「ホ、ホントですか――っ!!」
その声にただならぬ気配を感じ、好奇心の指し示すまま恭子と瑞樹がドタドタと彼女の部屋になだれ込む。
二人が部屋になだれ込むと、かなめは部屋の中にあるデスクトップ・パソコンの電源を入れ、何やら焦った様子で起動画面を見つめていた。
一方宗介も彼女達の後に続いてかなめの部屋に飛び込もうとしたのだが、それほど広いとは言えない部屋の入口に二人も立たれたのではそれもできない。
かなめはそんな三人の様子など目もくれず、起動が終了したと同時にマウスを操作してブラウザを起動。すぐさま「お気に入り」に登録済のアドレスを選択して、クリック。
「……あ、今表示されました。で、更新履歴? ……あ、ありました! わざわざ有難うございます!」
かなめはパソコンを操作しながら電話でやり取りしている。さすがにその音声だけでは会話の内容を見当つける事もできない。
「じゃあ明日、やってみます。どうも有難うございました」
かなめは静かに電話を切った。
恭子と瑞樹プラスその後ろの宗介が、嬉しいのか呆気にとられているのか判断しかねる顔で棒立ちになっているかなめを見ている。
「……えと。何かあったの、カナちゃん?」
ようやく恭子がおずおずと訊ねてみた。
しかしかなめはどこか焦点の合っていない恍惚とした目で薄ら笑いを浮かべていた。ハッキリ言って近寄りたくない雰囲気である。
そんな彼女を避けるように、恭子と瑞樹がパソコンの画面を覗き込む。
しかし、黒バックの画面に羅列されている白い文字は英文なので、恭子と瑞樹の二人には何が書いてあるのかさっぱり判らないのだ。
「相良くーん」
未だドアの前に突っ立っている宗介を恭子が手招きする。
宗介はかなめの部屋に入るのに一瞬躊躇したが、すぐさまどこか申し訳なさそうにそっと入り込む。
「相良くん。これ読めるでしょ?」
恭子が英文が映るパソコンのモニターを指差す。
「カナメがこうなったのは、これに間違いなさそうだし」
瑞樹が「うふふふふ」とにやつくかなめを無気味そうに見つめている。
「これを読めばいいのか?」
瑞樹が恍惚としたままのかなめを脇へ押しやり、そこにやってきた宗介が、画面の英文を読み始めた。《サーバーがウィルスに感染していました。その復旧に時間がかかってしまった事を、心からお詫び申し上げます。
ウィルスの駆除や新しいアンチ・ウィルス対策などは総て済ませましたので、このウェブ・サイトをご覧の方のパソコンに、当サイト経由でウィルスが感染する事はありません。
つきましてはその償いの意味を込めまして、来週渋谷で開催される我々のライブのチケットを急遽一〇名の方にプレゼントする事に致しました。
明日の午前一〇時より電話でのみ受付をいたします。
詳しい事はこちらに書いてあります。
皆様、ふるってご参加下さい。追伸:日本語ページの方にも同じ文面が記載されております》
伊達に海外生活の方が長い訳ではない。画面の英文を淀む事なくスラスラと和訳して読み上げる。
日本に留学や転勤をした人達で作ったロック・バンドのホームページだ。日本語だけでなく英語で書かれてあっても不思議ではない。
宗介が呼んだ文章の内容に、恭子もうなづく。
「チケットのプレゼントかぁ。それなら無理もないよね」
自分の好きなバンドのライブ・チケットのプレゼント告知。
しかも一度は逃したものだ。巡ってきたチャンスに、ファンなら舞い上がって当然だろう。
「けど、電話で受付かぁ。何か大変そうよね」
瑞樹も大変さを想像して苦い顔になる。
「キョーコ♪ ミズキ♪ ソースケ〜♪」
妙に媚びを含んだかなめの声が、三人を金縛りにする。
一応弾んだ声なのだが、有無を言わせない迫力をも十二分に含んだ、圧力のある声と言おうか。
「な、何、カナちゃん?」
恭子は嫌な予感がしたが、がっしりと肩を掴まれて逃げる事ができない。瑞樹も同様だ。
一方フリーである宗介は、まるで蛇に睨まれた蛙のようにその場で固まっていた。身体を硬直したまま、首だけ小刻みに動かしている。
「チケット取り。手伝ってくれるよね?」
声の軽さと圧力が二割ほど増した中、かなめは口を開く。
「やっぱりさ。こういうバンドの曲ってのはCDじゃなくて生に限るもんね。そう思うでしょ?」
「そ、そうだね」
「あ、あたしもそう思うな」
「良く判らんが、君がそう言うのなら、そうなのだろう」
三人は一様にこくこくとうなづく。いや。その圧力にうなづかされたと言った方が正確だろう。
かなめはその答えに満足げな笑みを浮かべると、
「一度くらいは生で聞いてみたいあたしの気持ち、判ってくれるよね?」
「そ、そうだね」
「あ、あたしもそう思うな」
「良く判らんが、君がそう言うのなら、そうなのだろう」
三人は再びこくこくとうなづく。だが迫力に気押されていると言った方が正解だろう。実際返事がさっきとまるで同じだ。
「それに、夕食までごちそうしてあげたんだしさ。少しくらいは恩を返そうとするのが、人情ってもんじゃないかなって、あたし思うんだけど?」
「そ、そうだね」
「あ、あたしもそう思うな」
「良く判らんが、君がそう言うのなら、そうなのだろう」
三人はもう一度こくこくとうなづいた。有無を言わせない雰囲気を感じ取っている彼らは、壊れたおもちゃのように同じ台詞をくり返し、マリオネットのように首を倒す事しかできない。
「よし、決まり! 明日は忙しくなるわよ〜」
かなめは高らかに宣言する。三人のげんなりとした態度など全く気にもしていない。ファン心理を考慮すると、人間なんてこんな物である。
「こうなると、カナちゃん止まらないからなぁ」
この中で一番かなめとの付き合いが長い恭子が、大きくため息をつく。瑞樹も、
「けど、下手に何か言ったら一〇倍になって返ってきそうだし」
こういう好きなバンドの事で舞い上がっている人間は、少しでも多くそのバンドの事を語りたがる。短く済ませるには、適度に同意して聞き流すのが最良である。
「何してんの、三人とも! 明日に備えて食べまくるわよ!」
既に食卓についたかなめが、先程のテンションを維持したまま手巻き寿司を平らげにかかっていた。
「もちろん明日の朝もごちそうしてあげるから、楽しみにしててね、みんな♪」
かなめは手巻き寿司をもぐもぐとしたまま、CDのボリュームを近所迷惑にならない程度に上げる。
「……食を司るカナちゃんは、今やあたし達の支配者だわ」
「意味は良く判らんが、逃げる事も断わる事もできそうにないな」
もはや彼女に従うしか道はない。宗介ですら大きなため息をついた。
翌日。
かなめは自分が宣言した通り、わざわざ朝食のためだけに宗介を呼び、「チケット取り、頼んだからね」としっかり念を押していた。
ちなみに恭子と瑞樹はかなめの家に泊まっていた。
その間延々とそのバンドのCDを流していたそうだから、ここまで来るともう洗脳と断言すべきだろう。
恭子と瑞樹の境遇には、かなり同情を禁じ得ない。
朝食を済ませると宗介は一旦自宅へ戻って、昨日かなめ達に言われた通り傭兵をリタイアした友人に、自分の連絡先をメールで送った。
送信終了を確認してパソコンの電源を切る。
それから、かなめから手渡された、切り取られたノートのページに目を落とす。そこには、本日最大の「任務」である「チケット取り」に関する事柄が書かれていた。
もちろん宗介がこうしたチケット取りをした事は、もちろんない。かなめはそれを見越して、注意点をきっちり書いておいたのだ。
それを端から端までじっくりと読みふける宗介。
成功と失敗を幾度となくくり返した者だけが知るテクニック。それを感じずにはいられない注意点の数々。
それらをこうした経験が全くない自分にも判りやすく、きちんと要点を押さえて書かれてある。いわばマニュアルのようなものだ。
やはり彼女は大したものだ、と宗介は真剣に思う。
いつも食事や弁当、苦手な日本史や古文のレクチャー、自分が起こした事件の後始末と、彼女には何から何まで助けられてばかりである。
そうした恩に少しでも報いるために。そして「普通の高校生」がやるような事を少しでも学習して、自分がこの日本に適応してきている事を示さねばならない。
そう。一言で言うなら、宗介はかなり「燃えて」いた。
冷静に考えれば、そこまで「燃える」程の事ではないと思うが、元々生真面目な性分である。
(たとえどんな手段を使ってでも手に入れねばならん)
そう決意して拳銃の整備を始めてしまったのだから、やっぱりどこか判っていない気はするが。
その時、宗介の携帯電話が鳴った。手の届く距離に置いてあったので、間髪入れずに電話に出る。
「サガラだ」
『おっ、サガーラ。今日本は土曜の朝か?』
電話から聞こえてきたのは、宗介とは馴染みの武器商人である<ブリリアント・セーフテック社>のベアール社長の声だった。
「ああ。朝の九時過ぎだ。問題ない」
彼の拠点はヨーロッパのベルギーだ。日本との時差は約七時間。一方ベルギーでは夜中の三時くらい。真夜中もいいところだ。
しかし、背後からは真夜中らしくない騒々しい喧噪が聞こえる。
『ん、ああ。今仕事でニューヨークにいる。こっちじゃ金曜日の午後八時だ』
ニューヨークとの時差は約一四時間。これから夜を迎えるといった頃合だ。
ベアールは今、ニューヨークの裏道にあるバーで酒を飲んでいるそうだ。
「ベアール。個人の趣味嗜好に口を出すのはどうかと思うが、アルコールは脳細胞を破壊する。この稼業を長く続けたかったら、程々にするべきだ」
『言ってくれるな』
淡々とした宗介の物言いを、さらりと聞き流すベアール。それから声の調子を急に真面目なものに変え、
『ところで、メールはちゃんと届いてるか? パソコンがちょっと調子悪かったんで、少し心配でな』
「問題ない。昨日の夕方に届いている」
彼の質問に素直に答える。
「しかし、アーマントゥルードとも親交があったとは思わなかった」
『まぁこっちは商売だ。カネさえ払えば、クレムリンでも買って来てみせるさ』
ベアールお得意の口癖が飛び出し、電話の向こうで一人で笑っている。
『けど、怪我でリタイアするのは本当のようだな。自分が使ってた銃器からサバイバル用具一式に至るまで、全部下取りしてやったし』
「下取り?」
こうした会社が下取りまで行なうというケースは余りない。
『お得意様へのアフター・サービスってヤツさ。もっとも、あいつはあんまり買ってくれなかったけどな』
彼の得意げな声が電話から聞こえてくる。
あまり買わなかった人間は「お得意様」とは呼ばないのではないか、と宗介は思ったが、
『この間、ヤツがわざわざ会社の方に直接来てな。何でも、今まで世話になった人のところに挨拶して回ってるそうだ。律儀なもんだよ』
ベアールはしみじみとそう語って一息つくと、
『時間があったから色々喋っていたんだが、再就職先も見つかったそうだ。交渉事は得意だったから、割とすんなり決まったらしい。結構な事だ』
ベアールが電話の向こうで小さく笑っている。
怪我で傭兵を辞める。別に珍しくもない話だ。むしろ命を落とさなかっただけ、彼は非常に幸運に恵まれている。
小さな笑いはバカにした訳ではない。命あるうちに別の生き方を選ぶ事ができた、いわば祝福とも言える笑いなのだ。
誰だって、命の危険と隣り合わせの商売などやりたくはないだろう。
『……それで、今サガーラが日本で学生をやってるって話したら、大層びっくりしてな。その後「連絡先を教えてくれ」ときたって訳だ』
「それで、教えたのか?」
少し焦り気味の宗介の声を聞いたベアールは楽しそうな声で、
『まさか。いくら何でも客のプライバシーを簡単にばらすような真似はしないさ』
(俺が学生をしている事はばらしただろう)
そう言いたくなるのをぐっと堪えて、彼の話の続きを待つ。
『……別に恨みあう仲じゃなかったんだろう? あいつも日本で暮らすらしいし、久しぶりに会って旧交を温めたらどうかと思ってな』
ベアールなりに気を使ってくれた事は、対人関係にうとい宗介にも判る。
確かに恨みあうような仲ではない。だが、そこまで親しい関係ではないとも言える。
一応自分の連絡先をメールで送りはしたものの、会ったところでつもる話がある訳でもない。
「連絡先は送ったが、無理に会うつもりはない。情報には感謝するが」
その返答に、ベアールも「やっぱりな」と言いたそうに、
『相変わらずだな。人との縁ってヤツを大事にするのが、日本人だと聞いているが』
「確かに俺は日本人だが、日本で暮らし始めたのはつい最近だ」
宗介は事実のみを淡々と言い返す。
『用件は以上だ。時間取らせて済まなかったな』
「判った。仕入れてほしい物があれば、また連絡する」
電話を切ると、宗介は再び銃の分解整備に取りかかった。
一〇時五分前きっかりに銃の分解整備を終え、ホルダーにしまう。
それから時報を聞いて腕時計を秒針まできっちり合わせておく。
わずかな時間の遅れが致命的なミスを招く、長年の傭兵生活でしみついたクセだ。しかし今回は文字通り時間との戦いだ。遅れは絶対に許されない。
右手に携帯電話を持ち、左手首の時計をじっと睨みつける。
かち、かち、かち、かち。
ゆっくりと確実に回る秒針から目を放さない。全身の筋肉の動きをピタリと止め、全身の神経総てを秒針の動きにのみ注ぎ込む。
そして……その針がついに一〇時ちょうどを差した。
同時に、かなめから受け取った紙に書かれた電話番号にダイヤルする。
しばしの静寂の後、受話器から聞こえてきたのは、
『現在、電話が大変混雑しております』
無情にも、回線混雑を告げるアナウンスだった。
たった一つの通信手段である電話が繋がらないとは。聞こえてくる淡々とした調子の女性の声に宗介の顔がわずかに渋いものになる。
一度通話をオフにして再びかけ直すが、やはり結果は同じ。
しかし。かなめが書いてくれた紙に、確かこんな一文が。
《繋がりにくい時には、一旦携帯電話の電源を切って、再び入れてからかけ直すと、若干繋がりやすくなるらしい》
半信半疑だが、かなめを信じてその通りに実行してみる。
携帯電話の電源を切り、間髪入れずに電源を入れ、リダイヤルで三度かけ直す。
大丈夫か。今度こそ繋がってほしい。宗介の気持ちにわずかな焦りが生まれる。
焦りに気づいて「こんな事ではいかん」と気を引き締め直した時、受話器から、
『現在、電話が大変混雑しております。しばらく経ってから、おかけ直し下さい』
(相当かかりにくくなっているようだな)
宗介はため息をついて、通話をオフにした。
するとその途端、宗介の携帯電話が鳴った。こんな時に、と思いつつも素早く電話に出る。
「サガラだ」
『お、サガーラ。ベアールだ』
つい一時間程前に電話をしてきたベアールからだった。何か伝え忘れた事でもあったのだろうか。
「ベアールか。済まんが今、立て込んでいる。用事なら後に……」
『聞いて驚け。つい今し方、アーマントゥルードとばったり会ってな。店変えて飲み直してるんだ』
程良く酒が回っているのだろう。微妙にろれつの回らない声が聞こえる。
「いや、だからベアール。済まないがこちらからかけ直すから、今は……」
『お? ちょっと待て。アーマントゥルードに変わるから』
変わらなくていい。このまま電話を切ろうとした時に、
『セガール。久しぶりだな。元気だったか?』
電話から聞こえてきた、ちょっと高めの声。変に訛った独特の英語。久しぶりに聞くアーマントゥルード・リーの声であった。
懐かしさで一瞬気が緩むものの、現在自分が置かれている状況をすぐさま思い出すと、
「アーマントゥルード。実は……」
『聞いたぜ。今お前学生やってるんだってな? ビックリしたよ』
「いや。その。済まんが立て込んでいる。俺の方からかけ直すから……」
『ああそうそう。メールの方はさっき受け取った。だから……』
ダメだ。こちらの話をまるで聞いていない。相手に申し訳ないとは思ったが、宗介は話の途中で電話を切った。実際、
《電話がかかってきた場合は『用事があるから』と断わって、すぐチケット取りを再開する》
とマニュアルに書いてあるからだ。
電話が切れている事を確認すると、宗介は気を取り直して再度チャレンジする。しかし、
『現在、電話が大変混雑し』
聞こえてきたアナウンスを最後まで聞く事なく、宗介は通話を切った。
(本当にしばらく待った方がいいのだろうか。しかし……)
かなめから受け取った「マニュアル」には、
《たとえ繋がらなかったとしても諦めない。間髪入れずに何度もかける事》
とあった。
繋がらないのに皆が何度もかけるから――人によっては携帯電話と家庭の電話の二つで一斉に――さらに繋がりにくくなってしまう。
だが、チケットを取る事に全力を傾けている人間に、その理屈は通じない。
宗介もその「教え」にならってもう一度挑戦しようとした時、携帯電話が鳴る。
『いきなり切るってなぁどういうこった!?』
電話の向こうから聞こえる怒鳴り声。アーマントゥルードに間違いない。
『せっかく人が久しぶりに話してるってのに、その態度は何だよ!』
「アーマントゥルード。何度も言っているが、こっちはゆっくり会話している余裕がない。後でじゃダメなのか?」
『そこまで俺の事が嫌なのかよ、セガール』
「そうは言ってない。早くしないと……」
その彼にしては珍しく焦っている様子に、向こうも何か感じ取ったらしく、
『何だ? 用事か何かあるのか?』
「さっきからあると言っているだろう!?」
つい声を荒げてしまうが、ようやく自分の言いたい事が相手に通じた。ホッとしたのもつかの間、入口のドアが派手に開く音が聞こえた。
「ソースケ――――ッ!!」
マンションのドアを蹴り破るような勢いで開けて入ってきたのは、何とかなめだった。<後編につづく>