『将校達のプッシュ・オン・アローン(下) 中編』
お腹を押さえ、青い顔のまま苦しそうなうめき声をあげる夫人。
一方カリーニンもラジシャヒも何をどうすればいいのか全く判らなかった。お互いケガの治療や応急処置ならばそこいらのヤブ医者よりよほど達者ではある。人体構造そのものは知っていても出産となるとそうもいかなかった。
今の二人に確実にできるのは、夫人を病院へと運ぶ事くらいである。だが先程兵士が漏らした通り、この辺りに病院と呼べる施設はない。
「一番近い病院はどこだ? もしくは産婆でも構わんが」
「産婆は判らん。だが一番近い病院となると、さっきのバリケードの側にあった歯医者くらいだ。そこまで戻って誰かに聞くしかあるめぇ!」
ラジシャヒは気絶した兵士をベッドから引きずり下ろすと、敷いてあったシーツを急いで剥ぎ取る。
それから転がったライフルを手に入口まで走るとその銃床で蝶番(ちょうつがい)の部分をガンガンとめった打ちにしだした。古い安アパートだけあり、やがて蝶番が外れ、バタンと大きな音がしてドアが外れた。
「オッサン。夫人はどうだ!?」
ラジシャヒの怒鳴り声に、夫人に肩を貸していたカリーニンは彼女の顔を覗き込むようにして、優しく問いかける。
「立てますか? 歩けますか?」
「……まだ……どうにか……」
気を失ってしまいそうな青い顔で、うめき声をあげる中、夫人はかろうじてそう答えた。
いくら出産に関しては素人以下のカリーニンでも、今の夫人の状態が芳しくない事は容易に想像がつく。
こんな状態の彼女を背負ったり抱きかかえたりといった、腹部に負担がかかる動作はさせられないと判断。肩を貸した状態でどうにか一歩一歩歩いてもらう。
その間にラジシャヒはドアの上にさっきのシーツを広げていた。即席の担架のつもりらしい。そんな作業をしている間にも、アパートに残っていた住人――男ばかりだが――が迷惑そうに集まりだしていた。
だがカリーニンに添われて出てきた大統領夫人を見て皆驚く。夫人がこんなところにいる事はもちろん、素人目にも出産間近なのが丸判りだからだ。
「お前ら、ボサッと見てるくらいなら手伝え! 町に運ぶ!! 救急車呼ぶよりその方が早い!」
ラジシャヒのその一言で、その場の男達は一気に団結した。


時間は少し遡る。
その頃テッサはホテルで携帯端末と格闘していた。
AI<ダーナ>からの情報を処理しつつ、カリーニンの援護をするために軍部の通信網を撹乱しているのだ。
援護よりも分析を急いでほしいとは言っていたが、何の支援もなしに放り出すほど<ミスリル>は情けのない組織ではない。
だが通信網の撹乱はともかく、過去一年にわたる大統領の情報確認は<ダーナ>の援助があっても骨が折れた。さすがは一国の大統領といったところか。
ところが夜の一〇時を過ぎると同時に、今まで無音と例えられる町が一気に騒がしくなった。思わずテッサの手が止まる。
彼女に代わってボーダが窓の外を見ると、市民と軍が衝突しているのが見えた。パンパンという発砲音も聞こえてくる。
しかしそれ以上に市民の怒号がすさまじく、不意を突かれた形の軍部がかなりの劣勢を強いられているようだ。
カリーニンの見立てではそれほど強い軍隊ではないとの事だったが、その見立てが正解だったのか。それとも軍隊への恐怖を上回るほど市民が戦う姿勢を見せているのか。
さすがにこの階までとばっちりや流れ弾は来ないだろうが、思わずそんな光景を想像してしまった彼女は少し身震いすると、酷使していた目を押さえるようにして、
「おじさま。<ダーナ>による分析が終わりました」
テッサの言葉に、待ってましたとばかりにボーダが駆け寄る。それを確認した後彼女は、
「カリーニンさんが言っていた通り、大統領は軍部の『見直し』としか発言していませんでした」
「そうか。彼の記憶力は大したものだな」
ボーダもカリーニンの能力には素直に感心している。だがすぐ渋い表情になると、
「それが判ったとて、問題はその情報の使い方だ。単純に言うだけでは何の効果もないのだからな」
「それはそうですけど……」
特に現在は軍隊対市民の暴動に発展してしまっている。おそらくどちら側にも何人もの犠牲者が出るだろう。その事に胸を傷めないテッサではない。
暴動状態の人間の心理を考えると、まず相手の話を冷静に聞くとは絶対に思えない。
だから単に「実は軍縮ではなく見直しなんですよ」と言ったところで、この暴動が治まるとは思えないのだ。何らかの演出がどうしても必要である。
情報とは手に入れるだけではあまり意味がないのだ。それをいかに効果的に、タイミングよく使う事ができるか。それが情報戦を制する最大のポイントである。
しばし部屋をうろうろと歩き回っていたボーダだが、ふと手を打って立ち止まると、
「テレサ。この国の軍隊のウェブサイトはあるか?」
「え、ウェブサイト、ですか?」
ボーダのいきなりの問いにどもってしまうテッサ。しかし端末に触れる指は的確に動き、インターネットの検索サイトから国軍の公式ウェブサイトを検索していた。
「この国はずっと軍事国家だった。軍事国家ってのは軍に対する恐怖だけでは体制を維持できん。最も効果的なのは『軍隊はかっこいい。人々の憧れ』という存在に祭り上げてしまう事だ」
軍人=かっこいい憧れの存在と位置付けるやり方は、士気向上や人材の確保に充分役に立つ。
子供達はこぞって憧れの職業に就きたがるし、憧れの存在に援助を惜しまぬ者もいない。かのヒトラーも似たような事をしてドイツ軍を強大な軍隊に仕立て上げていた。
この国がナチス・ドイツと異なったのは、それが次第にただ威張り散らすためだけに軍隊に入る者が出てきた事だろう。組織の腐敗というものかもしれない。
だが宣伝は惜しみなくしていた筈。この現代ならウェブサイトの一つは間違いなくあるだろう。
そんなボーダの読みは当たっており、ウェブサイト掲載の写真に写っている軍人達はもちろん色男揃いであり、儀典用の礼装はもちろんの事、常装や戦闘服まで実用性とスタイリッシュを兼ね備えたデザインになっていた。そのままお洒落なパーティーの主役になれそうなほどだ。
いくつかあるコーナーから、軍の組織図を紹介するコーナーを探して表示させる。
ボーダはその組織図をまじまじと見つめていたが、
「ちょっとしばらくその画面のままにしておいてくれないか」
彼はそう言うと、電話機の側に置かれていたメモ用紙をスタンドごと持ってきた。
「おじさま、一体何を?」
ボーダの意図が今一つ読めぬテッサが彼に訊ねる。
「昼間の会話で大統領が言っていただろう。『軍の見直しをするために外部の専門家の意見も聞くつもりだ』と。」
それはテッサも覚えている。
「ここにいるじゃないか。立派な軍の専門家が」
ボーダは胸はって自分を指差す。無論テッサが驚かない訳がない。
確かに彼はアメリカ海軍で提督まで勤め上げた人物である。軍隊の事は組織から運営に至るまで知っている筈だ。でも経験者であって専門家ではないと思うのだが。
テッサがいぶかしげな表情でボーダ『提督』を見ているが、彼はそんな視線どこ吹く風と言わんばかりに無視し、組織図が写る画面を見つめている。
「まぁこういう場は任せておけ」
さすがのテッサも部隊の運用ならいざ知らず、軍そのものの組織や運営といった知識にはうとい。
ボーダも何か妙案を思いついたようだし、ここは任せておいてもいいのだろう。テッサはそう思った。
それに、画面を見つめてメモ用紙にペンを走らせるボーダは、なんとも楽しそうだ。まるでとっておきの作戦を思いついたいたずらっ子である。
(でも……本当に大丈夫なんでしょうか)
任せると決めた直後、やっぱりほんの少しだけ不安を感じたテッサであった。


時折ボーダが「うーむ」と唸る声と、ペンを走らせる音が小さく響く室内。
一つしかない携帯端末を占拠されて手持ち無沙汰になったテッサは部屋にあったポットでお湯を沸かし、持ってきていた紅茶を煎れていた。
こんな状況ではルームサービスも期待できない。もしかしたらホテルの内部も市民の「暴動」の舞台になっているかもしれないからだ。好んで巻き込まれたくなどない。
両手に持ったカップの一つをボーダの傍らにそっと置き、自分はそれを手に一口飲むと、カーテンの隙間から階下を見下ろしていた。銃声や怒号はそれほど聞こえてこないが、道路には棒などで武装した市民が多数練り歩いている。
暴動が始まってから、どのくらい経っただろうか。時計を見るともう夜の一一三〇時になろうという時刻だった。タイムリミットまであと三〇分。
テッサもこうした暴動の現場を何度も目撃している。だがそれは総て自身が指揮する潜水艦の中からのモニター越しであり、今回のように渦中にいた事などほとんどない。
モニター越しからは判らない現場の緊張感。恐怖感。人々の怒号。殺気。フロアが違うとはいえ窓ガラス越しとはいえ、それらを直に肌で味わっているこの感触。
人間はこんなに強烈な恐怖をまき散らす事ができるのか。
人間はこんな強烈な恐怖の中で果敢に戦う事ができるのか。
そんな人が持つ怖さと強さを改めて思い知った気分だった。
そんな中、ボーダは「よし!」と自信たっぷりな声を上げると、
「もういいぞ、テレサ。次は軍本部の住所を調べてくれないか」
彼はテッサが立っている方向に携帯端末の画面を向けると、笑顔でそう急かした。
「本部の住所って?」
驚きながらも既に端末へ向かって歩いてくるテッサ。手にした紅茶をテーブルに置き、すぐ端末と向かい合う。
「行くに決まっているからだ。こんなバカな理由のクーデターをおっ始めたヤツのところにな」
年甲斐もなく、と言っては失礼かもしれないが、まるで血気盛んな若者のように胸を張ると、
「こんなバカな事をしたヤツには説教が必要だ。そうだろう?」
説教はともかくバカな事をしでかしたという事は思い知らせるべき。確かにテッサもそう思った。
しかし住所を調べたとしても、そこに首謀者がいる保証はない。仮にいたとしても今は市民が道路にあふれて普通に歩く事すらままならない状態なのだ。
いくら軍のお偉いさんに説教をしに行くと言っても、市民達が道を譲ってくれるだろうか。十中八九無理だろう。
だからテッサはあまり自信がなさそうに、
「<ダーナ>に通信網を監視してもらってますから、その……シャシ少将でしたっけ? 彼のいる場所の見当くらいはつけられると思うんですけど」
キーを叩いて<ダーナ>が割り込んでいるこの国の通信網にアクセス。いくつも現れるウィンドウに次から次へと目を通していく。常人には真似のできぬスピードだ。
その通信網は、この都市のあちこちで市民が一斉に蜂起し軍部を圧倒している事を知らせていた。その市民達が大統領官邸に向かっている事も。
中には軍のASを奪取して市民の味方をしている者もいるようだ。いくら何でも市民に兵器を奪われてしまう正規軍とは。情けない事この上ない。
このままではこちらが手を貸さずとも市民達だけでこの暴動を治めてしまいそうな勢いである。これまでの気苦労は何だったのかとため息をつきたくなるほどだ。
本来なら<ミスリル>のような機関が外から介入しなくとも、国民自身の力で国内のもめ事を解決するべきだろうとは思う。
だがそのもめ事が解決しても、国民全員が死んでしまっては元も子もない。軍部がキレて変な行動に走らない保証はない。そうならないよう、犠牲が一人でも少なくなるようにするためにも<ミスリル>は存在すべきだろう。
「……おそらくですけど、彼は大統領官邸にいるみたいです。例のVTRが放送された時、大統領に直談判しに行っていたみたいですから。それから官邸を出てきたという情報は、ないですね」
<ダーナ>が拾っていた過去の通信内容から、テッサはそう見当をつける。
場所が判ったのはいいのだが、やっぱりどうやって行くのかが解決していない。道路は市民が溢れているし空を飛ぶなども論外だ。そもそもそんな手段があればとっくの昔にここを脱出している。
「テレサはここにいてくれ。少佐から連絡があるかもしれんからな」
ボーダはメモ用紙の束を大事そうにジャケットのポケットにしまいこむと、バタバタと大慌てで出て行こうとする。
「お、おじさま!? どうやってそこまで行くつもりなんですか?」
当然出たテッサの疑問。彼はまるで子供のようにニカッと笑うと、
「私は海軍提督まで勤め上げた男だぞ。どんな波でも乗り越えてみせるさ」
窓の外の人波を指差し、グッと親指を立ててみせた。テッサは「それは波が違うのでは」と呆れ顔を見せる。
その時、テッサの携帯が再び鳴った。相手を確認せずすぐに飛びついて電話に出る。
『大佐殿。こちらは大統領夫人の救出に成功しました』
聞こえてきたのはカリーニンの声だ。相変わらずロシア語だが、その声は微かに達成感を感じる。テッサも今度はロシア語になり、
「ぐうぉ苦労様でぃす。それでカリーニンさんわ今どチラに?」
『それが、大統領夫人が急に産気づきまして。たった今、友人の案内で手近の病院に運び込んだところです』
無事救出による安堵感から一転。今度はお産のトラブルとは。一難去ってまた一難とはこの事だ。
病院に運び込んだからといって、お産が成功すると決まった訳ではない。どんなに設備の整った大病院でも、失敗の可能性や危険があるのが出産というものである。
だが現場にいない以上何もできないし、さすがにテッサといえども出産に関する技術も知識も持っていない。経験はそれ以上にない。
出て行こうとしていたボーダの背に、テッサが電話の内容を手短かに伝える。
さすがに彼も夫人の無事救出の方にはほっと安堵の息を漏らす。それから少し間を置くと、
「……判った。少佐はその場で待機。何かあったらテレサに連絡するよう伝えてくれ」
そう言うと彼は入口を塞いでいるチェストをどかしにかかった。テッサが何か続けて言おうとすると、
「私にも少しくらいカッコつけさせてくれ。少佐のようにはいかんかもしれないが」
小さく微笑むと、邪魔がなくなったドアを開けて悠々と出て行った。


ボーダが階段で一階へ下りホテルのロビーに向かう。こういう状況でエレベーターは危険だ。出た途端興奮した市民に襲われかねない。
明らかに白人然とした外見である。一目で外国人と判る。だからこの国には無関係の人間。しかし。相手が襲う人間をきっちりと仕分けてくれる保証は全くない。
足音を消して階段を下りていき、閉まっていた非常扉をそっと開いてロビーの方を観察する。
ロビーの中央には、数十人の人間が一塊になって座らされていた。揃ってロープで手首を拘束されている。
拘束されているのは、明らかにこの国の軍人達だ。野戦服に防弾チョッキ、ヘルメットという完全装備にもかかわらず。
市民側がよほどうまく不意を打ってもこうはなるまい。いくら士気が低そうとはいえ、専門の教育を受けた筈の軍人達が一般市民にいいようにやられた光景というのは、軍属だったボーダの目には複雑なものに写った。
おまけに兵士達はそこで抵抗したり、逃げ出そうとする素振りすら見せていない。どうにでもなれと腹をくくっているというよりは、やる気そのものがないように見えなくもない。
そんな中へ、ボーダはおそるおそるといった感じで両腕を挙げ、ゆっくりとロビーに出て行く。
見張りのように立っていた市民の一人がボーダに目をやるが、あからさまにこの国の人間でない事を確認すると「観光客か」と言いたそうに視線を逸らした。
兵士達を捕えた事で多少は落ち着きを取り戻したのだろう。無分別に誰かを襲うような事はないようだ。ボーダはやっと両腕を下ろした。
だがボーダはそんな市民にゆっくりと近づくと、
「済まないのだが、この兵士達の中で、一番階級の高い者と話をさせてもらえないか」
唐突なその申し出にその市民はもちろん話が聞こえた者全員がぽかんとしてしまう。
別に英語が通じていない訳ではない。外国人がいきなり何を言うのだ、と言いたそうにしているだけだった。
ボーダはそれに構わず野戦服の階級章を目当てに、その中で一番階級が高かった大尉に声をかけた。四〇才くらいの太った中年男である。
「そこの大尉。英語は判るか?」
その声に反応してボーダの方を向いたさる大尉。それで英語が判ると判断した彼は話を続けた。
「面倒な事は抜きにしよう。シャシ少将とやらに説教がしたい。どうするのが一番手っ取り早いかね?」
一同がざわつく中、値踏みするように見上げていた大尉が、重く口を開いた。
「あんなヤツと話すだけ、無駄だと思うがね。ヤツは自分の保身しか頭にない。将校の中にはヤツに媚びる者もいるが、兵卒であいつを慕う者はまずいない」
確か現時点ではそのシャシ少将が軍の頂点の筈だ。軍の頂点という事は責任者であり総司令官でもある。
そんな人物が、大尉という階級の持ち主にここまで悪し様に言われるとは、よっぽど信用や信頼がないらしい。ダメ軍人の典型のようだ。
ボーダがそんな風に困った顔をしていると、その大尉は理由を説明してくれた。
聞けば、彼は先の独裁政権の時代、独裁者に気に入られただけで出世を果たした男だそうだ。
独裁政権下なら、出世も降格も総ては頂点の采配次第。手柄を立てても気に入らない人間はいつまで経っても階級は上がらず、また気に入った人間ならどんな無能でもどんどん出世していく。
それにうまく乗れたという意味では確かに彼は立派な成功者だ。
だが階級の割に手柄を立てていた訳ではない。部下に慕われている訳でもない。軍人という意味での成功者ではないのだ。
民主化を果たした際、独裁者を含めた何人かの将校は抵抗して投獄されたり自害したりしたそうだが、彼だけは違った。
市民側が有利と見るやすぐさま降伏し、階級を中将から少将に下げ、形式だけ「前政権に関わっていた者の一人として責任を取る」という形で生き延びたのだから。確かにかっこいいイメージは皆無だ。
それでも階級だけはその時点で最高位。結局彼が軍の頂点になってしまったのだ。
元々独裁者に気に入られて出世しただけの男である。出世の原動力だった独裁者の後ろ楯ももうない。大した実力もないのに階級を傘にきた態度を取り続け、まるで自分が独裁者になったかのごとき姿だった。
だから階級を問わず部下からの受けが非常に良くないのだ。しかしちょっとでも彼の気に触る事をすれば、たちまち厳罰に処されてしまう。上官と部下とを繋ぎ止めているのはその恐怖感のみだ。
そんな人物に着いて行かねばならなくなったこの国の全兵士に、ボーダは心から同情した。
だがそれでも軍人たる誇りは持っているだろう。軍縮と言われては我慢がならなかった筈だ。上官は気に入らなくとも軍縮には反対してその意志を示すのは理解できる。それについてボーダはそれを問うと、
「確かに軍縮には反対だ。しかしあの男が率いる軍で働き続けるのも御免だ。でもこの国は就職難で軍を辞めても仕事がない。従うしかない」
確かに民主化がなったとはいえども、この国はまだまだ不安定だ。それが安定するのはこれからだろう。
「あの男のせいで軍のイメージがどんどん下がっている。しかし上官には逆らえない。クビになったらもうおしまいだ」
大尉とは別の兵士が完全に気落ちした様子でボーダにそう言った。
たとえどんな上官であろうと兵士はその命令に従わねばならない。悲しい軍人の性である。それはボーダも身を以て体験している事だ。
だがそれに逆らって軍を辞めさせられたら収入源がなくなる。元軍人だからとて再就職できるとは限らない。むしろ軍のイメージが下がっている今、その肩書が邪魔をして仕事に就けないかもしれない。
そんな相反する気持ちがモチベーションをグンと下げたのだ。だから必要以上の交戦をせず、市民に押し切られる形に繋がっていたのだとボーダは理解した。
元々威張り散らすだけで軍人としては不真面目だったという部分もあるかもしれないが、軍縮を防ごうというスローガンを掲げただけでは軍全体の士気は上がらなかったという事だろう。
無能な者が組織の頂点に立つとロクな事がない。まさしくその言葉通りの事態を招いた事になる。
大尉の話を聞いてからボーダは話を続けた。
「キツイ言い方を承知で言わせてもらうが、そんな無能な人物を頂点に置いている君らも同罪だ。そもそも現大統領は『軍の見直し』とは言っているが『軍縮』とは一言も言っていないんだぞ」
そのボーダの一言で、兵達はもちろん周囲の市民も目を見開いて驚き、また一層ざわつき出した。
「嘘ではないよ。おそらくその少将とやらが勘違いしたか、あえて言葉をすり替えているか。元軍属の人間としても、私はこの状況を放っておきたくないんだ」
元軍属。その言葉に大尉があっと息を飲んだ。
「も、もしやあなたは、アメリカ海軍のジェローム・ボーダ提督閣下では!?」
さすがに大尉ともなると海外の軍人の文献や論文などを読む機会もあるようだ。大尉くらいはそこに載っていた彼の顔に見覚えがあったようだ。
いくら他国とはいえ提督と言えば雲の上の御仁である。予想していなかった大物の登場に、兵士はもちろん市民達の表情が完全にこわばっている。
そんな一同を見たボーダは苦笑いを浮かべると、
「昔の話だ。今ではただの爺さんだ。そんな偉いモンじゃない」
「サインは後にしてくれ」とキザったらしく返す俳優のような仕草でボーダがそう答える。
もしボーダが現役のアメリカ軍人だったのなら、いくら巻き込まれたとはいえ軍人として行動するのは他国への勝手な干渉と受け取られかねない。いくら事情が事情でも、これは国際問題に発展しかねない。
でも今のボーダは退役しているので軍人ではない。他国の軍事にあれこれ言ってもマスメディアが少々騒ぐだけで済む。素直に身分を明かしたのはそれを考えての事だ。
「確かに軍人たるもの、上官に逆らうようでは話にならん。しかし、いかなる命令でも黙って受け入れて実行するのが、果たして良い軍人と言えるかね」
提督は大尉だけでなく、その場にいる皆に訴えるように話しかけていた。
「君達は『ケイン号の叛乱』という古い映画を知っているか? 映画の中で、嵐に遭いパニックになった艦長のメチャクチャな命令を無視して、残りの者が団結して嵐を乗り切るというシーンがある」
引き合いに出したのが五〇年は昔の映画のため、若い兵士達にはピンと来なかったのだろう。首をかしげたりヒソヒソと隣の者と話したり。
だが例に上げたシーンの見当くらいはついたのだろう。兵達は黙ってボーダの次の言葉を待った。
「君達は誰に、いや、何に仕えているのだ。君達が銃を捧げその身を尽くすのは少将自身ではなく、この国のためであるべきだ。違うかね?」
軍人の使命とは、総てを賭けて国家と国民を守る事である。少なくともアメリカではそうである。
国が違えば多少は変わるかもしれないが、それが理想である事は変わらないだろう。
さすがに提督まで勤め上げた人物だけあり、その演説も堂にいったものである。
その堂々振りに、自分達の少将にない何かを感じとったのだろう。もしこれが国軍ではなく傭兵だったら、報酬次第でボーダの元につきそうな雰囲気である。
しかしあくまで彼らはこの国の正規軍。言いたい事はきちんと理解するが、それでも「命令を破る」という基本的な禁忌は侵せない。そんな葛藤がありありと伝わってきた。
「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい」
朗々とした、少々芝居がかった演説調の言葉。ジョン・F・ケネディ大統領の演説の有名な一節である。
「まさしく今がその状況ではないかね。今、君達がこの国のために何ができると思うね?」
その言葉に、軍人達はもとより、それを聞いていた市民達も無言で黙ってしまっていた。それは軍人ではなく国民にも向けた言葉である事を感じ取っていたからだ。
一塊となった兵士達は、現地語でヒソヒソと囁きあっていた。その表情は困惑あり、怒りあり、何かを達観した様子あり。
やっぱりすぐに答えは出すのは無理か。ボーダは自嘲気味に笑顔を浮かべると、
「私も元軍人だ。命令違反を奨励するつもりはないよ。だが……」
「提督閣下」
ボーダの言葉を遮って、先程の大尉が口を開いた。
「あなたの仰る通りです。しかし我々は軍人です。どんな上官であろうとも、その命令を違える事はできかねます」
きっぱりと言ったが、その表情は困惑をありありと浮かべたものだった。だが一呼吸置くと、その顔つきは覚悟を決めた兵士の顔となった。
「ですから私は、軍人である事を捨てようと思います」
大尉は手首を縛られたまま立ち上がると、自由になっている指を使って襟についた階級章を外し、足元にぽとりと落とした。
「これで私は軍人ではなく、ただの人シュリ・ラジニーシになりました。ただの人としてこの国のために何かやってみようと思います」
覚悟を決めた彼は、憑き物が落ちたような穏やかな笑顔で、ボーダに向かって頭を下げた。

<後編につづく>


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