トガった彼女をブン回せっ! 第23話その2
『もうお前の居場所なんてどこにもねーんだから』

《エッセが出た場所が判ったわよ。メリディオーネ地方南部の荒野》
着替え中の所にジェーニオが飛び込んでくる。キャンピングカー運転席に置いたカーナビを見に行っていたのだ。そのカーナビは特別製でエッセがどこに現れたのかを表示できるのである。
その報告を聞いたスオーラが少し困った顔になった。だがすぐに、
[ジェーニオ。アキシ様への連絡は……]
《大丈夫。ジェーニオがすぐ運んでくる》
とジェーニオが返す。もちろんこの発言のジェーニオは、昭士の所にいた「男性体」のジェーニオの事だ。
何とか着替えを終えたスオーラは、ジェーニオ(女性体)と入れ替わるように部屋を出て狭い通路を駆け、運転席に。
キーを入れて回してエンジンを始動。マイクロバスほどの大きさがある上にここ数日は動かしていなかったので、ある程度の暖気運転が必要なのだ。たとえ夏でも。
スオーラは運転席の背もたれに深く身を預け、眼を閉じる。
自分が直接体験した事ではないが、これから向かう予定のメリディオーネという地方では、先日自分のニセモノを語る女が出没し、詐欺を働いていた事件があったそうだ。
ニセモノは既に逮捕・拘留されてはいるが、現代と違って情報の伝播が遅い筈。まだまだ自分達本物を「ニセモノ」と思っている人が多そうなのである。
もちろんそこに住む住人達を戦いに巻き込みたくはないが、何らかの協力は必要不可欠。
いくら一宗教団体のバックアップが得られるとはいえ、そんな住人達が素直に協力をしてくれるかどうか。これは相当苦労しそうだとスオーラは思った。
そんな事を今から考えていても仕方ないのであるが、これも性分だと思い直す。
運転席にジェーニオ(女性体)がやって来る。その手には布が巻かれた金属の棒が。正確には柄のない短剣の刀身である。オルトラ世界でマーノ・シニストラと呼ばれる「防御に使う」短剣だ。
『何かあったんでありんすかぇ?』
短剣からゆったりとした女の声がする。スオーラは眼を開けてその短剣に向き直ると、
[ジュン様。どうやらあちらの世界でエッセが現れたようです。ご助力願えますか]
『判りんした』
ジュンと呼ばれた短剣はそう短く答えた。
この短剣もスオーラ達と同じ「別の世界での姿」を持っている。性格もこうしたゆったりとした花魁口調から、単語をただ並べ立てたような喋り方になる。
姿も小柄な黒人の少女となり、外見からは想像できないパワーとスピードは戦いにおいて非常に頼りになるし、純粋な子供のような言動は周囲の人々を和ませる。
このジュンのように外見も内面も変化してしまうパターンもある。自分やいぶきのように外見だけ変わる者もいる。そして、
《準備はできているな。行くぞ》
「悪い、遅くなった」
路線バスのような縦長の扉を押し開け、ジェーニオ(男性体)が入って来た。ところがそう声をかけた昭士は入口の前で立ったままだ。
昭士は既に変身しているらしく、いつものドモり症が見られない。
だが服が以前のような「つなぎ」のままである。先日は(昭士曰く)特撮ヒーローのような姿に変わっていた筈。
昭士にもその理由は判らない。ある程度の事はムータ(に宿る精霊のような存在)が教えてくれるのだが。
だがあの特撮ヒーローの姿はハッキリ言って目立つし、頭はむき出しなので意外と恥ずかしい。このつなぎ姿の方がまだ良いのである。
今日に限っては小さめのリュックサックを背負ってはいたが。
[アキシ様。イブキ様は……]
「ああ、もう来るよ」
昭士はそう言って、キャンピングカーの背後に回る。
その時、聞き覚えのある声が小さく聞こえて来た。それはだんだん大きく――元々怒鳴っているのだから大きいのだろうが、聞きたくなくてもハッキリ聞こえるボリュームになる。
それもその筈。昭士が戦士の姿になった事により、いぶきは巨大な剣の姿に。その状態であれば昭士のキーワード一つで「飛んで」来るのだ。文字通り。
幸か不幸か今までいた刑務所を叩き出されたばかりだというので、気兼ねする必要は全くない。必要なのは実の両親に「これからしばらく留守にする」という連絡くらいだ。
昭士は何か文句を言いたそうないぶき、いや、巨大な剣「戦乙女(いくさおとめ)の剣」の柄に浮き彫りにされた、両腕を広げた裸婦像の顔面に拳を叩き込むと、
「もうお前の居場所なんてどこにもねーんだから、諦めて来い」
昭士はキャンピングカーの後ろにある細い扉を開け、二メートル以上の長さを持つ大剣をどうにか車内を縦に貫く通路に入れた。
相変わらずギャーギャーとうるさいいぶきだが、昭士は無視して作業を進める。
車のドアをキッチリと閉めてから、昭士は狭い通路を通って運転席に出た。それなりの広さを持つ運転席だが、四人も入れば相当キツイ。なのでジェーニオ達は身体を小さくして待っていた。
スオーラは昭士が来るのを待って、車を走らせる。車は駐車場を出て校内をゆっくりと走って行く。
「スオーラ。向こうは大丈夫か?」
街灯と車のヘッドライトが夜の道を照らす中、昭士はそう訊ねた。
この世界とオルトラ世界は微妙に位置関係がリンクしているらしい。だが道路や建物まで同じという訳ではない。
世界を移動した時にとんでもない場所に出る可能性ももちろんある。そのため大丈夫な事が判っている場所に出た方が良いのだ。昭士の心配の理由である。
[こちらの世界と違って、オルトラ世界の夜は早いですから。このくらいの時間になれば……]
スオーラはハンドルを器用に操りつつ、各種メーターの中にある時計をチラリと見る。その時間は夜の八時半頃。現代のような満足な明かりもないようなところは、既に人々は就寝している。町の人を撥ねたり轢いたりする心配はないだろう。
校内を走ったキャンピングカーは、やがて剣道部が使う剣道場の前で止まった。この位置から剣道場に向かうと、ちょうどあちらの世界の教会横のスペースに出るのだ。
スオーラは自分が着ている、縫製パーツごとに色が全くバラバラな妙なジャケットのポケットから一枚のカードを取り出す。それは自分を魔法使いの姿へと変えるムータである。
彼女はそれを車の中から外に向けて突き出した。
指でガラスを弾いたような澄んだ音が辺りに響いた。同時にムータから四角い光が照射され、目の前の壁を四角く照らし出す。
照らした光はみるみる大きくなっていき、青白い光を放つ光の扉へと変化した。扉というよりはトンネルと言った方が正確か。
それを確認すると、スオーラはゆっくりと車を発進させた。壁に向かって。
もうだいぶ慣れたのだが、もし万一壁にぶつかってしまったら。剣道場を壊してしまったらという心配が未だに抜け切っていない。
だがキャンピングカーは何のトラブルを起こす事もなく、その光のトンネルの中に吸い込まれ、見えなくなる。
それと同時に光のトンネルも消え失せた。最初からなかったかのように。


青白い光のトンネルを抜けると、そこはさっきと同じ夜の世界だった。
とはいえ先程と比べればずいぶんと暗い。それは街灯がないからである。オルトラ世界は日本と比べて百年は文明が遅れている世界のためだ。
だが、細く開けた窓から差し込む風。そして運転席から広がるその景色は、確かにオルトラ世界の物である。
キャンピングカーが抜けた先はいつも通り小さな教会の中庭――正確には二棟の建物に挟まれた小さな庭である。
スオーラが言っていた通り人気は全くない。近くには酒場や食堂があるとはいえ、まだ夜の九時前。こちらの夜は本当に早いようだ。
そんな風に辺りを見回しているスオーラだが、こちらの世界に戻った事で、本来の姿に戻っている。
背の高いモデルのような体型から一転。スレンダーで中性的な少女になっている。服もチグハグさが目立つ物からボタンのない学生服のような僧服に変わっている。
「本来であればどなたかから情報を聞きたいところではありますけど……」
こんな調子では教会の人間も寝ているかもしれない。さすがにそこを叩き起こして情報を入手するのはためらわれた。
確かにこちらの世界にエッセが現れたとはいえ、それほど長い時間いられる訳ではない。そうして一度姿を消しても、また同じような場所に現れる事は既に判っている。
それならば夜のうちに移動しておくのもありだろうが、どのくらいの時間がかかるか判らない。それなら明日に備えてゆっくり休んでおくか。どちらでも良いような気がする。
昭士は半分男半分女の姿になったジェーニオに聞いてみる。
“この程度なら、我が運ぶ事は雑作もないが”
“この程度なら、我が運ぶ事は雑作もないが”
男女が一度に喋っているような混ざった声でジェーニオが説明する。
以前機関車の貨物車両を丸ごと一つ持ち上げて何百キロも飛んでいたくらいだ。こんな小さなキャンピングカーなど朝飯前だろう。
一方人間の姿に戻ったジュンは入口そばの壁にもたれて座ると、元気がなさそうな細い声で、
「食べたい。ごはん」
「戴いた野菜で良ければありますよ。持って来ましょうか?」
スオーラの申し出にジュンはブンブンと勢い良く首を横に振っている。これは彼女達の村では「YES」の意味の仕草。昭士達日本では「NO」の意味なので正直ややこしい。
昭士の世界では短剣になっているゆえに何も食べなくても大丈夫なのだが、さすがにオルトラ世界で人間の姿に戻っては腹も減る。生きている人間なら当たり前の話だ。
一方の昭士は、こちらの世界へ来ると何も食べなくてもしばらくは大丈夫になる。もちろん勧められた時には食べるが。
ただ。スオーラが言っている野菜はあちらの世界で貰って来た物だ。オルトラ世界に来て姿形が変わっているかもしれない。下手をすれば「存在できない物」として消えている可能性だってある。
昭士のそんな心配をよそに、スオーラが持って来たのはトウモロコシだった。しかもあちらの世界そのままの形だ。
スオーラが言うには、これは既に茹でてあり、あの大きな袋の中でさらに別の袋に入っていたという。
スオーラ自身はあちらの世界で初めて知ったそうで、こちらの世界、もしくはスオーラの国にはトウモロコシはないようである。
トウモロコシを差し出されたジュンはきょとんとしている。おそらく彼女も見た事がないのだろう。確かに彼女が住んでいた深い森にはトウモロコシはなさそうだ。知らなくても無理はない。
だが食べ物だという事は理解できたのだろう。そのまま口を開けて食べようとした時、
《おいジュン。それは表面の黄色い粒だけを食べるんだ。指で取るなり前歯でかじるなりして食え》
やっぱり食べ方を知らなかったかと、昭士が忠告する。するとジュンは素直にそれを聞き入れ、前歯を使って器用にガリガリとかじり出した。
「甘い」
前歯で器用に実を外し、口一杯に頬張って噛み砕く。その表情は実に幸せそうである。美味しそうに食べる人間は数多いだろうが、幸せそうに食べる人間となるとそうでもない。
この辺りがジュンが好かれる部分なのだろうと思った。
ふとそこで昭士が入口の方を見た。こちらにやってくる人を「確認」できたからだ。
それから数秒は経ってから、その人影がキャンピングカーの入口の前に立った。昭士はスオーラに向かって客が来たと言うと、彼女は急いで扉を開けた。
「お久し振りでございます」
「カ、カヌテッツァ僧様。大変ご無沙汰致しております」
スオーラは帽子が変化した鉢巻きを、慌てて額が見えるようにぐいと上げてみせた。それはこの世界では「額には神を見るための第三の目がある」という考え方があるため、僧侶は階級に関わらず額を開けなければならないらしい。
カヌテッツァ僧と呼ばれた中年の女性はスオーラのその仕草をとがめる事もなく、昭士やジュンを優しそうな表情で見やると、
「皆様、ドウゾコチラヘ。スグニオ茶ノ準備クライハ致シマスノデ」
少々固めの発音の日本語≒こちらの世界のマチセーラホミー地方の言葉で一同にそう言うと、一同はキャンピングカーを下りてカヌテッツァ僧の後に続く。
特にジュンが元気良く食べかけのトウモロコシを持ったまま、カヌテッツァ僧に着いて行く。
ジュンは人種的には典型的な黒人だ。おまけに薄汚れたポンチョのような貫頭衣(かんとうい)の下は、最近着るようになった木綿のシャツに膝丈のスボンのみ。それ以前はふんどし一つだけという姿だ。
おまけに髪の色は真っ白で、お手入れなど一切していない、伸ばし放題のザンバラ頭という文明からは程遠い格好であった。
一方のカヌテッツァ僧は人種的には白人が一番近く、信仰するジェズ教最高責任者の片腕という地位の人物だ。
そしてまだ四十歳ほどの年齢にも関わらず髪の色は真っ白である。別に老けている訳ではなく、単に元々こういう色らしい。
そんな「年齢不相応の白い髪」という共通点からか二人の仲は結構良好であり、まるで本当の親子のようでもある。「大人しくしていないとご飯をあげませんよ」という形ではあるが、ジュンが町の常識などを少しは覚えられたのも彼女のおかげである。
教会内の一室。おそらく応接室のような場所に案内されてしばし待つ。昭士達が大人しく待っている中、ジュンは食べ残していたトウモロコシを平らげにかかっている。
前歯でガリガリとやると一つ一つ上手く取れずに皮だけ残ったり実が中途半端に残ったりするものだが、さすがに初めてだけあって、残り方がだいぶ多いのは仕方あるまい。
昭士は電気より若干暗めの明かりの中、部屋を見回していた。相変わらず殺風景に近いくらい何もない部屋だと思っていた。
ここは応接室(?)とはいえ一宗教施設。宗教画というのだろうか。そういった物が何もないのだ。
聖堂だか礼拝堂の天井にはそうした絵があった筈なので、神様などの絵を描いたり彫刻を作ったりする事が禁止されているとは思えない。
それならばこうした部屋にも神様などの絵がもっと飾られていても良いのでは。もちろん昭士には絵の良し悪しなどまるで判らないから、あってもなくても変わらないが。
だがこちらの世界の印刷技術はそれほど高くはなさそうだし、たくさんの絵を印刷・販売するという商売自体が成り立つまい。そんな風にも考えた。
昭士は「ああそうだ」と言いたそうに携帯電話を取り出すと、親にこの事を連絡するメールを出した。向こうも昭士達の事情は話してあるので、心配はしているが止められる事はない。
その様子を見たスオーラは自分の携帯電話――オルトラ世界ではゴツイ腕時計のような外見になってしまうが――を取り出して、
「アキシ様。実はわたくしの携帯電話にメールが来たのですが……」
その言葉で昭士はスオーラが何をしたいのかすぐに判った。日本語が読めない人間に日本語でメールを送っても仕方ない。
《けど、確かジェーニオが訳したんじゃなかったか、お前の携帯の文字?》
昭士の言う通り、日本語の表記を彼女の国の文字に翻訳・表示するように中身をいじったと聞いていたが、送られて来たメールは翻訳されないのだろうか。
“メールを見ようとした時に、エッセ出現の合図があったのだ”
“メールを見ようとした時に、エッセ出現の合図があったのだ”
というジェーニオの声に昭士も納得する。スオーラはどうにかメールの受信フォルダを開くと、メールのタイトルを読み上げ始めた。
「『この方法を実践すれば、一日二十万円儲かります』」
《おーい、それスパム》
スオーラの読み上げを慌てて止める昭士。ジェーニオもそこまで聞いてから、
“そうだろうな。では次だ”
“そうだろうな。では次だ”
と続きをうながす。だがスオーラは、
「えっ。これが話に聞いていた『すぱむめーる』という物なのですか!?」
と、興味津々な眼で思い切り食いついて来た。そして本文を表示させようとする。
確かに一度くらいは見てみたいという好奇心は判らないでもないが。昭士は彼女の手をやんわりと止めてやると、
《まだメール来てるんじゃないのか? 全部読んでからにしろよ》
「あ、そ、それもそうですね」
どことなく気恥ずかしそうな顔で、再度画面に目を通す。
「『主人がミナミアフリカダチョウに殺されて1年が過ぎました』」
《それもスパム!》
さっきと同じようなタイミングで昭士が読み上げを止めさせる。昭士は小さく舌打ちしてスオーラを見ると、
《なぁスオーラ。最近誰かに携帯電話の番号とかメールアドレスとか教えた? それともどこかのサイトとかキャンペーンに登録したとか?》
そうした直後にこうしたスパムメールが来るケースもあるからだ。だが良く考えれば、スマートフォン全盛のこの時代に、携帯電話(ガラケー)用コンテンツはドンドン無くなっている。後者はおそらくないだろう。文字が読めない彼女が自分からそうしたサイトにアクセスするとも思えないし。
おそらく原因は、内部情報をばらまくタイプのウィルスかニセアプリ。幸いスオーラのそうした個人情報を知っている人間はかなり限られる。もしそうだった場合は注意の喚起もまだ楽だろう。
もちろんパソコンで無作為なメールアドレスを何万通りも作成してスパムメールを一気に送信した可能性もあるが。
メールはまだあるようで、そうした対策を言うのは読み上げが終わってからにしようと、昭士はスオーラに続きを読むよう言った。
「『枝豆は傷みやすいから』」
スパムが続いていただけに、そのあまりの生活感にあふれたタイトルに昭士がコケそうになる。むしろこれは本文である。
スオーラから画面を見せてもらうと、携帯電話の番号でメールを送る、いわゆる「ショート・メッセージ」だと判った。
《え、枝豆? それに堂良人? 誰これ?》
差出人の名前を見た昭士がスオーラに訊ねると、
「学食の職員さんの一人で、堂 良人(どう よしひと)様です。という事は、今日戴いた野菜の事でしょうか。ですが、豆があったようには……」
スオーラが中身を思い出しつつ首をひねる。その様子を見た昭士が閃いた。
《スオーラ。ひょっとして枝豆って何の事か知らないんじゃ?》
枝豆というのは決して珍しい食べ物ではない。簡単に言えば成長途中の大豆である。
昭士は最近知った知識だが、枝豆を食べるのは日本や中国くらいで、それ以外の国では「珍しい食べ物」扱いらしい。だからそのまま「EDAMAME」で通じるそうだ。
さすがにこのオルトラ世界にも豆くらいはあるだろうが、一口に豆といってもその種類は様々。枝豆に相当する物がない=知らない可能性は充分考えられる。
《緑の莢がゴロゴロ入った、多分ビニール袋。そんなのなかったか?》
「……ああ。確かにありました。先程トウモロコシを持ってくる時、袋の中にありました」
この物言いからすると、やっぱりスオーラは枝豆を知らないようだ。
カンカンカン。
そんな部屋に涼やかに響く金属音。いわゆる呼び鈴である。
こうした教会の部屋の入口には小さな釣り鐘が付いており、それがいわゆるノックの代わりになっている。部屋の外から三回鳴らし、次に部屋の中から三回鳴らし、それからドアを開ける。良く判らないがそういう決まりらしい。
「オ茶ヲオ持チ致シマシタ」
サービスワゴンを押してやって来たカヌテッツァ僧。そのワゴンにはティーポットと人数分のカップ。それからジュンがとても気に入ったという「コニトナ・ノラカークニ」と呼ばれる焼き菓子を乗せた皿も。
もちろんジュンの眼が輝いたのは言うまでもない。だが「大人しくしていないとご飯をあげませんよ」というしつけのおかげもあり、さすがに飛びかかってくるような事はない。
カヌテッツァ僧は焼き菓子を乗せた皿をジュンの前に置いてから、お茶の準備をする。
お茶といっても今は夜だ。飲み過ぎるとカフェインの効果で逆に眠れなくなってしまう。そのためカフェイン少なめのブレンド茶を用意したという。
カヌテッツァ僧は準備するその手を止めずに、
「皆様、今日ハドノヨウナゴ用件デヤッテ来ラレタノデスカ?」
釣り鐘を鳴らすため席を離れていたスオーラは静かに座り直すと、
「エッセが現れました。場所はメリディオーネ地方南部の荒野だそうです」
さすがにその報告には、彼女の表情がこわばった。実はこの町も一度エッセの襲撃を受けているからだ。金属にされた者はいなかったが、その時出現した個体があまりに巨大な物だったので、町の一部と何人かの市民に犠牲が出てしまった。
昭士やジュンには聞き取れない、何か祈るような呟きを一つ漏らすと、
「めりでぃおーねト言エバ、先日ヤッテ来タあっこー僧りと殿ガオラレル場所デスネ」
アッコー僧リトとは、スオーラのニセモノが出現した際に、この町にやって来た老僧である。頑固な性分なのか年齢のせいか、本物のスオーラをなかなか本物と信じてくれず、大変な思いをしたのだ。
地位も侍祭長(じさいちょう)というそれなりに高い地位の人物だ。メリディオーネ地方に出向くとなれば、スオーラ達の行動は必ず彼の耳に入る事だろう。
真犯人逮捕で誤解は解けたとはいえ、会って頼りにしたいと思う人柄では、残念ながらない。
「それから、この国の小さな村に、ムータらしき物を持っていた旅人の姿が報告されている、と」
スオーラの口から出た言葉に、カヌテッツァ僧は申し訳なさそうに準備の手を止めて頭を下げると、
「ハ、ハイ。確カニソノ報告ハ伺ッテオリマス。今詳細ヲ問イ合ワセテイル所デゴザイマス」
しかしスオーラは一切怒る事も責める事もなく、
「場所は判りますか?」
「めっぜりーあ地方デゴザイマス」
メッゼリーアというのはこの国の中央付近の呼び名らしい。
《場所が違うのか。さすがにその辺は都合良くいかねーか》
場所を聞いた昭士が椅子の背もたれに寄りかかる。同じ場所だったら一度で済んだのだが。
その辺りは昭士も言った通り「都合良くはいかない」のだ。いつもの事だが、世の中とはそんな物である。
《どっちにしろ今から出発って訳にもいかないしな》
昭士の視線の先では、ジュンがさっきと同じような顔で、焼き菓子を食べている。それもリスのように前歯で小さくカリカリとかじっていた。それはまさしく一服の清涼剤と呼べる物だった。
その幸せそうな顔は。

<つづく>


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