トガった彼女をブン回せっ! 第15話その1
『剥けた。皮』

“ようやくお会いできました。ビーヴァ・マージコ団長”
“ようやくお会いできました。ビーヴァ・マージコ団長”
半身男、半身女の精霊・ジェーニオは、フィルマの前でひざまずき、うやうやしく頭を下げる。それも両の目から涙を流して。
だがその表情は悲しみでも憎しみでも恨みでもない。純粋な喜び。嬉しさ。感動。そういったものに満ちた代物だ。
ジェーニオはいつまでも泣いている場合ではないと、腕で涙を一気にぬぐう。
“何故。何故戻られなかったのです。何故二百年も経った今になって戻られたのです”
“何故。何故戻られなかったのです。何故二百年も経った今になって戻られたのです”
その心をえぐるような真摯な訴え。それにも恨みはない。何故なのか「知りたい」。その一点のみがこもった訴えだ。
不思議そうな顔のまま、サイドカーから二人を見比べているジュン。どうしたものかと黙ったままの角田昭士(かくたあきし)。我関せずと無言を貫く戦乙女の剣=角田いぶき。
一同の視線が棒立ちになるフィルマ=ビーヴァ・マージコ団長(?)に注がれている。
「……お前の前では変装は無意味でしたね。まだここにいたとは予想外でした」
フィルマの声と口調が一気に変わる。その声に昭士の表情が一瞬硬くなった。
フィルマは片手で顔をぬぐうような仕草をする。すると顔全体の皮膚がズルリと剥けていったではないか。その下にあったのは……全く違う人間の顔であった。
「剥けた。皮」
そばで見上げていたジュンも、初めて見るその様子に驚いている。すぐに「ナンだ、コレ」と興味を示す好奇心の塊のような彼女でさえ、それ以上動く事のできない程の驚きだったのだろう。
フィルマの下から現れたその顔を見て、昭士は自分の考えが当たっていた事に息を飲んだ。
それは頬に少しソバカスが目立つ、十代後半の女性の顔。それも見覚えのある、変化に乏しい無表情顔。
《益子美和(ましこみわ)、だったな。ウチの学校の先輩の》
そう。昭士といぶきが通う市立留十戈(るとか)学園高校新聞部部長・益子美和に間違いなかった。
《まさかアンタも俺達みたいに世界を行き来できる人間だったとはね》
昭士は自分が持っているムータと呼ばれるアイテムを取り出した。このカード状のアイテムを使って二つの世界を行き来できるのだが、今となっては昭士が持っている物を含めて二枚しか現存していない。そう聞かされていた。
《どういう事なんだ、一体?》
昭士の言葉も無理はない事だった。今まで知っていた物が崩れさる時というのは、得てしてそういうものだ。
フィルマ=美和は仕方がないと言いたそうに、今まで被っていたウィッグをポイと投げ捨てて、本来の肩口で切り揃えられたストレートの黒髪をさらす。
「ジェーニオを前に逃げ切れる程の逃げ足はありませんし。ここは観念しておきましょうか」
着ている服も左右に引きちぎるようにすると、いとも簡単に脱げてしまった。
その下は凹凸乏しい女性の身体を皮膚のようにピッチリと覆った、ボディスーツのような服。最近のオリンピックの水泳選手の水着のような服。
「それで自分をどうします? 変装して騙された恨みを晴らしますか?」そう言って昭士をちらりと見て、
「それとも二百年ほったらかした恨みを晴らしますか?」同じような視線をジェーニオに走らせる。
表情同様淡々とした美和の物言いに、一人の男と一人の男女は黙り込んでしまう。
そうしてしばし間が空いたが、昭士の方が先に口を開いた。彼はジェーニオを指差すと、
《とりあえず、こいつの方が先だろ。二百年もたった一人でここを守ってたらしいからな。お前が団長だってんなら、説明責任くらい果たせや》
上司と部下の関係か、はたまたご主人様と召し使いの関係か。美和とジェーニオの関係は正直正確には判ってない。
どちらにせよ説明くらいしてもらわねばジェーニオは納得はすまい。納得できるかは別の問題だが。
すると美和は無表情な顔をわずかに崩し、明らかに困ったように少しうつむくと、
「その辺りは盗賊の美学に反するんですが……致し方ないでしょう」
すぐに無表情に戻った美和はジェーニオに向かって、
「とりあえず皆さんを塔の中へ。あと、食べ物の調達はできますかね?」
“はい、すぐにでも”
“はい、すぐにでも”
ジェーニオの表情が一気に明るくなった。


彼等は石造りの塔の中にいた。
初めて見た時はどこに入口があるのかと思った。それらしい物が二、三階は上の方にしか見当たらなかったからだ。
ここから少し離れた場所に洞窟があったのだが、そこにある隠し通路を経由して塔の中に入っていたのである。種を明かせば他愛もないものだ。
だが自分のような部外者相手に、よくそんな秘密を堂々と公開したものである。それが今の昭士の嘘偽りない心境である。
曲がりなりにも盗賊団のアジトなのである。秘密で当然。秘密を知った途端殺される展開も充分に考え、警戒を解いてはいない。
そうして入った塔の中は石造りの壁に囲まれた殺風景なものだった。一応空調と明かり取りを兼ねた窓(という名の穴)はあるにせよ、石で囲まれた空間なのでやっぱり少し蒸す感じがする。
今いる場所は一般家庭でいうリビングのようだが、大きな丸テーブルが一つあるだけで、他に家具らしいものもない。
しかし二百年間も誰もいなかったとは思えない程清潔で、部屋の隅々まで掃除が行き届いている。こもったような嫌な臭いもほとんどしない。
“いつ戻ってきても良いように、掃除と手入れは欠かしていません”
“いつ戻ってきても良いように、掃除と手入れは欠かしていません”
と自慢げに胸を張るジェーニオ。本当にこの塔を守っていたようである。その原動力は命令なのか忠誠心なのか。
ジェーニオが先程調達してきた食べ物を早速丸テーブルに広げる。それらはさっき昭士も見たボッラッチャという果実とセチホミイという固く味気のないパン。
美和は大食ではないしジェーニオもいぶきも物を食べる必要はない。そのため殆どはジュンの胃袋に収まった。
半日ぶりに食べる事もあって量が多いとは決して言えないが、周囲に町もなければ畑もないのだ。そんな中調達してきたと考えれば結構な量である。
昭士は先程少し食べたので遠慮していた。それに何故かほとんど空腹も喉の乾きも覚えていない。丸一日以上何も飲み食いしていないのに。あれほど派手に動き回ったのに。
「そこまで警戒しなくても、今さらジタバタあがいたりはしませんよ」
食べ物を全く食べようとしない昭士に視線を向けた美和が、わざわざ食べるようにうながす。しかし昭士も本当に空腹ではないのでそれを伝えると、彼女は今度はジェーニオに向き直った。
「あなただけに話す訳ではありませんからね。一応そこの彼等にも判ってもらえるように話した方が良いでしょう」
美和は昭士と、適当に壁に立てかけられた戦乙女の剣=いぶきをちらりと見る。
妙に含みのあるそんな態度から、彼女の話は始まった。

オルトラ世界にサッビアレーナという国がある。国の北部は荒れ地、国の南部には数カ国にまたがる大砂漠が広がる、あまり豊かとはいえない国だ。
そのため国全体の治安も決して良いとは言えず、少ない水や物資を時には独占、時には略奪といったもめ事の話がゴロゴロ転がっている。
人間は一人では大した事はできなくても、大勢いれば信じられないくらいの事ができるものだ。そうした独占や略奪を大勢の人間でやろうという考えは当然生まれる。
独占する者の中から商人の組合が生まれ、そして略奪する者の中から盗賊団が生まれた。二つの存在は相反するものとしてこの国の社会に長く存在する事になる。
その混沌具合が同時にこの国の魅力にもなっているのだが、同じくらい問題にもなっている。
今現在になっても、この国の市場には正規品と盗品が堂々と並んで売られている。そう他国から言われ続けているからだ。閑話休題。
無論商人も盗賊も山ほどいた。しかし年月が経てば次第に淘汰されていくものだ。そうして淘汰されて生き残った盗賊団の一つが、マージコ一族。美和の祖先にあたる者達だ。
彼等が生き残れた理由はいくつかあるが、最大の理由が義賊に近い性質だった事だろう。
盗みに入るのは評判の悪い悪徳商人や大金持ちの貴族達。そんな彼等の金に物を言わせた警戒網をやすやすとくぐり抜けて目的を達成する。独占も略奪もできない庶民達は、その活躍に大いに胸踊らせたという。
もちろん評判になれば彼等の仲間になりたいという者達も現れる。彼等を捕まえようとする者達も現れる。そして、盗んだ物を奪おうという者達も現れる。
だがそういった者達がマージコ一族に接触できた事はほとんどないと云われている。
彼等の盗みはこつ然と現場に姿を現わし、宝物と共にこつ然と姿を消す。伝わるのはそうした神出鬼没さばかりで目撃者がほとんどいないのだ。そのためどこの誰が盗賊団・マージコ一族なのかが全く判らないのである。
美和はそんな盗賊団の団長の娘として生を受けた。一族とはいっても皆に血の繋がりがある訳ではない。団長に忠誠を誓った見ず知らずの盗賊達の寄せ集めだ。
盗賊達の中で育ったため、その身に入る技術や知識はどうしても盗賊の物となる。団長の血の為せる技か英才教育の賜物か。一人前とみなされる十五になる頃には既に人並以上の盗賊の技を持った人間になっていた。
彼女は荒っぽいが気の合う人間達と、遥か昔からこの盗賊団を支えている古代の精霊・ジェーニオと、人々の噂に登る程の盗賊稼業を続けていく。
そうなる筈だった。
そんな事態が転じたのは、盗賊団団長にして美和の父が病で亡くなったところからだ。盗賊団が二分したのである。
父の片腕と言える人物を次代の団長にしようとする、武闘派の人間が多い派閥と、
実の娘である美和を次代の団長にしようとする知性派の人間が多い派閥に。
元々上品とは言えない、荒っぽい人間達である。口論が腕づくになり、それが殺しあいに発展。いつそうなってもおかしくない緊張感が皆の内側にあった事は確かだ。
もちろん盗賊達の事。それを表に出すような愚は冒さなかったが。
だがそれを確認する事はできなかった。なぜなら美和を団長とする事を良しとしない武闘派の人間全員が、アジトである塔を出て行ってしまったからだ。事実上の決裂である。
一切の武力なく決裂したのだから平和的ではあったものの、この盗賊団の秘密を知っている人間が外部へ行ってしまったのである。少なくなってしまった人数でしなければならない事はたくさんあった。
あらゆる宝物の隠し場所を変更、もしくは処分。団員しか知らない秘密の通路の封鎖。合言葉の変更。盗賊団なのに盗みをするヒマもない忙しさである。
もちろんアジトの移動も考えられた。隠し通路を封鎖、変更をしたとはいえ、アジトそのものは変わっていない。いつ「元」盗賊団の人間が攻めてくるか判ったものではない。
だからといって、この天を突くような巨大な塔を移動させる事などできない。精霊のジェーニオの力を持ってしても、である。
盗賊団を解散するか、という案も出た。
元々先代にして美和の父は「盗賊とは影。顔や名前が知られてしまうようでは意味がない。盗賊の真骨頂は他人に悟られない事。目立つのはご法度」と常々言っていたからだ。
正体こそ知られてはいないものの、こうまで有名になってしまってはもはや「影」ではない。その事をいつも悔やんでいたそうだ。
しかし自分にできる事はこれしかないと、相反する気持ちを抱えて盗賊稼業をしていた事は団長に近しい人間は皆知っている事だ。
それは美和も同様だ。生まれた時から盗賊団の中で暮らしてきたし、自分がその盗みに加わった事も何度もある。
今さら別の生き方などできはしない。いや、全く知らないのだ。
そんな悩みを抱えていたからであろうか。
美和を新しい団長にすえて活動を始めて一年程経ったある日。彼等は致命的なミスを冒してしまった。
まんまと罠にはまってしまったのだ。
いや。彼等ばかりを責めるのは酷かもしれない。なぜなら彼等を罠にはめたのは盗賊団を出て行った派閥の人間達だったからだ。
マージコ盗賊団の神出鬼没の秘密。それはこの塔の中に空間転位装置があったからだ。アジトの塔と同じくどこの誰が作った物かは判らないが、使い方だけは把握できた。
これによって塔から出る事なく「直接」商人の屋敷にある倉や宝物庫の中へ空間を繋いで盗みを働いていた。だからあらゆる警戒を突破してこうした倉や宝物庫内部へ侵入が可能だったのだ。
だから警備兵のふりをして商人に雇われていた元団員達は、始めから宝物庫内部で彼等を待ち構えていたのである。
決して広くはない宝物庫の中で戦いが始まってしまった。
盗賊という者はもちろん時として人を傷つけ命を奪う。だが「戦う」のが専門という訳ではない。むしろ苦手である。相手に気取られる事なく近づいて短剣の一突きで命を奪う、という芸当はお手の物なのだが。
元々同じ盗賊団の仲間である。相手の動きのクセや弱点、そして考え方はよく知っている。
だが武闘派対知性派の戦いになってしまっている以上、不意を打たれてはその知恵を出す間がなかった。加えて精霊ジェーニオは使いにやってこの場にも塔にもいない。彼を頼る事はできなかった。
短剣で斬りつけられ、拳で殴り飛ばされ、美和の味方はいとも簡単にやられていく。
もちろん美和も習い覚えた技で応戦するが、持った技術は高くとも圧倒的に実戦経験が足りない。相手の短剣をかろうじて受け止め、かわしながら、塔で待機していた団員に転位装置を止めるよう命令を出した。
転位装置が止まれば美和達はこの宝物庫に取り残される事になる。
いくら団長の命令とはいえ、仲間を、そして団長を見捨てるも同然なその言葉に、装置の前にいた団員は戸惑いを隠せない。
だが武闘派の人間はそれを狙っていたのだ。
転位装置を作動させている最中である。これなしにこの宝物庫から無事に出る方法は多分ない。団長である美和を守り、逃がすには装置を止める訳にはいかない。
装置を止めて絶体絶命の状況に自らを追い込むか。装置を止められずにアジトを乗っ取られるか。
いわば究極の選択を、この極限状態でさせる。それも考える時間を与える事なく。
そんな風に団長たる美和が悩み、苦しみ、荒れ狂う胸中で葛藤させる。
ただ殺してしまうのでは面白くない。そんな歪んだ復讐心とも言おうか。武闘派閥の長は自分の思惑通りに事が運んだ事に嫌味な笑みを隠せずにいた。
自分達に構わず装置を止めるよう、一瞬だけ視線を動かして命令する美和。だがその一瞬を突かれ彼女は相手の拳をまともに喰らって宝物の山に吹き飛ばされた。不安定に置かれていた箱がガラガラと彼女の身体に振ってくる。
美和を相手にしている男は、明らかに手加減をしていた。舐めてかかっているという意味ではない。極力大きな傷をつけないように戦っているのだ。
美和は特に美人でもないしスタイルが良い訳でもないが、男からすればそんな事はどうでもいい。ある程度の容姿を持つ「若い女」なら使い道も山ほどある。
そんな男の意図が嫌という程理解できている彼女は、そうされてはたまらないとばかりに必死に抵抗を試みる。
しかし愛用の短剣は、今吹き飛ばされた時に取り落としてしまった。必死にもがく指が触れたのは、何か固い板状の物だった。
目の前に振り下ろされる刃にせめてもの抵抗とばかりに、その板状の物で受け止めた時だった。
板状の物がまるで破裂するように弾け飛んだのである。美和の手に残った物は青白く点滅するカードが一枚。
そして、そのカードから青白い閃光がほとばしった。それは皆の視界を一瞬で奪い去ってしまう。
目が見えなくなった事で一瞬身体が硬直する。だが一瞬を過ぎても身体が動かない。いや、動かせない。
ふと視界だけが元に戻る。だが自分の周囲には何もない。溢れんばかりの宝物も。薄暗い宝物庫の壁も。転位装置の向こうに見えていた我が家であるアジトも。何もない。
あるのは真っ白い空間。その中に美和がたった一人で立っている。青白く点滅するカードを持った状態で。
そこにぼんやりと姿を現わしたのは、細身で長身の人間だった。男にも女にも見える中性的な姿。鎧の下に着る襦袢のような雰囲気の、なめし革製の服を着ている。
その中性的な人間は、これまた中性的な声で語りかけてきた。
“怪しまないでほしい、と言っても無駄だろうけど、一応言っておくよ”
周囲の事態が常識を遥かに越えた事になってはいるが、その割に美和は冷静に相手を観察していた。
“自分はこの「盗賊」のムータに宿っている……まぁ精霊のような者、という説明が一番近いかな”
精霊のような者、と名乗ったその人物は美和をじろじろと観察すると、やがて本心から驚いた声で、
“これは驚いた。君は実に珍しい体質のようだ。あらゆる世界の誤差や影響を受けない。有難いような困ったような状態だね”
精霊は動けない美和に一方的に話し出した。
それによると、美和が持っているカード状のアイテムの名は「ムータ」。
ごく限られた人間は無数に存在するどこかの異世界に現在の自分とは異なる別の姿形を持っている。そのためそうした人間のみが別の世界へと行き来する事ができる。もっとも行き来できるのは人間だけとは限らないが。
そして、時にはその別の世界の自分とを重ね合わせ、常人以上の力を持った超人になる事ができる。
その超人の力を以て敵と戦うのが、このムータ本来の使い方。
しかし美和のように異世界へ行っても姿形に全く変化がない人間も、存在しない訳ではない。それこそ奇跡のような確率ではあるが。
それでは別の自分と重ね合わせても、常人以上の力を持った超人になる事はできない。全く違う者をかけ合わせるから増えるのであって、全く同じ者同士をかけ合わせてもその結果は変わらない。1×1の答えが1でしかないように。
だが彼女は生まれながらの盗賊。そしてこのムータは使い手に盗賊の能力を付加する事ができる。という事は盗賊の能力が倍になるかもしれない。
そんな憶測で物を語られても。説明役の筈が説明になっていない。美和が自由に動けるのなら呆れてため息を吐いているだろう。
だが説明役の筈の精霊は一つ咳払いをすると、どこか偉そうに胸を張り、
“だが、もう君は普通ではいられない。平凡な人生など望むべくもない。良い意味でも悪い意味でもね。今は判らなくても、いつか判る時が来る。自らの身を以てして……”
精霊の姿が薄くなっていく。消えようとしているのだ。役目を終えたとばかりに。
だがその姿が消えようとしている中、急にふと何かを思い出したかのように、
“そうそう。このムータには異世界へと行く力がある。君は幸か不幸かその力を発動させてしまった。しかも空間転位装置が作動したままの不安定な空間の中でね。どこに飛ばされる事やら……”
そんな事を言った。とても無責任な様子で。そして周囲の真っ白い空間に溶け込んでいくように、精霊の姿がかすれて見えなくなっていく。
美和が気がついた時には手にしていたカード――ムータで、相手の短剣の刃を受け止めていた。
という事は、時間が全く経っていないのだろうか。結構長く話していたようにも思えるが……。
ムータはさっきと同じように青白く点滅しながら、同じ色の火花を散らしている。それはとても大きく長く、この宝物庫一杯に広がっているのが判った。
バシィィィィィィィィィン!!
何かを強く弾くような音がしたと同時に、周囲にいる人や物が、散らした火花の中に「飲み込まれて」いく。もちろん美和の身体もだ。
自分の身体が消えていくのである。痛みはない。しかしそれ以上に恐怖がある。自分がどうなるのか予測もつかないという恐怖が。
そして宝物庫の中から、総ての宝物、人間が消え失せた。そして空間転位装置の向こうにも。二つの異なる空間を繋いでいた門も消え失せ、部屋は何事もなかったかのように静まり返るだけであった。

自分の身体が青白い火花の中に消えてどのくらいの時間が経ったのだろうか。一瞬か、一分か、一時間か。
ふと気がつくと、彼女の周囲の空間が完全に変わっていた。
乾いた空気の宝物庫から、どことなく湿り気のある空気を含んだ屋外に。少し暗い。
さっきまでは夜中であったが、今いる場所もそうなのかは判らない。だが夜中の暗さではない。明け方か夕暮れかのどちらかだ。
右側には大きなガラス張りの扉がついた建物。左側には変わった感触の石のブロックでできた壁。建物と壁の幅は自分の両腕を広げたよりも少し大きい程度だ。
足元は土。砂利も少し混ざっている。雑草がところどころに生えているだけで特に何かある訳ではない。
だが、特にその土は驚きだ。湿り気のある空気の中だと、むせる程に土の臭いが強くなるとは。思わずえづいてしまう程に。
明らかにこれまでいた場所とは何もかもが異なる場所。間違いなく国は違うだろう。
“このムータには異世界へと行く力がある。君は幸か不幸かその力を発動させてしまった”
白い空間にいた謎の人物(?)は、確かそんな事を言っていた。
異世界へ行く力を発動させた、という事は、ここは異世界なのだろうか。もっとも「異世界」と言われても全くピンとすら来ない。信じる、信じない以前の問題だ。
だが。自分の仲間も。敵も。一体どこへ行ってしまったのだろうか。さすがに誰もいないひとりぼっちの状態では、一抹の寂しさや不安を隠し切れない。
かちゃっ。
ガラスの扉の方から小さな金属音がする。だが人の気配はしない。正体と出所の判らない音は非常に警戒をする必要がある。今の自分にできる事は一つ。この場から一刻も早く逃げ出す事だ。
だがどこへ逃げる。
異国だか異世界だか知らないが、明らかに土地勘がない場所である事は確か。下手に動いた方がかえってまずいかもしれない。
そんな盗賊にあるまじき一瞬の迷い。そんな一瞬の間に、ガラスの扉がいきなり横に動いた。
そこにいたのは一人の男。初老と言っても良い年齢だろう。戦闘訓練を受けている者らしい鋭い視線をこちらに向けている。
美和は表情こそかろうじて抑え込んだが、内心は大声を上げてしまいたい程に驚いていた。
盗賊として周囲の人――生き物の気配をしっかり察知するよう厳しく訓練を積んでいる。その筈の美和がこんな目と鼻の先の至近距離にいる人間の存在を全く察知できなかったのだから。
初老の男が一歩足を踏み出す。いや、本当はもっと何かしたかもしれない。彼がそうした瞬間、美和は自分の身体が宙を舞っている事だけがかろうじて感知できた。
盗賊として当然相手と戦う術――筋力重視でない投げ技・締め技・極め技や短剣での闘法も、一人で充分戦えるくらいの訓練を積んでいる。その筈の美和がそんな「感覚」に陥ってしまう相手の動き、速さ。
まごう事なき「達人」。そうとしか考えられない事だった。
だが美和もとっさに膝を曲げ、背中から直接地面に叩きつけられる事だけは防ごうとした。だが相手の方は何枚も上手だったらしい。急に落下の速度が弱まって軽くどしんとぶつかる程度の衝撃が足の裏、そして背中に伝わってきた。
完敗だった。訓練の時にはこうして何度も地に叩きつけられたり這いつくばされたりしたが、こうまで手も足も出なかったのは初めてであった。
真上を見ている美和の鍛えた目には、薄暗い中でもたった今自分をこうした男の顔が見えていた。
命令を果たしただけの無表情。勝利の快感に酔う自慢げな顔。どんな顔をしている。美和はそんな思いで男の顔を見ていた。それはまぎれもなく、笑顔だった。
しかもいたずらっ子のような。

<つづく>


文頭へ 進む メニューへ
inserted by FC2 system