トガった彼女をブン回せっ! 第5話その1
『……これで別荘かよ』

見渡す限りの何もない荒野。
手垢にまみれた表現ではあるが、本当にそうとしか呼べない光景というのは、世界のあちこちに存在する。ここもそんなありふれた荒野の一つだ。
人間はまだ地表の全てを生活圏としている訳ではないのだ。人間が住める環境ではない。まだ開拓が進んでいない。理由は様々である。
そんな荒野を一台のキャンピングカーが駆け抜けている。
車体全体は落ち着いたモスグリーンで、車体下部に鮮やかなコバルトブルーの太いラインが引いてある。
そんな車体を支えるのは、太く大きなタイヤ。前に二つ後ろに四つと、何と六つもある。車体も随分と大きい。
だが、この車はここオルトラと呼ばれる世界には、本来なら「存在しない」車なのだ。
そんな「存在しない車」がなぜこんな荒野を走っているのかと言うと、このオルトラ世界に存在する名高い賢者が「他の世界から」呼び寄せた物だからである。
この車を運転するのは、オルトラ世界における見習い僧侶モーナカ・ソレッラ・スオーラ嬢。ボタンのない詰め襟の制服のような僧服に白いマント。
長く赤い髪は首の後ろでまとめられているが、その額は大きく開けてある。年の頃なら十五、六といったところだ。
実は彼女は、王室の庇護を受けてこの国で信仰されている宗教の、教団トップの娘なのである。
元々「学習する」能力が高く物事の吸収が早いためか。はたまたこの世界の車を動かせる知識を元にした適応能力か。
見た事もない筈の――おそらくこの世界の文明よりも遥か未来の物であろう――車を危なげなく乗りこなしている。
昨日からほとんど寝ていないにも関わらず、その目は生き生きと、その手足はキビキビとしている。
《……大丈夫か、スオーラ?》
無遠慮に声をかけてきたのは、床にあぐらをかいて狭い操縦席の壁にもたれかかっている男だった。彼は操縦席のスオーラを見上げている。
同じ操縦席にいるにもかかわらずそんな上下差が発生するのは、少し床から高くなった位置に運転手用のシートが一つあるきりだからだ。
「はい。問題ありません」
前を見据えてハンドルを器用に操作しながら、スオーラと呼ばれた彼女は返事をする。
とても簡素な返事だが、その雰囲気はとても明るい。その明るさを察した男は、
《今のところ追手はなさそうだな》
しきりに見えない筈の後ろを気にしている。事実この車を追ってくる物は見えない。姿が見えないのではなく全くないのだ。
車は相変わらず、ろくに舗装もされていない荒野の道をガタガタ言いながら走っている。そのスピードは時速にして約百キロ。
その割に揺れが非常に少ないのは、この車の衝撃吸収機能が非常に優れているからだろう。その点だけをとってみても、この車が「この世界に」非常に不釣り合いな事が容易に想像できた。
この車に追いつける乗り物は、もはや空を飛ぶ飛行船くらいしか「この世界には」ない。
《ここが百年くらい前っぽい世界でよかったぜ。俺の世界ならあっという間に全国に連絡回ってるところだし、こんな目立ってゴツイ車じゃあっという間に追いつかれちまう》
男の世界はオルトラよりも機械文明が発達した世界。そんな有り様を想像して身震いする。
彼の名前は角田昭士(かくたあきし)。つい先日までは一点を除いて「普通の域を出ない」高校一年生かつ剣道少年であった。
しかし(彼から見れば)別の世界からやってきたスオーラと出会い、彼女の世界からやってきた化物と出会い、その化物と戦える「戦士」という事になってしまったのだ。
そんな彼の服装はつなぎのような青い服の上から、胸当てや篭手、脛当てを付けただけの軽装備。オルトラ世界では「軽戦士」と呼ばれる、速さや技が売りの戦士にありがちな装束である。
もっとも。そんな彼のかたわらに立てかけられている剣は、速さや技が売りの戦士が持つにしてはあまりに巨大で、分厚く、また重量級の大剣であった。
見る者を容赦なく威圧するその二メートルを越える大剣は「静かに」鎮座していた。
「アキシ様」
スオーラは車を運転しながら昭士に声をかける。
「様」付きで呼ばれた彼は、無言で彼女の言葉の続きを待った。
「追手は多分ないでしょう。殿下はムータの秘密をご存知ですから」
《秘密?》
秘密と言われ、彼の表情が険しくなる。
《……こいつにまだそんな「隠し事」がありやがったのか》
そう言いながら尻のポケットから一枚のカードを取り出す。それは青一色で、文字だかも判らないような物がビッシリと刻まれている。昭士はもちろんスオーラにも理解ができないものだ。
このカードを持つ者は別の世界に行く事ができるし、元の世界にいても「別の世界の」外見になる事ができる。存在する世界が変わるという事は姿形といった概念も変わってしまうのだ。
中には昭士のように外見の変化がない(服装を除く)者もいるようだが。
《……で、その「秘密」ってのは?》
自分に関係がある事なのに、どこか「知ったこっちゃない」と言いたそうな態度の質問。そんな昭士の態度を意に介した様子もなく、スオーラは続けた。
「ムータを使って世界を行き来する場合、この世界に来た場所からでないと、元の世界には戻れないのです」
《……って事は?》
「アキシ様が元の世界に戻るには、あの礼拝堂の奥からでないとなりません。ですから戻るためにはそこへ行かねばならないのです」
確かに昭士がこちらの世界へ来た時、そこは礼拝堂の中だった。そこからでないと元の世界には帰れない。……という事は。
「アキシ様達を捕まえるには、礼拝堂で待ち構えていればいい訳です。追いかけ回したりしらみつぶしに探し回る必要がないという事です」
《重ね重ねの詳しい解説、どうもありがとよ》
現在の状況をしっかりと理解した昭士は、物凄い脱力感を感じ、大きなため息を一つついた。
彼らは今、スオーラが「殿下」と呼ぶこの国の第一王子に目をつけられ、追われる身の上である。昭士が知らなかったとはいえ、この世界において「極めて無礼な行為」をしてしまったからだ。
もっとも。その「極めて無礼な行為」をしたのは昭士本人ではないが。
《……ったく。こいつのやる事なす事は、ホント世の中の為にならねぇな》
昭士はそう言うと、立てかけた大剣を拳でガツンと殴った。
《いったいわね。ナニすンのよバカアキ!》
不機嫌さを露骨に出した、ちょっとクセのある女の声が「大剣から」聞こえる。
《少しは自覚してほしいモンだね、いぶき。お前のせいで苦労してるってのに》
言いながら拳で鞘の上から大剣をゴツゴツ小突く。
昭士は大剣の事を「いぶき」と言った。この剣は彼の双子の妹・角田いぶきが姿を変えた物なのである。
元の世界では気の強い美少女であるが、このオルトラ世界に来ると、分厚い刀身を持った二メートルを越える大剣に姿を変えるのである。
もちろん剣なので自分で動く事はできない。だがその五感は人間の時のままであり、剣を振り回せば目を回し、叩きつければ痛がるし、周囲の話を聞き取る事もできるし、こんな風に口を出す事も当然できる。
「そうですよイブキ様。そちらの世界では知りませんが、この世界では相手を子供扱いする事は極めて無礼な行為なのですから」
スオーラ自身はその現場を見ていた訳ではないが、このオルトラ世界では相手を子供扱いするという事は、相手を「一人前の大人」とみなさないという意味に受け取られる。きちんとした成人の人間からすればこれほど屈辱的な物はない。しかもいぶきの方が年下なのだ。
それを一国の王子相手にやってしまったのだ。これがもし公の場だった場合、その場で殺されてもおかしくない行いだとスオーラは言っていた。
《そりゃこっちでも、イイ大人をお子様扱いしたら怒るけどな》
しかもタチが悪い事に、いぶきは「こう言ったら相手が怒るな」という事を「わざわざやる」のだ。まるで相手の心を読み取ったかのごとく。
そして昭士が彼女の兄である事は周囲の皆が知っているので、とばっちりの全ては彼にのしかかってくる。そうして被害を受けるたびに妹は鼻で笑って見下して「そンなのもかわせないバカ」と言ってのける。
今回も剣の状態でやらかしたものだから、その持ち主である昭士が責任を取れと言われ、飛んでいる最中の飛行船から突き落とされたくらいだ。もっともそこはスオーラが我が身を顧みず魔法で助けてくれたものの、おかげでスオーラまで「共犯扱い」である。
我が妹ながらどうにか縁を切りたいと昭士が真剣に思ったのも一度や二度ではない。
しかし。そんな迷惑しかもたらさない妹と縁を切る訳にはいかなくなってしまったのだ。
昭士とスオーラが持っているカード。このカードを持つ人間だけが、世界を蝕む化物と互角に戦う事ができる戦士になれるのであり、そしてそのカードはもう二度と作る事ができない上に、彼らが持つ二枚しか現存していない。
化物と戦う事ができるのは、もう昭士とスオーラの二人しかいないのだ。
さらにいぶきが姿を変えた大剣・戦乙女(いくさおとめ)の剣だけが、その化物・エッセに効果的なダメージを与える事ができ、かつエッセによって金属に変えられてしまった者を元の姿に戻す力を持つ事が判ったからだ。
しかしその事が判ってからも、いぶきは極めて非協力的。それどころかキッパリと協力する事を拒絶している。
それはいぶきが「他人の為に何かをする」という行動そのものを極度に嫌っているためである。
たとえそれが自分の利益になるものであったとしても他人の為に行動する事はない。その辺りは潔さすら感じるほど徹底している。
ところが他人が自分の為に行動するのは当たり前だと本気で信じているので、周囲からはタダのワガママ暴力女と受け取られている。
《そもそもこっちは来たくもないこンな世界に連れて来られた挙句、素っ裸にされるわ、勝手に傘代わりにされるわ、一晩倉庫に閉じ込められるわ、挙句の果てにはナニもかもあたしのせいにしてくれやがるわ。自業自得ってのよ、そういうの》
ブツブツブツブツと、聞こえるように文句を垂れ始めるいぶき。さっきまで静かだった反動のようである。
《何が自業自得だ。全ての元凶のクセに何言ってやがる》
昭士は再び大剣にガツンと拳を叩き込む。しかしこの程度で止まるようないぶきではない。
《こっちはあンた達のしょーもない事に巻き込まれてるだけなンですけど? 見習い僧侶とかいうヤツが断りもなく勝手にこンな姿になるアイテム渡して。しかもその持ち主はこっちの言う事聞きもしないで勝手にこンな姿に変えた上に、物に叩きつけるわ斬りつけるわ。謝罪と賠償は未だにこれっぽっちもよこさないしね、あンたらは》
相手の言う事は一切聞く耳を持たないが、自分の言う事は総て聞いてもらわねば気が済まない。
そのいちいちに拳や蹴り、それに罵詈雑言が容赦なく加わってくる。これもワガママ暴力女と言われている所以である。それゆえ友達も一人もいない。
《やる気がないんなら黙ってろ。こっちはどうやって帰るか考えてんだからよ》
さっきよりは弱いとはいえ、また剣をガツンと叩く昭士。するといぶきは、
《ンなもン、待ち構えてるヤツ全員ブッ殺せばいいだけじゃン》
《言うと思った》
昭士はあまりにも予想通りの答えが返ってきた事に、間髪入れずに言い返す。漫才のツッコミよりも素早く適確に。しかしいぶきは当然彼の言葉に耳を貸した様子もなく、
《あのテのバカは、力づくでなきゃ言う事聞かせらンないって相場は決まってンのよ。ンな事も判らないからバカだって言ってンのよ、あンた達は》
露骨に「どうでもいい」と投げやりな言葉と自国の王子――親同士が決めただけとはいえ婚約者でもある――を「バカ」呼ばわりされては、さすがにスオーラも口を出してくる。
「物事単純な物が一番難しいのですよ。それに殿下を『バカ』呼ばわりするのは、いい加減に止めて下さい」
最後の方は少々刺のある口調だったが、それも無理はないだろう。
《それにこっちは、お前と違って無駄に敵を増やすのは嫌いなんだよ》
確かにいぶきの言う通り、立ちはだかる敵全てを薙ぎ倒していけばいいだろう。しかし何百人何千人と待ち構えていた場合、さすがに体力が持たない。
いくら昭士にとってはこの「超重量級」の武器の重さを感じないとはいっても、その辺りが人間の限界というヤツだろう。
《スオーラ。その礼拝堂のある町に近くて、しばらくゆっくりできそうな場所、ないか?》
少し考えるような間が空いた後、昭士はスオーラに訊ねた。彼女も少しばかり考えるような間を空けて、
「そうですね。あと数時間も車を走らせればヴィッラと呼ばれる小さな町があります。礼拝堂のある町――ソクニカーチ・プリンチペまで車で半日ほどの距離です。その外れにモーナカ家の別荘がある森があります。あ、小さく見えてきました」
スオーラが嬉しそうに前方を指差す。昭士も立ち上がって指差した方向を見ると、ほんの一センチほどの何かにしか見えない黒い固まりが遥か前方に確認できた。
《あれが……森?》
「はい。今の時期は避暑のシーズンからも外れますので誰も来ていない筈です。十日おきくらいに管理人の方が掃除しに来るくらいなので、しばらくゆっくりできると思います」
そんなスオーラの丁寧な説明を、昭士は半分も聞いていなかった。
あと車で数時間の距離の森が、約一センチほどの何かに見える。という事は、その森はどれだけ大きいのか。そんな土地に別荘を持っている彼女の家はどれだけのお金持ちなのか。
《……判ってるとは思うけど、なるべく人目につかない方法で行ってくれ》
ただでさえこの世界に存在しない、こんな目立つ車で行くのだ。注目を集めない訳がない。
それにスオーラは否定したが、王子の手の者が待ち受けていない可能性はゼロでは決してないのだ。いや、十中八九待ち構えている。
そんな面倒ごとが増えるような事態はもう御免である。
昭士のそんな考えがまともに表情に出ていたのか。スオーラはチラリと彼の方を見て小さく笑うと、
「はい。判りました、アキシ様」
背を預けた壁からグッと押されるような圧力を感じた。きっと車が加速したのだろう。


スオーラは数時間と言っていたが、それよりずっと早く森に到着した。きっと「この世界での」車の感覚でいたから、それより遥かに速いキャンピングカーの速度への考えが足りなかったらしい。
あの時はほんの一センチほどだったが、実際近くに来てみるとどこの樹海かと思うほどの規模である。
幸いにして古来からの馬車が悠々とすれ違えるだけの道幅はあるので、車幅が三メートルはあろうかというこのごついキャンピングカーでもどうにか入っていける。
車が森の中に入ると、まだ太陽が高いのにすうっと薄暗くなる。植生が相当濃いようだ。車の窓を閉めているが鳥ののどかな鳴き声が小さく車内に聞こえてくる。
そんな暗さが十分ほど続いたと思ったら、森が急に明るくなった。どうやら開けた場所に出たらしい。
《うわっ……なんじゃこりゃ!?》
立ち上がって前を見た昭士は、顎が外れたのではないかと錯覚するような驚きを感じていた。
《でっか! ナニこれ? ホントに別荘?》
大剣となっているいぶきにも見えているようで、珍しく素直に驚いている。
「はい。避暑のシーズンには毎年二週間ほど来ている別荘です」
スオーラはそう説明しながら別荘の側にピタリと車を寄せて止めた。
彼女は「別荘」と言っていたが……昭士といぶきにはどう見ても「小さなお屋敷」にしか見えていなかった。
二階建ての白い石壁の屋敷。その端から端まで五、六十メートルはある。
そんな屋敷にまるで測ったようにキッチリと配置されている部屋の窓。その数はザッと見ても二十はあった。
キャンピングカーを止めている庭らしきところは芝や植木が綺麗に整えられ、道にあたるところにはきっちり隙間なく石が敷き詰められ、子供用プールより二周りほど大きな噴水まである。
《……これで別荘かよ。スオーラの家の規模を考えたくなくなるな》
自分達庶民とのあまりの感覚の違いに、昭士は別な意味で頭を抱えたくなった。
「この具合から考えますと、昨日か一昨日に庭の手入れをして下さったようですね」
庭の様子を見たスオーラがそう見当をつける。時々管理人が来ると言っていたが、どうやら昨日か一昨日に来ていたようだ。
という事はあと数日は間違いなく誰も来ないとみて間違いないだろう。自分達の来訪が気づかれていなければ。
《さて。とりあえずここで一旦休憩だ。おいスオーラ》
いきなり呼ばれたスオーラは昭士の方を振り向くと、
《今から寝とけ》
そう言われたスオーラは一瞬返事を忘れてしまっていた。少し遅れて、
「あ、あの、アキシ様。別にわたくしは……」
《別に枕が変わると眠れないとか、お気に入りのぬいぐるみがないとダメとか、そういうのはないんだろ。どうせこれから一暴れするって判ってんだ。今から寝とけ。部屋ならあっちに三つほどあるから》
今まで自分がもたれていたドアを指差す昭士。その向こうには細い廊下があり、ベッドのみがあるような狭い個室に小さなシステムキッチン。トイレやシャワールームまである。
ここまで来るとキャンピングカーというよりは動くカプセルホテルだ。そんなものはこの世界にはないので、言ったところで判らないだろうが。
「ですがアキシ様。時間が経てば経つほどあちらに厳重な警戒網を敷く間を与えてしまいます。それが整う前に乗り込んだ方が正解なのでは?」
スオーラの反論ももっともである。至極正論というやつである。だが昭士は、
《確かにそうだけどな。丸一昼夜眠ってないヤツにこれ以上車を運転されたら危ねぇんだよ。居眠り運転やらかしたらシャレじゃ済まねぇぞ》
強い調子でピシャリと言い切る昭士。
スオーラも何か言いかけて口を開いたが、うまい事言葉が出ない。何と言えばいいのか少しだけ迷ったような間が空くと、
「……判りました。仮眠を取る事にします」
《そうか。部屋は内側から鍵がかかるから。ドアのところに青く光ってる部分があるから、それに触れ。赤に変わって鍵がかかるから》
スオーラは「判りました」と生返事すると、細いドアを潜ってすぐ側の個室のドアノブらしき部分に手をかけた時、ドアが横にスルッとスライドして開いた。自動ドアだ。
その光景に思わず身体をびくつかせて手を引っ込めてしまうスオーラ。それから恥ずかしそうにうつむいたまま部屋に飛び込む。それを待っていたように閉まる扉。
スオーラは言われた通りドアノブ(にあたる場所)の少し上に青く光っている部分を見つけ、それに触れた。するとパッと光が赤に変わり「LOCK」という文字が浮かぶ。彼女には読めない字だ。
その途端、急に全身が重くなった。まるで何か見えない物にのしかかられたように。
腕や脚がうまく動かない。骨が重たい鉛にでもなってしまったかのように。
身体を一ミリたりとも動かしたくない。自分の身体がジワジワと石像にでもなっていくかのように。
立っていられない。目を閉じているのに身体がふらふらと安定してないのが判る。
この一日でたまっていた自覚していない疲れが一気に噴き出したのだ。夜通し車の操作法を独学し、わずかなミスも許されない荒っぽい運転をこなし続けたのだ。疲れがたまっていても無理はない。
だがスオーラはそれでもどうにか手探りでのろのろとマントを外して狭い床にストンと落とす。それからベッドに倒れるように身を預けた。
「気持ちいい……」
スプリングの利いたベッドの感触に思わず言葉が漏れ、すぅっと意識が遠のいて行くのを感じた。


昭士は操縦席にある出入口のドアを開けてそこに座り、下から別荘(という名の屋敷)を眺めていた。
建築に関する知識は全く持っていないが、そんな彼ですらこの建物が高い技術でしっかりと作られた物だという事くらいは判る。
周囲から聞こえてくるのは噴水の音と鳥の鳴き声くらい。時折心地よい風がさあっと吹く程度。適度な日光も降り注いでおり、まさしく「過ごしやすい陽気」の中に彼はいた。
そして同時に、この世界に来て初めて味わう「のんびりとした空気」も感じていた。
初めてこの世界に来てからいつも何かに急き立てられ続け、落ち着く暇すらなかった。それがようやくそんな時間を持つ事ができた。
確かにこれから元の世界に帰るために「戦う」事になるのが判っているのだが、その前の安らかなる一時。贅沢な時間というのはこんな感じなのだろうか。
「何もしない」事だけをする田舎の一時。そんな気分になって、昭士はそのまま大きく手足を伸ばして伸びをする。
《……あのさ。こンなのンびりしてるヒマないンだけど》
いぶきが冷ややかに脅迫する口調で昭士に話しかける。せっかくののんびりした空気を邪魔され、少しばかり不機嫌にいぶき(が変身した剣)を小突くと、
《今日あっちだと月曜でしょ? あたし録画したい番組あるンだけど。こンなのほっぽって帰ってくれない?》
いぶきらしい理由である。もっともその番組を録画させられるのは昭士だが。
《道判らない土地勘サッパリない。誰かに聞こうにも言葉も文字も通じない。そんな状況で素早く帰れるかよ》
そんな昭士の言葉に当然いぶきは憤慨し、
《だから、あの女にコレ運転させてその礼拝堂まで行かせればイイじゃない。見張り全員跳ね飛ばすか轢き殺して》
怖い事をサラッと言ってのけるいぶき。むしろ彼女なら絶対にそうしている。自分の目的達成の為なら他人をどう使おうがどうなろうが知った事ではない。それを地でいく性格だからだ。
《こンな無礼な連中にいちいち気を回すあンたの神経が判らないわ。だからいつまで経ってもバカアキなのよ》
実質的に壁を隔てた隣にスオーラがいるにもかかわらず無遠慮な言葉。むしろそういった事こそ聞こえるように朗々と喋るのがいぶきだ。
徒労に終わると判っていても言い返そうと昭士が口を開きかけた時、その動作がピタリと止まった。それから慌てて腰のポーチを探る。そうして取り出したのは携帯電話。
マナーモードによる震え――モーター音の「ブーン」という音が静かなこの空間に意外なほど大きく響く。蓋についた小さな液晶画面には「電話です」の文字。電話がかかってきたのだ。
だが番号を登録してある人物からならその名前が出る筈だ。そういう設定にしている。しかしそれがない。無いという事は「この番号を知っているが、携帯電話に登録をしていない人物」からの電話という事になる。
全く心当たりのない電話に出る義務はないが、昭士は蓋を開いて「通話」ボタンを押した。
気にはなるから。

<つづく>


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