トガった彼女をブン回せっ! 第13話その3
『それなら最初から呼ぶンじゃねぇよ!』

市立留十戈(るとか)学園高校敷地内にある駐車場。そこに一般的な乗用車と全く違う、大型の車が停まっていた。
大きさは少し横幅のあるマイクロバス程度。落ち着いたモスグリーンの車体の下にコバルトブルーの太いラインが入っている。
スオーラが現在の住まいとしているキャンピングカーだ。それもこの時代の基準から見ても同程度かそれ以上の技術で作られている代物なのである。
スオーラの家同然のキャンピングカーの前にやって来たのは昭士だった。それも白い学ランという制服ではなく、青いつなぎの上からゴツイ肩当てと脛当てを付けただけの軽装である。
この姿こそ、侵略者・エッセと戦う時の昭士の姿である。同時にスオーラの世界であるオルトラ世界での彼の姿でもあった。
彼は腰のポーチから鍵を取り出すと、それで扉を開けて中に飛び込む。携帯電話で何やら話をしながら。
キャンピングカー内のスオーラの私室に飛び込むと、そこに安置されている短剣を掴んですぐさま飛び出した。
曲がりなりにも結婚適齢期の女性の自室に入る事を許す「赤の他人の男」程度には、昭士を信用しているようだ。そうでなければ合い鍵など渡すまい。
大急ぎで外に出た昭士はポーチのベルトに短剣の刀身を差し込む。この短剣には鞘も柄もない。しかし刃が付いていないからこそできる芸当である。
肩で携帯電話を挟みつつキッチリと鍵をかけ、それを確認すると、通話が切れた携帯電話をポーチにしまった。
『アキ殿。大丈夫でありんしょうか』
どこかおっとりとした花魁調の言葉。そんな言葉が「短剣から」聞こえてくる。
この短剣には意志がある。より正確に説明するならば、オルトラ世界で人間だった者が、こちらの世界に来るとこの短剣の姿になってしまうのだ。
姿が変わるだけで人としての意識や感情はある。かなり変化してしまってはいるのだが。
短剣の名前はジュンという。パエーゼ国の隣にあるマチセーラホミー地方の大森林の中で、今なお原始的な生活を営む女性ばかりが住む村の出身だ。
村人の総てが戦士であり狩人であり呪術師でもある。また文明社会に毒されていない純朴な面もある。
ジュンも年齢的には昭士達とそう大差ないが、純朴で小柄な分ずっと子供に見える。それだけに今のおっとり花魁口調はギャップがあり過ぎる。
昭士はそれに苦笑しつつも、
「大丈夫って、どっちがだ? いぶきか? スオーラか?」
この姿に変身した昭士は、生来のドモり症から一転、スラスラと喋るようになる。同時に余計な一言も多くなる。いぶきほどにトラブルは起こさないが。
『どちらもでありんす』
どことなく澄ました感じに聞こえなくもないジュンの言葉に、昭士はほんの少しだけ考える振りをしてから、
「大丈夫だろ。いぶきは殺しても死なないようなヤツだし、スオーラもやる事は判ってる。俺より先輩だしな」
昭士はポケットから一枚のカードを取り出した。スオーラも持つムータと呼ばれるアイテムである。
そのカードが鈍い音を出して青白い点滅を繰り返していた。それは昭士達が戦うべき敵・エッセが現れた事を意味する。それはさっきの賢者からの電話でも知った事だが。
だがどこに現れたかまでは判らない。どこの世界に現れたのかも判らない。
その辺りがまだ不便極まりないのだが、何も判らないよりはマシである。
このカードには他にも様々な力がある。昭士をこのような戦士の姿にする事。持ってさえいればムータを持つスオーラとなら言葉が通じる事。
そして、どんなに離れていたとしても、いぶきをこの場に呼び出す事ができる事。
もっともそのためにはこうして戦士の姿になっていなければならないが。
この戦士の姿はこの世界の姿ではない。別の世界の姿であるため、この世界ではあり得ない姿だ。そのため非常に不安定であり、あまり長い時間この姿でいる事はできない。
「キアマーレ」
呼び出すためのキーワードを発する。しかし、特にカードに何かの変化はない。エッセ出現を知らせる音と光が止んだくらいだ。
だが、視線の先の夕焼け空に小さな小さな黒い点が見えた。そしてそれはどんどん大きくなっていく。いや、こちらに向かって飛んでくる!
『……ぅぅうええええええええええぇぇぇぇぇっっ!!!』
微かだった悲鳴が一気にボリュームを上げている。間違いなくいぶきの声だ。だがその姿は全長二メートルを超える大剣・戦乙女の剣(いくさおとめのけん)である。
ドゴンッ!
空を突き抜けるように飛んで来た剣は、切っ先を下にしてコンクリートの地面に突き立った。それも鞘ごと。しかも測ったかのように昭士の真正面に。
もはや細長い鉄の塊にしか見えないそれがいぶきの声で怒鳴り出す。
『……ったく、毎回毎回こンなはた迷惑な事に巻き込むなって言ってンだろうが、このバカアキ!』
「俺を巻き込むお前にそれを言う資格がある訳ねーだろ」
柄に浮き彫りになった両腕を広げる女性(逆さだが)の辺りに向かって、昭士が言い返す。
当然いぶきは言い返すが昭士はそれを無視して鞘に付いたベルトを回して大剣を背負うと、
「今回はノミ退治だとさ。どんなノミなんだか」
『ノミ!? ノミってあのちっさくて血を吸ってピョンピョン跳ねまくる、あのノミ!?』
ノミと聞いた途端、いぶきがさっき以上にけたたましい声で笑い出す。
『たかだかノミ一匹にナニ考えてンのよ。そんなのブチッと踏み潰せば終わりじゃン。いくら百年は昔の世界だからって、踏み潰す事もできない訳じゃないでしょ? そんなのバカアキにもできるでしょ? ダメ人間にも程ってモンがあるでしょ? いちいち呼び出してンじゃないっての!』
「はーいはい。じゃ行きますからねー。ちゃんと着いて来て下さーい」
彼女の言い分を完全に無視し、まるでガイドのような口調で駆け出していく昭士。目指すは校内の剣道場だ。
そこからムータを使って作った光の扉を潜れば、スオーラがいた教会の礼拝堂に着くからだ。


光の扉を抜けて教会の礼拝堂へやって来た昭士。腰のベルトに挟んでいた短剣=ジュンの姿が人間に戻った。
その姿は小柄な黒人の少女の姿である。
ボサボサで伸び放題の白い長髪。その髪で見え隠れする額には、成人と村の格闘技大会で優勝した証である、白丸の中に黒い丸という模様が描かれている。
大きな布の中央に穴を開けただけの貫頭衣(かんとうい)という服の下は木綿のシャツと膝丈のズボン。足は裸足だ。
以前は貫頭衣にふんどし一つだったが、こうした町に行くなら町の人間と同じ格好を、という方針でこうなったらしい。ジュン自身はあまり気に入ってはいないようなのだが。
だがこうして来てみたはいいのだが、何となく礼拝堂の奥――来客用の応接室などがある方がうるさい、というかとても騒がしい。
誰かに聞こうにも、昭士もいぶきもこの国の言葉は判らない。ジュンはいくつかの単語が判るだけで、会話はとても無理だ。いくら彼女の話し方が単語を並べただけのような代物であっても。
《日本語判りそうなヤツ、いれば良いんだけどなぁ》
昭士がそうぼやいても、それは無理もないというものである。
この世界にも日本語はある。と書くと語弊があるのだが、ジュンがいたマチセーラホミー地方の言葉がほとんど日本語と同じなのだ。だから昭士とジュンはムータの力がなくとも言葉が通じる。
そして隣の地方だけあって、この町の人間の全員とはいかないがある程度なら言葉が判る人もいる。数は多くないが。そういった人間に巡り合えれば良いのだが。
そんな淡い期待をしつつ奥へ向かうと、そこから見覚えある人物がやって来た。
カヌナントカといった、白髪の女性の僧侶だ。髪は白いがその動作は決して老人のものではない。
「ノイミートクニシラミラノチ」
やはり彼女の言う事がサッパリ判らない。その表情や物腰から警戒されていない事は判るのだが。
昭士はもちろんジュンも頭の中が「?」マークだらけになっているだろう。
しかしジュンが人なつこく彼女に近づくと、
「おそろい。おそろい」
自分の髪とカヌテッツァ僧の髪を互いに指差して笑顔を作る。それを見た昭士は、彼女がずいぶん位の高い僧侶だった事を思い出し、ジュンの首根っこを掴むと、
《悪い。しばらく黙っててくれないか。話がややこしくなる》
そのやりとりで自分の言葉が通じない事に気づいた彼女は咳払いを一つすると、
「コレハ失礼ヲ致シマシタ。かぬてっつぁ僧ト申シマス」
軽く会釈して自己紹介をしてくれた。少々固い発音ではあるが、割と流暢な日本語である。
「剣士殿トじゅん殿、モシヤえっせガ現レタ知ラセヲ?」
《ああ。ところでスオーラは? とっくにこっちに来てるんだろ?》
相手が遥か上の身分である事を全く考えない横柄な物言いであるが、彼女にとってはこの世界を救う力を持った存在なのが昭士達である。
それゆえ、自らが信仰する神と同等に崇め敬う存在なのである。でなければ「殿」をつけて呼んだりはすまい。
昭士の質問にカヌテッツァ僧は表情を曇らせると、
「すおーら様ハタッタ今ココヲ飛ビ出シテ行カレマシタ。戦ウ時ノ姿ニ身ヲ変エテ」
どういう事だろう。別に目の前に敵が現れた訳ではない。もしそうならここはもっと大騒ぎになっている。
「先程賢者様カラ、ぺい国ノるりじゅーずノ町ガ、えっせノ襲撃ヲ受ケタト連絡ガアッタノデス」
昭士の表情から、カヌテッツァ僧はそう説明する。しかしまだ説明が足りない。
ペイ国というのがここパエーゼ国の隣の国というのは、さっきの賢者からの電話で聞いている。そこにノミ型のエッセが現れた、とも。
そこで通話が切れてしまったので詳細は聞いていない。リダイヤルでこちらから電話をかけると通話料が発生するという、節約と無精の為だ。
さすがにそう何度も何度も呼び出し音を鳴らした瞬間に通話を切って向こうから電話をかけさせる真似はできない。
それに詳細はスオーラに聞けばイイという、どこかいい加減な思考もあった。だがその肝心のスオーラがいないのではどうにもなるまい。
「ぺい国ハ、現在くーでたーノ最中。更ニぺい国ノるりじゅーずトイウ町ハ、すおーら様ノ姉上・たーた様ノ嫁ギ先ナノデス」
そこまで説明されて、昭士はようやく事情を飲み込めた。肉親がそうした騒ぎに巻き込まれたと聞けば、スオーラなら真っ先に飛び出して行きかねない。
《で、その町まで、ここからどのくらいかかるんだ?》
「鉄道ガ通ッテハオリマスガ、ソレデモ三日ハカカリマス」
三日か。昭士は首をひねって考えた。
自分の時代から約百年前の鉄道で三日かかる距離。昭士はポーチから携帯電話を取り出し、その電卓機能で計算してみる事にした。
その当時だから時速百キロも出せなかったろう。計算しやすく時速五十キロと考えても、三日なので七十二時間。それをかければ三千六百キロ。さすがに休みなくその速度で走り続ける事は不可能だからこれよりは短いだろう。
《……だいたい三千キロくらいか。さすがに遠いな。どうやって行く気なんだ?》
昭士は電卓機能を終了させ、すぐさまスオーラに電話をかけた。
スオーラの律儀な性格を考えるとすぐ電話に出そうなものだが、なかなか電話に出ない。そこへジュンが彼の背中を何度も何度も突ついてくる。
「黙ってる。いつまで? いつまで? いつまで?」
《も少し待ってろ》
昭士は言いながらカヌテッツァ僧に視線を移すと、
《悪い。こいつに何か食わせてやってくれ。それが一番静かになりそうだ》
経験があるのだろう。彼女は「かしこまりました」と快諾し、彼女を手招きして奥へ招いた。
十回以上呼び出し音が鳴っているが、電話に出る気配がない。昭士は一旦通話を切った。
《おっかしいなぁ。あいつが電話に出ないってのは》
さっきは周囲がうるさくて呼び出し音が聞こえていなかったパターンだが、こちらの世界ならそこまでうるさい状況にはならないだろうから、気づくと踏んでいたのだが、実際はこれである。
《嫌われたンじゃないの?》
例によって興味皆無の様子で、しかし露骨に昭士をバカにした口調でからんでくる。そんないぶき=戦乙女の剣を裏拳でこづいた昭士は、
《また例によって着信音に気づいてないんだろうなぁ。さっきもあったし》
《相当ニブイって事ね、あの痴女》
そこに昭士の裏拳が再び叩きつけられた。
さっきも思った事だが、携帯電話を持ち始めた頃というのは意外と着信に気づかないものなのだ。それに慣れるにはさすがにもう少し時間が必要だろう。
その辺りは、思い返してみれば自分もそうだったなぁと述懐する。特に「ここなら絶対大丈夫」と胸ポケットに入れておいたマナーモードの携帯の着信に気づかず半日過ごしていたり。
そんな昭士の思考に割って入ったのは、遠くから聞こえてくるエンジン音だった。この世界ではとても珍しい「音」である。
昭士が走って教会を出ると、十メートルは先からこちらに向かって走ってくるバイクが見えた。
「アキシ様ーー! お待たせ致しました!」
バイクはそんな大声と共にやって来て、彼の前にピタリと停まってみせた。例によって百年は昔っぽいデザインのバイクである。しかもサイドカー付きだ。
そんなバイクにまたがってやって来たのはもちろんスオーラである。昭士の世界の格好である魔法使いの服装で。
《……ひょっとして、そのバイクで行くのか?》
「はい。そのために少しでも急ごうと変身をして、家まで行って持って参りました」
スオーラはそう言いながらムータを取り出す。ムータから青白い火花が散り、それが四角い扉を形作る。その扉を通過したスオーラは、こちらの世界の僧服――昭士には濃紺の学ランにしか見えないが――でバイクにまたがっていた。
「本当はあちらの世界にあるキャンピングカーを持って来たかったのですが、これから向かうペイ国は現在クーデターの真っ最中。無駄に目立つ訳には参りません。それに総ての道路、交通機関がペイ国の手前で通行止めらしくて……」
確かにあのキャンピングカーは昭士の世界の基準ですら若干オーバースペック気味だ。それがこんな(昭士から見て)百年前の世界だったらオーパーツも真っ青な「目立つ」代物である。
クーデターはどんな理由であれ武力衝突。人々はかなり殺気立っている。ちょっとでも刺激するような事があれば、彼等はたちまちこちらを攻撃してくるだろう。
そのため「目立たない」「公共交通機関ではない」「早く移動できる」乗り物となると……自家用の車かバイクしか選択肢がない訳だ。この世界では。
では、空を飛ぶというのはどうだろう。
もちろん空を飛ぶ乗り物も存在はするが、とても個人で持てる物ではないし、そもそも以前その持ち主と相当にもめたので、なし崩し的に和解したとはいえそのツテを頼りたくはなかった。
そんなスオーラの考えが判った昭士は「判った」とだけ言って、
《じゃあジュンのヤツを呼んで、早速行くとしようか。って言いたいところだが……》
昭士はそう言って自分が背負ったままの大剣・戦乙女の剣=いぶきをチラリと見る。
この剣の重量は二メートルという巨体に見合った三百キロ以上。使い手ゆえの「特性」で昭士は軽々と背負っているが、とてもじゃないがこの世界基準の車やバイクに乗せて運べる代物ではない。
昭士達の世界の姿――人間サイズに戻したとしても、トコトン非協力的ないぶきが素直にバイクに乗って着いて来てくれる保証は全くない。
むしろゴネて手を出し足を出し徹底交戦してくる確率が二百パーセントは固い。そんな性格である。
そもそもサイドカーがあまり大きい物ではないので、人間二人を乗せるのはかなり厳しい。そもそも数日とはいえ水や食料も積む必要があるため、人が乗るスペースはますます無いに等しい。
それなら車にするべきでは……と昭士はツッコミを入れたかったが、いかに「お嬢様」なスオーラの家でも車はないのだろう。
昭士達の世界の「黎明期の車」がこの世界ではピカピカの最新型なのだから、その普及率も推して知るべし、というヤツである。
《しょうがない、置いて行くか。いざとなれば呼べば済む事だしな》
《ハァ!? ナニ考えてンのよバカアキ! 人の事勝手に呼びつけたあげく置いてくって? それなら最初から呼ぶンじゃねぇよ! そもそも相手はチッコイノミなンだろ!?》
いぶきがここぞとばかりに猛然と不満意見を述べる。勝手に呼び出して「置いて行く」では、今回ばかりはいぶきの方が正しいのである。
しかし昭士は問答無用とばかりに、大剣の柄に浮き彫りにされた女性像の顔面をこづく。
昭士が自分の世界とオルトラ世界とを行き来する際、二人一緒に行き来しないと昭士はともかくいぶきがオルトラ世界のどこに、いつの時代に飛ばされるか判らないからだ。
そのため無理矢理にでも一緒に移動するようにしている。そこを考えると、やっぱりいぶきの方が間違っているのだ。
それともう一つ。
《お前も何度もやってんだから、いい加減覚えろ。生き物の形をしてるといっても、大きさまでそっくりそのままとは限らねぇんだから》
昭士の言う通り、エッセの体長は模倣した生物と同じとは限らない。だいたいはオリジナルと同じか、それ以上の大きさのケースが多い。
今回のケースでは「ノミ」だが、賢者が電話でそう報告して来たところから考えても、間違いなくオリジナルの一ミリから九ミリよりはずっと大きい筈だ。
「そうですよ、イブキ様。相手はエッセです。油断をして良い相手ではありません」
スオーラは得意そうな顔になると、饒舌に話を続ける。
「そもそも『昆虫』と呼ばれる生物は、自分の体長以上の物を軽々と運んだり、自分の体長の何十倍も高く、遠くへジャンプする事が可能です。もし生物の大きさが総て同じだったら、最強は昆虫である、という説を唱える学者も多いのですよ?」
《ンな事はあンたが生まれる前から知ってンのよ、こっちは。えらっそうに講釈たれてンじゃないわよ、下っ端坊主が!》
不機嫌極まりない「怒号」で、スオーラの話の腰を叩き折るいぶき。
毎回こうなのでスオーラも一瞬沸き上がった怒りを押し殺している。このまま険悪なムードになられても困るので無理矢理話題を変える事にした。
《なぁ、スオーラ。さっきも思ったんだけど、電話鳴らしても気づかないってのは、早いトコ慣れて何とかした方が良いな。さっきみたいに緊急事態を聞き逃すケースも起きかねないし》
昭士に指摘され、スオーラは素直に「申し訳ありません」と謝罪する。
《確か、設定はいじってない筈だよな? やっぱり自分に合わせて調整しておいた方が良いだろ》
スオーラが日本語の文字が全く判らない事をあえて無視した発言。まぁいくら女性と積極的にかかわり合いになりたくない昭士でも、やってくれと言われればやるつもりではいるが。
基本設定はあくまで「基本」。万民向けではあるかもしれないが、その個人に向けた設定ではない。それが合わない人もまた多い。
「……言われてみればそうですね。ではお願い致します」
スオーラは上着のポケットを探りながらそう言ったが、その動きがピタリと止まってしまった。慌てて反対側のポケットに手を突っ込む。
それがやがて上着のポケットを上からパタパタと叩き、身体を触診でもするようにあちこちベタベタと撫で回し出した。
それも、とても慌てた表情で。
《……ひょっとして、無くした?》
その切羽詰まった表情からそう判断した昭士は、遠慮なく訊ねてみる。するとスオーラは無言で小さく首を倒した。
《ぶふははっはははは。ぎゃはははははは!!》
途端にいぶきが大笑い。もしこれが人間の姿のままだったら、身体をくの字に折って転げ回るほど笑っているだろう。
笑い事ではないが苦笑するしかない昭士。そしていぶきの聞いているだけで腹が立って来そうな笑い声が続く。
そこへジュンが戻ってきた。片手にスイカくらいに膨らんだ布の包みを持って。
「アキ。貰った。コニ」
布の包みを笑顔でズイッと出して自慢げに見せてくる。
その布の中からほのかに薫るイイ匂いから判断して、それは「コニトナ・ノラカークニ」と呼ばれる焼き菓子である。
細い丸太のような状態の生地を一度焼き、それを薄切りにしてから断面をもう一度焼くという、意外に手間のかかる手順で作られる、ジュンの大好物だ。
「くれた。おそろいの人。コニ。たくさん」
同じ白髪のカヌテッツァ僧がジュン用に焼いておいたのだろう。名前を「コニ」しか覚えていないところにはあえてツッコミを入れなかったが。
「落ちてた。これ」
ジュンがもう一つズイッと差し出したのは、腕時計だった。だが時計にしては変である。アナログにしろデジタルにしろ「時間を知らせる」部分にあたる物がなかったからだ。
腕時計のベルトが付いた分厚い板。そこには数字が書かれた十二個のボタンがついている。電源ボタンらしい赤く小さなボタンと、用途が判らないいくつかのボタン。
「ああっ、それです。それがわたくしの携帯電話です」
スオーラの買った携帯電話(プリペイド携帯)は、このオルトラ世界に来ると腕時計のような形に変わってしまうのだ。だが機能は変わっていない。
ジュンは落ちていたと言っていたが、おそらく応接室のテーブルに乗せたまま忘れてしまったのだろう。
いぶきを除く全員は、その場で吹き出してしまっていた。
判ってしまえば、よくありがちなタダのはた迷惑な騒ぎである。手元にないのならいくら電話しても着信に気づく訳がないのだ。
ところが。そんな雰囲気をぶち壊す物がやって来たのだ。
ぶぉぉぉん。ぶぉぉぉん。ぶぉぉぉん……。
ムータからの音である。

<つづく>


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