、決して侮ってはいかんが、力押しで相手を潰すような真似をしてはいかん」
「おじいちゃンのお説教は聞き飽きたわよ! そもそもこの程度をまともに喰らうバカアキが悪いに決まってるじゃン!」
今度は修伍といぶきの間で言い争いが始まる。といっても、剣道をやっている者としての心構えを説く祖父の正論に、いぶきが自分勝手にゴネまくっているだけだが。
祖父修伍は警察官だけあって剣道や柔道を修めており、自身も剣道三段柔道二段の腕前である。しかし孫に対する甘さと自分勝手さ十段のいぶきが相手ではさすがに分が悪いと言っていい。
《いい加減にして下さいっ!!!》
ほとんど口喧嘩となっている場にスオーラが力一杯の大声を上げる。さすがに何を言っているのか判らない言語でも、その「一喝」とも言うべき大声なら意図は通じるようである。
スオーラは顔面に肘を受けた昭士を後ろから支えており、その昭士は鼻から大量に出血してぐったりしている。
「! いかん、すぐに応急処置を。その量だと下手をすれば鼻血が気管に入って窒息するぞ!」
修伍の血の気の引いた顔。切羽詰まった叫び声。それを聞いたさくらが慌てて台所へ走り、克央はすぐ側の電話に飛びついて救急車を手配している。
もちろんスオーラもただ黙って支えている訳ではない。自分の身体の中から取り出した分厚い本を畳に置いて必死でページをめくり、治療に使えそうな魔法を探している真っ最中。
そのかたわらでテキパキと応急処置を施す修伍。救急隊ではないが応急処置の仕方くらいは心得ているようで、手つきも慣れている。
一人何もしないのは、いきなりケンカが中断されて取り残された形のいぶきだけだ。
「…………あれ?」
少しの間意識が飛んでいたらしい。昭士が気づいた時には祖父に力一杯鼻をつままれていた。冷やしたタオル越しに。
「声が出せるという事は、どうやら気管には入らなかったようだな。良かった。咳もないようだし」
自分の孫が大丈夫そうと判り、心底安堵した声になる。
「それにしても。普通鼻血の応急処置だと寝かせたりするものだが」
言葉が通じないと判っていても、スオーラが昭士を「寝かせなかった」事を誉める修伍。
「か、か、彼女は、みな、見習いの、そ僧侶だから」
「ああ、さっきそう言っていたな。医学的な知識もお持ちのようだ。有難うございます」
言葉は判らないが、大丈夫そうな昭士を見てスオーラも胸を撫で下ろす。
そこでようやくつまらなそうにしているいぶきを見た。冷めた表情で自分を見るスオーラに対し、
「ナニよバカ女」
《人を一人殺めるかもしれなかった状況で、よくそんな態度が取れますね》
「たかだか鼻血吹いて死ぬようなこいつが悪いンでしょ。どうせ役立たずなンだし、死ンだってどうって事ないわよ」
その露骨に「下らない」という態度のいぶきの言葉に、スオーラは思わず手が出てしまっていた。
もっともそれはいぶきが持つ「周囲の動きが極端にスローモーションに見える」能力のおかげでかすりもしなかったが。
言い合う内容は判らないものの、昭士の事をいつも通り全く顧みない言葉に、さくらは怒りを通り越して泣き出してしまった。
「まったく。どうしてあなたはそんな相手を傷つける事ばかりするの!? 何が不満なの、何がしたいのあなたは!?」
「不満なのはこンなヤツの妹だって事。やりたいのはこいつをブッ殺して二度とこの顔見ないで済むようにする事」
泣いている母親をバッサリと斬って捨てるように言い切ったいぶき。それも自慢するように胸を張って。
「こんな無能で、弱っちくて、しょーもない人間が生きてる事自体が我慢ならないわよ。我が家、いいえ一族の恥よ」
こんな言葉を聞いては怒らない人間の方が少数だろう。修伍はいぶきの前に立つと、
「その口の聞き方は何だ。自分が何を言っているのか判っているのか」
叱られているいぶきだが、彼女は全く堪えていない。
「判ってるわよ。ナニが不満でナニがしたいか話しただけじゃン。ナニが悪いのよ」
むしろ自分を堂々と正当化しようとしている。
「内容の事だ。人を殺す事がやりたい事だと? ふざけるんじゃない。実の兄を殺すなどと……」
もう収拾がつくつかないの話ではない。泥沼の親子三世代ゲンカだ。
「ご、ご、ごめんね、ス、スオーラ。うち、いいいつもこんな感じだから」
照れくさそうに苦笑いする昭士。スオーラは大きくため息をつくと、
《何だか人間不審になりそうです。アキシ様は人間不審になりませんか?》
「お、お、俺もよく判らない」
苦笑いのままそう答える。本当に曖昧な言葉である。
思ってもいなかった答えにぽかんと口を開けるスオーラ。
あの時ケガをおして戦い大勢の兵士達の前で言いたい事をズバッと言ってのけた人間と、ここまでの事をされて苦笑いで済ませる人間とが、本当に同一人物なのだろうか。
心の中で「共に行くという決断。早まったかもしれない」と、後悔していた。
ほんの少しだけ。

<第6話 おわり>


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