トガった彼女をブン回せっ! 第13話その1
『一体何者なのでしょうか……』

「市立留十戈(るとか)学園高校 剣道部御一同様」。
駅前にあるカラオケボックスの入口にそんな貼り紙が堂々と貼られていた。
事の起こりは今年の四月。こことは異なる世界よりやって来た一人の少女が発端であった。生き物を金属へと変えて捕食する、人類と相入れぬ敵「エッセ」と戦う能力と使命を帯びた少女である。
同じ年頃とは思えぬ大人びた容姿・体型は、思春期真っただ中の男子部員達のハートを鷲掴みにするには充分以上の破壊力。
加えて腰の低い丁寧で嫌みと裏表のない素直な言動は、懐疑的であった女子部員達の応援や助力をも受ける存在。
何より彼等彼女等の目の前でその敵を打ち砕いてみせたその実力。
まさしくマンガやアニメに登場する「好かれるキャラクター」のような少女であった。
その名をモーナカ・ソレッラ・スオーラ。皆からはスオーラと呼ばれている。
そんなスオーラと仲良くなりたい、お近づきになりたいと思う生徒は後を絶たず、せめて彼女を囲んで談笑したいという要望はかねてからあった。
しかし彼女の言葉が判らない。国はもちろん世界そのものが異なるのだからそれも当然である。
だが今は違う。言い回しこそ固いものの充分すぎるほど日本語をマスターした今ならそれが可能である。そう判断した剣道部有志がこうしてカラオケボックスの一番大きな部屋を借りて「飲み会」が行われた。
飲み会といっても酒は厳禁にしている。無論中には飲める人間もいるが、肩書はまだ高校生。どこからか漏れて停学、もしくは部活動停止などという目には誰しも遭いたくない。
道徳的な理由よりもそうなればスオーラに会う機会が減るからというのが大きな理由だし、そもそも学校帰りなのでスオーラ以外は全員制服だ。酒を注文など危険すぎる。
女子の古典的なセーラー服ともかく、男子は麻の白い学ランという珍しい夏服なので、学生の身分はもちろん校名まで一発でバレてしまう。
元々留十戈学園高校は合併で誕生した新設校。その合併前の畄學(りゅうがく)高校のOB達が「せめて『畄(りゅう)ラン』と云われたこの制服だけは残して欲しい」と嘆願したため、制服だけはこうして今も残っている。
こういう状況になると目立ち過ぎて非常に困るので、在校生からの評判はさほど良くない。「畄ラン」と呼ばれる白い学生服も、終業式や始業式等の学校行事、もしくは雨が降って肌寒い時くらいにしか着ないのだ。
一方のスオーラは学生ではないので制服ではない。しかし部員の皆とは全く違う意味で「目立ち過ぎている」。
それは完全に「彼女の世界の」「魔法使いの」格好であるからだ。
カラフルといえば聞こえの良い、縫製パーツごとに全く異なる色を使って作られた、丈の短い長袖のジャケット。部員達から見れば悪趣味以外の何物でもないが、彼女の世界ではたくさんの色を使った服=豪華なイメージだとかでむしろ誇らしいらしい。
ジャケットの下はスポーツブラのような物が一つきり。それが包むのはこぼれそうとかたわわな胸と評する以外にない見事な巨乳。当然男子部員の好奇と劣情、一部女子部員からの羨望の眼差しが降り注がれている。
むき出しのくびれた腰の下は、少し動いただけで下着が丸見えになってしまう超ミニの黒いタイトスカート。ソファに腰かけているだけで白い下着がチラチラと見え隠れしてしまう長さなのである。
だが、男子部員達の「見たい。けど露骨に見てはいけない」という怪しい視線を全く気にしていないスオーラ。それも世界が異なるゆえの文化の差。下着をつけているのだから全裸ではない。それのどこが恥ずかしいのだろう、という事らしい。
毎回のように女子部員に注意されてはいるものの、生まれ育った土地の考え方がすぐさま変わる訳はない。要領と物覚えの良いスオーラでも、そこはなかなか直らないようだ。
引き締まっているがボリューム充分の脚を包むのは脚線にピッタリとした膝上丈の革のサイハイブーツ。色を揃えれば一九八〇年代のロックやメタルやパンクのファッションのようでもある。
今は室内という事で外しているが、白いマントとつばが広くて大きい魔法使いの帽子(これはこちらの世界のゲームキャラクターのコスプレ用)も着用している。
そんな訳で。男子剣道部主将の沢(さわ)はそういった部員に殺気を込めた視線を走らせて、一応黙らせる。いつまで経っても「飲み会」が始められないからだ。
彼は酒ではなく烏龍茶が入ったグラスを高く掲げ、飲み物が運ばれてから十分は経ってから、高らかに宣言する。
「では、モーナカ・ソレッラ・スオーラさんとの出会いを祝して、乾杯!」
『乾杯!』
一つの大きなテーブルを囲んだ皆の声が重なり、あちこちでグラスを合わせる音が響く。例外はその「作法」を全く知らなかった当のスオーラ本人くらいだ。
その当惑した様子を見た部員の一人が、
「あれ? スオーラさんの所って、こういう習慣ないの?」
[は、はい。グラスをあんな勢いで合わせるなんて。割れたりヒビが入ったりしたら大変です]
ガラスのグラスを両手でしっかり、そして割れないようビクビクしながら持っているスオーラがそう答えた。彼女の国――世界では、ガラスはまだまだ高級品だからだ。
見た目は力強くやっているように見えるが、本当に小さくしか重ねていないのでその心配はあまりないのだが。だが初めて見た(らしい)らそう思うのも無理はないかもしれない。
だが剣道部員達はそうした「異なる文化ゆえの」リアクションにいちいち笑っていちいち説明する事にすっかり慣れてしまっている。
その笑いもバカにしているものではないのでスオーラも怒ったりはしないものの、やる事なす事笑われてしまう=こちらの常識・知識を身につけていないと解釈してしまい、更に恐縮した態度になってしまっている。
不安と心細さが同居するそんな小さな困り顔を見た部員達(特に男子部員)は「大人びた容姿なのにその表情が可愛い」とやたらに受けていた。
彼女が不安に感じている理由はそれ以外にもあるが、その一つが大きなテーブルのちょうど反対側に座っている男子部員だ。
彼の名は角田昭士(かくたあきし)。例によって剣道部所属の人間である。
幼少の頃から剣道を学んでいる為か、細身に見えてその身体は案外がっしりとしている。練習を含めた試合の成績はあまり良くないが、体さばきや竹刀を振るうフォームがとても綺麗で、何度か剣道の教材ビデオに出演した事もある。
級も段位も持っていない人間がそうした教材に出演するのは極めて珍しい。彼が剣道をやる目的はあくまでも「竹刀を振っていると落ち着くから」であり、強さへのこだわりは余りないのでそうした試験を受けていない。
だが彼もスオーラと同じく、人類と相入れない敵「エッセ」と戦う能力を持っている事が判明した。
共に戦う為に彼女の世界に行った事もある。その為この中では一番早くスオーラと仲良くなったし、親しいと言える間柄だ。
そのやっかみ半分な理由が今回の席順である。他のメンバーは入れ代わり立ち代わりスオーラの側へ行ってはあれこれ話しかけている。だが昭士は嫌がらせの視線で彼女に近づく事すらできない状態だ。
昭士は部員の皆(特に男子)の輪の中心になって、あちらの世界の事を話しているスオーラをチラリと見る。
始めは言葉の問題もあってどうなる事かと思っていたが、彼の想像以上にスオーラはこの世界に溶け込んでいる。事情を知らない町の住人も「外国からやって来た真面目な女性」と、評判も上々である。
だがそれでも昭士が彼女に一番近しい人間である事は確かなので、付き合っているのかと質問される機会は多い。
その度に愛想笑いを浮かべるが、だからといって付き合うつもりは全くない。共に戦う仲間として信頼してはいるが、それ以上親密になるつもりが全くないからだ。
色々あって破談同然になっているが、彼女には婚約者がいるし、そもそもそういう考え自体に乏しい。
それら複雑な感情の原因は彼の双子の妹・いぶきにある。
彼女は傍若無人・唯我独尊を絵に描いたような、極めて自己中心的、他人などどうでも良いという人間なのである。
とにかく他人の為に、誰かの為にという事が大嫌い。そんな事をするくらいなら死んだ方がマシとまで言い切る。報酬をやるから助けろと言われても決して助けないくらい、その態度は徹底されている。
彼女にとってはそういった事は「吐くほどに気持ちが悪い事」なのだ。
それでいて自分が困っている時には(他人などどうでも良いと思っているのに)他人が助けるのが「常識」と心底思っているので、昔から友達がいたためしがない、ひとりぼっちの人間である。
そんな彼女の一番の被害者になっているのが兄の昭士である。だがそれは完全に暴力であり虐待と言っていいレベルだ。一歩間違えば死んでいたケガを何度もしている。
加えていぶきが容赦なく叩きのめしたヤクザ者やチンピラに(双子ゆえに)間違えられ、とばっちりを受けた事も何度もある。
にもかかわらずいぶきを完全に放っておけないのは家族ゆえか生来の優しさか兄としてのプライドか。
これまではそうだった。
ところが。スオーラと共に敵「エッセ」と戦うようになってからは、その妹を無視も放ってもおけなくなってしまったのである。
昭士が敵と戦う能力を持っているのに対し、いぶきは彼だけが使える巨大な剣に変身するからだ。しかもこの剣はエッセに対して非常に有効な武器であり、一撃で葬った事が何度もある。
更にこの巨大剣でとどめを差せば、エッセが金属に変えた生き物が元の姿に戻るのである。威力といいこの特殊能力といい、無視できよう筈がない。
しかしその力が判ってからもいぶきの態度は一貫している。やりたくない。勝手に使うな。そんな気持ちの悪い事をさせるな。である。
ここまで来ればいっそ美学といっても良いレベルだが、それを美学と呼びたくはないだろう。美学に失礼である。
生まれてから十五年あまり、そんないぶきの常識外れな言動に巻き込まれているため、他人、特に女性にはあまり積極的に関わろうとはしない。
一番身近な女性からそういう扱いばかりされているためか「世の女性が皆そうではないと判っていても、関わり合いになる気は起きない」としか思えないのだ。
乞われれば助けはするがそれ以上はない。若干冷めていると言ってもいい。スオーラに関しては戦いの理由もあってかなり「一般的な」男子に近づいてはきたが。
そんな訳で、もちろんいぶきはこの場にいない。声すらかけていない。声をかけたところで「つるんで何が楽しいの」とつまらなそうに言うだけなのが判りきっているからだ。
仮にいたらいたで傍若無人ぶりをいかんなく発揮して、この部屋の全員とケンカになっている事は間違いあるまい。
十五年あまり共に暮らしているのは伊達ではない。昭士はそうならなくて良かったと心底安堵しながら、手に持ったグラスを傾ける。
そんな安堵している昭士のテーブルを挟んだ反対側では、歌が得意だという女子の先輩が早速マイクを握って歌本をめくっていた。何か歌うらしい。
ここはカラオケボックスの一室なので、その行動は当然だし間違ってはいない。彼女はふとスオーラを見ると、
「あ、そうだ。スオーラさんも何か歌う? っていうか、こっちの世界の歌知ってる?」
すると別の女子部員が、
「せっかくだからさ。あっちの世界の歌、何か歌ってよ?」
その女子の提案に、それを聞いた皆が「それは良い」と拍手しはやし立てる。中にはマイクを突き付けるように差し出す者もいる。
ところがスオーラは大変に困った顔でそのマイクを押し退けるようにしている。
[申し訳ありません。歌や絵といった芸術関連の科目は昔からダメなのです]
そう言ってはいるものの、そこで素直に引き下がる面々ではない。
「下手でも良いじゃん。聞いてみたいよ」
「そーだ。俺だって下手だし」
「え〜〜、歌ってよ」
ほぼ全員の「歌え」コール。しかしスオーラはますます困ってしまい、自分でもどうしたら良いのか判らない、と言いたそうに昭士に目線を送っている。
そこで昭士の携帯に着信があった。マナーモードにしているので音はないが、たまたま制服の上着のポケットに手を入れていたのですぐに判ったのだ。
ガラケーの蓋の液晶画面に表示されているのは「賢者」の文字。
昭士は助けて欲しいと視線を送っているスオーラに「申し訳ない」と軽く頭を下げると一旦部屋を出た。そして後ろ手に扉を閉めるとすぐさま電話に出る。
「は、はは、はい。どど、どうしました?」
ドモっているのは緊張のためではなく、彼がドモり症だからだ。その辺りもあまり他人と積極的に交流しようとしない要因であるが。
『剣士殿、スオーラ殿に何かあったのですか?』
開口一番「賢者」はそう言ってきた。まるで首をかしげる昭士の姿が見えているかのような間を置いてから、「賢者」は続ける。
『彼女に大至急お伝えしなければならない事があったのですが、携帯電話に出ないのです』
昭士はその状況を何となく察知した。いくら身につけるように携帯電話を持っていても、持ち慣れないうちは着信に気づかないものなのだ。マナーモードになっていなくても。
スオーラの携帯は、初期設定の味気ない呼び出し音になっている筈だ。音量もあまり大きくない。あれだけワイワイ騒がれたのでは聞こえるものも聞こえないだろう。
「わわ、わか、判った。いい今代わる」
昭士は保留音も流さずに扉を開けて部屋に入る。接近を止めようとする部員達を押し退けるようにして、大きなテーブルをグルリと回りこむと、騒ぎに負けない大声で、
「ススス、スオーラ。で電話」
彼女を取り囲む部員達を押しのけ、動作中の携帯電話を突きつける。いくら昭士の接近を快く思っていない部員達も、そう言われては退かない訳にいかない。本当に渋々という感じだったが。
スオーラは「誰からだろう」と言いたそうに小首をかしげると、昭士から受け取った携帯電話を上下の向きをきちんと確かめてから耳に当てる。
[はい、モーナカ・ソレッラ・スオーラに代わりました。……け、賢者様!?]
最後の方は思わず母国語になっていたので昭士以外には何と言ったのか判らないだろう。反射的に立ち上がってしまったスオーラは、そのままあちらの言葉で話を続ける。
その様子は真剣そのもの。加えて何かに心配するような憂げな感じが見え隠れしている。
そんなスオーラを見た部員達は、言葉は判らないものの「邪魔しては悪い」と雰囲気を読んで一斉にしんと静まり返る。同時に言葉が判らないのに聞き耳を立ててしまう。
相変わらず昭士以外理解のできない会話が続いている。部員の何人かが昭士にそっと近づいて会話の内容を聞こうとするが、
「そそそ、そんなの、いい言えないよ」
そんな風に拒絶するものの、スオーラの声しか聞こえないのだから、詳細は彼にも良く判らない。
だが「クーデター」という単語は確かに聞き取れた。
クーデターとは暴力で行われる政変の事である。日本語の場合は支配体制側の人間がトップに反旗を翻した場合に使われるケースが多い。
定義はこの際どうでもいい。「賢者」からの電話という事は、あちらの世界――スオーラに連絡が行くという事は彼女の故郷・パエーゼ国でクーデターが発生したのだろうか。
スオーラの家は代々僧職の一族。特に実父は宗教の最高責任者である。聖職者がそうした行動に加わる事は稀だと思うが、巻き込まれる事は充分に考えられる。
やがて話が終わったのだろう。わざわざ両手でパタンと静かに携帯電話を閉じたスオーラは、それを無言で昭士に差し出した。
「だだ、だ、大丈夫?」
電話を受け取った昭士は、思わず声をかけていた。思わず声をかけてしまったほど、彼女の顔色は悪かった。真っ青どころか完全に血の気が引いて真っ白である。
会話の内容は判らないながらも、スオーラのそんな表情が判らない訳ではない。部員達も言葉はないが心配そうに彼女を見つめている。
「な、何かあったの?」
マイクを持って歌おうとしていた女子部員が、そう切り出すのがやっとの重苦しい雰囲気。その雰囲気を察したスオーラはそのままストンとソファに座ると短く皆に謝罪する。
[結婚して隣国に嫁いだ上の姉が、クーデターに巻き込まれたらしいのです]
部屋の空気も雰囲気も一気に重みが増したのは言うまでもなかった。すぐそれに気づいたスオーラが深々と頭を下げて「日本式に」謝罪する。
確かに飲み会どころではなくなってしまったが、別にスオーラが悪い訳ではない。家族がとんでもない事に巻き込まれてしまったと聞かされてはスオーラの態度も無理からぬ事だ。
「早く行ってやって下さい。状況が判ったら連絡下さいよ、こいつに」
主将の沢が昭士を指差してスオーラにそう言う。なるべく明るく。スオーラは無言ではあったが、もう一度深く頭を下げて部屋を飛び出して行く。
それを見送る部員達。扉が閉まるのと同時に、皆が今度は昭士に詰め寄った。
「いいか! スオーラさんから連絡があったら、すぐ俺達にも回せよ!」
「お前が連絡係だからな、サボるなよ!」
「そもそもそんな情勢不安定な所なのか、あっちって!?」
男女問わず切羽詰まっているかのような真剣さに、昭士の方がドモり症も手伝って思い切り引いてしまう。
「まま、ま、待って! だだ、だ、大丈夫だよ、たた多分」
昭士は皆の迫力と圧力に圧されながらも、彼女の家庭環境を説明する。
一宗教のトップである父親。代々僧職の家系。一国の王子と婚約までしていた家柄。そんな家の娘が嫁いだ先である。一般家庭ではなくそれなりに地位や身分の高い家だろうと。
そんな家なら防衛もちゃんとしているだろうから、よそよりは安全だろうと。
だが部員の一人が血相変えて昭士に更に詰め寄る。
「なら尚更、クーデターに巻き込まれてるだろうが。ああいう連中は身分や権力がある所を狙うモンだし、その家族を仕分けてくれる保証ないだろう」
言われて初めて昭士もそうかと思い至った。


カラオケボックスを飛び出したスオーラは「ビルの上を」駆けていた。
この世界での彼女は跳躍力・瞬発力という方向に常人離れした力を発揮できる。ビルの上を飛び跳ねて進むなど雑作もないくらいに。
もちろんこれはあまりに目立ちまくるため普段はやらないよう戒めているが、今は事態が事態である。
スオーラや昭士がこの世界とあちらの世界を行き来するのには、肌身離さず持ち歩いている、ムータと呼ぶカード状のアイテムが必要である。
このカードから出た光が光の扉のような枠を作り、そこを潜ると行き来が完了する。別に特定の場所でなければその光の扉を作る事ができない訳ではないのだが、出た先の事情まではこの扉は考慮してくれない。
そのため出た先の事情が判っており、かつ「賢者」のいる場所に苦労せず行ける移動場所――昭士達の学校・市立留十戈学園高校までわざわざ向かっているのである。
そろそろ日も暮れ出す時間帯だが、それでもまだ外は明るい。ビルの屋上を飛び跳ねている自分に気づいている人は間違いなくいるだろう。
だがそこまで気を配っている余裕がない。少なくとも今のスオーラには。
その時、次の着地点に選んだビルの屋上に人影を見つける。しかし既に床を蹴って飛び上がってしまっており、今さら目標を変えられるほど器用な真似はできない。
それにやる訳にはいかない。たとえ今が非常事態でも。
人影の正体が判ったスオーラはそう覚悟を決めて、人影の立つ屋上に音もなく着地してみせた。ほとんど空からやって来たに等しい今のスオーラを見ても、その人影が驚いた様子は全くない。
[確か益子美和(ましこみわ)様、でしたね]
ゆっくり立ち上がったスオーラは、表面上は穏やかに、しかし一切の油断をせず緊張を保ったままそう声をかける。
益子美和と呼ばれたその人影は、相変わらず驚いた様子すら見せない自然な無表情顔で、
「どうも。お久し振りです。お元気そうで何より」
淡々と型通りの挨拶を返してくる。
スオーラが急いでいるにもかかわらず、わざわざ足を止めたのには理由がある。
先の侵略者のと戦いでスオーラの世界へ行った際、そこで不思議な力を持った盗賊と遭遇した。自分の身体――肉体そのものを変質させて他人に化ける能力を持った盗賊である。
スオーラの世界には魔法と呼ばれる不可思議な力があり、その使い手の存在も認知されてはいるが、そのように他人に化ける事ができる魔法など聞いた事がない。
その「聞いた事がない」魔法だか能力だかを使ってみせたその盗賊が、益子美和に極めて酷似していたのである。
その時スオーラはその盗賊を後ろから羽交い締めにしていたが、顔を覗き込んだ訳ではないので正確な所は判らない。だがそうであろうと見当がつけられる程には似ていたのだ。
だがその為には、彼女に「世界を行き来できる」力がなければならない。それを可能にするアイテム・ムータはスオーラ自身が持っている物と昭士が持っている物の二枚しかもう残っていない筈なのだ。
それ以外のムータは昭士達と初めて会った時の戦いの中で総て壊されてしまった上、新しく作る事もできないから。
だからスオーラはストレートに訊ねてみた。
[あなたはこういったムータをお持ちなのですか?]
わざわざジャケットのポケットから自分のムータを取り出して、美和にかざすように見せながら。
美和はスオーラの持つムータを興味深そうに、そして相変わらず無表情のまま見ている。
そして、もったいぶった調子で、
「その辺は『内緒』という事にしておきましょう、モーナカさん」
美和はそう言うと、揃えた右手の指先で、自分の口を軽くトントンと叩いてみせる。
それを見てスオーラの目が驚いて見開かれる。それはスオーラの世界の「静かに」とか「秘密です」というボディ・ランゲージだったから。こちらの世界の人間がそれを知っている筈がないのだ。
すると美和はスオーラのリアクションが面白かったらしく、ほんの少しだけ無表情が崩れて笑みを浮かべると、
「ご安心を。『ペイ国』のクーデターは相変わらず続いてますが、あなたのお姉さん一家は無事ですよ」
[どっ、どこでそれを!?]
クーデターの事はもちろん、美和の口から「ペイ国」という単語が出た事にさっき以上に驚きを隠せず大声を挙げてしまうスオーラ。
そんな単語が出るという事は、間違いなく美和は「スオーラの世界を」知っているからに他ならない。
[あなたもオルトラ世界から、こちらの世界に来ているのですか!?]
美和はスオーラの質問に答える事なく屋上から出るドアに手をかけ、少しだけ振り向くと、
「ですから『内緒』という事で」
再び揃えた指先で口をトントンと叩いてみせる。そうしてドアを開け屋上を出て行く。
[待っ、待って下さい! 話はまだ……!]
後ろ手に閉めかけた扉に向かって、常人離れした瞬発力を持って一気に駆け寄り、扉を一気に開く。この間一秒もないスピードである。
だが。
そこにいる筈の美和の姿はどこにもなかった。ガランとした階段があるだけである。当然人間が隠れられそうな場所など全くない。
注意深く周囲を見回してみる。誰かが隠れているような気配もなければ、魔法などを使った形跡も見られない。
だがいなければならない筈の美和の姿はどこにもない。それだけは確かである。
[一体何者なのでしょうか……]
思わず口をついた彼女の問いに答えられる人間は、
どこにもいなかった。

<つづく>


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