トガった彼女をブン回せっ! 第11話その3
『どういう事なのでしょう』

ジュンが引っぱり出した物。それはまごう事なき魔導書であった。
差し出されたその本を、スオーラは両手でうやうやしく受け取る。
ずいぶん古い物らしく革張りの表紙はところどころにヒビが入っていたが、作り自体に傷んだ様子はない。
ただ。この本もスオーラが持って来た本同様に途中まで。背表紙が真ん中から千切れていたのだ。
スオーラが持って来た本には表紙が付いているが、ジュンが持って来た本に付いているのは裏表紙。
彼女の頭に一瞬「互いの本を合わせれば、一冊の本になるのでは」という淡い考えが浮かんだが、それは明らかに無理そうだ。
なぜなら。表紙の革の色が全く違うのだ。スオーラの物は焦茶色だがジュンの物は薄い灰色。この二つは明らかに異なる本だ。
それにしても。深い森の中で原始的な生活を今も続けるヴィラーゴ村の住人であるジュンが、何故こんな本を持っているのだろう。
「ジュン様。この本はいったいどうされたのですか?」
「ジュンサマ違う。オレ。ジュン」
以前に比べればだいぶマシな怒り顔だが、やはりまだ「様」が相手の名前につける敬称だという事が良く判っていないらしい。
「あのあと。まじーなじゅじゅし。くれた。言った。持ってけ」
ジュンの言う「まじーなじゅじゅし」とは、村の権力者「呪(まじな)い術師」の事だ。知識や呪術をもって村を守り、日々の生活に貢献するのが役目だという。
いくら村が原始的な生活を営むといえど、知識や呪術を扱う者達のトップともなると、こうした本を持っているのだろうか。半分に千切れてしまっているが。
だがここで疑問が残る。
先の戦いにおいて、昭士は彼女達が「聖地」とあがめる場所を破壊してしまっている。完膚なきまでに。
だがそれについては怒りも怯えもせず、むしろ「それほどまでに強い男」と認識されてしまったのである。
彼女達ヴィラーゴ村は女性だけの村。これはと見込んだ男をさらい、子供を作る。男ならば捨てて来て女ならば村で育てる。そういう風習が未だ残る村だ。
強い男と認識された昭士は当然見込まれて、その場にいた村人ほとんど全員から「自分と子供を作れ」と追いかけ回されるハメになったのだ。
それを昭士達の世界に飛ぶ事でどうにか逃げおおせた訳なのだが、それについては何も言っていないのだろうか。
村人全員が戦士であり狩人であり呪術師なのである。「獲物」に逃げられたら悔しいどころではなかろうに。
特に呪い術師は真っ先に昭士に声をかけ、彼を追いかけた人間だ。その逃げられた男の仲間である自分に「渡せ」と言って本を持たせた。
何か呪いでもかかっているのだろうか。うやうやしく受け取りはしたものの、どうにもそういった「胡散臭さ」は心の中に残ったままだ。
「あ、あの、ジュン様」
「ジュンサマ違う」
「そ、そう言われましても……」
相手に敬意を払って「様」を付けて呼ぶ事が多いスオーラが、とても困った顔になってしまう。
その困った顔を見たジュンが「何故困っている?」と言いたそうに首をかしげていたが、
「……ジュンサマ。良い」
他人を困らせるのが良くない事と思ったのか、それとも根負けしたのか。様が敬称だという事を学んだ様子ではないが、それでもジュンは「ジュン様」で良いと言った。
その時のスオーラの安堵の顔はなかった。端から見ればそこまでしゃちほこばる事もないだろうと思うのだが、スオーラにとってはその「しゃちほこばった」物言いの方が普通なのだ。
しかし相手はそんなスオーラの様子が見えないのか見る気がないのか、「呼び方が解決した」という嬉しさ満開の笑顔である。そんなジュンに向かって質問を再開するスオーラ。
「……えー、ジュン様」
「何だ?」
「呪い術師様……アキシ様に怒っていたり、わたくし達を恨んでいたり、していませんでしたか?」
言葉を選んで喋るように、一言一言区切って訊ねるスオーラ。ジュンはきょとんと首をかしげたまま、
「怒る? 恨む? 何で?」
その予想外のリアクションに、スオーラの方が逆に慌ててしまう。
「いっ、いえ、ですから、村の聖地を壊してしまったり、ですね。それから、アキシ様の事とか……ですね」
昭士の名前が出たところで、ジュンは目を閉じて「う〜〜ん」とうなり出した。まるで何か忘れそうな事を思い出そうとしているかのように。
そうする事十秒程。パッと明るい顔で目を開くと、
「『逃げられたという事は、縁がなかったという事』。言ってた。まじーなじゅじゅし」
スオーラは言われた言葉を心の中で反芻する。
「追いかける時は全力を尽くすが、それでも及ばなかった時は潔く諦め、執着しない。そういう方針のようですね」
今まで黙っていた、と言うより入る隙がなかった賢者が、ようやく口を挟む。
「狩人に多い傾向だそうですよ。あまり一つの獲物に執着すると成果が上がらないそうですから」
賢者に言われてスオーラも「そういえば」と思い至った。
確かにそれではたくさんの獲物をしとめる事はできまい。数多く獲物をしとめる者が良い狩人という訳ではないが。
「立ち話もなんですし、部屋へ行きましょう。ジュン殿も一緒に」
「ジュンドノ違う」
ジュンが間髪入れず「殿」も否定する。やっぱり敬称というものがよく判っていないようだ。
だがそれでも賢者の後ろにピッタリ着いて行こうとするのだから、言葉ほど怒ってはいないようだ。
「食べる。お菓子。飲む。お茶♪」
心底嬉しそうにはしゃいでいるジュン。
単純とも現金ともとれる行動だが、それが素直さに結びついて嫌みがないのがジュンの「人徳」というヤツであろう。
だからスオーラは、彼にピッタリ着いて行こうとする理由を簡単に察する事ができた。


一同は教会内の応接室へ入る。応接室といっても教会内部。整って隅々まで清潔感に溢れているが良くも悪くも地味で質素である。
スオーラは久し振りの教会内の空気に身が引き締まる思いがし、同時にあちらの世界で怠惰な生活を送ってはいないだろうかと不安感に襲われる。
ジュンは早速ソファに足を揃えてちょこんと腰かけ、背筋を延ばして一応行儀よく待っている。それでも微妙に身体を揺すって「早く、早く」と急かしている。
原始的な生活を送っていたジュンだから、こうした場所での礼儀作法は持っていないと言っていい。それでもこうして「椅子に座って待つ」という事を覚えたのか。それとも誰かが教えたのか。
「『礼儀正しくしないと、お菓子をあげません』と言ったら、すぐに覚えました」
ジュンを見て不思議そうな顔になっていたスオーラに、賢者が耳打ちするような小声で教えてくれた。
村一番の戦士とはいえ、その中身は純真な子供と大差ないようだ。そう思ったスオーラは小さく笑う。
「賢者様。早速ですが……」
「ええ、判っています」
さっき賢者と電話で話はついているし、元々以前から相談はしていた事だ。
スオーラの魔導書の復活に関した事は。
スオーラが使う魔法は、体内から取り出した魔導書のページを破り取り、そこに魔力を注ぐ事でページに書かれた魔法が発動する仕組みだ。
ゆっくり休めば破り取ったページは復活するが、スオーラはとある戦いで魔導書そのものを燃やしてしまったのである。
始めのうちはページ以上に時間をかければ元に戻るかもしれないと思っていたが、その徴候はない。まだ感じられないだけかもしれないが、あいにくいつになるか判らないものを待つほどの余裕がない。
幸いなのが、スオーラと同じ「魔法の発動法」の魔法使いが、この世界に何人かいた事だ。賢者はこの国の王家を通じてその魔法使い達に連絡を取り、対策がないかを聞いていたのだ。
「消滅してしまった魔導書を復活させる方法ですが……それは無いそうです。正確には、魔導書を無くされた方がいらっしゃらないので判らない、と言う方がより正確ですが」
賢者の言葉にスオーラの表情が露骨に曇る。スオーラのタイプの魔法使いにとって、己の魔導書は生命線同然。無くすような言動はまず謹む。
だが自分は無くしてしまった。敵を確実に倒すためとはいえ無くす選択をしてしまった。
賢者はそんな彼女の胸中を察し、励ますように言葉を続けた。
「ですが、別の魔導書の魔法を、自分の本に写す事は可能だそうです」
曇っていたスオーラの表情に、一筋の明るさが生まれる。たとえわずかな望みでも何とかなるかもしれないと判ったのだから。彼女は驚いた勢いのまま、
「ど、どうすれば良いのですか、賢者様!?」
「私はそうした魔法は使えませんのでピンと来なかったのですが……」
賢者はそう前置きをすると、スオーラが持ったままの本を指差して、
「『本にお伺いを立てろ』。それが答えだと。そう言っていました」
指差された本を見て、スオーラはぽかんと口を開けて呆気に取られてしまった。
そもそも「本にお伺いを立てろ」とはどういう事だろうか。あちらの世界でページを破って使おうとした時に破る事ができなかった事が、それに関係があるのだろうか。
「どういう事なのでしょう」
「判りません。とにかくその一点張りでして」
何でも知っているのが売りの筈の賢者も「判らない」と言いたそうに首を振る。それから相変らず一応付きで行儀良く座っているジュンに向かって、
「ところで、呪い術師の方が本を渡した時、何か言っていませんでしたか?」
するとジュンは微妙に揺すっていた身体をピタリと止めてじっとしだした。何かを思い出そうとしているのだろうか。
「『本に聞きなんし』。言ってた」
「キ、キキナンシ?」
聞いた事のない単語が出てスオーラが慌てるが、すかさず賢者が「本に聞いてみろ」と訳してくれる。
だが結局は「本に聞け」という結論である。判らない事が判らないままなのである。
スオーラは二冊の本(一部)を両手で持って見比べながら、
「そうですね。本に聞くしかないのであれば、そうするのが正解なのでしょう」
しかしこうした本に人間のような意識や感情があるなど、聞いた事すらない。しかし「本に聞け」という回答がある以上、自分に判らないだけで判る人がいるのかもしれない。
スオーラは特に意味もなくうなづくと、ジュンの向かい側のソファに腰かけた。それからテーブルに二冊の本を静かに置く。
右に置いた本の上に右手を。左に置いた本の上に左手を。それぞれそっと乗せてみた。それから目を閉じて、魔法を使う時と同じように意識を本に集中させる。
微かな、ほんの微かな気配や声をも逃すまいと固く目を閉じ、耳を研ぎ澄まし、本が触れる手に神経を尖らせる。
そうしてスオーラはピクリとも動かなくなった。それを見つめるジュンも見守る賢者も、申し合わせた訳でもなく互いに黙って成り行きを見守っている。
しばらくして、スオーラの唇がほんのわずかに動いているのを発見した。何かを呟いているかのごとく。
ジジッ。ジジッ。
どこからか何かが擦れるような短い音が聞こえた。その間もスオーラは目を閉じて呟き続けるだけだ。だが、
バヂッ。バチチヂヂヂッ!
スオーラの両手から細い稲光がいくつも飛び出し、派手に本を包み込む。その反応にジュンも賢者もその場から慌てて飛びすさってしまう程に、それは大きかった。
その稲光が現れた時のように唐突に姿を消すと、テーブルの二冊の本は真っ黒焦げになっていた。さっきの稲光のせいだろうか。
スオーラはゆっくりとその黒焦げの本から手を離すと、自分の胸に手を当て、何かに納得したかのような穏やかな表情を見せた。
「本にお伺いを立てろ、という意味。判った気がします」
だがそれをうまく言葉にして説明をする事ができない。できるのは自分の胸の中に、何かの力を思わせるような渦がある事を自覚する事だけだ。
自分の魔導書が無くなって、ぽっかりと穴が開いたような胸中を埋め尽くしてあまりあるような渦だ。
スオーラは自分と、その渦を落ち着けるかのように大きく深く深呼吸をすると、
「自分の中に、再び本が形作られているような感触を感じます。これがおそらく『自分の本に写す』事なのだろうと思います」
自分の胸に触れたままそう言うスオーラの表情は実に晴れやかだった。うっすらと涙まで浮かべている。
「大丈夫そうですか?」
「大丈夫か?」
急に涙をこぼしたスオーラを心配する賢者とジュンに「大丈夫です」と言って涙をぬぐうスオーラ。
「本。真っ黒」
ジュンがテーブルの上の本に視線を落とす。触ったら崩れてしまいそうなくらいに消し炭の塊と化してしまった本。
その本を見たスオーラは少しだけ悲しそうな顔をすると、
「この本にあった魔法がわたくしの本に写りました。ですが、この本の力を奪った事になってしまったのですね」
その本の力を奪って=犠牲にして彼女の魔導書が復活したような物。悲しそうな表情はそんな気持ちが作ったのかもしれない。
そんなスオーラに、賢者は優しく声をかける。
「良かったと思いましょう。そうでないと、この黒焦げの本達が可哀相ですよ」
「……そうですね。有難うございました」
自分を励ましてくれている。それが判ったスオーラは賢者に、それから黒焦げの本にも折り目正しく頭を下げた。


一心不乱。スオーラの目の前で繰り広げられる光景。その第一印象である。
スオーラの魔導書がようやく復活の兆しを見せ、安堵の息をついた。そこまでは良かった。
そして。そのタイミングを待っていたかのように運ばれて来たお茶や大皿に山盛りのお茶菓子。そこまでは良かった。
教会の見習い僧が引きつった笑顔を浮かべて、ジュンの前にそれらを置いた。そこまでは良かった。
ジュンが一気に襲いかかった。訂正。襲いかかるとしか形容できないような迫力と勢いでそれらを食べ出したのだ。
人間、何かに一途に、ひたむきに取り組む姿は美しさすら感じるものだが、それをも通り越した一筋になると、もはや恐怖しか生まれない。
スオーラはその光景を初めて目の当たりにしてしまった。
「……な、何というか、凄いですね」
「はい。量を食べないのが救いなのですが、いつも驚かされます」
おやつを運んで来た見習い僧がスオーラに向かってそう言葉を返す。が。「量を食べない」といっても、運ばれて来た量は絶対に一人前ではない。大皿山盛りの一人前などあってはたまらない。
原始的な生活を送って来たのである。文明的な意味で洗練された文化や生活など知る由もないだろう。当然そこで生まれた料理・食べ物も同様だ。
ジュン達の住むヴィラーゴ村にも当然料理はある。だがそれはあくまでも単純な代物。一つの食材を煮たり焼いたりしただけの代物だ。
いくつもの材料を組み合わせ、いくつもの行程を経て、ようやく完成するタイプの料理では断じてない。従って「初めて遭遇した味」という事になる。
そして、それが相当に気に入ったであろう事も、容易に想像がつく。そうでなければここまで「鬼気迫る」食べ方をする事はないだろうから。
ちなみに食べているお茶菓子は、パエーゼ国で「コニトナ・ノラカークニ」と呼ばれる焼き菓子で、細い丸太のような状態の生地を一度焼き、それを薄切りにしてから断面をもう一度焼くという、意外に手間のかかる手順で作られる。
やがて山盛りのお茶菓子が綺麗に消えた。ジュンの腹の中に。その細く小柄な身体のどこに入ったのか。そんな疑問が出て当たり前の量であり、食べ方だった。
「食べた。一杯。次は。寝る。一杯」
そのまま身体を丸めるようにソファに横になるジュン。そして十秒と経たぬうちに寝息を立て始めた。
「……寝つきも相当良いんですよ。でも何かあるとすぐ目を覚まします。そういう習慣なんだと思います」
眠ってしまったジュンに気を使うような小声で、賢者はそう説明する。
狩猟生活が中心の人間はいつ何時危険が迫るか判らないため、眠っている時でも危険が迫るとすぐに目を覚まして行動できると聞く。
ジュンもそうした村で生まれ育ったのだ。そういう体質なのだろう。
スオーラはさっきまでの鬼気迫る様子とはうって変わった穏やかな寝顔を見て小さく微笑むと、
「それで賢者様。もう一つの件なのですが……」
「怪力を発揮した事、ですよね」
スオーラがあちらの世界で(ごく少量とはいえ)アルコール度数の高いお酒を飲んだ直後、走っている原付を片手で受け止め、しかも十数キロ先まで天高く放り投げてしまったのだ。
確かにスオーラは変身、もしくは昭士達の世界に行くと普通の人間よりは筋力を発揮できる。
だがその発揮の仕方は跳躍力か瞬発力。こうした重い物を持ち上げたり放り投げる方面にはあまり発揮できない。あくまで「普通の人よりは」凄いというレベルだ。
昭士に聞いた所、大人一人乗った原付の重量は二百キロ近い。それを片手で、それも小石でも投げるように放り投げてしまったのだから、明らかに普通ではない。何か特別な力が働いたとしか考えられないのだ。
「スオーラ殿の推測は、おそらく正しいと思います。あちらの世界の『酒』がどういった物かは私にも判りませんが、この世界にも一応『一時的に怪力を発揮できるようになる薬』という物は実在するようです」
という賢者の説明。
この国、そして彼女の信仰する宗教には、お酒に関する禁止事項はないので、飲む事も売買も許されている。さすがに飲み過ぎ・酔い過ぎは注意されるが。
でもスオーラは両方の世界の酒を比較できる程飲んだ事はない。あちらの世界ではあの一回きりだし、こちらの世界でもごくたまに飲む程度だ。
あちらの世界の酒はこちらの世界のその「怪力薬」にあたるのだろうか。
「それは私にも判りません。調べようにもそのお酒をこちらに持って来る訳にもいかないでしょうから」
同じに見える代物でも、世界が変わると姿形を変えてしまう事がほとんど。それに伴い成分が変わっては分析も何もない。世界を行き来する術を持たない賢者では、この場合役に立てそうもない。
ぴぴぴぴっ。ぴぴぴぴっ。ぴぴぴぴっ。
スオーラの左腕からさっきも聞いた電子音が鳴り響く。これはスオーラが買ってもらった携帯電話の着信音だ。
彼女が裾を少しずらして腕につけた携帯電話(?)を露出させるのと同時に、ソファで寝ていたジュンが跳ね起きる。
「コレ。ナンだ!?」
「大丈夫です、ジュン様」
スオーラはその腕時計(?)についた十二個のボタンとは別にある、さっきも押した「受話器が外れたようなイラスト」が描かれたボタンをチョンと押してみた。
『ももも、もしもし、スススオーラ。聞ここ、聞こえてる?』
腕時計を微かに震わせて、そこから昭士のクリアな声が響いた。スオーラは「どこに声をかければ良いのだろう」と、腕時計を付けたままあちこちキョロキョロと見回していたが、何となく腕時計を口元に近づけてから、
「はい、アキシ様。良く聞こえますよ」
どこかのんびりとしたやりとりだったが、昭士の声の調子が少し気になった。ドモっているのはいつも通りなのだが、雰囲気が焦っている。切羽詰まっている。そんな感じに聞こえたからだ。
『スススオーラ、いい今すぐ戻って来て! エエエエ、エッセが出た!』
その大きな声は、この場の皆を絶句させるには充分過ぎた。
スオーラは胸ポケットからムータと呼ばれるカードを引っぱり出す。
侵略者・エッセが現われるとこのムータが知らせてくれる筈なのだが、スオーラのムータはうんともすんとも言っていない。しかしあちらの世界にエッセが現われたと言っている。
以前もエッセが現われたにも関わらずムータが反応しないという事があった。これはどういう事なのだろう。
不思議そうにムータを見つめるスオーラは、今はその時ではないと思い直し、
「判りました。アキシ様は今すぐ学校へお戻り下さい。わたくしもこれからそちらの世界に向かいます」
スオーラはまだ切っていない携帯電話――ゴツイ腕時計にしか見えないそれに向かって話しかける。
『わわ、わ、判った。がが、学校はとと、通り道だから。よ寄ってもらう!』
背後でバタバタ音がしたと思ったら電話が切れた。相当急いでいるのがその様子からも理解できる。
しかし、現場がどこであれ、これから向かうのであれば肝心のエッセは姿を消してしまっている事だろう。エッセはあまり長い時間この世界(そして昭士達の世界)に存在できないのだ。
しかし再び現われるのは最初に現われた場所のすぐそばがほとんど。張り込んでいれば対処は容易だ。
その思考は「一番最初の犠牲者がいたら、それはやむを得ない事だ」という、ある種の冷たい割り切りがいるが。
「行く。オレ。役に立つぞ」
ジュンもソファの上に立ち上がって胸を張っている。確かにあちらの世界のジュンはあらゆる攻撃を弾き返してしまう短剣に変身する。スオーラや昭士のようにムータを使って自分の意志で変身できないが、ジュン自身が言うように役に立つ。
「判りました。一緒に行きましょう」
スオーラは片手で腕時計を外し、ポケットにしまう。そんな彼女に向かって賢者が言った。
「スオーラ殿。それについても、お酒の件同様調べておきます。早くあちらの世界へ」
「はい。では賢者様、行って参ります。ジュン様、参りましょう」
ジュンは無言でスオーラが差し出している手をしっかりと握る。それをちゃんと確認すると、ムータを何もない壁に貼りつけるようにかざした。
直後、ガラスを弾いたような済んだ音と共にムータから青白い光が溢れ、それが扉のような形に固定される。この光の扉を通じて世界を行き来するのだ。
スオーラは賢者に向かって無言で会釈すると、ためらわずに飛び込んだ。手を繋いだジュンと共に。
そして青白い光の扉は壁から消えた。
かき消すように。

<つづく>


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