トガった彼女をブン回せっ! 第2話その3
『あの女の人は来てないのか?』

「フーン。コレがそのカードな訳か」
昭士の目の前で「変身」するために必要なカードを観察しているいぶき。あちこち角度を変えて、よく判らないながらもふんふんうなづきながら。
その様子を見て初めて、彼は自分が持っていたカードを奪われた事を理解した。凄腕のスリも真っ青になる光景である。
「思ってたよりも重いわね。ナンか変な文字みたいなのがビッシリ書かれてるンだ」
いぶきの言った通り、そのカードの表面には文字のようなものがビッシリと刻まれている。それは実際に文字なのだが、いぶきや昭士はもちろん読めないものだった。
「あの時、コレで変身した訳か」
《イブキ様。何をされるかは判りませんが、あなたではそのムータを使う事はできませんよ》
スオーラが真剣な表情でそう告げた。
《ムータに書かれた文字を見る限り、軽戦士に変身するよう登録されたのはアキシ様です。イブキ様はその武器として登録されています。従って、使う事ができるのも、戦士であるアキシ様だけなのです》
「ナンですってぇ!?」
いぶきはあまりの驚き具合に、口がぽかんと大きく開けっ放しになってしまっていた。
まさしく「烈火のごとく」という形容そのものの怒りの声をあげるいぶき。勢いあまって周囲の椅子や長机にあたり散らしている。叩き壊しそうなくらいに。
ところが。そんな誰も近寄れない程の激しい怒りが、まるでプツッとスイッチを切ったように治まってしまった。
それからうんうんうなづきながら、何か悪巧みを思いついたような笑みを小さく浮かべている。
その笑みに真っ先に気づいた昭士が慌てて彼女に詰め寄った。
「! いぶきちゃん、カカカードを返……」
「訳ないでしょ、バカアキ」
カードを奪い返そうと伸ばした昭士の腕に、いぶきは力一杯の手刀を叩きつける。それからヒラリと彼から離れると、
「じゃあコレが無かったら変身できない訳ね。なるほどなるほど」
そう言いながら、わざと勿体ぶったスピードでカードに両手をかけるいぶき。そのままカードを折るぞというリアクションである。それを見たスオーラも必死の形相でいぶきに駆け寄ろうとする。
《イブキ様、止めて下さい!》
しかしいぶきは、彼女の必死の形相がおかしくてたまらないといった感じで、迫ってきたスオーラを蹴り飛ばす。倒れる様子を得意そうに眺めながら、
「そう言われると、ますますやりたくなるわねぇ。へし折って壊しちゃえば、あたしが剣にされる事もないし。万事めでたしめでたしじゃない」
「い、い、いぶきちゃん!!」
解決法が見つかって満面の笑みを浮かべるいぶきに向かい、昭士が大きな声で怒鳴った。しかも驚く事に、その怒鳴り声でいぶきの動きが止まったのだ。一瞬だったが。
「そ、そ、それは、もうに、にに二度と作れないものなんだ! 壊しちゃダメなんだよ!!」
しかしいぶきは昭士と正反対の無関心の表情で、
「あっそ。それこそあたしの知った事じゃないわ。そもそもあたしをあンな剣にしようだなンてふざけンじゃないっての」
《イブキ様、危険です!!》
スオーラの真剣な叫びも空しく、いぶきは一気にカードをへし折った。もっとも九十度近くまで折れ曲がっただけで、真っ二つにはならなかったが。
「あだだだだだだだだだだっっっ!!!」
だが、昭士やスオーラはもちろんの事、悲鳴を上げるいぶきを見た一同は全員頭の中が「?」マークで一杯になっていた。
いぶきの背が九十度近くのけぞっていたからだ。折り曲げたカードを持ったままで。
何を好んでそんな状態になっているのか。ウケを狙うにしては何の面白味もないポーズである。
驚いているのはいぶき本人である。
「な、な、ナニこれ。ナンであたしの身体がこンなになってンのよ!」
ものすごい痛みをこらえつつ不安定な体勢で叫ぶいぶき。だがその拍子に後ろにひっくり返ってしまう。
どうにか身体をひねって頭から落ちるのだけは避けた。だが不思議な事に、後ろに折れ曲がった体勢だけは全く変わらない。
ひっくり返った拍子に離してしまったカードをスオーラが拾い上げた。
《安全装置が働いてしまったのですね。ムータを盗んだり破壊しようとすると、その人はムータと同じ目に遭ってしまうのです》
カードを九十度近く折り曲げてしまったため、それをやったいぶきの身体が同じように折り曲げられてしまったという訳だ。
《イブキ様は武器に変身する者としてムータに登録されていますから、盗んだくらいでは害はなかったのでしょうが……》
そしてカードをいぶきに改めて持たせると、
《ムータを折り曲げたイブキ様がムータを元に戻せば、イブキ様の身体も元に戻ります》
他人の言う事に従うのはいぶきにとって相当の屈辱だったようだが、このままではどうにもならないと、手に力を込めてカードを元のようにまっすぐに直していく。
するとカードの動きと完全にシンクロして、いぶきの背中が元に戻っていく。元に戻った事を確認したスオーラは、改めていぶきと正面にしゃがみ込むと、もう一度いぶきに同じ事を説明する。
《先程も申し上げましたが、ムータの持ち主がアキシ様だと登録されています。一度登録されると、もう登録された本人でなければ使う事はできないのです。変更もできません》
いぶきは当然怒りだし、その勢いで膝立ちになってスオーラに迫る。
「じゃああたしはこっちの都合お構いなしに剣にされるって事!? しかもよりにもよってバカアキなンかに!? ナンであたしがバカアキごときに使われなきゃならないのよ!? 冗談じゃないわよ!!」
《ですから、先程から再三申し上げている通り……》
ただでさえ怒りで聞く耳を持たないいぶきに、同じ説明を繰り返すスオーラ。堂々回りである。
何度目かの堂々回りを経て、いぶきはいら立ちを隠そうともせず立ち上がると、そのカードを地面に叩きつけた。
地面に叩きつけた途端、いぶきの全身がビクンと震えて「痛っ」と小さい悲鳴が上がる。しかし他人に弱味を見せまいと無表情を作ると、
「もういい。話の通じないヤツを相手にするのは時間の無駄だから、帰る」
そのまま鞄を鷲掴みにして、お構いなしといった風情で食堂を出ていく。まだ事情聴取などが終わっていないので警察官が呼び止めるが、そんなものを聞く性分ではない。
「あいつがいない方が、もっと早く片づいた気がするなぁ」
鳥居が警察官にあるまじき発言をし、先輩警察官から睨まれる。
その視線から逃げるように時計を見ると、もう夜の八時になろうとしている。事件の当事者とはいえ、これ以上未成年を拘束する訳にもいかないと判断し、
「アキ。済まないが、あのお嬢さんから聞いた事をレポートか何かにまとめてくれないか。その方が早そうだ」
その鳥居は昭士のそばにそっと近寄ってそう頼んだ。
そして、この場は解散と相成った。


長い長い一日が終わり、翌日。
あんな事があったとしても、それは大部分の人間には全く関係のない事である。そのため、どの学生にもいつも通りの学校生活が待っている。
学生の一人である角田昭士は眠い目を擦りながら自宅を出た。
未だ眠そうなのは寝不足の為だ。律儀にも、夕べのスオーラとの会話をレポート用紙に書きまとめていたからだ。
あまり上手とは言えないし、ところどころを思い出しながらだから効率も良くなく、時間ばかりかかってしまったのだ。
それでも一応レポート形式にまとめてはある。出来の方は正直いいとは思っていないが、やむを得ない。
本来ならスオーラに話を聞きながら書くべきだったのだが、あの場所で解散を告げられると、彼女はまるで逃げるように自分の世界に帰って行ってしまったので、それも無理だった。
(何で急に帰ったんだろう。門限でもあるのかな)
などと、おそらく的外れであろう解答で胸中で片付ける。
(今日もまた来るようなら、もう一度聞いてみようかな。レポートが間違ってたら困るし)
その辺の気遣いは、妹いぶきとの決定的な違いである。頼りにされる人の良さがちゃんとあるのだ。
その時、背中に激しい衝撃を受け、昭士の身体がいきなり前に吹っ飛ばされた。
いきなりだったので受け身も取れず、数メートル先に顔面から突っ込んでしまう。背中が痛くて息をする事もままならない。
咳き込みながら立ち上がろうとすると、何かが上から叩きつけられた。
「昨日はよくもこのあたしにあれだけの事してくれたわね? バカアキの分際で」
聞こえたのは妹いぶきの声だ。それもかなり怒りを秘めている。おまけに背中に強い圧力を感じる。多分片足で強く踏みつけられているのだ。
「本当なら蹴り殺すとこだけど、あたしもあンた程度のバカを殺して前科がつくのもバカらしいからね。この程度で済ませてあげるわ……よっ!」
背中の圧力がなくなった直後、昭士は脇腹に鋭い痛みを感じた。爪先が入ったのだ。その勢いで身体がゴロリと半回転し、仰向けにさせられる。
そして、まだ息が整い切ってないうちに、いぶきの身体がふわりと浮いた。そしてそのまま昭士の上に――
「ぐっ!!」
全体重をかけたいぶきの肘が、昭士のみぞおちに綺麗に入った。食べたばかりの朝食を吐きそうになるのを懸命に堪える様を見て、いぶきはさも楽しそうにケラケラ笑うと、
「選ばれた戦士だかナンだか知らないけどね。そンな風に不様にひっくり返って泣き喚いてるのが、あンたに相応しい『立ち位置』ってヤツなの。判る?」
そう言いながらいぶきは、昭士の制服のポケットを漁り出し、中の物を次々に取り出していく。
ハンカチ。携帯電話。生徒手帳。そして――変身するために必要な、あのカード。
彼女は携帯電話とカードを取り上げると、ハンカチと携帯電話はスカートのポケットに。カードの方は、何とセーラー服の胸元から服の内側にしまい込んでしまったのだ。
これがもしスオーラのように胸が大きければその谷間に挟んでいるかもしれないが、まだまだ子供の域を出ないスタイルではそれも無理だ。
「か、かか、返して……」
「うるさいっ!」
いぶきは昭士の腰をガツンと蹴り飛ばすと、
「人の事を勝手に剣にするようなアイテム持たされて、いい気分がする訳ないでしょ? そのくらい頭働かせなさいよ。だからあンたはバカアキだってのよ。おまけにあンたじゃないと使えないって言うし、壊す事だってできやしない。そうなったらあたしが管理するしかないでしょ。大丈夫。必要な時はちゃンと返すから」
だがいぶきがそう言って返した事はただの一度もない。そうやっていぶきに取られたままの物は数知れない。おやつから小遣いにいたるまで。
だから昭士は取り返そうと懸命に立ち上がる。
「き、昨日もいい言っただろ!? それはもうに、にに、二度と作れないんだ。た、た、たとえいぶきちゃんでも、他の誰かに渡す訳には、いか、いか……」
昭士の顔面にいぶきの拳が叩き込まれる。無論手加減抜きだ。
「イカがなンだっての、バカアキ」
彼女は殴られた勢いで後ろの塀に頭をぶつけた昭士の顔面に、もう一回拳を叩きつける。
「あンたの事情なンかどうでもいいの。このあたしがあンたみたいなヤツに『使われる』ってのが、どれだけみじめで、情けなくて、屈辱的で、絶望的なくらいの恥だって事を理解しろって言ってンのよ」
更に叩きつけた状態で何度も拳をグリグリと擦りつける。たまらず昭士がその腕を掴もうとすると、寸前で素早く腕を引く。
判っていた事だが、明らかに昭士に分が悪い。
今の彼女には相手の動きをゆっくりに感じ取る力があるのだ。それも目に見えていなくとも。そして今の昭士は本来の身体能力を一割も発揮できない。どちらに有利かは明白である。
ただでさえいぶきの辞書には「加減をする」という項目が存在しないのだ。一度ケンカになれば、相手を徹底的に打ちのめすまで止めないし、止める気もない。
「さて。これ以上やってたら遅刻するから、これで終わりねっ!」
素早く振り上げた彼女の右足が、昭士の股間に鋭く突き刺さっていた。
彼女の文字通り仮借のない一発によって、昭士はあっさりと気を失ってしまった。
靴の爪先を昭士のハンカチで念入りに拭き取ってから投げ捨てると、いぶきはこれ以上ないくらい晴れやかな笑顔でその場を立ち去った。スキップまでして。
……そんな昭士が学校に大遅刻した事は、言うまでもないだろう。


昼休み。
大遅刻を担任教師にしかられ終わった昭士が、ようやく解放された。
「高校生にもなって、妹にやられるとは情けない」と、年輩の女性教師はくどくどとお説教をしたおかげで、昭士のテンションはこれ以上ないくらい下降し切っている。
もっとも、担任教師はいぶきの能力というか特異体質の事は何も知らないのだから、そう見えても無理はないだろう。
だが、どんなに適わなくても、いぶきに奪われた携帯電話とカード――特にカードは取り返さなければならない。
あのカードがなければ、また昨日のような化物が現れた時に、戦う事はおろか何もできなくなってしまう。
別に正義の味方を気取る気はないが、何かできるのに何もできないというのは嫌だった。
昭士が職員室から出ると、そこには剣道部の先輩達が何人も立っていた。部長の沢の姿まである。
「な、なな何か?」
いきなりの事に、昭士はそう訊ねるのが精一杯だった。実は若干腰が引け気味である。
昨日はいぶきに仕返しするための「人質」にされているのだ。昨日の今日で恐怖感が先に立っていてもやむを得ない。
彼らの目つきは真剣そのものだが、殺気立っている訳ではない。そんな目をした彼らのうち、沢が一同を代表するかのように、
「今日は、あの女の人は来てないのか?」
あの女の人とは、もちろんスオーラの事だろう。
昨日の戦いが終わってからの彼らのテンションは、今思い出してもこちらがドン引きするくらいの勢いだった。
しかし、昭士は彼女があのカードを使って別の世界から来ている事くらいしか知らないのだ。それ以外にも見習いの僧侶である事は聞いているが、本当にその程度だ。
(そう言えば、俺も彼女の事はホントに何も知らないんだな)
改めてそんな事を考える昭士。
「き、きき、来てないよ。というより、しし知らないよ」
「本当か? 隠し立てすれば只では済まんぞ?」
部員の誰かが、時代劇めいたわざとらしい口調で脅すように念を押してくる。それでも知らないものは答えようがないので「知らない」と言うしかない。
途端に部員全員が落胆の表情でブツブツ言いながらゾロゾロ立ち去り出した。さっきまでの真剣そのものの態度とのギャップに、昭士の方が呆れると同時に無理もないと納得もする。
妹いぶきの言動のせいで他の男子より「女性」というものに関心が持てない昭士ではあるが、スオーラが女性として充分魅力的なのだろうという事は判っているのだ。
男としてはそんな女性と仲良くなったり彼女にしたいと思う方が普通かもしれない。
中には「さっさと呼べよ」と毒づく者までいる程だ。
(別に呼べる訳じゃないんだけどな)
という本心は口に出さないでおいた。
そこで唐突に校内放送を告げるチャイムが鳴った。一同何となく動きを止めて放送に耳を傾ける。
“一年一組の角田昭士。至急武術棟の峰岸(みねぎし)のところまで来なさい。繰り返す……”
武術棟とは、昨日の現場となった剣道場がある建物だ。他にも柔道場や更衣室、体育教師の準備室などがある。今いる職員室からはちょっと遠い。
本当はいぶきにカードや携帯電話を返してもらってから行きたかったのだが、そちらの方がはるかに時間がかかると考え、先にそちらに向かう事にした。
昭士が武術棟に着いた頃には、昼休みも残り少なくなっていた。
先程まで担任教師にたっぷりと叱られていたので、彼はまだ昼食を食べていない。だがこの調子ではその時間もなさそうである。
体育教師の準備室のドアをコンコンとノックする。
「みみみ、み、峰岸先生、かく、かかく角田ですけど」
ガラにもなく緊張し、いつも以上に酷いドモりになってしまう。部屋の中から「早く入れ」と声がした。
ドアを開けると部屋の中には体育教師の峰岸――昨日の事件を最初に目撃した体育教師である――と、もう一人いた。
何と、ここにいる筈のないスオーラである。
彼女は昭士を見ると、にっこりと笑顔を浮かべ、こちらに駆け寄ってきた。昨日と全く同じ格好で。もっともボロボロだった丈の短いジャケットは新品同様になっていたが。
「∞≦【♀′●⇔∃※@」
スオーラから発せられた言葉は、やっぱり訳の判らないものだった。今朝いぶきに奪われたカードがないとやはり言葉は通じないようだ。
「≒#≪&∽§‡⇔□÷」
相変わらず彼女の言葉は続いているが、こっちが無反応なのを感じ取ったのか、浮かべていた笑顔が少し曇った。
昨日と違うリアクションなのを教師も感じたのか、
「オイ角田兄。どうしたんだ。何て言ってんだ?」
そう訊ねるものの、昭士は口を開かない。いや、開けない。
現在言葉が通じていないとはいえ、二度と作れないカードを「取られました」と言うのが、どうしてもはばかられた。
いくら「能力」を持っているいぶきが相手とはいえ、そんな重大なアイテムを簡単に取られてしまう自分の不甲斐なさを知られたくない。そんな男の強がりか。
だがこのまま黙っている訳にはいかない。昭士は教師に向かって、
「実は、いい、いいぶきちゃ……いえ、いい妹に、カードをとと、取られちゃいまして」
「カード? カードって……ああ。昨日説明してた、何か変身するのに使うとか言ってたヤツか?」
教師はそこまで呟いてから、その内容にギョッとしたように驚いて席を立つと、
「って事はなんだ? それがなきゃ昨日みたいな化物が出たら、お前どうすんだよ!?」
「どど、どどうにも、ならないです。へ、変身してたた戦えないし。彼女と、こここ、言葉も通じない」
「そんな大事なモンを、妹に取られたのか!? 何やってんだお前!?」
峰岸は心底困った顔で天を仰いだ。
いぶきの生活態度は中学時代の資料を読んで知っていたし、彼女の持つ「能力」の事は昨日聞いていたものの、それでも彼は昭士を強く責めてしまった。
スオーラは言葉の判らない二人のやりとりを、どことなく気まずそうに眺めていたが、やがて昭士の手を取ると、
「ト・る・NA・ー・rE」
一言一言区切るように、ゆっくりと、確かに彼女はそう言った。それは初めて聞き取れたスオーラの言葉だった。
「ト・る・NA・ー・rE」
通じていないと思ったのか、スオーラはもう一度ハッキリ、そしてしっかりとそう発音した。
この言葉は何という意味なのだろう。昭士は首をかしげる。彼の数少ない知識の中に、そんな言葉は存在しない。考えたところで、意味など判る訳もない。
しかしスオーラの顔は真剣だ。自分の口を指差し、それから昭士の口を指差し、もう一度「ト・る・NA・ー・rE」という。
(ひょっとして、そう言えって事か?)
いくら昭士が女性に関心が薄くとも、これ程の美人が至近距離で自分を見つめてくる、というシチュエーションに胸中をざわめかせない訳がない。自分では気づいていないが、彼の顔はかなり真っ赤になっている。
昭士は何となく深呼吸し――吐いた息が彼女にかからないよう気まで使って――意を決して口を開いた。
「ト、トルナーレ?」
途端、右手にバチッと青白い火花が走った。幸い痛みはほとんどなかったが、いきなりの出来事に身体をビクンと震わせて驚いてしまう。
直後、何も持っていなかった右手に、少し重量のある、固くて平たい物の感触を感じた。
昭士は恐る恐る自分の右手を見てみると、そこにあったのは――スオーラから貰ったカードだった。
取られた筈の。

<つづく>


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