トガった彼女をブン回せっ! 第6話その1
『この世界の人間は何考えてんだ!』

「……そうか。不肖の娘だが、よろしく頼む」
一宗教のトップでありスオーラの父親である、モーナカ・キエーリコ・クレーロ。
その笑顔に演技は全く入っていない。本当に心の底からの笑顔だ。一遍の怒りも含まれていない。
(この展開は、予想外だった)
昭士はもちろん、パエーゼ・インファンテ・プリンチペ第一王子も思わずぽかんとしてしまっていた。意味と出所は全く違うが、同じ気持ちを共有して。
王子は泡喰った様子で長に食ってかかる。
「ま、待って下さい猊下。先程もお話ししました通り、彼は……」
いくらこの国の王子とはいえ、相手が一宗教のトップとあっては横柄な応対をする訳にもいかないようだ。
長はそんな王子を横目で見て淡々と答える。
「その話は聞いている。プリンチペ殿下をバカにして子供扱いをした事だろう?」
「は、はい」
年の差か威厳の差か。まるで叱られる子供のように、反射的に身をすくめてしまう王子。
「確かにバカにされた上に子供扱いまでされて、イイ気分になる者はおるまい。そこに怒りを感じるプリンチペ殿下のお気持ちは良く判ります」
まるで説法のように相手を優しく諭すような穏やかな口調である。
「だが戦士殿はこの世界の人間ではない。異なる文化や風習の土地から来た者と判っているのだろう。いかに怒りを感じたとはいえ、まずはこの世界ではこうなのだと説明をするべきではなかったろうか。いきなり空から突き落すがごとき真似をせずに」
王子は何か言いたそうに口を開きかけたが、
「……いえ。仰る通りです。軽率でした」
とりあえず素直に謝罪の言葉を述べる王子。しかしそれは本当に誰が見ても表面上であり、嫌々やっている事が明白ではあったが。
その応対に、今度は昭士の方が、
「あー、今度はこっちが『待って下さい』なんだがな」
どことなく照れくさそうに頭をかきながら、
「いきなり『娘をよろしく頼む』って言われても、こっちは面喰らうだけなんだがな。結婚の申し込みに来た訳じゃあるまいし」
「結婚」の言葉にびくりと反応する王子をよそに昭士は続ける。
「こう言っちゃ何だが、こっちは随分な親バカって聞いてたからな。娘が数日家に帰らない。おまけに見ず知らずの男と一緒って時点で、ブン殴られるの覚悟してたっつーか……」
何となく言いにくそうに、しかし一応これでも言葉を選びつつ、長に向かって話を続ける昭士。
「ははぁ。言いたい事は何となく察しがつきますよ。……確かアキシ殿、でしたかな」
先程のような一遍の怒りも含まない笑顔で、長がそう切り出す。
「アキシ殿の事を話す娘の顔を見れば判る。態度はともかくその行動は信頼が置ける。できない事はあるが裏切る事はない。自分もそう見受けましたが、いかがかな」
長の言葉に胸中で驚く昭士。娘の言葉もあったとはいえ、一目でそこまで見抜くとは。
確かに昭士は誰かを裏切ったり欺いたりするのをよしとしない、いわゆる「善人」の部分が強い。口では何のかんのごねても自分が助けられる部分はちゃんと助ける。
一方さっきから黙ったままのいぶきは本当に彼とは正反対だ。他人の為に行動しない。自分だけの為に行動する。ワガママとも悪人とも受け取られるが、その態度の徹底ぶりは賞賛にすら値する。
「はー。親バカって聞いてた割には、話の判る親父ってトコだな」
その辺りはさすがに一宗教を束ねる人物だけの事はある。人をきちんと見る目を持っているようだ。
そこへ王子が割って入る。
「ですが猊下。実際に子供扱いをしてくる無礼者ですし……」
「プリンチペ殿下。こう言っては何ですが、自分は娘の教育には自信を持っております。その娘の目と判断力を信用しております」
……微妙に前言撤回。スオーラを見て目を輝かせて胸を張る長を見た昭士は、声に出さずにそう思った。
それから長は少しだけ寂しそうにスオーラを見つめ、それから昭士の方を見ると、
「娘ももう十五。そろそろ親元を離れ一人前の人間として生きねばならない年齢だ。この国ではそういう考えが一般的でしてな。娘がそうだと決めたのならば、親はそれを支え、応援するだけだ。寂しい事は認めるがね」
最後の方は乾いた笑い顔を浮かべる長。
同時に昭士は「同い年だったのか」と再び胸中で驚く。
「娘の話によれば、ほとんど巻き込んだも同然だったとか。しかしアキシ殿は戦う決意をしてくれた。それにはとても感謝している」
長は自身の左手で昭士の左手に触れ、軽く握った。
「娘と共に戦う者が、信頼がおけ裏切らない人物であれば、これほど心強い事はない」
彼は改めて「頼んだぞ」と短く言い、握手に被せるように右手を添えた。それから「言い忘れてた」とつけ加え、
「アキシ殿の世界では知りませんが、我々の世界では、左手での握手というのは深い信頼や感謝を意味します」
「ああ。そう言えばスオーラもそう言ってやってたっけ。自分自身を相手に委ねる、とか何とか」
その言葉を聞いて、このやりとりを見ていた全ての人間が驚いている。例外は昭士と無視を決め込んでいるいぶき、それから何かを観察するように黙りっぱなしの賢者くらいのものだ。
特に王子は怒りを剥き出しにして昭士に突っかかってくる。
「き、貴様!? スオーラ嬢に何をした!?」
「何だ? こっちの世界じゃ、握手するのがそこまで怒られる事か?」
あまりの王子の怒りっぷりに、逆に冷静になった昭士が据わった目で王子を睨み返す。その据わった目に若干引いてしまったのが少々情けない。
しかし王子は負けてなるかとばかりに昭士に詰め寄ると、
「確かに左手は自分自身の為の手。その手での握手は自分自身を相手に委ねる程の深い信頼や感謝を意味する」
そこで一旦言葉を切ると、興奮し過ぎたのを落ち着かせるように大きく息を吸い、吐いた。それから昭士の耳元で呟くような小さな声で、
「だがな。男女でする左手での握手というのはもう一つ、結婚を申し込むに等しい意味合いもある。自分の婚約者が他の男にそんな真似をして、全く動じないと思うのか、お前は?」
自分自身を相手に委ねる=結婚を申し込むというその考えは、別の世界の昭士でも随分と突飛ではあるが理解できない程ではない。
だが昭士からやったのならともかく、あの時はスオーラから握手をしてきたのであり、この世界の住人である彼女自身がそういった「もう一つの意味」を知らないとも思えない。
いくら結婚とは距離を置いている聖職者であっても、この世界の「習慣」なのだから知らない筈がないのだ。高い教育を受けているようだったし。
王子の怒りっぷりに隠れていたが、さすがに結婚と聞いては父親である長も平静ではいられないようで、驚きをあらわにして自分の娘に詰め寄っている。
「ス、スオーラ!? 確かに共に戦うパートナーとしては充分信用に値すると踏んだが、さすがに結婚の相手にするとまでは、パパ一言も言っていないぞ!?」
「お、落ち着いて下さい」
「スオーラからしたのか、それともアキシ殿からしたのか、どっちなんだ!?」
「わ、わたくしの方から握手をしましたが、結婚を求めての握手では断じてありません!」
真剣な目で詰め寄る長に顔を真っ赤にして両手を振って否定しようとしているスオーラ。
そんな親子の方も大変な言い合いになっている。どんなに相手がいい男であろうとも、いきなり「この人と結婚します」と言ったも同然の態度に、驚かない親がいよう筈もないのだから。
スオーラにそんな意図は全くないと言っても、そこまで冷静になれると思えない。親バカならばなおさらだ。
意図がなくても相手や周りが勘違いする行動というのは昭士の世界でもよくある事だ。
一人前と扱われる年齢の女性が結婚をにおわせてしまったのだから、この場合はスオーラが軽率だったかもしれない。
だが昭士の方はそれに驚いただけで、もし万が一本当に結婚の申し込みであったとしても「まだ早いよ」と返した事だろう。
スオーラの世界と違い、昭士の世界(というか国)が法律で「一人前」と認める年齢に達していないのだから。元々女性に対しては淡々とした態度を取っているせいもあるかもしれない。
《おいバカアキ。こンなヤツら放っといて早く帰ってくれない? こンなバカにいちいちつき合うの、もう心底嫌なンだけど》
いぶきには言葉が通じる魔法をかけていないので、露骨に嫌みったらしいこの言葉が理解できたのは、昭士とスオーラのみである。
一度会っている王子はともかく、長の方はこの声の主がどこにいるのか判らずキョロキョロしている。
《それにあたしが言ったでしょ。あのバカ王子は「アレは俺の女だから取るンじゃねぇ」って言いたいだけだって。なのにバカアキとの方が仲良さそうに見えるからヤキモチ全開なだけよ。いちいち『結婚』ってのにビクビク反応しまくって、くっだらないったらありゃしないっての》
文字通り「歯に衣着せない」いぶきの物言いが聞こえたスオーラは、わざわざ大剣の柄――に彫られた女性の顔に近寄りながら、そう言い返した。
「イ、イブキ様!? いい加減バカ王子と呼ぶのは止めて下さい。それに殿下がヤキモチってどういう事です!?」
その言葉に長と王子の動きが止まる。
『ヤキモチ?』
二人が声を揃えてポカンとする様子が見えているかのように、さも楽しそうにケタケタ笑いながら、
《恋愛激ニブ女と一方通行のバカ王子に、バカアキが加わっただけじゃン。並んだだけで三角関係にもなってないってのに一人で勘違いして突っ走ってンだから。おまけにそれを言ったらす〜ぐ怒って飛んでる最中の飛行船から放り出してくれたし。だから器が小さいセコ王子って言ってンじゃない》
王子も何を言っているのかは理解できていないものの、その口調が自分を露骨にバカにしている事だけはしっかりと正確に伝わったようで、怒りを堪えるようにぷるぷると拳を震わせている。
だが言っている内容が正確に理解できたスオーラは違った。
「……あの。子供扱いして怒らせたから、飛行船から落とされたのでは、なかったのですか?」
微妙な話の食い違いに、思わずそう訊ねてしまったのだ。
《ンな事も判らないオコチャマ王子だから、それらしく扱っただけだってのに。す〜ぐブチ切れるンだもン。これだからバカを自覚してないおバカの相手は嫌なのよ》
「そうじゃねーだろこのバカ女」
昭士は大剣の柄に彫られた女性の顔の辺りをガツンと殴ると、
「ホントはスオーラの事だよ。他の人と比べて俺達に対する態度が結構違って見えるって。それがどうしてかって事だよ、発端は」
しかしそう言われても、スオーラには心当たりがない。分け隔てなく接していると自分では思っているからだ。こういうのは自分では意外と気づかないものなのだ。
「まぁ俺は違う意味で『違う』と思ってたけどな。いわゆる『イイトコのお嬢様』の割に、一庶民の俺達にキッチリ様付きの敬語使ってくるし。いくら育ちが良すぎるったってそれはないだろうって。けどスオーラから詳しい話を聞いて判った」
昭士は言った方がいいのかどうかと一瞬考えたが、言わねばなるまいと口を開いた。
「お前達……スオーラを特別扱いし過ぎなんだよ。そりゃ一宗教のトップの娘で、イイトコのお嬢様で、王子様の婚約者と来て、挙句の果てにはこの世界の救世主様だ。特別扱いもまぁ判らなくもないけどな」
長も王子も、昭士の言葉に「その通りだ」とうなづいている。
「でも俺達はそれを知らない。俺達を助けてくれた、強くて美人の魔法使いって事しか知らない。だから初めてだったんだろうよ。『一個人として』感謝されたってのがな。この『一個人』ってのが大事だったんだ、このテの『お嬢様』にとってはな」
言われてスオーラは息を飲んだ。いきなり「強くて美人」と言われて驚いたのはもちろんだが、昭士の言葉がある意味正論に聞こえたからだ。
「一宗教のトップの娘で、イイトコのお嬢様で、王子様の婚約者に加えてこの世界の救世主様だ。良い事しても悪い事しても、そいつらが頭について回ったろうよ。『さすが○○家のお嬢様だ』って具合にな。だからそういうのを取っ払った、スオーラ個人として感謝されたってのが、すげぇ印象に残ったんだろうさ。今までにない経験だろうからな」
自分が言葉にできなかった事をきっちりと言葉にしてみせてくれた。スオーラの表情が「それが言いたかったんだ」と言わんばかりに明るく輝く。
だが昭士はため息をつくように一息つくと、急激に雰囲気を変えた。その様子は切々と語るよりは怒りを秘めた訴えのように胸を張ると、
「違う世界の人間から、こっちの世界の連中に、ちょいとツッコミたい事がある」
王子や長だけでなく、周囲の人間に聞こえるように大きな声でそう切り出した。
「この世界の人間は何考えてんだ!」
キッパリと言い切るように、胸を張ってそう言った昭士。当然これだけでは、彼が何を言わんとしているのかは賢者にだって判りはしないだろう。
昭士は何となくさっきから黙ったままの賢者の方をちらりと見た。
「さっき、大きな鳥の形をした化物――エッセだっけか? そいつが、町を襲ってきたよな? 結果として俺とスオーラが倒した訳だよな? なのに何だよあの態度」
昭士は倒した直後の周囲のリアクションをありありと思い浮かべた。
「化物が倒された事を喜びもしない!」歓喜の声がなかった事を思い出し、
「とどめ刺した俺達への感謝もない!」賞賛の声がなかった事を思い出し、
「街を守る使命を果たせなかった悔しさもない!」悲しみの声がなかった事を思い出し、
「良いところを全部横取りされた怒りすらない!」憤りの声がなかった事を思い出し、
昭士は一瞬「ため」て、声を張り上げた。
「それが真っ当な人間がする態度かってんだ!!」
いきなりの怒声に聞いていた人間は一瞬びくつく。昭士はさらにテンションを上げ、
「それとも何か? これは仕事だからやるのが当然って事か? 感謝なんかする価値もないって事か? 俺の世界とこの世界とじゃ、随分と感覚が違うってだけで済ませるんじゃないだろうな?」
そう言いながら昭士の中に周囲の反応が蘇ってきた。
そこにあったのは歓喜でも賞賛でも悲しみでも憤りでもない。
あったのは人間とは思えない技を目の当たりにした「恐怖」。同じ人間と思いたくない「嫌悪」。本当に人間なのだろうかと疑う「違和感」。
まさしく化物を倒した「化物」を見る目。触れてはならない異形の存在を扱う空気。
声に出さずに視線に出して、遠巻きに自分達を見るだけの「周囲」。それだけである。
そういった物を一切合切まとめて生まれた不快感を全く隠さずに、昭士は怒鳴り続けた。
「あのエッセとかいうのは相容れない敵なんだろ? それとまともに戦えるのは俺達だけなんだろ? 大金出して崇めろとまでは言わねーよ。言いたいけど。けど何であそこまでリアクションがねーんだよお前達はよぉ!? 感情あんのかお前ら、ああ!?」
ポロッと出た本音を隠すように視線を逸らし、スオーラをチラッと見る昭士。
「スオーラはともかく、俺はあいにくと聖人君子じゃねーんだ。そりゃ世界が危ないってんなら戦うよ。俺達にしかできないってんならやってやるよ。怖いけど。でも戦って倒したからには誉められたいし、報酬も欲しい。ねぎらいの言葉の一つ二つだって欲しいよ。それを下卑た俗物ってんなら言えばいいだろ。けどな」
昭士は胸を張りながら大きく息を吸い込んだ。
「化物扱いされてまでこき使われるのなんざ、ゴメンなんだよぉっ!!」
「化物」の部分を特に強調して、思い切り周囲に怒鳴りつけた。
「お前達は俺はもちろんスオーラですら『化物を倒した英雄』じゃなくて『化物を倒した、より強い化物』としか見てねぇ! 命懸けで戦っても喜びもしないし感謝の一つもない。化物扱いの腫物扱い。おまけに王子さんを小馬鹿にしたおかげで世界のほとんどが俺達の敵! 功罪合わせて帳消しって気配すらない! そんな扱いをされて、それでも世界のため人類のために命を賭けて戦えるほど、こっちは人間ができてねーんだよ!」
心の叫び、というのは言い過ぎかもしれないが、昭士本人の本当の気持ちをぶちまける。嘘偽りない、この世界で感じた事。
たとえ相手にどう思われようと知った事ではない、という気持ちではない。本当の気持ちを言わねば本当の気持ちを判ってもらえない。そんな考えだ。
自分の命を賭けて戦うのだ。言いたい事も言えずに我慢のしっぱなしではいつかガタが来る。心か身体のどちらかに。
昭士は黙って聞いていた周囲に向かって軽く一礼すると、
「とりあえず、俺達はあんたらに都合のイイ道具じゃねえんだ。戦いが終わった以上は帰らせてもらう。邪魔するって言うんなら……したくはねーが相手になるぜ」
しばし動かず待ったが、邪魔をする様子は見られなかった。さすがに目の前でこの巨大な剣を振って敵を倒した様子を目撃しては、戦いを挑もうという者はいないのだろう。
それを確認した昭士は持っていた剣をひょいと肩に担ぎ、そのまま歩き出す。スオーラは彼を止めようと声をかけようとしたが、それより早く王子がその背中に向かって、
「黙って聞いていれば言いたい放題……!」
激怒してそのまま駆け出しそうなのを止めたのは、一本の腕だった。
長である。彼は無言で王子に制止するよう言う。それからスオーラに向かって、
「ス、スオーラ。アキシ殿の言葉は本当なのか。英雄でも救世主でもなく、化物と思われているのか、お前は……」
自分の娘や周囲から話は聞いていたものの、さすがに面と向かって「化物」と思う事を言う者はいる筈もない。エッセを倒した現場――娘の活躍を間近で見たのは、これが初めてだったのだ。
堂々としていた長の表情が、明らかに震えている。さっきの結婚意思表示疑惑の時以上に。
生まれた時から可愛がってきた、まさしく「愛娘」が、世間では化物として扱われている。正しい事をしているのに。人々を守っているのに。世界を救っているのに。それに怒りを、嘆きを感じない親などいよう筈もない。
スオーラはわずかに視線を逸らして口ごもる。しかし改めて自分の父親と正面から向かい合い、
「それは判りません。でも、アキシ様の仰る通り、感謝の言葉がほとんどなかった事は、事実です」
特に冷淡に言ったつもりはないが、その響きはスオーラが思った以上に冷たく響いた。勝利の余韻を掻き消して余りあるほどに。
「ですが、アキシ様の世界は違いました。わたくしが魔法を使っても、アキシ様が大剣を振るっても、わたくし達自身を恐怖している様子は、全くありませんでした。アキシ様の世界には魔法が全くないにもかかわらず、です」
以前昭士に語った言葉を、今度は自分の父親に向けて話すスオーラ。
「わたくしは、皆さんから感謝をされるという事を初めて知りました。その言葉が自分を奮い立たせてくれる、自分にたくさんの力を与えてくれるという事を知りました。むしろこちらが感謝をしたいくらいでした」
その笑顔は少し悲しい笑顔だった。自分が生まれ育ってきた環境よりも、その「外の」世界の方がよほど嬉しく、有難く、そして心地よい。
同じ使命を果たすのであれば、疎まれるより感謝されたい。人間であれば誰しもがそうであろう。その気持ちが、人との接し方にまで微妙に、そして著しい影響を与えていたのだ。
「……見習いとはいえ聖職者である自分が、そのような事を思うのは、未熟なためですか? それはいけない事なのでしょうか?」
そう問いかけるスオーラの目は迷っていた。何が正しいのか判らない。正解のない問いに答えではなく「正しい」答えを欲している。そんな目だ。
長も自分の娘から、そして一人の見習い聖職者からのその問答のような問いに、答えてやる事ができなかった。
「どんな人間も、行った事に対する報酬を求めるものだ。人間とはそういう生き物だ」
答えているようでどこか曖昧な、そんな言葉に逃げるのが精一杯であった。
そこへ、今まで黙っていた賢者が会話に加わってきた。
「金品のように形ある物か。感謝の念や達成感という形のない物か。それは判りませんけど。それを『欲』と呼ぶ人もいますけど、欲そのものには善も悪も正も邪もありませんからね。聖職者の方が持っていても良いと思いますよ」
その内容はスオーラの出した問いを、やんわりと肯定するものだった。
その言葉を聞いた長は、
「教団の長としてではなく、親としてお前に言える事は……お前が正しいと思う事をしなさい。もう一人前なのだから、自分の力で立ち、自分の力で歩きなさい。もちろん誰かの助けがあっても良いだろう。誰かを助けるのも良いだろう。誰に対しても胸を張れる生き方をしてほしい。……ダメだな。うまい言葉が出てこない」
長の口から乾いた笑いがこぼれる。
しっかりしなければいけない。しかしまともに相対すると照れくさくてしょうがない。そんな年頃の娘を心底思いやる、ただの父親の姿がそこにあった。
「……それが判るまでは、アキシ殿と共に戦いなさい。困った時には教団を遠慮なく頼りなさい。このモーナカ・キエーリコ・クレーロの名において、それは保証する」
「げ、猊下!?」
王子が驚く。この世界で最大級の侮辱である「子供扱い」をした相手を「自分は許す」と言っているに等しいからだ。
「待って下さい。子供扱いが最大級の侮辱である事は国家の法律で決まっている訳ではありませんが、そんな事をした者を無条件に許すような真似をしては、国家の威信に傷がつきます!」
王家の者として命じる態度を見せた王子だが、長の方は一歩も引いていない。
「人々を助けているのにも関わらず、化物として扱われ続けた娘の方がよほど傷ついているでしょう!? 責め続けられ一切の報いのない事をさせるのは、一人の親としても容認しかねる!」
むしろ、年の差もある長の一喝が、完全に王子を黙らせてしまった。
「そんな事も判ってもらえない男に、大事な娘を預ける事はできませんな」
鬼のような形相で王子を睨みつけていた長は、ふとその緊張を解いてスオーラを見る。
「お前に結婚の意志が乏しい事は感じていた。だが本当は結婚して幸せな家庭を持ってほしかった。しかしそれがお前の枷になるのであれば、この婚約は解消してもいい。それがこの父親にできる、お前に対する『応援』の一つだ。国王陛下も強く責めはすまい」
それから急にムッとした顔を作ると、
「だが結婚は別だぞ? そこまでは許した覚えはないからな。一生の事を軽々しく決めてはいかんぞ? 判ったな、スオーラ!? それからアキシ殿。娘に手を出すなよ! 何かあったら承知しないからな!」
最後の方は遠くにいる昭士の背中に向けてほとんどヤケ気味の言葉であるが、ずっと育ててくれたスオーラには自分を本当に大事に思い、心配をしてくれている事はよく伝わってきた。
教団の長という事で家庭よりも教団を優先しなければならない事の方が多かった中、賢明に自分といる時間を作ってくれた。便宜をはかってくれた。多少の贔屓も……あったとは思う。
いくら一人前と扱う年齢になったとはいえ、まだまだ手放したくはなかった筈だ。だが、そんな父親が背中を押してくれた気がした。
「では……お父様。行ってきます」
スオーラは父の左手を両手で力一杯握りしめた。小さな声で「有難うございました」と呟きもした。その様子はまるでこれから嫁に行く親に送る、最後の挨拶のようである。
王子が手を伸ばしてスオーラに何か言おうとするが、言葉にならなかった。彼女は王子を真正面から見据えていた。
紛れもなく一国の王子である。幼い頃から知っている、自分にとっては兄のような存在。少々見栄っ張りな部分はあるが政治的な手腕は跡を継ぐに相応しいものを確かに持っている。
しかし今の自分には、今までよりもほんの少し小さく見えた。何故かは判らなかったが、そんな気がした。
「では殿下。わたくしはアキシ様と共に戦い続けます。いつの日か……お許しが出る事を祈って」
王子とは握手もせずに軽く頭を下げると、すぐさま昭士の背中を追いかけるようまっすぐに駆け出した。一度も振り向く事なく。
王子が力の抜けた呆けた顔をしているのに、
気づく事もなく。

<つづく>


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