トガった彼女をブン回せっ! 第16話その1
『とにかく、すぐに戻って来い。いいな』

荒野に立ち往生している蒸気機関車。その客室に残された状態の三人と一体の精霊と一振りの大剣。
手持ちぶさたな時間が過ぎ、軍隊へ指示を出すために出て行っていたパエーゼ・インファンテ・プリンチペ第一王子がようやく戻ってきた。
きっと大急ぎで走って往復したのだろう。着ていたスーツの上着を脱いで肩にかけた姿で客室に入ってきた。
体型も鍛え上げられた逆三角形体型なので、ワイシャツ姿でもかなり様になるのだが。
それを見ていた角田昭士(かくたあきし)は、以前調べたマナーを思い出していた。
こうしたスーツの場合、よっぽどの事がない限り上着は脱がないのが正しいマナーらしい。だがココは彼が生まれ育った場所とは国はもちろん「世界」が違う。
「所変われば品変わる」という言葉があるように、このオルトラ世界ではその辺りの常識が異なるのだろう。
王族ともあろう人間が、こういう場でマナーを守らないとも思えないからだ。
彼は召し使いから渡されたタオルで額の汗をぬぐいながら、
「お待たせしますたぁー。今かきや出発します」
王子は自分の国の言葉ではなく、昭士に合わせて日本語に近いこの世界の言語で言ってくれた。
昭士にはかなり訛った日本語にしか聞こえないが、今回は標準語とほとんど変わってないので判りやすかった。
「あ、あの、殿下。着替えてきた方がよろしいのでは?」
昭士の隣にいたモーナカ・ソレッラ・スオーラがワイシャツ姿の王子を見て言った。
彼女はこの世界の人間で、しかも位が低いとはいえ聖職者。しかも礼儀作法やマナーはキッチリと守るタイプだ。
だが礼儀作法やマナーというよりも、汗をかいているのだから、そのままでいたら風邪を引くだろうという配慮の可能性の方が高い。
元がつくとはいえ婚約者だった間柄の人間に言われたからか、王子は素直に、しかし罰が悪そうに召し使いを伴って客室から出て行く。
それと同時に窓の外の景色がスルッと横に動いた。列車がようやく動き出したのだ。


元々は隣の国に住むスオーラの姉夫婦がクーデターに巻き込まれ、心配になったスオーラが現地に向かうため。加えて現地にエッセが姿を現わしたために、プリンチペ王子がわざわざ列車を用立ててくれたのだ。
ところが今日の明け方。このオルトラ世界にやって来る謎だらけの侵略者・エッセの襲撃を受けた。それも巨大なノミ型のエッセだ。
そのノミ型エッセの一蹴りで列車は脱線。最後尾の貨物車輌が遥か異国にまで蹴り飛ばされる事態になった。
しかしそのノミ型エッセも倒され、蹴り飛ばされた貨物車輌もほとんど無傷でこの場に戻ってきた。約半日経ってからではあったものの。
要は旅の行程が半日遅れてしまっている訳である。表面には出していないものの、スオーラの姉を心配する胸中の不安さは察してあまりある。しかも姉夫婦がいる町まであと二日はかかる計算だ。
ただでさえ予定より大幅に遅れてしまっている。これ以上の遅れは避けたいだろう。
昭士は客室内をぐるりと見回している。
さっき王子に注意をしたスオーラは、やはりどこか落ち着かない様子で窓の外を眺めている。
共にエッセと戦うメンバーの一人・ジュンはさっきから寝椅子の上で、ポンチョのようにも見える貫頭衣(かんとうい)の中に身を丸めるようにして横になっている。
深い森の中で女性だけの原始的な生活を営む一族の割に、違い過ぎる森の外の文化に馴染むのが早い……というより気にしない性分なのだろう。良くも悪くも。
そして部屋の隅に立てかけられている、全長二メートル以上もある大剣・戦乙女の剣。この世界では剣の姿だが、元の世界に戻れば昭士の双子の妹・いぶきになるのである。
だが他人のために何かをするという事を(自分に利益があっても)死ぬ程嫌う性分であり、こうして戦いのためこの世界に来る事すら激しく拒む程。
だが彼女の剣としての力がなければ戦いはかなり困難になってしまうし、エッセによって金属にされてしまった生き物を元に戻す事もできない。いぶきがどれだけ望まなくとも、彼女を欠く訳にはいかなくなってしまったのだ。
そして客室内で無表情を作って佇んでいるのが、この世界のサッビアレーナという国に古くから伝わっている精霊の一人。右半分が女性で左半分が男性という姿をした彼(彼女?)はジェーニオといった。
これまたかの国で伝説と化していたマージコ盗賊団にいた精霊だという。その最後の団長の命で、今は昭士達に力を貸してくれている存在だ。
“我はいつまでここにいれば良いのだ”
“我はいつまでここにいれば良いのだ”
男と女の声が綺麗に重なった声でそう訊ねてくる。
いつまでと聞かれても困るのだ。力を貸してくれるとはいっても、今は力を借りる必要がない。
さっきまではプリンチペ王子と色々話をしていたようだ。この世界では話の途中で割り込んで来る事を「失礼」としている。
だから話の途中でジェーニオがここからいなくなっては王子が困るだろうし、その権力を交えた恨みをぶつけて来られてはこちらが困る。
……以前いぶきが暴言(彼女視点でのみ至極真っ当な正論)を吐いてトンデモない目に遭った事がある。加えて世界レベルで指名手配されるところだったのだ。さすがにもう二度とあんな事は御免である。
昭士はしばし考えるような素振りをしてから、
《王子さんとの話が一段落するまでは、待っててくれ》
かく言う昭士も、本来ならば帰りたいのだ。
彼といぶきがこの世界にいるのはあくまでもエッセ討伐が目的。それに元の世界での学生の生活がある。さすがに勉強がかなり遅れてしまっているので、必要のない長居はなるべく御免被りたいのが本音だ。
だが彼等だけではこの世界の言葉も文化もほとんど判らない。困難とトラブルに見舞われまくるのが目に見えている。
若いうちの苦労は買ってでもしろ、という言葉はあるものの、こういう苦労をしても身にはならなそうである。
現実的な問題としては、王子とジェーニオの話が一段落してから、ジェーニオに送ってもらう事だろう。
だがそれも、一体いつになる事か。
滅多に会う事すらできない精霊という存在がこうして目の前にいるのだ。今がチャンスとばかりにあれこれ話をしたり、聞いたりしたいと思う気持ちは昭士にも判るのだ。
どうしたものかと窓の外を見ると、どこかの駅を通過しているところだった。おそらく本来はここで一旦停車し、朝食を積み込んで行く予定だったのだろう。スケジュール的に。
そもそもこの時代の列車に食堂車のような施設があるとも思えない。調理した物を持ち込むしかないのだ。
そこで。昭士の携帯電話から電子音のメロディーが流れ出す。この音はメールの着信を知らせるものだ。
彼は片手でヒョイと携帯電話を開き、メールの本文を呼び出すべく親指でカチカチとボタンを押していく。
そこで、彼の視界の本当に端にチラリと見えたモノがあった。
《ジェーニオ。大至急さっきの駅に戻ってくれ!》
昭士は携帯電話を持ったまま、開けられないガラス窓に駆け寄り、頬を張り付けるようにして最後尾の方を見ながら怒鳴る。
当然それだけではその理由が判らない一同だが、
《列車を追いかけるようにホームを走ってるオッサンがいた。召し使いっぽい制服を着たヤツ!》
その声でスオーラやジェーニオも窓から外を見ようとするが、さすがに窓が開かない以上角度的にもう見えない。
「アキシ様。本当に召し使いの方だったのですか?」
スオーラが相変わらず丁寧な言葉遣いで訊ねてくる。彼は「多分」と前置きをすると、
《何か大声で言ってたみたいだけど、さすがに音がうるさいし。そもそも俺じゃ何を言ってるのか判らなかったし》
昭士はこの国の言葉はサッパリ判らない。せめて判れば聞き取れたかもしれない。そんな風に責めたくはなったが、今責めても内容が判る訳ではない。
「判りました。わたくしが行って参ります」
スオーラは学生服のようにも見える僧侶の服のポケットから、一枚のカード取り出した。
そのカードこそエッセと戦う戦士に変身し、彼女と昭士の住む世界を行き来するための、選ばれた者だけが使えるアイテム・ムータである。
スオーラはムータを自分の前に突き出す。するとムータから青白い光が溢れ、目の前で扉のような四角を作り上げる。
その四角い光がスオーラへ迫り、交差する。すると、彼女の外見が一変していた。
縛っていた赤い髪は解かれ、腰近くまで流れている。顔立ちも五、六歳は大人びたものへと変わり、身長もかなり伸びた上に女子ですら羨むスタイルへと変わる。
襟が大きめのブレザーのような、丈の短い長袖のジャケット。カラフルと言えば聞こえのいいが、縫製パーツごとに色が全く違うので悪趣味同然である。
だがこの世界では魔法を使う人間はこうしてたくさんの色を服を着なければならないという決まりがあるらしく、むしろその多色具合を「豪華」と評価もする。
そんなボタンを開けたままのジャケットの下は白いスポーツブラのような物が一つきり。こぼれんばかりだのたわわだの評するしかない見事な形の良い胸がかえって目立つ結果になっている。
むき出しの腰の下はマイクロミニの黒いタイトスカート。少し動くか角度を変えればパンツが丸見えになってしまう。だが下着を見られても恥ずかしいという概念がこの世界にはないため、別に普通にしている。
脚は脚線美にピッタリとした革のサイハイブーツを履き、頭には(昭士の世界で)魔法使いを彷佛とさせるつばの広いトンガリ帽子。先が少しくたっと折れ曲がっているのがポイントである。
唯一さっきまでと変化のない白いマントをバサリと翻し、スオーラは客室の出口に向かって歩く。そしてわざわざ振り向いてから、
「では、行って参ります」
そう挨拶すると、彼女は静かに扉を開けて客室の外に出た。
そのまま静かに連結部分まで歩くと、小さく床を蹴った。飛び上がったのだ。そして列車同士の隙間から屋根の部分に静かに着地する。
ムータの力によって変身した彼女は、瞬発力や跳躍力といった方向に、それこそ超人的な力を発揮する事ができる。
ビルの三、四階くらいの高さまで軽くジャンプできるのだ。この程度の芸当は雑作もない。
あまりスピードが早くないとはいえ、動いている真っ最中の列車の屋根の上である。強い風がマントを激しく靡かせ、被っている帽子を吹き飛ばそうとしている。
だがそんな事に構わず、彼女は屋根を蹴った。数秒後彼女の足が、少し遅れてマントが線路の上に静かに舞い降りる。
そして今度は地面を蹴って一気に加速。元来た線路をそれこそ一瞬で駅まで駆け戻った。そして小さくジャンプして駅のホームに降り立つ。それも召し使いの前に。
その移動速度と予測していなかった登場に、召し使いが驚きのあまり彫像のように固まっている。血の気の引いた真っ青な顔のままで。
「あの。何かわたくし達にご用がおありだったのではありませんか?」
スオーラはあれだけの動きをしてみせた直後にも関わらず、全く息を乱さずにそう問うた。その声で金縛りが解けたかのように召し使いは我に返ると、
「ああ、そ、そうでございました。実は大至急王子殿下のお耳に入れておかねばならぬ報告がございまして……」
まるで王子本人が目の前にいるかのように緊張した面持ちの召し使い。血の気のない顔がより緊張に拍車をかけているようにも見える。
召し使い、それも王族と直に接する者となると制服も微妙に違う。彼が着ているのは明らかにプリンチペ王子直属のものだ。
いつもは王子に付き従っているのだが、今回は連絡係としてこの場に残っていたそうである。
そしてスオーラも彼の顔は知っていた。名前まではさすがに知らなかったが、直属の召し使いの中でもかなり若手になる。その割に髪が薄いのは、それだけ苦労・心労が耐えないのだろう。
「た、大変申し訳ございません。そこで転んでしまって間に合いませんで。本当に申し訳ございません」
緊急の知らせは、列車がホームを通過する時、もしくは停車した時に受け渡しをするのが常だが、慌てていたために転んでしまい間に合わなかった、というのが真相である。言ってみれば任務に失敗してきつい叱責を怖れているようなものだ。
間に合わねばこの駅の電話から次の駅へ連絡をすれば良かったのでは。そもそもこの駅と次の駅は、かなり間隔が短いのだ。
そう思いはしたが、スオーラがそれを言うのは彼をいたずらに傷つけるだけだ。
だからスオーラは幾分柔らかな笑みを浮かべると、
「わたくしは魔法で姿を変えてはおりますが、モーナカ・ソレッラ・スオーラです。わたくしでよろしければ、この場で伺って殿下にお伝え致しますが?」
そこまで慌てていたのか焦っていたのか、スオーラのそんな一言を真に受けた召し使いは素直に語り出した。
「実は、先程報告のあったビゾンテの暴走の件なのですが……」
ビゾンテとは、このオルトラ世界に住む体長二メートル程になる水牛の仲間である。ジュンが住んでいた森では「ノシ」と呼ばれている。
他の牛が頭の横に短く曲がった角が二本あるのに対して、ビゾンテは額の辺りに一本の太く短い角を持っている。
温厚な性質で肉や牛乳のために飼われているのだが、一度興奮したり怒りを覚えると、目の前の物を体当たりして弾き飛ばしながら突進するという、厄介な性質がある。それも自身が死を迎えるまで休む事なく突進しようとする。
どれほど厄介かというと、たった一頭のビゾンテが小さな砦を破壊してしまった例がある程だ。そんなビゾンテが百頭単位で暴走を始めてしまった報告を、つい先程受けた事はスオーラも知っている。
そして王子は軍隊に指示を出すため駅の電話を使い、戻ってきて列車は出発した。時間からすれば一時間と経っていない筈だ。
その短い時間でわざわざこうして急いで報告をしなければならない事。よほどの緊急事態なのだろう。スオーラは表情に出さないようにそう見当をつけた。
「その暴走したビゾンテの大群が、我が軍の駐屯地にも押し寄せてきたとの事です」
その報告に、さしものスオーラも表情を堅くせずにはおれなかった。


たった一頭の突進で小さな砦を破壊してしまう、ビゾンテの「暴走」。その大群が軍の駐屯地に押し寄せている。
軍隊と言えどもそこにいるのはしょせん人間である。体長二メートル、体重一千キロもの物体が時速五十キロで迫ってくる。それだけでも相当の恐怖であろう。
もちろん軍隊であり、このビゾンテの暴走は起こると予想されている事。それに対応した訓練も充分に積んでいる。
しかし、いくら訓練を積んでいたとしても、大群ともなると話は別である。さしもの軍人も武器を捨てて全速力で逃げ出しかねない恐怖が間違いなくある。
だが、さっきジュンは確かこう言っていた。「正面から角を掴めばそれで止まる」と。
だがそんな事ができるのは彼女の一族くらいだろう。恐怖に打ち勝つ強靱な精神力と受け止める強靱な肉体を合わせ持った。
普通の人間には不可能な芸当だ。事実軍隊が積んでいる訓練は「遠くから銃や大砲で撃ち殺す事」であるし。
そんな軍隊も王族が命じない限り活動できない決まりなのだが、今回は王族がその場にいる訳ではない。
さすがにそんな緊急事態になっても王族の命令を待たねば何もできない訳ではあるまい。間違いなく臨機応変に対処するだろう。
しかし。対処そのものはできるだろうが、その後の「惨劇」は想像したいものではない。壁や建物は無惨に破壊され、逃げ遅れた人達が巻き込まれ、下手をすれば命を落としている。
だが今からスオーラ達が駐屯地に向かったところで、できる事は後始末の手伝いくらいしかあるまい。だが判ってしまったのに何もせずにいる事もできない。
「もし身体を二つに分けられたら」。そんな慣用句を痛い程噛みしめているスオーラ。
この情報の報告は一刻を争う。短い時間とはいえ悠長に列車に戻ってから仰々しく報告しているヒマなどない。
素早くそう判断したスオーラは、ジャケットのポケットからごつい腕時計を取り出した。
パッと見そう見えるが実はこれは、昭士の世界で手に入れた携帯電話である。しかもプリペイド式のガラケーだ。
同じ物体でも世界が変わると外見が変容するケースが殆ど。存在できないがゆえに消えてしまう物が多い中、この携帯電話は形を変えてこうして存在している。
ただ問題なのは、書かれている文字そのものが昭士の世界の文字である事。そしてスオーラには彼の世界の文字の判別が不可能という特性がある。二つの世界を行き来する戦士となった彼女だが、ムータから受けたのはメリットばかりではないという事だ。
もちろん今の彼女は魔法使い。異なる言語を理解する魔法を使う事はできる。だが電話を使う度に魔法を使ってはいられないのが現状だ。
だが彼女は元々容量や記憶力はいい。以前文字を翻訳する魔法を使って昭士に電話をかけた際、どのボタンを何回押したかを総て記憶する事にしたのだ。彼女から電話をかける事も、かける相手もほとんどないため可能な事だ。
その記憶を頼りに腕時計――もとい携帯電話を操作していく。指の動きが止まると、小さな液晶画面にはきちんと『角田昭士 呼出中』の文字が浮かんでいる。無論今のスオーラには理解できないが。
それから数秒と経たず画面の文字が『通話中』に切り替わる。同時に、
『スオーラ、どうした!?』
だいぶ驚いた様子の昭士の声が腕時計から聞こえてくる。良かった。ちゃんと繋がった。そんな安堵の気持ちのまま、
「アキシ様、その場に殿下はおられますか? 代わって頂きたいのですが!?」
『王子さんに? 判った。ちっと待ってろ』
電話の向こうで「ココを持て」とか「そっちじゃない」とかいう昭士の声が小さく聞こえてくる。使い方を教えているのだ。
当然である。このオルトラ世界は昭士の世界から見れば百年は文明レベルが遅れているのだ。当然電話はあっても「携帯」電話など概念すら存在しない。逐一教えなければ使い方すら見当がつくまい。
やがて電話に出たのは、まごう事なきプリンチペ殿下であった。
『どうかしたのかね、スオーラ嬢』
電話から聞こえる彼の声に、スオーラは何となく居住まいを正して背を伸ばすと、
「召し使いの方が、軍の駐屯地にビゾンテの暴走が向かっていると知らせて下さいました」
電話の向こうで彼が息を呑むのが判る。だが彼は、
『仕方あるまい。我々が今から向かったところで間に合うまい。グワルニジョーネ駐長(ちゅうちょう)に任せる他ない』
駐長とは駐屯地の責任者の事であり、軍隊の階級には関係がない。もっともある程度上の士官でなければ勤める事はできないが。
グワルニジョーネ駐長は自らの武勲よりもその頭脳で軍に貢献し、出世してきた人物だ。その頭脳は他国の士官からも一目置かれる程だ。
「しかし殿下。だからと言って放っておくような真似をするのはいかがなものかと」
『言いたい事は判る。しかし総ての願いを聞き届ける事も、総ての困難を救ってやる事も、我々にはできない』
それは聖職者も同じ事だ。困っている人の助けになるのが聖職者のあるべき姿だが、困っている人全員を助ける事も救ってやる事もできないのだ。
だからこそ「優先順位」というものを作り、地道に片づけていくしかない。後回しにされた人を救う事ができないと判っていても。
一つの事を為すために、他の事を切り捨てねばならない。それはスオーラにも我が事のように判る事だ。
「判りました」
そういう苦しげなスオーラの声。声しか聞こえないためか過剰に相手に伝わったようで、
『スオーラ嬢。それでも今は戻ってきてほしい』
「判りました」
彼女が返事をすると、しばらく無言の間が開いて、
『スオーラ。電話、切って良いか?』
昭士の声だ。どうやら会話はこれで終わりのようだ。
だがスオーラには「終わりです」と言い出す事ができなかった。いや、ためらいがあった。
殿下の言う事は判る。正しい。しかしそれでも。何かと戦う力を持つがゆえの「何か」。まだまだ若いゆえの「何か」。
そんな何かの核である「放っておきたくはない」という本当の気持ち。
しかし自分は人間である。神でも超人でもない。できる事には限りがある。
加えて現在の目的。クーデターに巻き込まれた姉に会いに行く。心配する気持ちもある。
ほんの数秒もなかっただろうが、電話の向こうで昭士は「あ〜〜」と唸るような声を上げると、
『とにかく、すぐに戻って来い。いいな』
そう言ってぶつっと通話が切れた。
スオーラは通話が切れた後もしばし腕時計を見つめていたが、悲しそうな表情のままそれをポケットにしまう。
「……ハニシチミカトチホカチ」
おずおずとした様子で召し使いがスオーラに話しかけてきた。
その単語の意味は「婚約者」。そこから転じて自分の知っている人間の婚約者の事を呼ぶ時にも使われる。
プリンチペ王子と婚約をしていたスオーラをそう呼ぶ召し使いは多い。だが今はエッセとの戦いのため婚約は解消してしまっている。
それでもスオーラの事をそう呼ぶのだ。期待も大きかっただけにまだ諦め切れないのだろうか。
スオーラはさっきも同じ事を言われた事を思い出して、申し訳ないと謝ると、元来た道を猛スピードで駆けて行った。
距離にすればもう数キロメートル離れてしまっていたが、変身しているスオーラからすれば追いかけるのが大変という距離ではない。
いとも簡単に追いついて列車に乗り込むと、彼女は再びムータを取り出す。かざしたムータからさっきと同じ青い光の扉が飛び出し、それが自分と交差する。元の姿に戻ったのである。
魔法使いとしての姿は、この世界における彼女の「本当の」姿ではない。長時間変身してはいられないのだ。そのため必要がなくなればこうして元の姿に戻っておく必要がある。
スオーラはムータをしまってから、皆が待つ客車のドアを開けた。
「ただいま戻りました。……皆様、どうかされたのですか?」
困った表情の渋い顔をしているプリンチペ王子と精霊ジェーニオ。開いたままの携帯電話とにらめっこをするかのように難しい顔の昭士。
そんな三人を見たスオーラが訊ねたのも無理はない事である。
昭士は一同を代表するかのように、携帯電話の液晶画面をスオーラの方に向けると、こう言った。
《エッセのヤツが出やがった》
ため息と共に。

<つづく>


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