トガった彼女をブン回せっ! 第13話その2
『出しゃばりはしませんよ』

カンカンカン。
通路に響く涼やかな鐘の音。すると少しの間を置いて部屋の中から、
カンカンカン。
同じような鐘の音が響き、それからゆっくりドアが開いた。
「スオーラ様。お久し振りでございます」
部屋の中から出てきたのは、濃紺の詰め襟のような服を着た女性だ。声や動きは若々しいが、老人のような白い髪をしている。
彼女はやって来たスオーラを見て、うやうやしい態度をとっている。
ここはスオーラの故郷オルトラ世界はパエーゼ国。その国の主要都市ソクニカーチ・プリンチペの町にある、とある教会である。
彼女は昭士達の学校に舞い戻ってから、世界を行き来する「光の扉」でこの教会にやって来た。
今の彼女の格好は部屋の中にいた女性と同じ濃紺の詰め襟のような服だ。左胸に白い糸で六角形の中に五芒星という図形が刺繍されている。
その上から白いマントを羽織り、額には紺色の鉢巻きが。
スオーラが信仰しているジェズ教においては、「額には神を見るための第三の目がある」と考えられているため、聖職者は見習いであっても額を大きく開けておかねばならないという決まりがある。
スオーラはそれを指摘される前に鉢巻きをくいと少し上げて額を出した。
服はもちろん身長もぐっと縮んで体型も十五歳という年齢相応(よりは若干メリハリに乏しいが)のものに。あちらの世界ではそのまま流していた真っ赤な長髪も、首の後ろでまとめてある。
スオーラはうやうやしく出迎えてくれた彼女に向かって、
「カヌテッツァ僧様。賢者様はお見えになっておりませんか?」
誰に対しても丁寧な言葉遣いのスオーラだが、目の前の彼女に対しては位が遥か上という事もあって実は結構緊張気味である。いくら宗教最高責任者の娘であっても今は一介の托鉢僧。こうしてやすやすと会える身分ではないのだから。
しかしカヌテッツァ僧と呼ばれた女性はうやうやしい態度を全く崩す事なくスオーラを部屋へ招き入れると、
「実は、隣国・ペイでクーデターが発生したとの知らせが参りました。まだ詳細な情報が伝わってきてはおりませんが、確か……」
カヌテッツァ僧はしばし何かを思い出すように間を空けて考えると、
「タータ様の嫁ぎ先が、ペイ国でございましたね」
彼女の言う通り、スオーラの上の姉モーナカ・タータはペイ国の貴族に嫁いでいる。
「そのため賢者様はペイ国へ飛び、調べておられるようです」
なるほどとスオーラは思った。
スオーラが会いたいと思い、カヌテッツァ僧が話題に出した賢者――彼のフルネームは「モール・ヴィタル・トロンペ」。
これは実は隣国・ペイ国人の名前なのである。今はオルトラ世界の侵略者・エッセ討伐の為に、唯一有効な戦力たり得るスオーラがいるこの国に滞在するケースが多いが、元々はその国の出身だ。
いくらクーデターの最中とはいえ、賢者程の人物であれば、他の人間が行くよりは安全だろう。下手な貴族などよりよほどVIPであるとも言えるからだ。
それにこの町の立地も問題になる。このパエーゼ国は南北に長い長方形のような形をしている。ペイ国と国境を接しているのは南東部分。そしてこの町は国の北西部分に位置している。
この世界の交通機関では、どう急いでも三日はかかる距離。あまりに移動に時間がかかり過ぎるのだ。共を連れず一人で行ったのにはそういう理由もある。
だがそこで、さっきの益子美和の言った事が引っかかってくる。
「あなたのお姉さん一家は無事ですよ」
クーデターがいつ起こったのかは知る由もないが、何日も続いているものではないようだ。加えてこちらの世界には昭士の世界ほどには情報伝達手段が発達していない。
電話が一番早く遠くに物事を伝えられる手段だが、国のどこにでも電話がある程には普及していない。ましてやクーデター下で悠長に電話をしている時間はないだろう。
にも関わらず益子美和はそんな情報をもたらした。当然スオーラの動揺を誘うために言ったという事も考えられるが。
それにしては言い方に真実に裏打ちされた説得力があった。スオーラがそう感じたのは事実である。
「しかしペイ国は大丈夫なのでしょうか」
カヌテッツァ僧が不安げにそう漏らしてしまう。スオーラも一聖職者としてクーデターの行く末、何より家族として姉の安否は気になってしまう。
だがカヌテッツァ僧の思惑はそれとは少し異なった。
彼女が言うには、隣のペイ国とは過去何百年も国境を巡った小競り合いをして来た仲だからだと云うのだ。
ペイ国は昔から典型的な軍事国家であり、当然軍隊が一番の権力を持っている。加えて国には大した資源も物資もない、しかし高い技術を持つ工業国だ。
かたやこのパエーゼ国の軍隊は、実の所あまり強いものではない。だが農業国であり資源もある程度ならある。
そんな状況でも、ペイ国が徹底的にパエーゼ国に攻め込んで来ないのは、この国にジェズ教の総本山があるからだ。
うかつにパエーゼ国に攻撃を仕掛ければ、ジェズ教そのものが攻撃を受けたとみなされ、信者総てを敵に回す事になる。ジェズ教がこの大陸の大部分で信仰されている事から考えると、それはあまりに危険すぎる。
いかに隣国に豊富な資源と物資があろうとも、本格的な侵攻はできず、せいぜい国境付近で小競り合いをする程度の攻撃しかできなかったのだ。
現在の国家元首ももちろん軍人だ。しかし積極的な武力に打って出る事は少なく「対話」という手段を取るタイプだ。強大な武力を圧力にしてはいるが。
そんな軍事国家でクーデターが起きたのだ。対話第一の元首に不満を持った超タカ派が行動を起こしたと考えるのが自然だろう。
だがそれはあくまでも机上の空論にしてカヌテッツァ僧の想像に過ぎない。本当の所は隣国から漏れてくる情報を集めて吟味しなければ判るまい。そしてそれは聖職者の職務ではない。
スオーラはたまらずといった感じで、ポケットに入れっぱなしの携帯電話を取り出した。
もちろんこの世界には存在しようがない物だ。当然昭士達の世界で購入した物だが、オルトラ世界ではどう見てもごつい腕時計の姿に変わってしまう。
世界が変わるとその世界の事情や都合に合わせるよう形が変わってしまうのだ。スオーラの姿もその影響の一つだ。
この携帯電話はこの世界の物ではないが、何故か電波は普通に届く。だから電話を使う事はできる。とはいうものの、スオーラはまだ昭士達の世界の文字までは理解していない。
昭士達の世界へ行くと、彼女の目にはその世界の文字が「区別も理解もできない何か」にしか見えなくなってしまう。だから文字だけはどうやっても学ぶ事ができないのだ。
もちろん文字解読の魔法を使えば何が書いてあるか理解できるが、彼女の魔法は基本一回限りの使い捨て。一回使った後はゆっくり休息を取らねば再び同じ魔法を使う事ができない仕組みだ。
そのため電話やメールの度にいちいち魔法を使うのはあまりに効率が悪い。ウィンドウに表示される文字を読む事すらできないスオーラは、この電話を通話に、それも受信専用にしか使えないのである。
だからスオーラはその腕時計型の携帯電話を祈るように握りしめていた。
賢者からの連絡が、この電話にかかってくる事を祈りつつ。


自分のした事は、総て自分で責任を取る。
社会人ならば当然のこのルールも、高校生となると別問題となる。この日本ではまだ保護者の庇護を必要としていると認識されているからだ。
その認識が外れてしまった高校生が、この留十戈(るとか)市に誕生してしまった。
その名は角田いぶき。留十戈学園高校に通う角田昭士の双子の妹である。
彼女なりのポリシーや生き方があるのかは判らないが、周囲の評価は「自分勝手」「ワガママ」「乱暴極まりない」「関わりあいになりたくない」。
それだけで済むならまだしも、人に嫌われたり敵を作ったりするのが好きなのか天性の才能なのか。同年代から中年に至るまで彼女を恨む人間はこの町に溢れている。
特にヤクザやチンピラといった人種には殊の外嫌われている。しかもそういった人間を許せない正義感から来ているならまだしも、そうでないからある意味始末に負えない。
一応自分からは手を出さない、相手が手を出して来たから応戦した。そういう風に持っていき、確実に相手を病院送りにするまで攻撃を止めないのがいぶきという人間だ。
彼女がそこまでできるのはもちろん理由がある。
いぶきには周囲のあらゆる動きを超スローモーションとして「認識」するという、特殊能力があるのだ。見えていようがいまいが「判る」ので、相手の攻撃は絶対に当たらない。加えて相手の急所に確実に攻撃を加えられる。
中には車やバイクで轢き殺そうとした者もいたが、その能力の前では何の意味もない。
やられっぱなしではいられないと報復する人間が後を絶たないが、その全員を返り討ち。病院送りはもちろん障害が残った者も多い。
いくらそういう風に持っていった結果でも、過剰防衛といわれても、相手はまだ学生の身分。責任の追求にまでは至らなかった。これまでは。
侵略者・エッセとの戦いに(いぶき視点では)無理矢理借り出され続けた結果、いぶきが誰かを攻撃するとそのダメージがそっくりそのままいぶき本人に返ってくるようになってしまったのである。無論相手は無傷で。
そうなった原因は謎だが、報復しにくる人間は急増加。町を歩いていても学校にいても襲ってくる人間が後を絶たないようになってしまったのだ。もはや日常生活を送るのが難しいレベルにまで。
そんな時、兼ねてから懸案事項とされていた事が、とうとう実行に移されてしまったのだ。
角田いぶきがからんでいる場合はその後始末は総ていぶき本人の手でさせる。同時に彼女が持つ「特殊能力」の事も同時に通達。そんな人間相手に報復したければやってみろ、と言わんばかりに。
一言で言うなら今後の事は社会も親兄弟も一切面倒を見ない。自分自身の自力でやれ。そういう風に条例を定めてしまったのである。我慢の限界を越えた、というヤツだろう。
元々煙たがられるどころか存在を拒絶されていたいぶきである。そんな「特殊能力」持ちと広まっても気味悪がったりする者はいない。むしろ「そんな能力でインチキしてたのか」と憤る者ばかりだ。
だが攻撃を受けても無傷で済むと判っていても、こっちの攻撃が当たらないのでは報復の意味もない。襲撃件数だけは若干減ったのは奇跡と言って良いだろう。
だがいぶきの安住の地はどこにもない事に変わりはない。いぶきの味方をしてくれる者がいない事に変わりはない。
しかし。どんな物事にも例外というものはある。
そんな「例外」の一つが、今いぶきがいる小さな一軒家だ。表札には立派な毛筆で『柞山(ほうさやま)』とある。
一軒家の中の小さな和室。六畳間。壁を背にしてどっかりとあぐらをかき、タバコをすぱすぱ吸っている気難しさを絵に描いたような初老の男。彼がこの家の主・柞山である。その一メートル程反対側に、制服姿のいぶきが座っていた。
柞山はとりあえず加えていたタバコをそばの灰皿の端にチョンと置くと、
「話はとりあえず聞いている。お前の兄貴からもな」
極めて渋い表情で、彼はそう切り出した。
「お前に一番足りないのは『相手の事を考える』事。それは何度も言っていたつもりだがな」
そう言われてもいぶきは無言のままだった。いつもならすぐさま手なり足なり飛び出しているにも関わらず。
彼、柞山はいぶきにとっては剣道の師匠にあたる。段位は六段で、更に「剣理に錬達し、識見優良なる者」と認められた者に与えられる『錬士(れんし)』という称号まで持ち、さらに合気道の段位まで持っている人物である。
そして、いぶきの「特殊能力」をもってしても動きを見切り切れない数少ない人物でもある。
それが理由なのか、いぶきはきちんとした正座で座っていた。背筋もピンと伸ばしている。それはどう見ても相手に対し敬意を払っている姿勢以外の何物でもなかった。
「自分勝手」「ワガママ」「乱暴極まりない」「関わりあいになりたくない」という評価しかされていないいぶきだが、とりあえずは「誰かを敬う」心は持っているようだ。
しかし。そんないぶきの口から出た言葉はこうだった。
「じゃあ、相手の顔色伺って媚びろって訳? いくら師範の言う事でもそンなのはゴメンよ」
露骨な機嫌の悪さを隠そうともしない。しかし柞山は慣れた様子で、
「お前にとって相手の事を考えるは媚びる事と同義か」
灰皿に置いたタバコを再び口にすると、
「相手の事を考えるってーのは、それだけの意味ではない。相手の考えを読み取り、その動きを予測する事。それを鍛えれば最小の動きで最大の効果をあげる事ができる。正々堂々の真っ向勝負とは相手に突進して力任せに薙ぎ倒す事ではないぞ」
いぶきの戦い方は堂々と言えば聞こえはいいものの、相手の動きが超スローモーションで理解できるがゆえの力押し。振り下ろした竹刀の最も威力が強くなる部分を、相手の有効打面に力一杯叩きつけるものだ。
剣道では有効とされる部分にキッチリと竹刀を当てるだけでいい。力は要らない。無論達人ともなれば少ない力でも気絶させる程の威力になる事も珍しくないが、いぶきの場合はそうではないのだ。
「戦いでない場面でもそう。自分がこう動けば相手がこう動く。こう反応する。こう考える。その上で自分の行動を決めていく。それを『相手の事を考える』という」
基本柞山の戦い方はそうである。どんな人間でも動きの向きを切り替える瞬間というのはほんの一瞬でも動きが止まってしまうものだ。そうして動きを止めなければ別の方向へ動く事は難しい。この地上には「慣性の法則」という物理法則があるのだから。
その一瞬が訪れる瞬間を「相手の事を考えて」予測し、そのタイミングを見計らって一撃を繰り出す。
いくら相手の動きを超スローモーションで認識できるいぶきといえども、動きを止めざるを得ない一瞬の間だけはいかなる攻撃も避ける事はできない。
もちろん剣道六段の実力を持つ彼でも、必ず成功する訳ではない。しかし六段ともなれば読みの早さ・鋭さも手伝って何回かに一度くらいは成功させられる。
それゆえに柞山はいぶきに勝つ事ができる。自分を負かせる相手だから、とりあえずレベルでも敬意を払う。いぶきの考えはその程度だ。
「めンどくさい」
剣道の師匠の有難い言葉も、いぶきにかかってはその一言でバッサリと切り捨てられる。それを見た柞山は、
「条例が出たからといって、お前も周囲もこれまでと変わらんな。特にお前は」
「判ってンじゃン」
彼の呟きに、いぶきが間髪入れず堂々と言い返す。キッチリと胸を張ってどこか偉そうに。
「だいたい相手が弱いのがいけないンじゃない。急所だかナンだか知らないけど、ナンでたかだか拳一発で気絶する訳? そンな連中が性懲りもなく分ってモンをわきまえず突っかかってくる方が悪いってのに、ナンで世の中はよってたかってナンにも悪くないこのあたしの方を悪者だの卑怯者だの最低の人間だの言ってくるンだか、サッパリ理解できないしする気もない」
「お前は何事もやり過ぎなんだ。物事には『適度』という物がある。それも『相手の事を考える』事に通じる物だ。余った縫い糸を切るのにチェーンソーを振りかざすような真似が『適度』かどうか、考えてみるんだな」
そこまで言って柞山はいぶきの反応を見る。とりあえず無言のままであるのを見て、話を続ける。
「それをしなかったから、変な条例が出たんだろう」
柞山のその一言は、いぶきの境遇を的確に表現していた。
チンピラやヤクザといった者が相手でも、相手の事を考えていれば急所攻撃オンリーにする必要もなければ、病院送りになるまで痛めつける必要もないし、そもそも弱い者なら普通に拳を一発叩き込んだだけで戦意喪失もする。
何事も過不足なく。過ぎたるは及ばざるがごとし。それをいぶきに知ってほしい。柞山はそう思っていたし、そう教えてきたつもりだ。
しかしいぶきは違っていた。
「悪は総て滅ぼすのみ」でもなく。「何事も常に全力全開」でもなく。そんな事は一切考えない。ただの暴力の為の暴力で、徹底的に叩きのめし切る。
理由などない。せいぜいあって「気に入らないから」程度だろう。そういった事を少しは判ってほしいと思っていたのだが、判ろうとする意志がなければどんな教授も説教も右の耳から左の耳、である。
しかしここで柞山が教授も説教も止めてしまっては、彼女に教育できる人間がいなくなってしまう。
そうした者がいなくなってしまった人間は、止める者がいないという事で自分のやる事なす事こそが正しいと考えるようになり、暴走と言っても良い状態になる。
もっとも今現在のいぶきもほとんどそんな思考・行動ではあるが、柞山の前で黙って正座できる程度には、いぶきは彼が上と判断してる。
という事は、かろうじて彼が押さえる力を持っているといっても過言ではない。それだけに、それが無くなった状態のいぶきなど想像したくもなかった。
ぴりぴりぴりっ。
何ともし難い、口を開くに開けない妙な雰囲気を打ち破ったのは固定電話の電子音だった。柞山が渋い顔のまますっと立ち上がろうとした時、
ぴりぴ。
その電子音が唐突に鳴り止んだ。一瞬首をかしげかけた彼だが、すぐにまた座り直す。
それからふすまの向こうから小さく足音が聞こえ、やがてふすまの向こうから声がした。
「おじさん。電話です」
淡々とした感じの女性の声である。それからふすまが静かに開く。
コードレスの受話器を持って部屋に入ってきたのは、いぶきと同じ制服の女性――留十戈学園高校の女子生徒だった。学年は違うようだが。
彼女は部屋にいたいぶきに軽く会釈をすると、おじさんと呼んだ柞山に受話器を手渡す。彼はそのまま電話に出た。
「お電話代わりました、柞山で……おお、アキか。どうした?」
いぶきと話していた気難しい顔から一転。まるで愛孫が久し振りに遊びに来たかのような好々爺を彷佛とさせる笑顔。
彼が『アキ』と呼ぶ人間は、いぶきの兄である角田昭士以外にない。彼はいぶきをチラリと見ると、
「ああ、いるぞ。代わるか…………そうか。判った」
柞山はそう言って通話を切ると、受話器をかたわらに置いてから、
「いぶき。お前携帯電話の電源を切っているみたいだな。アキのヤツが電話が繋がらんと言っておったぞ」
「バカアキからの電話なんて受ける価値すらないっての。どうでも良いわよそンなの」
答えるのもめんどくさいと言いたげなつまらなそうな顔でそう答えるいぶき。
「緊急の連絡だったらどうするんだ。取り返しのつかん事になっても知らんぞ。それに、実の兄に向かって『バカ』はないと、何度言えば判るんだ、全く」
年寄りらしい嘆きではあるが、そんな事を聞くいぶきでは当然なく、
「どうせまた変な化物が出たとかナンとかでしょ? いちいち人をそンなくっだらなくてめンどくさい事に巻き込むンじゃないって、何度言っても判らないヤツは『バカ』って呼ぶのが常識でしょ、ったく」
しかめ面でブツブツ言いながら立ち上がり、鞄の持ち手を指先で引っかけてひょいと引き寄せる。
「じゃあ帰る。師範もお元気で」
一応言いましたと言わんばかりの気持ちがこもっていない挨拶を残して、いぶきは立ち上がった。
その時、持ち上げた筈の鞄が畳にドサリと落ちた。不意にしたその音に驚いた柞山は、さらに驚く光景を目にする事になる。
そこに立っていた筈のいぶきの姿が、見た事もない巨大な「何か」になっていたのだから。
革に包まれた大きな物。あぐらをかいている彼にはそうとしか見えなかった。加えて天井付近には太い棒が伸びているのが見える。
まさしく「何だこれは」と唖然とするには充分すぎる光景であり、物体であり、また変化であった。
そしてその「良く判らない大きな物体」は、ものすごい勢いで大きなガラス窓から外へ飛び出して行く。しかしそのガラス窓は割れるどころか傷一つついていない。閉めていたにも関わらず。
「……ひょっとして、あれが?」
驚きのあまり上手く動かない口が発したのは、そんな言葉だった。
そんな彼の元に、いぶきと入れ替わるようにやって来たのは先程の女子生徒だった。
どこの学校でも校則に触れそうにない肩までのストレートの黒髪を持ち、ソバカスの目立つ頬を隠すかのような大きめのメガネをかけた少女だ。
「お客様はお帰りですか」
ぽつんと残された鞄を見下ろし、淡々とした無表情な顔と声でそう言う。
そんな彼女の手にはお盆に乗った湯飲みが二つ。来客用にと茶托(ちゃたく)に乗せた湯飲みである。きちんと蓋もついている。
「何を言っとる。そこでずっと待ち構えていただろうが、お前は」
柞山は自分に差し出された湯飲みの蓋を取り、片手で持ち上げて一気に傾けた。湯飲みに触れた瞬間からぬるくなっているのが判っているのだ。火傷の心配は万が一にもない。
ぬるくなって悪い意味で渋味が増したお茶を飲み干すと、
「お前からも話を聞いてはいたが……」
彼はいぶきが――正確には彼女が姿を変えた物が飛んで行った遥か彼方を見るようにして、
「……目の前で起こった事だが、自分の目が信じられんとは、こういうのを言うのだろうな」
無理もない。まさか人間が一瞬であのような姿になるという自体そのものが信じられない事なのだから。
「でも事実ですから。そして、不倶戴天の侵略者がいて、その敵を確実に倒せる唯一の武器」
女生徒も彼と同じ方角を見て、舞台のような抑揚をつけて朗々と話す。だいぶ過剰気味だが。
「ミワ。ずいぶん演技過剰だな」
柞山が「ミワ」と呼んだその女生徒は、明らかに留十戈学園高校新聞部部長の益子美和(ましこみわ)だった。
「まぁ自分にできるのは、こんな事しかありませんから」
過剰な抑揚からいつも通りの淡々とした暗いしゃべり方に戻る。
「さて。今度は一体何が起こったのやら」
「敵とやらが出たんだろう? アキだけで大丈夫なのか?」
「その辺はご心配なく。一宗教がバックアップについてますから」
二人の会話が淡々と続いて行く。そんな会話の間に、美和の姿が一変していた。
最近のオリンピック選手の水着にありがちな、オールインワンと呼ばれるつなぎのような水着。それが彼女のスレンダーな身体をピッチリと覆っている。腰にはごついポーチが、右の太ももには小物入れがついた黒く太いベルトが巻かれている。
あの時舞台女優に変装していた謎の盗賊と同じ姿である。いや、そのものである。
彼女はかけていたメガネを太もものベルトの小物入れにしまうと、
「では、自分もあちらの世界に帰ります」
「ミワ。判ってるだろうが……」
柞山が厳しい顔で語り出そうとするが、彼女は手でそれを制し、
「盗賊の真骨頂は他人に悟られない事。目立つのはご法度です。出しゃばりはしませんよ」
彼女の姿がかき消えていった。
冗談ぽく笑いながら。

<つづく>


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