『巴里の空の下 聖母は輝く 前編』
彼女が酒場を出た時には、既に夜の十時を回っていた。
いつもの行きつけの酒場ではなく、噂話に聞いていた「寝ぐら」から少し遠い酒場である。その為、早めに切り上げたのだ。
「……『星空亭』か。まぁ、悪くはなかったな」
看板を見てから冷めた表情を無理矢理作ると、彼女は銀の髪を夜風になびかせ家路についた。
いくら都会のこのパリの町とはいえ、夜中の治安までがいい訳ではない。
夜も更ければ色々「物騒な」連中に襲われないとも限らない。ましてや女性の一人歩きである。金品はおろか身体の危険も大いにある。
だがそういった目的で彼女に声をかけた者総て、数秒後に後悔する事となるだろう。
なぜなら彼女――ロベリア・カルリーニも「そうした側で」生きている人間だからだ。


物心ついた頃から既に悪事に手を染め、これまでにパリ市内の美術館・宝石店・有名貴族の屋敷を荒し回り、建造物爆破、金品の強奪と、数え上げれば刑は一千年を超える程だ。
おそらく、この町で彼女の事を知らない者はいないだろう。
だが彼女は夜の闇はもちろん、昼間の町ですらこそこそとする事は全くない。どんな時であろうと一切の小細工をせず、小気味よいくらいに堂々と世を生きる孤高の女盗賊。
それがロベリア・カルリーニという人間なのである。
だが、そんなロベリアでも、折からの雨はどうにもできなかった。
小雨のうちに寝ぐらにつけるかと思ったが、雨足が強くなる方が先だったようで、仕方なく寂れた雰囲気の建物の軒下に逃げ込む事にした。
コートについた水滴を軽く手で払い、かけている眼鏡の水滴を指でぬぐってかけ直す。
「……読みが外れたか。アタシもヤキが回ったね」
激しさを増すばかりの雨と雨雲とを睨みつけ、忌々しく舌を打つ。
夜という事もあって辺りに人影はなく、雨粒が石畳を打ち続ける音が響くのみだ。
一応この建物から光が漏れているのだが、酒場や食堂ではなさそうだ。いくらロベリアでも勝手に入って雨宿りをする気はない。
(無人なら入るところだけどな。中に人がいるんじゃ、黙らせるのが面倒だ)
建物の中に聞き耳をたてるように扉に身を預け、右手首にぶら下がるチェーンをぶらぶらとさせながら、しばしの間降りしきる雨をぼんやりと眺める。
すると、すぐそばに人の気配が。反射的に扉から横に飛ぶと同時にロベリアが警戒し、自然体で身構える。
その警戒に全く気づかずに扉を開けて建物から出てきたのは、黒い神父服の中年の男だった。その男を見て、ここが教会なのだと初めて判った。男はロベリアを見て一瞬驚くも、
「雨宿りですか? そんなところにいては風邪を引きますよ。礼拝堂へどうぞ」
初対面にもかかわらず、何の警戒もしていないその男を見て、
「放っておいてくれ。どこにいようとアタシの勝手だ」
その声で相手もロベリアが女性だという事が判ったのだろう。
「女性ならなおの事です。こちらへお入り下さい」
男はロベリアの手を掴もうと手を伸ばす。彼女はその手を邪見に払うと、
「何度も言わせるなよ。放っておいてくれって言ったんだぞ」
すっと目が細くなり、殺気が増した。たいがいの男なら、これだけで泣いて逃げ帰るほどだ。
しかし、気づいていないのか気が強いのか、その神父は表情を変えずに、
「それはできません。困っている人に手を差し伸べるのが我々の為すべき事です」
その言葉を聞いた途端、ロベリアの表情が険しくなる。
(何でこういうヤツらはみんな揃って同じような事しか言わないんだ)
ロベリアは、脳裏に浮かんできた自分が良く知っているシスターの面影を振り払う。
助け合いごっこなら勝手にやっていればいいし、本当に人々を助けたいと思っているのなら、こんな教会に閉じこもってないで自分から助けを求める人間のところへ行けばいい。
にもかかわらず「助けが欲しいならここへこい」とばかりにふんぞり返って偉そうにしている姿は、ロベリアの目には単なる自己満足の偽善者にしか見えなかった。
だが、同時にこういう「偽善者」は絶対に自分の考えを曲げない。聖書に書かれた事がこの世の総てと思っている、「おめでたい」が扱いにくい連中。
こういう相手と押し問答を続けるのも面倒である。そんなに自分を助けたいと言うのなら、助けられてやろうじゃないか。そんな風に開き直り、
「はいはい」
あきれ顔のまま、ロベリアは教会の中に入った。


教会は、ちょっと古そうなだけで別に珍しいところはない。中央に通路があり、その両脇に長椅子が何列も並んでいる。一番奥には祭壇があり、その上の壁に大きな十字架がかけられていた。
強いて珍しい部分を挙げるとするならば、他の教会と比べてステンドグラスの数が多い事と、祭壇から一メートルほど離れた通路上に高さ二メートル程の柱があり、その上に聖母マリアの像が乗っている事くらいか。
ロベリアは教会にある珍しい調度品を盗んだ事もある。教会内部の構造に詳しい訳ではないが、こうした像がこんな形で飾られているケースは初めてだった。
「あれは?」
その神父も彼女の疑問は当然と思ったらしく、
「あの聖母マリア様の像は、教会を設計した方が、教会が完成した日に特別に寄贈して下さったものです。本来は水晶でできたものを飾るのですが、普段は盗難防止であの木製の像を飾っているのです」
水晶の像と聞いて、ロベリアの食指が激しく動く。
「水晶だって!?」
パリの町のあちこちに盗みに入っているが、その話は初耳だった。
行きつけの酒場に集まる盗賊連中からも、そういった話は聞いた事がない。もっとも、徒党を組むのを嫌がる彼女に、好んで「儲け話」を持ちかける輩もいなかったが。
このフランス。いやヨーロッパでは圧倒的にキリスト教の勢力が強い。
キリスト教の教えと考えが絶対で、教会はいわば「聖地」にも等しい神聖な場所とされている。そこにわざわざ盗みに入ろうという者も少数なのは確かだ。
いくら普段は木の彫像を飾っているとはいっても、水晶でできた本物が存在するのならば、全く狙われてないというのはおかしい。逆に不思議にも思った。
水晶でできたマリア像など珍しいに決まっている。少なくとも、自分ならば絶対に盗み出している。
「盗難防止って言ってたけど、盗まれた事があるのか?」
「いえ。いくら盗人でも、神の御前でそのような不埒な行いをする者はおりません。念のためです」
ロベリアの疑問に、神父は穏やかな表情さえ浮かべて力説する。
「神の御前ったって……」
彼女は二の句が告げなかった。いくら神父でもここまで頭から盲信しているとは。ロベリアはこみ上げてきた笑いをどうにか堪えると、
「あいにくアタシは、自分の目に見えた物しか信用しない事にしてるんでね。第一、見た事もない神様なんてあてにしてたら、命がいくつあっても足りやしない」
場所を考えると即叩き出されてもおかしくない発言である。しかし神父は、
「なるほど。あなたのような方を現実主義者と仰るのでしょうね」
と相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。ロベリアも一瞬言葉に詰まった。
(聖職者ってのはお人好しの集まりか?)
自分が信じているものを悪く言われれば、気を悪くするのが普通であろう。にもかかわらずこの態度。
やはり、聖職者という人間は判らない。
そんな考えをおくびにも表情に出さず、辺りを見回す振りをして視線を逸らす。
そこで、建物の入口に数人の人間の気配を感じた。直後、戸を激しく叩く音が。
「またか」
神父は小さく舌打ちしたあと、礼拝堂奥の祭壇の脇にある小さな扉を指差し、
「あなたはあそこで隠れていて下さい。お願いします」
「隠れろだって?」
「無関係な方を巻き込む訳にはいきません。お願いします」
その神父の顔は真剣そのものだった。
どんな事情かは知らないが、ロベリアが彼を助けたりかばったりする義理立てはない。一応雨宿りさせてもらってはいるが、彼が勝手に引っ張りこんだだけだ。自分から頼んだ訳ではない。
しかし、面倒に巻き込まれるのは御免だったし、雨はまだ降り続いている。
ロベリアは足音を立てずに小走りで奥へ向かい、扉の向こうに消えた。
まるでそれを確認したかのように入口が乱暴に開かれた。
「これはこれはシャレード神父。夜遅くまで、お勤めご苦労様です」
先頭で入って来たコート姿の大柄な若い男が雨傘をたたみながら労をねぎらう。しかしそれは上辺だけで、そんな気持ちは一遍もこもっていない言い方だった。
神父は、彼の後ろに立ついかにもとりまきのチンピラといった風情の男達を見て、
「何度来ても、私の答えは同じです」
「そう怖い顔をしなさんな。何も取って食う訳じゃなし」
コートの男は、傘の柄を長椅子の背もたれに引っ掛けて辺りを見回す。
「相変わらず傷んだ建物ですね。よく雨漏りがしないものだ。これも『神の御加護』というヤツでしょうかな」
そう言ってから一人で笑っている。
「前々から修理代くらいはお出しすると言っているんですから、そう強情張らなくても……」
「代価に水晶の聖母マリア様の像を要求しておいてですか?」
「私も敬虔なクリスチャンですが、慈善家ではありません。ギブ・アンド・テイクという言葉をご存知でしょう?」
コートの男が得意げに胸を張る。取り巻きのようなチンピラも、
「そうそう。いくら教会でも、タダで修繕してくれるヤツなんざいませんぜ、神父様よぉ」
「何もタダで像を持って行く訳じゃねえんだ。むしろあんたの言い値で買って下さるようなもんだ。こんなイイ話を蹴ろうってのはどういう了見だ?」
チンピラ二人が下卑た笑い声を上げる。
扉を薄く開けて様子をうかがうロベリアに、そういったやりとりが飛び込んできている。
どうやら入って来た男は水晶のマリア像が欲しいらしい。修理費との代価という建て前ならば、確かに文句を言う人間はいないだろうし、筋は通っている。
確かにこの建物は傷んでいる。修繕の一つも必要だろう。だが、それをなぜこの神父は拒んでいるのか。
神父という立場上、信仰対象とも言えるマリア像を売り払うも同前のこの行動に賛同しかねるものはあるかもしれないが、背に腹は変えられまい。
それとも、修理できない理由。もしくはマリア像を出せない理由でもあるのだろうか。
それ以上に、自分が狙いをつけた「獲物」が、他人に持って行かれるかもしれない事の方がロベリアにとっては一大事である。
(あいつらには退場してもらうか)
邪魔者は少ない方がいい。それに、シャレードと呼ばれた神父に恩を売って像のありかを聞き出すというのも一つの方法だ。
そう思って辺りを見回すと……。


「こっちが下手に出てりゃつけあがりやがって……」
チンピラの一人が神父の胸ぐらをつかみあげるが、それを見たコートの男がそれを止めさせる。
「やめなさい。暴力で解決しようとするのは愚か者のする事です」
しぶしぶ解放された神父につかつかと歩み寄ると、
「神父様も暴力はお嫌でしょう。それとも、そうした手段でなければお判り戴けませんかな」
男の目が嫌な具合に細くなり、口の端で蔑んだ笑みを浮かべている。
「あの聖母マリア様の像を手放す訳にはいかないのです」
声は少し震えているが、目は脅えていない。威圧感はないがまっすぐな目で男を見つめ返す。
その態度が男の神経を逆なでしたようだ。男は後ろにいたチンピラに顎をしゃくって合図を送った。チンピラは待ってましたとばかりに、にやにやと笑いながら神父に歩み寄る。
「聖母マリア様の像はここにはない。いくらやっても無駄だぞ」
「それなら、ある場所を聞き出すだけだ。力ずくでな!」
一発殴り飛ばそうと、チンピラが腕を振りかぶった。
その時、礼拝堂に木の扉が開く音が響いた。
一同が揃って音の方向を見ると、礼拝堂奥の祭壇の脇の扉が開かれ、そこに黒い法衣に身を包んだシスターが一人立っていた。
「暴力はいけません。それに、ここは主ジェジュ・クリ(イエス・キリストの仏語読み)のおわす神聖な場所です。争いごとは許しませんよ」
やや伏せた顔から響く、鈴が鳴るような美しく澄んだ女性の声。その左手はゆっくりと胸の前で十字を切っている。
「な、何だてめぇは!?」
チンピラの一人が怒鳴りつける。しかしシスターは全く怯まずに早足でつかつかとチンピラに歩み寄ると、
「早々にここを立ち去りなさい。さもなくば神罰が下ります」
真剣な表情でそのチンピラを見つめ返した。その言葉に一瞬怯んだ様子を見せたが、すぐに開き直ると、
「へぇ。じゃあその『神罰』とやらを見せてもらおうじゃないか、シスターさんよ」
チンピラは「やれるもんならやってみろ」と言わんばかりにバカにした表情で笑っている。その表情を見たシスターは悲しげにため息を一つつくと、
「じゃあ受け取りな!」
彼女はいきなり態度も口調も豹変させて右腕を振るう。少し遅れて手首についた金属製のチェーンがチンピラを襲った。
「ぎゃっ!」
全く予想していなかった攻撃をまともに顔面に受け、チンピラが顔を押さえてうずくまる。
「てめぇ!」
もう一人のチンピラが逆上して殴りかかろうとした矢先、
「トロいんだよ!」
シスターは裾の長い法衣をものともせず間合いをつめて、チンピラの顔面を鷲掴みにして押し返す。
「な、何だ貴様!?」
コートの男が驚く中、シスターは法衣――それは本当は黒いカーテンだったのだが――をバサリと脱ぎ捨てた。
「ああっ! てめえロベリア!!」
普通顔で気づくだろ、と毒づきたくなるのを抑え、ロベリアは最初にチェーンで殴ったチンピラを蹴倒す。
「失せな、雑魚が」
たった今蹴倒したチンピラをじろりと見下ろす。すっと目が細くなり、殺気をはらんだ目つきになる。
「ロベリア……てめぇ刑務所の中の筈じゃ!?」
「さあて。どうしてだろうねぇ?」
ロベリアは取り出した眼鏡をかけ、蹴倒したチンピラの頭にごつんと足を乗せて軽く踏みつけると、
「もう一度だけ言うよ。雑魚はとっとと失せな」
更に踵をぐりぐりと押しつける。
「……今日のところは帰るとしましょう。それでは」
コートの男はじろりとロベリアを睨みつけると、傘を持って教会を出て行った。
チンピラ達もバタバタと慌ててあとを追いかける。その光景をロベリアは鼻を鳴らして見送った。
「さてと神父さん。どうする? 警察に通報するか?」
自分の後ろで呆然としている神父に声をかけた。その態度も全く悪びれていない。
「あなたが……あの盗人のロベリア・カルリーニ?」
「自己紹介はいらないみたいだね。で、像はどこにあるんだ?」
余裕綽々という態度のままゆっくり神父の方を振り向く。だが、ここは犯罪者であるロベリアの方が分が悪い。通報されればいくらロベリアでも逃げられる確率は低くなる。
「この場にはありません。この教会を建築した方が持っていると聞いています」
神父は両手を組んで短く祈りの言葉を呟く。
「私が知っているのはそれだけです。これでご満足ですか?」
心の中を読まれたかのような神父の説明に舌打ちするロベリア。
彼女も伊達に長年盗賊をやっていない。嘘を言っている人間かどうかを見る眼くらいは持っているつもりだ。
「どうやらここにないのはホントみたいだね。邪魔したな」
外からは未だ雨音が聞こえている。しかし長居もできない。いつ隙を見て通報されるか判ったものではないからだ。
ロベリアは「じゃあな」とばかりに手をひらひらとさせながら教会を出て、雨の中を急ぎ足で去っていった。


翌日。昼近くになってようやく目を覚ましたロベリア。
彼女が寝ぐらとしているのは、パリ市内モンマルトルにある小さな劇場「テアトル・シャノワール」。その地下にある倉庫を勝手に使っているのだ。
この劇場の踊り子・サフィールというのが、今のロベリアの仮の身分。
いつ身につけたのか、下手なプロダンサー顔負けの素晴らしい踊りを披露する彼女。あらわな衣装をまとう抜群のスタイルと、美しく舞い踊るその姿に魅了される男性客も少なくない。
ミステリアスで妖艶な魅力の新人ダンサーというのが、世間の人々の評価である。
そんな彼女が大あくびをして誰もいない劇場を歩く。長年の盗賊生活か、そんな時でも隙がなく足音も立てない。
「ロベリア。ようやくお目覚めかい」
彼女にそう声をかけてきたのは、この劇場の支配人グラン・マだった。若い頃は有名なダンサーだっただけに彼女のダンスの腕前は素直に認めている。
「いつ起きようとアタシの勝手だろ? ステージと任務に穴を開けた覚えはないよ」
ロベリアはつまらなそうに淡々と答える。
「穴を開けたら遠慮なく減給するよ。もっとも、今のところはないけれどね」
グラン・マも大人の余裕か、彼女の言葉をさらりとやり返す。
ロベリアは、本当なら刑務所の特別監獄で服役している筈だった。
しかし、グラン・マの持つもう一つの顔。このパリを霊的な力で守護する「巴里華撃団」。グラン・マは強大な霊力を持つロベリアを、そのメンバーとして迎え入れたのだ。
もちろんその超法規的措置その他によって刑務所や他の華撃団メンバーと一悶着あったのだが、今は完全なる「ビジネス」として(彼女の真意はともかく)防衛任務でその稀有な力を発揮している。
「ちょっと頼みたい事があるんだ。話だけでも聞いちゃもらえないかい?」
唐突な前置きのない発言に何かを感じ取ったのか、ロベリアの眼から眠気が一気に吹き飛んだ。


グラン・マは半ば強引にロベリアを支配人室へ連れて来ると、扉を閉めて内側からしっかりと鍵をかける。そんな状態でもロベリアは全く慌てない。むしろ邪魔が入らなくていいとさえ思っていた。
グラン・マは支配人室のテーブルに置いてあった木箱の蓋を開け、ロベリアを手招きする。
「これは……?」
「いいかい。取るよ」
箱の中にあった袱紗(ふくさ)を被せられた何か。グラン・マが慎重な手つきでそれを取る。
「……!」
現れた物を見たロベリアは思わず息を飲んだ。
純度の高い透明なガラスでできた聖母マリアの像。傷はおろか手垢一つない美しい彫像だ。ガラス像の作り方など知らないが、相当高い技術で作られた物に間違いない。
ロベリアも今までいくつもの美術品を見聞きし、盗んできたが、これはその中でも掛け値なしに高額な部類の物だと断言できる。
グラン・マは、驚いたロベリアの顔を見て「その顔が見たかった」とばかりに少し得意になると、
「これはガラスじゃない。水晶さ。あんたも町で噂くらいは聞いてないかい。聖ジュスタン教会の『水晶のマリア像』の事……」
昨夜の男・シャレードは教会の名こそ言っていなかったが「水晶のマリア像」の事はしっかりと言っていた。それが、今目の前にあるこの像なのだろうか。
グラン・マの話によれば、その聖ジュスタン教会は五〇年も前に、旦那方の親族が設計したそうだ。
普通設計したあとは大工に一任するものなのだが、その教会に限ってはその貴族が陣頭指揮をとり、壁やステンドグラスを始めとして、ありとあらゆる建材の吟味に至るまで事細かに行ったそうだ。
そして、その貴族が先日『教会の中にある柱状の台座に像を乗せて、夜を待ってくれ』と言い残してこの世を去ったそうだ。
「その夜っていうのが明日の夜なのさ」
グラン・マは通称で、本名はイザベル・ライラック伯爵婦人。確かに貴族だ。シャレードの言っていた事は間違いではなさそうだ。
「で、こいつをアタシに見せた理由は? ……いくら何でもくれるって事はないだろうし、明日まで護衛でもさせようってのか?」
ロベリアは美しさに見とれながらも、緊張感だけは忘れていない。
「そうだよ。その日に故人を偲ぶ集まりがあるからね」
グラン・マはあっさりと言い切った。ロベリアが「みんなの為」「正義の為」という「お題目」が死ぬほど嫌だと判っているのにも関わらず。案の定鼻で笑うと、
「寝言は寝てから言ってほしいね。そんな正義の味方みたいな事は、グリシーヌにでもやらせりゃいいだろ?」
ロベリアは巴里華撃団の隊員であるグリシーヌ・ブルーメールを引き合いに出す。ある意味ロベリアと対極にある正義感に満ちた彼女なら、こういった事は間違いなく引き受けるだろう。
「断わるのかい? 困ったねぇ」
グラン・マが全く困っていない口調で呟く。
「それに、アンタを殺して像を奪っていくって事は考えてなかったのかい?」
ロベリアはいつの間に取り出したのか、右手の中のナイフを弄びながら尋ねる。
「困ったねぇ。あたしも殺されたくはないしねぇ」
どこか挑発しているような目でロベリアを見つめるグラン・マ。
その目を見てすっかりやる気が失せてしまったロベリアはきびすを返し、「勝手に困ってろ」と言い捨てて出て行こうとした。
「この像が報酬だと言ったら、どうする?」
「何だと?」
グラン・マの口から飛び出したセリフに、さすがのロベリアも出て行く足が止まった。彼女は得意げに机の引き出しから一枚の書類を取り出し、ロベリアに見せつける。
その書類には「明後日の昼十二時をもって、この像の所有権をロベリア・カルリーニに譲渡する」と書かれ、グラン・マのサインまで入っていた。
「この水晶のマリア像の事は、随分と泥棒達に知れ渡っているみたいだしね。一応警察にも応援を要請するけれど、どれだけ役に立つか判ったもんじゃないしねぇ。盗まれるかもしれないねぇ」
ロベリアの顔が一瞬だけ悔しそうに歪む。報酬である所有権とひきかえにこの像を守れと持ちかけているのだから無理もない。
「もし盗まれたら、どこにあるか判らなくなる以上、この書類も意味がなくなっちまうねぇ」
グラン・マが悔しそうに立つロベリアをちらりと見る。
「あんたがいらないのならしょうがない。これはあんたの言う通りグリシーヌ達に頼むとしようか……」
グラン・マが手にした所有譲渡の書類を引き裂こうとした瞬間、
「判った判った。今回はその誘いに乗ってやる。……今回だけだからな!」
根負けしたロベリアは、そう言わざるを得なかった。
裏社会で辛酸を舐め続けてきたロベリアも、グラン・マの用意周到さには、まだ勝てなかったようだ。

<中編につづく>


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