『少年がスっている! 壱』
巴里郊外で、一人の老紳士が静かに息を引き取った。
子も孫もなく、それほど多いとは言えない財産も、既に譲渡先が決まっていた。
遺産相続でもめる事なくこの世を去った事が「生前の優しさを彷佛とさせる」と葬儀の参列者からこぼれる程だった。
しかし。
その死がもたらしたのは、もちろん優しさだけではなかった。
彼の葬儀に参列していたエリカ・フォンティーヌは、
「あの子供達、一体どうなっちゃうんでしょう……」
ぽつりと悲しげに、そして静かに呟いていた。
事実、エリカの考えはすぐ現実のものとなった。
子や孫に恵まれなかった彼は――だからこそ、かもしれないが――その愛情を孤児達に注いでいた。
先の世界規模の大戦・欧州戦争により親を亡くしてしまった子供達。
家庭やその他の事情で身寄りをなくしてしまった子供達。
そんな子供達を受け入れる孤児院の、パトロンでもあったのだ。
わずかばかり残った財産は無論この孤児院にも下りた訳だが、孤児院を充分に維持していけるだけの額では、到底ありえなかった。
そして、その孤児院を継ぐ者はついに現れず、孤児院は閉鎖。子供達は他の孤児院などへ散り散りになってしまったのであった。


カフェテラスでそんな話をしみじみと聞いていたのは、留学という名目でこの巴里を訪れている日本の海軍中尉・大神一郎だった。
「おかげで仲の良かった子供達は離れ離れ。悲しいです」
プリンを食べる手を休め、小さく十字を切ったエリカ。フランス自体敬虔なキリスト教徒が多いのだが、彼女は見習いとはいえシスターでもある。その行動は至極当然と言えた。
「はぁ。大神さんにもっと甲斐性があれば……」
エリカは目の前に座る彼を見て、盛大にため息をついた。彼もさすがにカフェオレの入ったカップを少々荒く置くと、
「エリカくん。どうしてそこに俺が?」
「決まってるじゃないですか」
エリカは人差し指をピシッと立てて身を乗り出すと、大神に向かって、
「かわいそうな孤児のみんなを一人でも多く助けられるじゃないですか!」
一人二人ならいざ知らず。大人数の孤児達の面倒を見るとなると、甲斐性の有る無しで片づく問題ではない。
孤児達を住まわせる建物、孤児達の面倒を見る人達の手配。金銭的な事以外にも問題は山積みなのだから。
そもそも大神は留学。いつかは日本に帰らないとならない。そんな人間にここで孤児たちの面倒を見続ける事は無理だろう。
しかし。そう語る彼女の目は真剣そのもの。一遍の冗談も含まれてはいない。
「これが唯一の真実である」と言いたそうな真剣な目を見て、
(真剣なのはいいんだけど、どうしてこうどこかズレてるんだろうな)
答えに詰まって曖昧に苦笑いを浮かべた大神は、むぅ〜とうなって自分を見つめるエリカから視線を逸らしてカフェオレを一気に飲み干す。
「けどエリカくん。その紳士と面識があったんだ」
「はい!」
うなっていた顔が一気に笑顔に変わる。この変わり身の早さに、大神は呆れつつも彼女の言葉を待つ。
「その孤児院にお手伝いに行った時に、お知り合いになりました。何でもどこかの貴族の末流だって聞きました」
確かに、こうした孤児院のパトロンになれるのは、有力な商人か貴族くらいのものだろう。
だいたいは経営には口を出さない――正確には孤児達を見下して接しようとしないパトロンが多い中、実際に孤児院を訪れているというのは珍しいかもしれない。
「親族の方もいらっしゃらなくて、本当に天涯孤独なんですけど、優しい方でした」
在りし日の彼を思い浮かべて、両手を組んで黙祷を捧げる彼女。ところが、
「それに、その方は美味しいプリンをごちそうして下さった、素晴らしい方なんですよ!」
途端にさっき以上の笑顔を見せ、目もどこかうっとりとしている。きっとそのプリンの味を思い出しているのだろう。
エリカのプリン好きは有名で、「三度の食事が全部プリンでもいい」と豪語する彼女らしい発言。
「大神さんもプリンは好きですよね。今度教えてあげますから、気を落とさないで下さいね」
好きも嫌いも聞いていないのに好きと決めつける(実際嫌いではないが)エリカに、大神も閉口気味だ。
「じゃ、じゃあ俺はそろそろ行くよ」
ガタンと音を立てて立ち上がる大神。その態度にはどこか「エリカから逃げたい」という雰囲気もあった。エリカはそんな雰囲気を全く知らずに、
「はい、判りました。コクリコのお手伝いでしたよね?」
するとエリカは少し目を伏せ、
「本当はわたしもお手伝いをしたい所ですけど、神父様に呼ばれているのでできません。わたしの分もお手伝いしてきて下さいね」
「あ、ああ。判ったよ、エリカくん」
大神は手を振って駆け出して行った。


「イチロー、遅いよ〜」
市場の入口で頬を膨らませて立つ、桃色の襟の水兵服を着た東洋系の少女が、大神を見るなり不満をあらわにした。
「ごめん、コクリコ。遅れちゃって……」
ベトナム生まれの彼女――コクリコは、この巴里の街に長期滞在しているサーカス団「シルク・ド・ユーロ」の団員なのである。
簡単な手品から動物を使った曲芸まで実に幅広い芸に加え、その技術・舞台度胸はとても十一歳とは思えない。
サーカス団に入って世界中を飛び回る生活の中でもまれた為だろう。年齢以上に大人びた顔を見せる事もしばしばだ。
しかし、頬を膨らませて怒っている様は、明らかに年相応の可愛らしさを感じさせた。
「ホントに申し訳なかった、コクリコ」
元々生真面目な性分の大神。たとえ相手が自分の半分程の年齢の子供でも、自分の方に非があれば素直に頭を下げる。
その頭を下げる様子を見ていたコクリコは、
「たくさんお手伝いしてくれたら、許してあげる」
一転して明るい笑顔を浮かべて、大神を快く許したのだった。
コクリコがこうして市場を訪れるのは、買い物をするからではない。
買い物は買い物かもしれないが、サーカスの動物達に食べ物を持ち帰る為である。
動物というのは、平均すれば人間と比べて一日に食べる量がずいぶん多い。いくらサーカスとてその費用を全額負担していたのでは、よほど大きなサーカスでもない限りはあっという間に経営が傾いてしまう。
だからその費用を少しでも浮かせ、そして少しでも動物達にたくさん食べてもらいたい。
そんな理由で、コクリコは暇な時間を見つけては、こうして市場にやってくるのである。
傷がついて売り物にならなくなってしまったものを引き取ったり、はたまた近所のレストランなどから出た野菜くずをもらったり。もしくは仕事を手伝った賃金をその費用にあてたりと、元気に、そして一所懸命働いているのだ。
元気で一所懸命、そして笑顔を絶やさないその様子に、市場の人間にもコクリコのファンは多く、今では市場の中でもちょっとした存在なのである。
だからコクリコが市場を行くと、周囲から盛んに声をかけられる。
そしてコクリコも元々人なつこく物おじしない。それらの声に笑顔で答える様は、まさに小さな天使。
少し前まで、ベトナムはフランスが植民地として支配していた。
表向きはさらなる文明化の援助であったが、その実はそこで得られる利益をフランスという国が吸い上げる、体のいい略奪行為でしかなかった。
そういった事に加え、自分達こそ世界の中心にいる優れた民族という意識に凝り固まって、アジアの人々を「言葉を話す山猿」としか思っていなかった。
だが、この市場に集う者達は、コクリコにそんな思いを抱いている者は一人もいない。皆優しくコクリコに接する様子が、大神にも強く伝わってくる。
様々な人達から果物や野菜くずをもらい、用意してきたカゴはあっという間に一杯になったばかりか、それだけでは足りなくなった程だ。
重量を増したカゴを背負う大神に、
「イチロー、大丈夫?」
「平気さ、コクリコ。このくらいどうって事ないよ」
心配そうに自分を見上げてくるコクリコに、大神は無理矢理笑ってみせた。
確かに大変な程の重量ではない。その笑みは強がりでも何でもないのだが、
「無理しなくてもいいよ。ボクも持つから」
コクリコはどこかから借りてきたバケツを差し出すが、
「本当に大丈夫だよ」
彼を心底心配した表情を浮かべるコクリコに、大神は背筋をしゃんと伸ばして歩き出した。
「……けど、コクリコはホントにすごいな」
大神は小さく呟いたつもりだったが、コクリコにはしっかり聞こえていた。
「すごい?」
「ああ。十一歳でこれだけしっかりしてて。何だか俺の方が年下で子供みたいに感じるよ」
大神のその答えに、コクリコは吹き出していた。
「俺がコクリコくらいの頃は、みんなと山を走り回ったり、川で魚を捕ったりして、遊んでばっかりだったからな」
「遊んでたの?」
「ああ。あ、でも、学校の勉強とか親の手伝いくらいは、ちゃんとやってたぞ。……一応」
最後の方がボソボソとした小声になる大神。それを鋭く聞き逃さなかったコクリコは、
「イチロー。『働かざるもの食うべからず』だよ」
「やれやれ。これじゃどっちが保護者か判りゃしないや」
コクリコと大神は揃って笑い合った。
「おばさん、こんにちわー」
コクリコが顔馴染みの果物屋の主人に声をかける。
「何かお手伝いする事、ありませんか?」
「ああ、コクリコちゃんか」
果物屋の主人である中年女性が、コクリコを見て嬉しそうに目を細める。
「おや。今日は連れの人がいるのかい」
「ど、どうも。コクリコがいつもお世話になってます」
大神はつい日本人の習慣として軽く会釈をしてしまう。その拍子に背負ったカゴからぽとぽとっと何かが落ちる。
「イチロー、気をつけてよ」
落ちた物をコクリコが拾おうとした時だった。
横から素早く飛び込んできた小さな影があった。その影が大神に体当たりする。
いきなりとはいえそれで転ぶ事はなかったものの、バランスを崩した為に背中のカゴからゴロゴロと果物や野菜が転がり落ちる。
「あっ!」
誰かが止める間もなかった。その小さな影は転がっていたリンゴを鷲掴みにすると、一目散に駆け出した。
そのスピードたるや尋常ではない。目にも止まらぬ早さとはまさにこの事だ。
ところが。
その小さな影は派手に転んでしまった。どうやら何かを踏んでしまったらしい。その拍子に鷲掴みにしたリンゴが手を離れコロコロ転がっていく。
「このガキ!」
その場にいた誰だかの荒々しい声。その小さな影の主を捕まえようと手を伸ばす。
しかしそれより早く立ち上がり、転げるように駆け出してその手をかわす。
その姿は、明らかに子供の後ろ姿だった。
その子供は露店の隙間に身体をねじ込ませて大人の追跡をかわすと、そのまま狭い隙間の中を走り去った。
「くそっ。逃げられたか」
腹いせに地面をガツンと蹴った市場の男が悔しそうに戻り、落ちていたリンゴを拾い上げる。
「災難だったな」
短くそう言うと、コクリコの手にそのリンゴを握らせる。コクリコは、
「ありがとう、おじさん」
「いいって事よ、気にすんな」
嬉しそうな笑顔で見上げられ、その男は照れくさそうに頭をかくとそのまま駆け出して行った。
「けどあの子……この前も見かけたわねぇ」
果物屋の主人が小首をかしげて呟いた。
「見かけた? どういう事なんです?」
背中のカゴに神経を使いながら、散らばった野菜や果物を拾い集める手を休め、大神が訊ねた。
「この頃この辺でも子供のひったくりが多くてねぇ。まぁあの子の場合盗んで行く物はリンゴ一個とかオレンジ一個。泥棒には違いないけど、量が量だけに……ねぇ」
彼女は怒っているのか呆れているのか、何とも判断に苦しむ曖昧な表情を浮かべている。
「ひったくりかぁ。確かにこの辺の治安が悪くなってるみたいだって噂は聞いてますけど……」
大神の顔も少々渋い物になる。誰だって治安は悪いより良い方がいいだろう。
「あの子。確かこの間潰れた孤児院にいた子でね。けど友達もいないみたいで、いっつも一人でいるよ」
コクリコに聞こえないよう、大神にそっと耳打ちする主人。
その話を聞いた大神も、何か申し訳ないような気持ちになる。
自分に何ができるという訳でもないが、何もしていないのではないかと思えてしまうからだ。
しかしコクリコはリンゴを受け取ったまま、男の子が去って行った方をずっと見ていた。


その市場からそれほど遠くない場所に立つ劇場「シャノワール」。
そこが大神の今の仕事先である。
しかし今は営業時間を終え、小腹の空いた何人かで軽い食事をとっていた。
「……という訳なんだ。最近ひったくりとか多いみたいだね」
サーカスの団員であると同時にこのシャノワールのステージにも立つコクリコが、一同を見回して昼間の出来事を語っている。
「あの〜。『という訳』って、どんな訳ですか?」
おずおずとスプーンを持ったままの手を上げたのはエリカである。
彼女は見習いのシスターであると同時に、この劇場のダンサーでもあるのだ。
もちろんその反応に一同が呆れたのは言うまでもない。
「ひょっとして、プリンに夢中でコクリコの話聞いてなかったんじゃないか?」
大神の言葉にも、エリカは「えへへ」と笑っている。
「うむ。私もそれは聞いている。この地に住む貴族としても、決して捨ておけぬ問題だな」
難しい顔を浮かべているのはグリシーヌ・ブルーメール。フランスの名門貴族の正当な血筋を受け継ぐ彼女。
外見の優雅さとは裏腹に悪事を許せぬ熱き正義感の持ち主だ。本名を隠してこの店でダンサーとして活動している。
「花火も充分気をつけてくれ。万一何かあったら、ご両親に顔向けができん」
グリシーヌが声をかけたのは、彼女の屋敷に世話になっている北大路花火。コクリコの話に暗い顔を浮かべていたが、
「大丈夫よ、グリシーヌ」
気丈に短くそう答えた。
日仏クォーターの彼女は、親から「日本の大和撫子たれ」と教育を受けて育てられた為、あまり自分の意見を前に出し、それを貫くタイプではない。
が、意思が弱いかというとそうでもない。自分を貫くべき時は、きちんとそれを貫く強さを確かに持っているのだ。
「女同士で婚約者みたいな話もないだろ」
呆れ顔でそう言ったのはロベリア・カルリーニ。巴里始まって以来の大悪党と言われ、その刑は軽く千年を超える程だ。彼女も偽名を使ってこの店で働いている。
ロベリアはヒビの入った眼鏡を軽く指で持ち上げると、
「だいたい、捨ておけないならとっとと何とかすればいいだろ」
「ロベリア。何だ、その言い種は」
グリシーヌとロベリアの間に、一瞬冷たい空気が走る。
かたや名門貴族、かたや世紀の大悪党。とにかくこの二人は何から何まで反りが合わないのだ。
「当たり前の事を言っただけだろ、口だけ貴族が」
「口だけ貴族だと……!?」
「待て、二人とも!」
慌てて大神が二人の間に割って入る。あと少し放っておいたら、間違いなく実戦並のケンカに発展していただろう。
「確かに俺達は巴里を守る巴里華撃団だ。けど警察じゃあない」
そう。彼ら六人のシャノワールに関係した人間というのは仮の姿。
その正体は霊的な力によって都市防衛を行なう秘密部隊「巴里華撃団」のメンバーなのである。大神はその隊長職を勤めている。
「俺達のなすべき事はひったくり事件を解決とか、そういった事じゃないだろ?」
「では、悪事をみすみす見逃せと言うつもりか!?」
大神のその発言を弱気な考えと受け取ったのだろう。グリシーヌが食ってかかろうとするが、
「そうじゃない、グリシーヌ」
掴みかからんとする彼女をどうにかなだめた大神は、
「もちろん悪事を見逃せと言いたいんじゃない。ひったくりを捕まえる事も大事だけど、ひったくりに遭わないようにみんなが気をつける方が、被害は減ると思うんだ。それは、俺達だけでできる事じゃない」
別にこの場を取り繕う発言ではなく、これは大神自身が思っている事だ。それを理解してか、グリシーヌも押し黙る。
その真っ正直過ぎる正論に、ロベリアも「やる気が失せた」とばかりに鼻を鳴らす。
「それにしても。子供がひったくりとは何たる事だ。世も末だ」
グリシーヌが肩を落としている。
「ひったくりですか。という事は、泥棒ですよね」
プリンを食べ終わったエリカは、ふうと小さくため息をついて、何やら考え込んでいる。
何か妙案を閃いたと言わんばかりの笑顔で、彼女はロベリアに詰め寄った。
「ロベリアさん。こういった泥棒をどう思います?」
真正面からストレートすぎる疑問をぶつけるエリカ。
「どうもこうも。何でアタシが答えなきゃいけないんだ?」
静かだが、その表情は少し怒っている。しかし怒りよりも若干の殺気を込めた、鋭い目。
この一睨みで大概の人間は自分から離れていく。だが、
「やっぱり、泥棒の事は泥棒であるロベリアさんに聞くのが一番だと思うんです」
皆がポカンとする中ロベリアの手を取り、それこそ真剣な目で彼女を見つめ続けるエリカ。その考えに一遍の迷いもない、澄んだ目で。
「……そうだな。餅は餅屋ってことわざもあるし」
大神もうんうんとうなづいている。
「あの大神さん。ロベリアさんは泥棒であって、モチヤさんじゃありませんよ?」
首だけ彼の方を向いてエリカは訊ねた。大神は呆気に取られた顔で、
「いや、だから、日本のことわざにそういうのがあってね……」
「けど大神さん」
エリカはその体勢のまま彼に訊ねた。
「モチヤさんって、何なんですか?」
数秒の間が開き、今度こそ一同は激しく脱力した。

<弐につづく>


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