『底抜け豆腐屋小僧 中編』
昼過ぎ。新次郎の足は、今度はベイエリアに向いていた。そこの一画にある中国人街――チャイナタウンに行くためだ。
そのチャイナタウンの片隅にある鍼灸院。今回の目的地はそこだ。
その鍼灸院を営む中国人・王行智こそ、彼がこれから会おうとしている人物だ。
彼はこの鍼灸院の主にしてこのチャイナタウンのまとめ役を勤める重鎮だ。また中国本土では並ぶ者がないほど東洋医学に精通した「医王」と評される人物でもある。
そしてサニーサイドの片腕であり、紐育華撃団のメカニックチーフも兼任するという多才で多忙な人物だ。だが今日はこの鍼灸院で患者の治療にあたっていると聞いている。
医者である彼が豆腐の作り方を聞くのは畑違いもいいところだと判ってはいるが、少なくとも自分や加山よりは知っていそうな気がする。その一心で門を叩く。
だが出てきたのは彼ではなく、白衣の女性だった。
「大河さんも、こちらに用事ですか?」
そう言って優しく微笑んだのはダイアナ・カプリスである。彼女もまた華撃団の一員であり、リトルリップ・シアターの女優であり、同時に研修医でもある。
だが彼女は東洋医学の研修医ではなかった筈なのだが。それを不思議に思った新次郎が訊ねてみると、
「やり方や考え方は違っても、病に苦しむ人を助ける方法である事に変わりはありません。西洋医学を学んだ人間が東洋医学を知ってはいけない、という事はないと思います」
それで暇を見てはこの鍼灸院に通っているという。王の方も「どこであれ、医療の現場を知っておくのはいい事だろう」とそれを許しているそうだ。
物静かだが真剣さと熱心さを胸に秘めている彼女らしい言葉だ。むしろ東洋――アジアを軽視しがちな西欧の人間にしてはかなり革新的でさえある。
今度は逆にダイアナの方が新次郎に、ここに来た用事を訊ねる。彼も素直に王に会いたい旨を伝えると、彼女はすぐに案内してくれた。
「新次郎殿。どこか具合でもお悪いのですか?」
落ち着いた声と視線で新次郎に対する王。もう老人と言ってもいい王にやや気圧されそうになる。だが、ここで言葉を濁してもしょうがないと、彼はストレートに訊ねてみた。
「単刀直入にお訊ねします。豆腐の作り方をご存知ではありませんか?」
すると王は小さく笑いながら、
「医者にする質問ではございませんな、新次郎殿」
その言葉はバカにしたものではないが、新次郎は「やっぱりダメか」とうつむいてしまう。
「ですが、全く知らぬという訳ではございません。判る事でよろしければ、そっとお教えいたしましょう」
王のその返答に、新次郎の表情がみるみるうちに明るくなる。それを微笑ましい目で眺める王。そこにダイアナが会話に入っていいものかと、少々遠慮がちに、
「大河さん。その『トーフ』というのは何なのですか?」
「大豆を使って作る食べ物でございます。中国で発案された物ですが、それが日本にも伝わっているのでございます」
新次郎の代わりに王がそう答える。
「中国ではそれをさらに発酵させた物もございますが、日本の豆腐は発酵はさせない筈でございましたな」
厳密には、沖縄には発酵させた豆腐があるのだが、いくら王でもそこまで日本に詳しくはない。
「は、はい。そうです。その豆腐の作り方が聞きたいんです」
「大豆で作るのですか。それは少々興味があります」
菜食主義のダイアナが興味深そうにしている。彼女も新次郎に並んで、王の話に耳を傾ける。
「作り方の詳細は詳しい者にまとめさせますが、問題なのは水とにがりでございましょうな」
そこで一旦言葉を切ると、彼は新次郎に訊ねた。
「新次郎殿は『軟水』『硬水』という言葉をご存知ですかな」
王のいきなりの問いに対し、「え、ええと……」と新次郎が考え込もうとした時、
「自然の水の中にあるカルシウムやマグネシウムの量が少ない物を『軟水』。多い物を『硬水』と呼びますね」
ダイアナのその答えにうむとうなづく王は、話を続けた。
「よい豆腐を作るには、その軟水が必要不可欠なのでございます」
彼の説明によると、硬水では水の中に含まれる大量のカルシウムやマグネシウムが原因で、大豆のたんぱく質がすぐに固まってしまうためになめらかな豆腐にならず、どうしても味が落ちるのだそうだ。
日本は土壌的にほとんどの地域が軟水であるため、そういった区別をする概念がない。そんな土地で発達した日本料理は、全て軟水を効果的に使ったものばかりだ。
一方ヨーロッパではほとんどの地域が硬水であり、日本の軟水の多さと美味しさは評判となった。外国人居留地向けに水の瓶詰めが売られていた程だ。
そして、ここニューヨークでは硬水軟水どちらもあるが、知らずに硬水を使っては洒落にもならない。水道水を使うなどもちろん論外だ。
「豆腐の八割は水分。よい物を作るのであれば、きちんとした軟水の瓶詰めをお求めになるのが確実でございましょう」
何の知識もない新次郎は、その言葉に素直にうなづくしかない。
「それで、にがりというのは?」
「海水を蒸発させて塩を精製する際に出る副産物でございます。豆腐作りだけでなく、その強い苦味は調味料にも使われるのでございます」
王が知恵者らしく、ダイアナに雑学を披露する。それから彼は新次郎に向き直ると、
「我々の街でも豆腐を作っている関係上、にがりも作っております。よろしければお分けいたしますが?」
その申し出に新次郎の表情が明るくなりかけるが、彼はかぶりを振って王を見つめ返すと、
「いえ。自分でやらせて下さい。何から何まで甘える訳にはいきません」
キッパリと言い放った新次郎の真剣な目を見た王は静かにうなづくと、
「『若いうちの苦労は、買ってでもしろ』と申しますからな。よろしいでしょう」
「有難うございます。じゃあこれから海水を汲んで来ます」
礼もそこそこに新次郎は立ち上がる。そのせっかちさすら若くてうらやましいと言わんばかりに王は微笑み、
「豆腐とにがりの詳細な作り方は詳しい者にまとめさせ、ご自宅にお届けいたします」
彼の言葉に深く頭を下げた新次郎は、鍼灸院を飛び出して行った。それを見送ったダイアナは誰に言うともなく、
「そういえば、なぜトーフの作り方を知りたいのか、お聞きになりませんでしたね」
「そっとお答えいたしましょう」
すると王は窓の外を見る。
「あの真剣な眼差しから察するに、故郷を懐かしむような理由ではありますまい。何か込み入った事情があるのでしょう」
窓の遥か向こうに消えようとしている新次郎の背中に語りかけるように、
「どんな理由であれ、若いうちに様々な事を経験しておくのは、新次郎殿の将来にとってとても有益な事。成功しても失敗しても、それは新次郎殿の糧となる事でしょう。自分のような年寄りは、若者のための道標であればよいのです」
そう語る王は、まさに弟子を見守る師匠のようでもあった。


信号待ちをしている交差点の手前で、新品のガソリンを入れるタンクを抱えた新次郎の襟首を掴んだのはサジータ・ワインバーグだった。しかも、愛用のバイク・バウンサーにまたがったままで。
彼女も華撃団の一員にしてリトルリップ・シアターの女優。しかも元暴走族のリーダーという過去を持つ敏腕弁護士。今日は休みなのでツーリングに行くとは聞いていたが、こんな時間に会うとは思わなかった。
いつもは後ろでまとめている髪を下ろしたバイクスーツ姿の彼女は、弁護士というよりはバイクを愛する女豹を想像させる。黒人なので黒豹というべきか。
「何やってるんだい、そんなモン抱えて?」
確かに、空のガソリンタンクを抱えて街を走っているなど不思議な光景に写る。彼女の疑問はもっともである。しかし新次郎は何とか振り解こうともがいている。
「サジータさん放して下さい。急いでるんです」
「急いでるんなら……」
サジータはどうしようかと思案したが、小さく笑って自分の後ろのシートをチラリと見ると、
「乗せてやるよ。ほら」
その笑みは「しょうがないなぁ」という優しげな雰囲気に包まれたものだった。しかし大きなバイクにまたがってそんな事をされたのでは、優しげな雰囲気も半減以下だ。事実新次郎も若干引いている。彼女はその態度にムッとしたように、
「人の行為は素直に受ける。ほら!」
「わひゃあっ!」
渾身の力を込め、サジータは新次郎をぐいと引き寄せる。たまらずたたらを踏んだ彼は、とうとう降参した。
「……で、どこへ行くんだい?」
サジータは、新次郎がタンクをバイクの後部に固定し、シートにまたがるのを確認するとそう訊ねた。
「海に行くんです。綺麗な海水のある海に」
新次郎の言葉に、サジータはどこへ行こうかと考える。
「そうだね。じゃあロングアイランド島の端までブッ飛ばすか」
彼女がグリップを回して蒸気エンジンを吹かすと、バイクの方もそれに答えるように派手なエンジン音を響かせる。
「さあ坊や、しっかり掴まってな。でないと振り落とすよ!」
「は、はいっ!」
サジータなら冗談抜きでやりかねない。そう思わせる真剣な声に、新次郎は急いで彼女の腰に手を回し、がっちりと力一杯しがみついた。
「坊や!」
「は、はいっ!?」
いきなり真剣な声をかけるサジータに、新次郎の方も驚いて訊ね返す。
「腰より上とか下に手を回すんじゃないよ?」
真剣な声から一転。あからさまにからかった口調でイタズラっぽく笑うサジータ。新次郎は顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせていたが、
「そ、そんな事しませんっ!」
泡喰って叫ぶその様子があまりにおかしかったのか、サジータは笑い声と共にバイクを急発進させた。


ロングアイランド島は、マンハッタン島の対岸にある、東西に長い島だ。その長さは約一九〇キロ。ちょっとしたツーリングにはもってこいの距離だ。
きちんと舗装されてはいないが、道路は整備されているので走るのに何の苦労もない。実際二時間あまりで東の端に到着。目の前には美しい海が広がっていた。
新次郎は靴と靴下を脱ぎ、シャツの袖やズボンの裾をまくって海に入り、蓋を開けたタンクを海に沈めている。
「そんな海の水なんかどうするんだい?」
「豆腐を作るんです。その材料の一つを作るのに、海の水が必要なんですよ」
「トーフ?」
聞き慣れない響きの言葉に、サジータは考え込む。
「それってもしかして日本の物かい? それならサニーサイドのヤツに言えば……」
「そういう訳にはいかないんです。ぼくがやらないとならないんです」
水の入り具合を確認しながら答える、新次郎の表情は真剣そのものだ。それこそ声をかける事すらはばかられる程に。
「そこまでこだわる理由、聞いてもいいかい?」
サジータは真剣な眼差しで彼に問いかけた。
決して興味本位からではない。真剣にやっている相手の考えを真剣に受け止めたい。そんなシンプルなものだ。
新次郎は海水が充分入った事を確認し、その場でタンクを立てて蓋をきっちり締めながら答えた。
「最初はジェミニに『日本人なのに何で作れないの』って言われたからです」
時間が経ったからか、海風に憤りが洗い流されたからか、素直に経緯を語る。
「それじゃあ、まるで子供のケンカじゃないか」
必要以上に子供に見える新次郎に対し、反射的に言ってしまったこの言葉は禁句だったかと一瞬後悔したサジータだが、彼の方は気にした様子もなく、
「子供じみてるのは判ってます。でも、そこまで言われたら引く訳にはいきません」
サジータの方を向いて、新次郎はキッパリと真面目な顔で答えた。
彼女からすれば外見はまだまだ子供にしか見えない新次郎の中に、ほんの一瞬だけ「男」が見えたのは気のせいだろうか。
(そういう事か)
サジータは小さく笑うと、何となく彼の気持ちが判った気になった。
ムキになって意地を張るなど、二十歳とは思えない子供っぽさだと思いもしたが、サジータにもその意地は理解できない訳ではない。
どんなちっぽけな事であれ、生まれ故郷の事でケチがつくのは許せない。それだけ彼が故郷の日本を愛している事の証でもあるからだ。
サジータも生まれ育ったハーレムの街を愛している。自分がそこにケチをつけられたら黙ってはいられまい。
そういった意地を貫くのは、貫こうとするのは、むしろ好感が持てる。だからサジータはここまで彼を連れて来た事を後悔していない。そうでなかったらこのまま彼を置き去りにして帰っているだろう。
だが彼は、そのあと思いもかけない言葉を言った。
「それから、昴さんのホテルのシェフが入院してる事を知って、昴さんにも食べてもらいたいと」
そう答える新次郎の目は真剣だが、どこか楽しそうだ。まるでこちらまで楽しくなってくるような、そんな表情。発端が口喧嘩とは思えない程だ。
「じゃあ、その『トーフ』とやらを作るために、わざわざここまで海の水を取りに来たって訳か。そんなガソリンタンクまで買って」
「はい。帰ったら煮詰めて、にがりを作るんです。それが材料になります」
さっき「男」が一瞬見えたとは思えない、子供のような純粋な新次郎の笑顔。
(この笑顔に弱くなったのは、いつ頃からかなぁ)
自戒するように、サジータは苦笑した。


その日の夜。新次郎はROMANDO店舗奥の台所にいた。
「言われた通り、必要と思える物は全部揃えたつもりだ」
加山が指し示す先には、大豆の入った大きな袋。軟水が入った瓶が二ダース。寸胴鍋、中華鍋、片手鍋といった、大小様々な鍋。菜ばしや長柄のしゃもじ。そしてどこから持って来たのか石臼まで。
それこそ過分なくらいの材料・道具がずらりと揃っていた。
そして忘れてはならない、王が知り合いに手を回してしたためてくれた、豆腐とにがりの作り方が書かれたノート。
ここにサジータにバイクに乗せてもらって汲んできた、海水の入ったガソリンのタンクが加わる。
これで総てが揃った。
加山はずらりと並ぶ材料や道具に驚く新次郎の肩を叩き、
「ここは好きに使って構わない。どうせほとんど使ってないしな。お前のアパートの台所じゃ狭いだろう」
自分のために八方手を尽くしてくれたのがよく判る。新次郎は後頭部を見せるように深々と頭を下げる。
「有難うございます、加山さん」
「……頑張れよ」
一言だけそう言い残して、彼は台所を出て行った。
加山は「自分も手伝おうか」とは言わなかった。
それは彼なりに新次郎の気持ちを判っていたからであり、自分がこれ以上手伝えば彼の気持ちが無駄になる事を理解していたから。
自分にできるのはあくまでもここまで。実際に作るのは彼自身でなければ意味がない。
ドアの閉まる音が小さく聞こえ、台所が無音になる。新次郎は材料や具材を見回すと、
「よしっ。やるぞ」
自分自身に気合いを入れ、まずは「豆腐の作り方」に目を通した。
だいたいは加山が言っていた通りだった。しかしその行程の総てにコツらしき物がいくつも記されている。自分のような素人でも何とかなるように書いてくれたのだろう。
新次郎はその心遣いに感謝すると、書いてある通り大豆を大きなタライに開け、それが浸るくらいに真水を流し込む。豆腐作りとは、大豆をこのようにだいたい一晩程漬けて、柔らかくする事から始めるのだ。
だが大豆が柔らかくなる翌朝まで寝て待っている訳ではない。その間に海水を蒸発させてにがりを作らねばならない。
彼は道具の中で一番大きな鍋にタンクの中の海水を入れて行く。だいたい鍋の半分程入れると、その鍋をコンロに乗せて火をつけた。
にがりの作り方によれば、まずはこの水量の一割程になるまで、強火で煮詰めて濃縮していくようだ。
新次郎は長い木の棒を鍋の中に立て、ナイフの先で傷をつけて印をつけた。その印を目安にするつもりなのだ。
もっとも。経験を積んだ者はそんな棒など必要ない。煮詰めた海水が白く濁ってくればだいたいその水量だからだ。
しかし、その量になるまでは何もする事がない。少しずつ減っていく水の量を時折見るくらいしかやる事がない。
そんな風に気がゆるんでいたのだろう。ふと気づいた時には自分が立ったまま眠っていた事に気づいた。
何かが焦げるようなにおいで我に返り、慌てて鍋の中を見る。
鍋の底には何か白い物がビッシリとこびりついていた。それは水分が蒸発しきって残った、塩を始めとする海水に溶けているミネラル分だ。
その光景に、眠気は一気に吹き飛んだ!
新次郎は慌ててコンロの火を止め、鍋を下ろそうと取っ手を掴む。だがその取っ手がずっと火にかけていた事で熱くなっており、悲鳴を上げて流しに直行する。
蛇口からの水で手をよく冷やす。触ったのはほんの一瞬だったのでヤケドはしていなさそうだ。
今度は厚手の布で取っ手を覆ってからコンロから下ろし、鍋に水を注いで冷やす。
水を入れた時の「じゅうううううっ」という鈍い音と立ち上る白い煙が、どれだけ鍋が高温になってしまったかを容易に想像させる。
だが鍋の底にこびりついてしまった塩分というものはまず落ちない。鉄と塩分が結びつくとサビと同じ現象が起きる。つまり鍋の強度がもろくなるのだ。申し訳ないが、この鍋は廃棄処分にするしかない。
新次郎は何となく「ごめんなさい」とばかりに鍋に向かって手を合わせた。
それから新次郎は両手で何度も頬を強く叩く。鍋を焦がしてしまった自分と、最初の段階で大失敗をしてしまった自分への戒めだ。
改めて気合いを入れ直し、次に大きな鍋にタンクの中の海水をもう一度流し込んでコンロに乗せて火をつける。
また眠って同じ失敗をくり返す訳にはいかない。火事にならなかったのが不思議なくらいなのだ。それでは加山にも迷惑がかかってしまう。
普通の料理なら材料が鍋の底にこびりつかないよう時折かき回す必要があるが、にがり作りのこの段階では、まだそこまで神経質にならなくてもいい。
それでも新次郎は長い柄のしゃもじを使い、沸騰し出した海水をゆっくりとかき混ぜている。
確かにかき混ぜれば全体の熱は均一になる。こうすれば少しは蒸発が早くなるかもしれないという、ちょっとした気休めだ。
それに、身体を動かしていれば、少しでも眠気を紛らわす事ができると考えたからだ。
ところが。下から次から次へと上がってくる高熱の湯気が、新次郎の手を包み顔に当たり髪を撫でていく。
その高熱が彼の指を、手を、顔を、髪を、まるで焦がすように突き刺していく。
その湯気が彼の目に、鼻に、染み込むように入り込んでいく。
それに加え、溶けた潮のにおいが辺り一面に広がっていて、思わずむせそうになるほどだ。だが、その高熱の湯気に、潮のにおいに負けてなるかとこらえて、懸命にしゃもじでかき回し続ける。
蓋をすればそういう事はなくなるが、蓋をしてはいけないのだ。
蓋をしては肝心の蒸気が外へ逃げていかないし、どうしても蓋の方が温度が低くなるので、そこに当たった湯気はすぐに水に戻って鍋の中に落ちてしまう。
無人島などで海水から飲み水を確保する時にはそうした手段を応用できるが、単に蒸発させるのであれば蓋はかえって邪魔なのである。
だが人間の身体――皮膚はとにかく高温に耐える事ができない。チクチクとした痛みにとうとう耐えかねて、新次郎は一歩コンロから離れた。
すぐさま流しに向かい水道の蛇口をひねる。そこから流れる水に任せ、手を冷やしていく。今まで熱の中にいた反動か、まるで井戸水のように冷たく気持ちいい。
しかし、その気持ちよさにいつまでも身をゆだねる訳にはいかない。彼は流れるその水を手で受け、顔や目を何度も拭う。
新次郎は蛇口をきつく閉めると、再びしゃもじを手に煮えたぎる海水をかき回し始めた。
そうしてかき回してどのくらい経っただろうか。だんだんと減っていく海水が、少しずつ白っぽくなってきた。
新次郎は知らないが、その白くなる原因は海水に溶けているカルシウム分だ。それは水に溶けない成分なので、ここで一旦火を止め、ろ過しなければならない。
用意してあったさらしの布を何重にもしてフィルター代わりにし、別の鍋に少しずつ流し込んでいく。鍋の底に残った物も、先程の鍋のようにする訳にもいかないので、こそげ取るように綺麗に洗う。
それからろ過してほぼ透明になった塩水を、今度は中火でかき混ぜながら煮詰めていく。
「にがりの作り方」には『沸騰すると塩水が飛び散って火傷する』とあったので、さっき鍋を掴むのに使った布を幾重にも手に巻いてからしゃもじを握る。
それでも完全には飛び散った塩水を防げなかったようだ。染み込んだ熱い塩水がチクチクと手を侵食しているのが判る。
だが今度は絶えずかき混ぜていないとあっという間に水分が飛んでさっきの二の舞になってしまう。同じ失敗をする訳にはいかないと、必死に歯を食いしばる思いで耐えていく。
今度の変化は割と早かった。みるみるうちに液体の上にゴツゴツとした物が浮かび上がってくる。それが塩だという事を直感した新次郎は「もう少しだ」と自分に言い聞かせる。
完全に水分を飛ばさず熱いシャーベットのようになった段階で、もう一度何重にもしたさらしを使ってろ過していく。さっきと違って液体ではないのでポタポタとしたしずくのように小さな鍋に落ちていく。
ここで残った物が塩。落ちた液体が求める「にがり」である。ノートにはそう書いてあった。
具体的な量は量っていないが、約二〜三リットルの海水を煮詰めに煮詰めてようやくできたにがりは、コップの半分にも満たない量だった。
だが、豆腐作りはまだ始まってもいない。これからがむしろ本番なのだ。材料だけでこんなに苦労しているようでは、とても豆腐の完成などおぼつかない。
新次郎は改めて自分の言ってしまった事の苦労さと、道のりの険しさを心に刻み込んだ。

<後編につづく>


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