トガった彼女をブン回せっ! 第18話その1
『ジェーニオはお役に立っているようですね』

モーナカ・ソレッラ・スオーラは、これまで休んでいた分を取り戻すかのように、精力的に働いていた。
彼女の仕事は学食の手伝いである。調理補助から清掃に至るまで。彼女の仕事は実に多い。
市立留十戈(るとか)学園高校で、この春から働き出した『イタリア出身』の――掛け値無しの美少女である。
若干堅いが丁寧な言い回しの日本語とその容姿も手伝い、学校外部の人間も利用できる学食の、文字通り看板娘として扱われている。
そんな彼女は校内の学食ではなく、学校から程近い駅前に立っていた。調理補助をしている時の割烹着姿で。頭に三角巾を被り、その手にチラシを持って。
季節は七月。高校ともなれば上旬にある期末試験が終われば試験休みとなって生徒は学校に来なくなる。学食としては売上が急激に落ち込んでしまう。
いかに学校内の施設とはいえこの期間だけ外部の人間も利用できないとするのはあまりに惜しい。しかし学食の職員とて学校が休みの時くらいは休みたい。
そのため学食と学校とで協議を重ねた結果、規模と時間を縮小して職員を交替で運営する、という結論に達した。
今彼女達が配っているのは、その事を記した宣伝を兼ねたチラシである。
スオーラがすっとチラシを差し出すと、男はもちろん大半の女性もすっと手を伸ばしてしまう。一緒に配りに来ていた中年の男性や女性のはほとんど受け取ってももらえない。その落差がものすごい。
だがそれでもスオーラに対してほとんど腹も立てていないのが彼女の持って生まれた美徳と言えるかもしれないだろう。
[チラシ配りが終わりました]
スオーラは傍らに立つ同僚に笑顔を浮かべてそう言った。最終的には二人が持っていた分まで配り切ってしまった。
元々予算の都合上そうたくさんは刷ってこなかった事もあるが、予想より遥かに早くなくなってしまった。
「いやはや。女は得だなぁ」
中年の男性の方が聞こえるような小声で呟く。嫌みに受け取れなくもないが、チラシを配っている間の落差を見れば誰でもそう思うだろう。中年の女性の方も、
「わたしもあと十年若ければねぇ」
[充分にお若いと思いますが]
スオーラが生真面目な顔でそう口を挟む。実年齢こそ中年であるがその外見は確かに若い。入念にメイクをすれば確実に十歳は若く見られる容姿なのだ。
しかし生真面目な口調で言われては、さすがに腹も立てにくいスオーラの美徳も若干効きが甘くなるようで、
「そんな風に言われちゃあ、さすがに嫌みっぽいよ。気をつけな」
本当なら頭をポンポンとやりたいのだろうが、スオーラは女性にしては高身長の部類に入るので背中をポンポンと叩く。
[申し訳ございません。以後気をつけます]
申し訳なさそうにうなだれてしまったスオーラ。彼女を元気づけるように男性の方が、
「じゃあ学校に帰って、休み期間用のメニューを考えないとな」
今までとは割ける人員も少なくなるし、営業時間も短くなる。総てを今まで通りにとはいくまい。少ない人員でも運営できるような工夫がどうしても必要になるのだ。
「そうだねぇ。スオーラちゃん。イタリアの料理で何かないかね?」
[えっ。パエ……いえ、イタリア、ですか……]
スオーラの額に冷や汗が滲む。グッと息を飲み込み表情が凍りついた。
それもその筈。イタリア出身というのは真っ赤な嘘。本当の彼女の故郷は「この世界」には存在しないのだ。
この日本――地球を含んだ世界とは全く異なる世界。いわば平行世界だのパラレルワールドだのという言葉で呼ばれる無数の異世界。
スオーラの故郷はそんな異世界の一つ。彼女達が「オルトラ」と呼ぶ世界にある。そのオルトラ世界にあるパエーゼという国が彼女の本当の故郷だ。だがそんな本当の事を話す訳にはいかない。
だがもし彼女が異なる世界の住人だという事がバレてしまったら。それこそ彼女に安住の地はなくなる。
マスメディアに追いかけ回されるならまだしも、その異世界の秘密を知ろうと躍起になる連中が後を絶たなくなるのは間違いない。
そのためパエーゼ国と「比較的」文化・風習が近いと思われるイタリアからやって来た、という事にしてあるのだ。
もっとも、インターネットがある現在。スオーラの言動のちょっとした「違い」を調べて“イタリア出身”というのが嘘であると見抜く事は雑作もないだろうが。
[そうですね。わたくしも調べてみます]
「そうしてくれると助かるよ。アイデアは多いに越した事はないからね」
中年の女性はカラカラと笑うと、持っていたペットボトルのスポーツドリンクを一気に傾ける。
「ああ、スオーラちゃん。ひょっとして携帯鳴ってない?」
中年男性の方が、彼女の割烹着のポケットを指差す。注意深く見ればポケットが確かに小刻みに動いている。
スオーラは慌ててポケットに手を突っ込み、最近では極めて珍しくなったガラケー、それもプリペイド携帯を取り出し、パカッと広げる。
液晶画面には「メールが届いています」とある。その画面にスオーラは小さく唸ってしまった。
数あるフィクションの物語でも、異世界に行った人間が「特殊な」能力を発揮する例がたくさんある。事実スオーラも瞬発力や跳躍力といった方向に超人的な能力を発揮できるが、デメリットもある。
その一つが、この世界のあらゆる文字を「区別」できない事。どの国のどんな文字も彼女には総て同じに見えてしまうのだ。
そのためメールのような文字のメディアを持ってこられてもスオーラ一人では何もできない。
スオーラの正体を知っている人間であれば絶対にメールはよこさないし、正体を知らない者も「日本語は難しいから」とメールを出す事を遠慮してくれている。
それなのに彼女の携帯電話にメールとは。明らかに電話の時とは異なる画面表示に、スオーラは「話に聞いていた『すぱむめーる』と呼ばれる物だろうか」と、そんな風に考えた。
スオーラは以前使い方を聞いた時「電話でない時にはとりあえずこのボタンを押しておけ」と言われていたボタンを、少し指先を立てて軽く押し込む。
すると「メールが届いています」という文字がスッと消え、代わりに待ち受け画面には今まで見た事もない「キャラクター」が登場していた。
それはスオーラの世界にある「サッビアレーナ」という、こちらでいう中近東の国々のような民族衣装を纏った女性の姿だ。
青白い素肌の上から直接着ているのは、丈の短い真っ赤なチョッキ。それも前を開け放したままなので少し動けば胸が完全に露出してしまう格好だ。
下半身はハーレムパンツと呼ばれる、足首で裾がキュッと細くなる、膨らんだ白いズボン。そんな彼女は首や手首、足首にまで金色の輪をじゃらじゃらと付けている。
髪は頭頂部でひとまとめにし、ヤシの木かとばかりに布を巻いて直立させてある。
そんな彼女はまるで画面の向こうのスオーラが見えているかのように、妖艶なウィンクをしてみせる。それと同時に今度は電話着信時の電子音が鳴る。
スオーラは首をかしげつつも電話に出た。
[はい。モーナカ・ソレッラ・スオーラでございます。どちらさまでしょうか]
日本語なら「もしもし」の一言で済むのだろうが、この辺りが国(世界)の違いか彼女本来の性格からくるものなのか。
携帯電話から聞こえて来たのは、意外とも言える声だった。
『はい。ジェーニオでございます。お元気?』
少し高めの女性の声に、スオーラの声が思わず上ずった。そして待ち受け画面を思わず見てしまう。
《どっ、どうして!?》
スオーラは思わず母国語で、それも画面に向かって訊ねてしまっていた。
ジェーニオはオルトラ世界で出会った精霊である。格好は変わらないが、確かあちらの世界では身体の右半分は肉付きの良い女性で、左半分は鍛えられ引き締まった体格の男性だった筈だ。
もっとも。別の世界に行くと姿形が変化してしまう例がいくつかある。これがジェーニオの「この世界での」姿なのだろう。
『元々機械や電波といった物との相性が良かったみたいだけど、この世界ではこうした姿になるようね』
というジェーニオの話にも納得がいく。スオーラは電話を耳に当て直し、早速何の用なのかを聞いてみた。
『お嬢さんはこちらの文字が判らないって聞いてね。サポートするように言われたのよ』
彼女の声とは別に、携帯電話からカチカチだのチリチリだのという小さな音がしていた。不審に思って電話を耳から離す。
すると。今まで日本語が表示されていた場所に、スオーラにも理解できる『母国語の文字が』表示されているではないか。
『ちょっと中をいじらせてもらったわ。これなら前よりは使いやすいでしょう?』
相変わらずボタンの方はこの世界の文字ゆえに判らないが、画面表示がすっかりスオーラの国の言葉になっている。
《あ、有難うございます。感謝致します》
思わず画面に向かって頭を下げるスオーラ。しかしその時には、画面には「通話を終了します」という文字が浮かび上がっていた。


「……では、今日の補習はここまで。明日小テストをしてやるから、ちゃんと復習しておけよ」
教壇に立つ若い教師が、目の前の机に突っ伏している男子生徒にそう言った。
男子生徒の名は角田昭士(かくたあきし)。中学剣道界ではちょっとは名が知られていた程度の学生で、現在は一般的な男子高校生である。
そんな彼は朝から各教科の教師と殆どマンツーマンで補習を受け続けていた。
その理由は、この春から巻き込まれてしまった事件が原因だ。
いきなり異なる世界から謎の侵略者の襲撃。それと戦うようになってしまったからだ。
侵略者は「エッセ」と呼ばれ、生物を模した姿形を持つ。といってもその体表は金属光沢を放つ何か。しかもエッセはその口から吐いたガスで他の生物を金属に変えてしまい、それのみを捕食する。しかも神出鬼没ときている。
判っているのはそのくらいだ。どこから来ているのかも、その目的も、背後関係や組織図に至るまで、肝心な部分は何もかも判っていない。
もちろんいつ決着がつくのかはもっと判らない。もしかしたら毎回こうした補習の世話になるのかもしれない。それはそれで面倒だが致し方ない。学生の身分では。
そんな昭士は少し離れた場所に座って――いや、堂々と寝っぱなしの双子の妹・いぶきを横目で見た。
いぶきも昭士と同じくエッセと戦うようになったのだが、昭士と違っていぶきの方は全くやる気がない。
そもそもいぶきは「誰かを助ける」だの「みんなで一緒に」だのという行動を見るのもやるのも大嫌い。そんな事をするくらいなら死んだ方がマシと堂々と言い切る人間だ。
だがそんないぶきを頼らざる、そして使わざるを得ない事情がある。
エッセと戦う時、昭士は身軽さや技を売りにする「軽戦士」に変身するのに対し、いぶきの方は彼が使う武器に変わる。それも昭士の身長よりもずっと大きい、両手持ちの大剣に。
しかもその大剣がエッセに対して効果が一番高い上、その大剣でとどめを刺さない限り、金属に変えられてしまった生物が元に戻る事は、今のところない。
そんな事情が判明しているにも関わらず、いぶきの非協力的な態度は変わらない。
こうして補習を受けているのも、そのエッセとの戦いで授業をサボり倒す結果になっているからだ。だがそんな事情を話す訳にもいかないし、また話したとしても出席日数を大目に見てもらえる訳でもない。
そのため補習を受ければどうにかしてやるという学校側の配慮は、親切以外の何物でもないのである。
学業の成績が決して良いとは言えない昭士は、事情を知る数少ない人間からノートの提供、先輩達からの個人授業を経て、こうして補習に臨んでいる。
一方のいぶきの方は、一応こうして補習に出席してはいるものの、最初から最後までずっと寝てばかり。本当なら教師は注意しなければならないのだが、これまたそうもいかない理由がある。
最近になって広く知られるようになった事だが、実はいぶきには他の人間にはない特殊な能力がある。自分の目が見えていなくとも、自分の周囲のあらゆる動きを「超スローモーションで」認識できるというものだ。
この能力があるため、彼女に向けられる物理的な攻撃はまず当たらない。むしろその能力をフル活用して相手に攻撃を加えるのだ。それも殆どが急所攻撃。
そのため相手は病院送り。警察の世話になった事も一度や二度ではないし、この学校に入学してまだ数ヶ月だというのに、停学になった回数は片手では利かない。
教師の方も事なかれ主義というか、自分が痛い目に遭いたくないからか、堂々と眠りこけているいぶきの邪魔をする事はない。
だがそれでもテストの点は殆どの教科でトップクラスなのが、いぶきの不思議なところだ。停学が多いので、茶目っ気の強い教師の「授業中の雑談を元にしたサービス問題」などが解けないために満点ではないくらい。
他人を一切顧みない。暴力的な言動。そんないぶきに友達らしい友達がいた試しもないので、そんな情報を教えてくれる訳もない。当たり前の話である。
堂々と眠ったままのいぶきに視線を落としてから、教師は教室を出て行った。教室の中は昭士といぶきの二人だけになる。
すると、それを待っていたかのようなタイミングで、昭士の携帯電話がぶるるっと震えた。彼は微妙にもたもたと携帯電話を取り出し、親指一本でパカッと開く。机に突っ伏したまま液晶画面を見ると、画面には見覚えのある「キャラクター」が写っていた。
それは青白い肌の男の姿だ。素肌の上から丈の短い赤いチョッキ。足首の所でギュッと細くなった、膨らんだ白いズボン。首はもちろん手首や足首に、金色の輪をいくつも付けている。長い髪は頭頂部でひとまとめにされ、ヤシの木のように上に長く直立させてある。
そんな姿の男が液晶画面を昭士の方に向かって軽く押す。すると男の手が、いや、全身が画面からスルリと抜け出てしまったではないか!
その全長は五センチほど。まるで小人だ。
《アキシ、だったな。あまり元気がなさそうだが……》
そう話しかけてきた男の名はジェーニオという。こことは別の世界に住む精霊。別の世界では半分男で半分女という姿をしているが、この世界では二人が別々の存在となっている。
しかも機械や電波といった物との相性がとても良いので、普段は待ち受けキャラのように携帯電話の中に潜んでいる。
「とと、と、特撮ヒーローが、て、てい、定職についてないのが、よよ、良く判ったよ」
昭士の力の抜けた疲れた声。加えてドモった喋り方。彼は少々ドモり症なのだ。
とはいえ元々別の世界の精霊に特撮ヒーローがどうのと言ってもさすがに判らない。ジェーニオは「良く判らない」と言いたげな顔をしている。
しかし彼が疲れた声をしている理由の方は良く判っている。
この世界で一学生としての生活。そして侵略者として戦う戦士としての生活。そんな二重生活を送っているからだ。
しかも侵略者として戦う戦士である事は限られた人間しか知らない筈だ。どれほど隠せているかは判らないが、彼が戦士である事を大っぴらにする事はさすがにできない。
それはすなわち共に戦う少女モーナカ・ソレッラ・スオーラの正体をバラすに等しいからだ。別の世界からやって来た彼女の戦いに昭士が巻き込まれる形で出会ったからである。説明するならその部分は避けて通れない。
彼女の秘密を守るため、戦士としての生活の部分はできる限り隠していかねばならないのだ。
元々巻き込まれたとはいえ、戦士として戦い続ける事を決断したのは昭士自身。大変だが一度決めた事は貫き通したい、男の子としての意地もある。
《ところで、言われた事を調べて来たのだが、良いか?》
そう。ジェーニオは機械との相性が良い事もあり、調べ物を頼んでいたのだ。
それは、先日別の世界――つまり、ジェーニオやスオーラがいたオルトラ世界で手に入れた「モバイル・バッテリー」と「携帯型ナビゲーション・システム」の機械の事だ。
オルトラ世界で三百年は昔の人物が使っていた物らしいのだが、オルトラ世界は現代日本と比べて百年は昔の機械文明レベルしかない世界。どう考えてもオーパーツ(場違いな出土品)扱いな品物だ。
バッテリーの方は訳あっていぶきの八つ当たりで壊されてしまったが、それはカバーのみ。中のバッテリー部分はほとんど無傷。カバーを交換すれば問題はない。
三百年前の物の筈なのに、外観も中身も多少使われた中古品程度の劣化しかしていないという不思議もあるが、せっかく手に入れた物だから使おうとしたところ、どちらも接続端子が見た事もない物だったのだ。
つまり、それら機械を繋ぐコードがないのである。これでは機械だけあっても意味がない。
昭士はパソコンを始めとする電子機器に詳しい方ではないが、詳しい友人(もちろん彼等の事情を知っている人物)に聞いても良く判らない接続端子らしい。
だからその辺りをジェーニオに調べてもらっていたのだ。まるで電脳の海をかき分けて情報を探すプログラムのように。
それを頼んだのは数日ほど前。そしてようやく答えを見つけたらしい。
《この接続端子は「これから発売される」物のようだな》
「…………?」
ジェーニオの言葉に、昭士は無言で首をかしげた。机に突っ伏したまま。
するとジェーニオはつかつかと開いたままの携帯電話まで歩き、その液晶画面に手を添えると、
《パーソナル・コンピュータを始めとする電子機器を接続する規格という物は、これまでたくさんあったようだな。SCSI、USB、FireWire、Thunderbolt、Lightning、HDMI……》
彼がスラスラと説明していく間に、画面にはそれぞれの規格――昭士が見た事ある物ない物、色々だ――の接続部分がスライドのように次々に表示されていく。
《そうした様々な規格があり続けるのは不便と、一つに統合する動きが出ているようだな。その結果産み出されたのが全く新しい統合規格。名前は「NEWtrino」というらしい》
ニュートリノ。一時期光よりも早い粒子なのではと学会を驚かせた物と同名(綴りはともかく)なのだが、一高校生の昭士には何の事だかさっぱりである。
確かに色々な規格が混在しているのでは、いちいちそれに対応するコードがいる訳だから、確かに面倒だし不便である。メーカー側が統合しようという気持ちは良く判る。
もっとも、統合する各メーカー側も「自分の所を基準にしろ」と言うに決まっているだろうから、相当にモメたであろう事は、経営の知識がない一高校生の昭士にも見当がつく。
「そそ、そ、それで、そそ、そのコードはいつ出るの?」
《出る? ああ。発売される、という意味だな。今月の末と発表されている》
画面にはどこかのニュースサイトの記事らしい物が表示された。確かにそこには今月末発売と書かれてある。
という事は、オルトラ世界の三百年前にこの機械を使っていた人間達は、昭士達の時代よりも未来からこれら機械を入手した事になる。昭士達の世界で入手したと仮定するならば、だが。
補習漬けで半分ボーッとしている頭では、これ以上難しい事を考えるのは酷のようだ。ただでさえひらめきに疎い昭士では頭痛がするだけである。
「……がが、学食、寄っていこ」
昭士はようやくのろのろと立ち上がると、机のわきに引っかけていたカバンを開け、ノートや教科書、筆記具を無造作に放り込む。そして開きっぱなしの携帯電話を手にした。
《イブキは、放っておくのか?》
というジェーニオの問いに、少しだけ困った顔になった昭士は、
「う、う、うん……ここ、こっちもケガしたくないし」
いぶきは相変わらず熟睡しているようだ。しかしこんな時でもうかつに近づけば彼女の手なり足なりが鋭く飛んでくる。それも急所に確実に。
触らぬ神に祟りなし、という諺もある。
昭士は自分の心にそう言い聞かせ、何となく音を立てないようにそろそろと教室を出て行った。もちろんジェーニオも一緒に。


学食は普段よりもメニューと人員を減らした状態だが、運営されていた。
そのためか試験休み期間だからかは判らないが、普段の賑わいが信じられないくらいの閑散っぷりである。あまりに人がいなくて逆に長居したくない雰囲気すらある。
すっかり顔馴染みになった学食の職員に軽食を注文するついでに、ここで働いているスオーラの事を聞いてみたが、今日は駅前にチラシを配りに行ってここにはおらず、また配り終えたら学校に帰らず帰宅するそうだ。
せっかくジェーニオが調べてくれた事を報告したかったのだが。メールでも送ろうかと思って携帯電話を取り出したが、彼女がこちらの世界の文字が理解できない事を思い出し、蓋を開いたところで動きを止めた。
《メールなら、我が訳す事ができるが?》
画面の中のジェーニオが、サラッとすごい事を言ってのけた。人が少なく閑散とはしているが、その声は周囲にほとんど聞こえていなかったようで、ホッとする昭士。
《機械や電波等の相性が良いと言った筈だ。どの言葉でも通じる我の力を以てすれば雑作もない》
そういえばジェーニオはあちらの世界のどの言葉で話しても会話が通じていた。それは精霊独特の能力なのかと思ったが、それがこんな形で使えるとは思わなかった。
昭士は頼むと一言言い、一所懸命ガラケーで長文のメールを打っていく。その最中に、
「はいよ。BLTサンドとオレンジジュース」
頼んでいた物ができたらしく、昭士の前にドンと置かれる。それを開いている片手で受け取ろうとした時、
「ああ。スオーラちゃんに、よ〜くお礼言っといてくれ。今日はまだ会えてないから」
昭士ははあ、と曖昧に返事をすると、トレイに乗せられた軽食を器用に片手で持ち上げ、適当な席に運んでいく。
「お礼」というのは、先日昭士達が一週間近くオルトラ世界に行っていた時の事だ。何の連絡もなく学食を休む形になったスオーラは「故郷の家族が入院した。そのため故郷に帰っている」という偽の情報を流したのである。
そして戻って来た時にアリバイとしてイタリアの土産物を学食職員達に渡したのだが、きっとその事だろう。
「補習、お疲れ様です」
不意に背後から声をかけられて驚く昭士。もう少しでトレイをひっくり返してしまうところだった。彼は声の主に首だけ向き直ると、
「じょ、ジョじょ、状況を見て、ここ、声をかけて下さい」
昭士が若干裏返った声でそう抗議したのは、この学校の女子生徒だった。少々ソバカスの目立つ表情に乏しい顔に、どことなく得意そうな表情が浮かんでいるように見える。
名前は益子美和(ましこみわ)。昭士の先輩でありこの学校の新聞部部長という肩書の人物である。
だがそれは総て偽りのものである。本当はオルトラ世界の住人で本名はビーヴァ・マージコ。
それも二百年も昔に存在した、マージコ盗賊団という盗賊団の団長であり、魔法的な事故でこちらの世界にやって来た人物だったと知ったのは本当につい最近の事。更に加えるなら精霊ジェーニオの元主人でもある。
盗賊ではあるが一応は昭士達の味方であり、影ながら色々と(盗賊流に)便宜を計ってくれている。偽の理由とアリバイ用のイタリア土産を調達したのは彼女である。
しかし美和は自分の事は他言無用。特にスオーラにはそれを厳守してほしいと言っている。それはスオーラが代々聖職者の家系であり、本人も僧兵としての教育を受けた聖職者だから。
聖職者と盗賊は相容れない者。必要と理屈では判っていても感情が納得しない。そんな仲だからと説明する。無用の争いを避けたいというのが本音だ。
「ジェーニオはお役に立っているようですね。結構」
彼の携帯電話の画面を少し盗み見た彼女は、淡々とした口調でそう言った。それはジェーニオが他の人間の役に立っている事を確認するかのようでもあった。
昭士は若干そんな視線を気にしながらも長文のメール――それでも文量としてはかなり短いが――を打ち終わり、それをスオーラの携帯に送信する。あとはスオーラの携帯に待ち受けキャラのようにいる女性型のジェーニオが訳してくれるという。
とりあえずホッとした昭士ではあるが、本当の意味でホッとできるのは、明日の小テスト。更には追試をクリアしてからだ。
そのためのエネルギーを補給するとばかりに、昭士は目の前のBLTサンドに、
静かにかぶりついた。

<つづく>


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