『将校達のプッシュ・オン・アローン(下) 前編』
彼の詳しい経歴は以前共に戦っていたカリーニンもよくは知らない。
技量のレベルはそれほど高くはないものの、どこで身につけたのか傭兵に必要とされるあらゆるスキルは体得しており、仲間内では「便利なヤツ」として結構重宝されていた人物だ。
故郷バングラデシュと日本の国旗のデザインが似ているところから日本に興味を持ったと語っており、今では年に一度は日本に行って心の洗濯とばかりに貧乏旅行を楽しんでいる、自称日本通である。
そして、日本で手に入れてきた情報や品物を知り合いに配り歩いている事もあり、この辺りの住民との仲は非常に良好なのだ。その一言で暴徒と化しそうな住民を制止できるくらいには。
多くの住民達はすぐに次の行動に移りだしていた。本当に時間が惜しいと言わんばかりの素早い行動だ。
その男・ラジシャヒはカリーニンの手を下げさせてから懐かしそうに小さく笑うと、
「こんな国に観光かいオッサン」
「そうではない」
カリーニンはどこか安堵した目で見つめ返すと、
「詳細は話せないが、世話になっている人物から情報を分けてもらった。それによると、大統領夫人がお前のアパートに監禁されている可能性が高いそうだ。それを調べに行きたい。手を貸してくれるか」
淡々とした口調から飛び出した衝撃情報。ラジシャヒはもちろんの事、それを聞いていた市民も目を丸くして驚いている。
「それは確かに今すぐにでもすっ飛んで行きたいところだが……」
彼が言葉を濁したのには理由がある。
件の脅迫VTRが流れてから彼はすぐさま自宅を出た。住民と固定電話で連絡を取り合い、現在の騒動の大まかな計画を立てたのだ。
夜の一〇時に一斉蜂起し、AS操縦経験があるラジシャヒがASを占拠して暴れる。他にもAS操縦経験のある人物が他の場所で同じように蜂起。
彼はこのままASに乗って軍を威圧。市民を先導して大統領のいる官邸に向かうらしい。刻限の今夜一二時までにそういった市民達と官邸前で合流する手筈だそうだ。
人対人では犠牲者はたくさん出るだろう。しかしASという戦闘兵器が加われば戦法次第で人の犠牲はかなり抑える事ができる。ラジシャヒとてこの国に住む人間。この国の住人が犠牲になる様は避けたいという本音はある。
その事を理解したカリーニンは、
「お前の家の正確な住所と場所を教えてほしい。そしてお前はこのまま計画通りにASで市民を手助けしてやってくれ」
そして「これで美味い酒でも買って呑め」とつけ加え、さっきボーダから貰った現地通貨の紙幣をラジシャヒのシャツのポケットにねじ込んだ。
「この反乱情報が大統領夫人の監禁場所にも伝わっているだろう。時間がない」
「ラジシャヒさん。このお人と行って下さい」
二人の会話を聞いていた老人が、彼にすがるようにそう懇願する。
「この辺りは狭い道が多い。あんな大きな兵器が通れるもんか」
老人は駐機中のASを指差して苦笑いする。彼が言う通りこの辺りはいわゆる下町であり、明確な区画整理がされているとは言い難い地域だ。人一人通るのがやっとな細い道がかなり入り組んでいる。
今いる大通りを除くと、本当にそうした区画しかないのだ。
「我々が軍部の意志に反旗を翻すのも大事だが、大統領夫人の事も大事だ」
それから老人はカリーニンを見上げると、
「どこの誰かは知りませんが、あなたは信用できそうな人だ。どうか大統領夫人を助け出して下さい」
その真摯な老人の目に、古強者たるカリーニンは「応えなければならない」と真剣に思った。正義感ではなく、真剣な思いには真剣に答えるべきという簡素で力強い思いだ。
「判りました。できる限りの事をしてみます」
カリーニンはその老人の真摯さに深く頭を垂れ、二人は別れの挨拶もそこそこにジープに乗り込んだ。運転するのはラジシャヒだ。完全に壊れ無人と化したバリケード跡を悠々と通り抜けて行く。
やがて都市部の区画を完全に出たようで、道は全く鋪装されていない。進む度に車内はガタガタと激しく上下左右に揺れ動く。乗り心地は最悪だ。
そんな中でもカリーニンは情報収集を怠っていなかった。彼は先程の電話の際にかけていたCDの事を聞いてみた。
「ああ。日本のアニメのサウンドトラックだよ。劇中使用した番組オリジナルでない曲をまとめたもの、かな。あっちでは割と普通にあるんじゃないのかな」
「興味あるのか?」と気のないラジシャヒの問いかけ。どうせ興味はないだろうと判ってはいるが、社交辞令のような簡素な口調だ。
しかしカリーニンはそれには答えず質問を続ける。
「それはこの国でも普通に売られているものなのか?」
その質問にラジシャヒは大笑いすると、
「そんな訳ないだろう。ああいう物のほとんどは日本国内限定さ。それ以外の国じゃ通信販売だって難しい。日本人は英語が判らないからな。トラブルは避けたいのさ」
ガタガタ揺れるジープの中で舌を噛みそうになりながら彼は説明する。
それを聞いたカリーニンは表に出さず安堵した。
それならばますます<ダーナ>の分析に説得力が出る。日本国外ではまず出回っていないCDの曲。そんなCDを持っている人がこの国内にそうたくさんいるとも思えないからだ。
「……で、オレの部屋の隣に夫人が監禁されてるって訳か」
「可能性が高い。それだけだ。そんなCDがかかっていた以上、確実と言ってもいい確率だろうな」
「それなら制圧はあっという間さ。狭い部屋一つとキッチン。あとトイレくらいしかないからな」
ゲラゲラ笑いながらラジシャヒがそう言うが、カリーニンはそれを聞いてムスッと押し黙る。それから少し考えたように口を開く。
「だが狭いだけに跳弾や流れ弾に当たる危険が高い。人質が負傷しては意味がない」
「そうでした」
ゲラゲラ笑っていたものが一転。鋭い目をして押し黙るラジシャヒ。
「武器は?」
「一通りは部屋に」
「内部の構造は?」
「着いたら書いてやる」
カリーニンとの短いやりとり。同業者だからこそできる必要最低限のやりとりだ。
ラジシャヒは昔共に傭兵として戦っていた頃を思い出し、カリーニンは指揮官ではなく最前線での「兵士」としての日々を思い返していた。
これから困難な戦いに赴くというのに、心の中は酷く落ち着き、お互いリラックスすらしていた。
(結局は、戦いの中でしか満足な生き方ができない。そういう人種か)
二人は自然と同じ気持ちを抱き、自嘲気味にため息をついていた。


ラジシャヒは、自身が住む安アパートの少し手前にジープを停める。道が狭いのでこれ以上は車で入れないのだ。
その車中で、彼はその辺にあった紙切れとペンを使い、大雑把な部屋の様子を書き記していく。
「どこの部屋もだいたい同じような間取りだ」
そう言うと、書き終わった紙切れをカリーニンに手渡す。
それによると典型的なワンルームだった。入口脇に小さなキッチン。あとはガランとした六畳程度の広さの部屋。バスルームはないが各部屋にトイレがついている分マシな部類だろう。本当の安アパートならそれすら共同というケースが大半だ。
「やはり狭いな。人質を含めても四、五人はいないだろう」
人質が逃げ出さないように。そして万一の襲撃者に備えて兵士が絶対にいる筈だ。だがこの狭さから考えると一人か二人だろう。それ以上では人が多すぎて戦闘行動はおろか通常行動すら取れなくなるからだ。
「入口側に一人。窓側に一人って具合かな。もしかしたらもう一人いるかもしれないが」
カリーニンの意見に同調するように、当てずっぽうの意見を言うラジシャヒ。
「ここには誰か住んでいるのか?」
「元大佐だったっていうじいさんが一人いたけど、昨日急に入院しちまった」
「名前は判るか?」
「確かラジニーシ・ナントカだか、ナントカ・ラジニーシだか」
ラジニーシ元大佐。さすがのカリーニンもこの名前には聞き覚えがなかった。
間違いなくこの国の軍隊出身だろう。そんな人物の部屋を使って、将校本人出演の「脅迫ビデオ」を作っていた訳か。
しかしその前日に入院とは。何らかの意図的な物を感じなくもなかったが、それは今の自分が考える事ではない。必要なのは人質を無事に救出する事だけだ。
「サブマシンガンやライフルの出番はなさそうだ。ナイフと拳銃でいいだろう。スモークグレネードかスタングレネードを使いたいところだが……」
そこまで考えてカリーニンは言葉を濁した。
人質になっているのはお腹に赤ん坊がいるご婦人である。驚いたショックで産気づきでもしたら自分達の手に負えない。
ケガの治療や応急処置ならいくらでも心得のある二人だが、さすがに出産に関する知識はない。出来うる限り刺激は控える方向で作戦を進める事にした。
そっと車外に出ると、都市部の喧騒が嘘のように静まりかえっているのが判った。別に家に閉じ籠っているのではない。人の気配そのものが少ないのだ。
おそらく、この辺りに住んでいる住民も都市部に「意見」しに行ったのだろうか。
昨年市民が立ち上がって――暴動と化した面はあるが――政権交代と民主化をなし得たその行動力が遺憾なく発揮されたのかもしれない。
これから起こす騒動に巻き込む危険がないのは非常に有難い。カリーニンはそっとジープのドアを閉め、先を行くラジシャヒに続いた。
「着いたぜ」
ようやく目が暗闇に慣れ切った頃、ラジシャヒが一軒の古いアパートを指差した。ここが彼の今の住居なのだ。
「お前の部屋はどこにある?」
「二階の一番奥の部屋だ。だからその一つ手前の部屋にいるみたいだな」
総ての灯りが消えたアパートを見上げるラジシャヒ。カリーニンも同じように見上げるが、さすがにカーテンが閉まっていては中の様子は全く判らない。
だが向こうはどうだろう。もし見張りがカーテンの隙間からこちらを見ていたら。今立っているこの場所は完全に丸見えになってしまう位置なのである。
でも攻撃はしてこない筈だ。もしそんな事をしたら、あからさまに「ここが怪しいですよ」と言いふらすようなもの。灯りを消しているという事は「ここには誰もいない」と偽装するためなのだから。
このアパートには誰一人住人がいないというのなら話は変わってくるが、ラジシャヒを始めとして何人も住んでいる人間がいるのだ。このアパートに近づく者総てに警戒していたら、どんな屈強な人物でも数時間で参ってしまうだろう。
カリーニンの鍛えられた「勘」でも、こちらに銃口や視線が向いている気配は全くない。誰かはいるようだがそこまで判るほどではない。
別に忍び込む訳ではないのだが、何となく足音を消して中に入り、すぐ側の階段をゆっくり上っていく。
薄明かりの中で時計を見ると、夜の一一時前を差していた。タイムリミットまではあと一時間だが、さすがに都市部での暴動を知らぬ軍部ではあるまい。連絡が来ていると考えるべきだろう。
その影響か人質を連れてどこか別の場所へ行っているのでは。もしくは交渉決裂とみて人質を殺害してしまったか。嫌な予感がカリーニンの脳裏をよぎる。
しかしその葛藤も一瞬のみ。今やるべき事ではない。彼はその感情を胸の内に押し込んだ。
カチ。小さな物音と同時に、今まで真っ暗だった廊下がぼんやりと明るくなる。
一瞬身を竦ませるカリーニンだが、ラジシャヒが廊下の電気をつけたのだ。裸電球とはいえ、今までの暗闇に慣れた目には一瞬痛みを伴うような光であったが、それもすぐに慣れた。そこまで強い光ではないからだ。
ラジシャヒの部屋へ行く途中、問題のその部屋の前を通る。カリーニンは足音を消したままその扉に近づいた。そしてそっと扉に耳を押し当てる。
小さく、そして荒い、押し殺した呼吸音が聞こえる。さすがに誰の物かは判らないが、誰かがいる事は間違いなかった。
そして小声で話す声も聞こえてきた。扉越しなので会話の内容や声の種類までを聞き分けるのは困難だが、会話をしているので、最低でも二人はいる事になるだろう。
それからキン、と高い金属音の後、炎が揺らめくようなボボボという音がする。ジッポのライターで火をつけた時の音によく似ていた。
人質に手を使えるようにしている可能性は低いだろうから、おそらく見張りの兵士がタバコでも吸っているのだろう。
案の定、息を強く吐く音が聞こえて来た。見張り任務の最中に談笑やタバコなど。見張りの人間はよほどヒマを持て余しているようだ。
その態度を不真面目と、カリーニンは笑う気にはなれなかった。日中から今まで部屋の外に一歩も出ずに見張り続けているのだろう。どんな屈強な人間でも集中力を持続させ続けるのは困難を極める。
大事なのは不測の事態になった時、またはなりそうだと予感した時に、集中力を緊張した状態に素早く戻せるかだ。
そっと戻って来たラジシャヒが、カリーニンの肩をそっとつつく。
(中の様子はどうだ)
彼は部屋から持って来たアメリカ製のアーミー・ナイフをカリーニンに手渡し、小声で訊ねる。
(中には最低三人いる。そのうち一人は人質だろう)
カリーニンは刃の様子を眺めながらそう答えると、日本の忍者よろしく刃の部分を軽くくわえ、懐から拳銃を取り出す。音をなるべく立てないようにして残弾を確認すると、
(室内の人の配置が判ればなおいいのだが、それを求めるのは贅沢か)
(違いない。間違えない様に気をつけるしかないな)
ラジシャヒが苦笑しながらそう答えると、ドアの側の辺りの壁を指差しながら、
(部屋の電気は入口すぐ脇にある。突入と同時に灯りをつけて、相手の目が慣れる前にしとめる。それでいこう)
普通は灯りを消して暗闇にしてから急襲するパターンが多い。ほとんどの人間は光の中より闇の中の方が格段に動きづらいからだ。急に暗くなればなおさらだ。
しかし、始めから相手が灯りを消していては逆にするしかない。ラジシャヒが廊下の灯りをつけたのはそれが狙いだ。
だが人間の目は闇に慣れるよりも光に慣れる方が若干早い。時間的な猶予などほとんどないだろう。まさしく風のように素早く仕留めなければ乱闘になるか人質を取られるか。どちらにせよこちらが圧倒的に不利になる。
(じゃあ行くぜ)
ラジシャヒはそう言うと、ドアの上にある小さなブレーカーに向かって背伸びをし、腕を伸ばす。その腕を引っ込めた時、彼の手の中にあったのは古ぼけたシンプルな鍵だ。
(あのじいさんはここに鍵を隠してんだ。いつもジャンプして取ってたよ)
イタズラ小僧のようにクスクス笑うラジシャヒは、取っ手を握ると鍵を静かに差し込んでくるりと回した。
開錠するガチャッという音が、静まり返った周囲に思ったよりも大きく響いた。
もしや相手に気づかれたか。一瞬二人の顔が険しくなるが、扉に耳を当てていたカリーニンがそれはないと判断する。部屋の中から緊張感や殺気といったものが全く伝わってこないからだ。
一瞬拍子抜けのような感情が沸き上がるが、威張る事だけに長けてしまった軍隊など所詮こんなものかとも思う。傲慢というにはあまりに幼いが。
突入しやすいようにカリーニンがラジシャヒの後ろにピタリとついた。
(すぐ側にも廊下の灯りのスイッチがある。合図したら消してくれ)
言われたカリーニンがすぐ脇の壁を確認すると、確かにそれらしきスイッチがある。そのスイッチにそっと指をかけた。
(いいぜ)
カリーニンが間髪入れずにスイッチを消す。廊下は再び真っ暗になった。これならいきなり開けてもドアの隙間から光が差し込まないので、気づかれる危険が減る。
同時にラジシャヒは手が入るだけの隙間分だけそっとドアを開け、指先だけでスイッチを探り当てる。
(行くぜ!)
その小声で同時に彼は部屋のスイッチを入れて灯りをつける。直後にドアを派手に大きく開け、姿勢を低くして部屋の中に突入を果たす。無論カリーニンもその後に続いた。
カリーニンは一瞬で前方総てに視線を走らせて部屋の中を観察する。
部屋の中は典型的な安アパートの一室だった。どこもが古く、また薄汚れており、小さなタンスと古いベッドが一つあるきりだ。そんな室内を照らす灯りもむき出しの蛍光灯が一組。
そんな室内のベッドに腰かけた兵士が一人。ライフルを抱えるようにして床に座り込んでいた兵士が一人。壁に寄りかかったままタバコの灰を今にも床に落とそうとしていた兵士が一人。人質の姿はない。
蛍光灯の灯りというのは意外と強い。特に、今まで闇の中にいた人間には鋭い痛みを伴う明るさに感じられるのだ。だからだろう。その誰もが眩しさに視線を逸らし、こちらに対する備えが全くできていなかったのだ。
もしカーテンを開けていたのなら、まだ月明かりが入ってくる分光に慣れるのが早まっただろうが、策が裏目に出たようだ。
一方こちらも暗闇にいたとはいえほんの数秒。まだ明かりに慣れた目である。動くのに支障は全くない。
ラジシャヒは一番入口近くにいたタバコを吸っていた兵士に踊りかかっている。カリーニンは対処のしやすさからベッドに腰かけていた兵士に飛びかかった。
構えらしい構えがない、だがとても素早く、突入に来たとは思えぬリラックスさすら感じる動きで兵士に迫る。
その兵士は全く無抵抗のままカリーニンが伸ばした腕にからめ取られ、あっという間にベッドに顔を押しつけられ、右腕を肩ごと捻り上げられる。
ごぎりという嫌な音がして肩の関節が外された。途端上がるものすごい悲鳴。窒息させるような勢いで顔を押しつけて悲鳴を押し殺させると、すかさず首筋に手刀を叩き込む。それだけでその兵士は沈黙した。
突入してからそこまでで五秒ほど。その間にラジシャヒもタバコを吸っていた兵士の顎に拳を叩きつけて昏倒させており、残る兵士は一瞬であと一人となってしまった。
床に座っていた兵士はようやく目が光に慣れた頃なのだろう。侵入者があった事に反応してライフルを構えて立ち上がろうとしていた。
だがカリーニンは容赦せず、立ち上がりかけたその脚めがけて、自分の足を踏みつけるように振り下ろした。
これもそれほど力一杯叩きつけた訳ではないが、兵士の臑は関節ではない場所から綺麗に折れ曲がっていた。
人間の脚はその細さの割に真横からの衝撃にはそこそこ強いが、斜めからの衝撃には酷く脆い。カリーニンはそれを淡々と実行に移したのだ。それも両脚に。
どんな屈強な兵士でも、両脚の骨を折られて平然とはしていられない。威張る事しかできない者ならなおさらだろう。たちまち悲鳴を上げてライフルを放り出す。
そこまでしてもカリーニンは追撃の手を緩めなかった。彼は床に倒れそうになったライフルを無造作に掴むと、その銃床を兵士の腹部に力一杯叩き込み、間髪入れずに横っ顔を張り倒した。
そうして兵士をうつ伏せに転げ倒すとライフルを放り出し、さっき受け取ったアーミー・ナイフを逆手に持って馬乗りになり、迷う事なくナイフの刃を刀身の半分ほどその首筋に突き立てる。
「ひっ……」
情けない声を上げる兵士。そこまでしてからようやくカリーニンはゆっくりと動きを止めた。それでも馬乗りのまま体重は目一杯相手にかけたままだ。
そのあまりの手際のよさに、同業者のラジシャヒも「容赦がないな」と半ば呆気に取られており、
「見事なもんだ。今のが話に聞く『システマ』ってヤツなのか?」
「そんなところだ」
何でもない事のように感情を交えない返答をよこすカリーニン。
システマとは、あらゆる局面での戦闘、特に白兵戦における攻防技術に長けた戦闘術だ。目立った必殺技などはないが、人体の仕組みや体さばきを利用した柔らかい動作を特徴としている。
ソ連の特殊部隊・スペツナズが編み出したとされるものであり、そこに在籍していたカリーニンが使えない訳はないのだ。
「動かない方がいい。気道や神経、頸動脈といった気管は一応避けて刺したつもりだ」
カリーニンの口調は、この状況と話している内容からは信じられないほど穏やかだった。まるで出来の悪い生徒に優しく諭す教師のような響きがある。
いくらその兵士が威張る事しかできなくとも、一応は軍隊で教育を受けている。現在の状況が、彼の言った内容が何を意味するのかは判っていた。
「下手に動いてこの刃がそのうちのどれかを傷つければ、君は間違いなく死ぬ。仮に死ななくとも身体に障害が残り、寝たきりの一生を余儀なくされるやもしれん」
相手を労っているようで、何の感情も交えていない事が丸判りの声。この状況ではそれがとても寒々しく、相手の心を冷たい手で鷲掴みにしているかのようだった。
まるで、しっかりと鷲掴みにしたのを確認するかのように間を空けたカリーニンは、やがてゆっくりとこう訊ねた。
「君に聞きたい事がある。先ほど公開された脅迫VTRがあるのだが、その中で大統領夫人の腹部を銃床で殴りつけたのは、君に間違いないね?」
「そ、それがどうかし……ひいっ!?」
首筋にナイフを刺したまま、カリーニンに頭を持ち上げられ必死でうめき声を上げる。下手に動けば命がない。なのに動かされては必死にもなろう。
「間違いないね」
「は、は、はい、じぶんが、やりました」
その声は完全に震えており、心は完全に恐怖に支配されていた。今ならどんなメチャクチャな命令を下しても間髪入れずに「イエス・サー」と言いそうなほどに。
だがカリーニンはそんな彼の状況など気にも止めないように穏やかな口調のまま、
「大統領夫人はこの部屋に監禁されている。違うかな」
「そ、そうだ。いや、そうです」
「今はどこにいる?」
「そ、そこの、トイレの、中に……」
その兵士はうつ伏せにされたまま、ビクビクと震える右腕を懸命に伸ばしてトイレのドアを指差した。
その考えは確かに賢いかもしれない。カリーニンは淡々とそう思った。
二階にあるトイレなら間違いなく水洗式だ。しかも内部は通気孔程度の隙間しかない。これでは壁を破壊しない限りドア以外からの脱出は不可能。見張りの労力はぐっと少なくなる。
それを聞いたラジシャヒはそっとトイレに近づいた。ドアノブを捻る。鍵はかかっていない。
ドアを開けると、口に布を押し込まれて胴にロープをぐるぐる巻かれた女性が一人、便座に座らされていた。
ラジシャヒは急いで押し込まれた布を取り外し、持っていたナイフでロープを切ってやる。それから彼女の手を取ってトイレから出てきた。
口を塞がれていた事と水洗式とはいえロクな掃除もされていないトイレの悪臭に辟易していた筈だ。そのせいもあってか彼女の顔色は真っ青だ。何度も何度も息をついて落ち着こうとしている。
だが、見張りの兵士三人がいとも容易くノされている現場をまじまじと見回し、心底驚いている。
「あなた達は……?」
しかし彼女は解放された喜びよりも、助けに来た二人の方に強い疑問を覚えた。
外出しようとした際、いきなりSPによって車に押し込められ、目隠しをされたまま拘束。そのまま車でここまで運ばれ、あとは部屋の中で監禁。
SPまで手を貸した誘拐劇なのだ。ロクな目撃者もいなかった筈。にもかかわらず、さらわれて半日で自分の居場所をつきとめ、なおかつ自分はこうして救出されている。
こんな短時間で解決してしまった手腕を持つ人物がこの国にいるとは思えなかったからだ。
「あなたを助けに来た者。それだけでは信用に値しないでしょうが、どうか信用して下さいませ」
ラジシャヒは少々演技過剰に片膝をつくと、深く頭を垂れてそう告げた。
「総ては彼のCDのおかげです。感謝はそちらに」
カリーニンは夫人に一見意味不明の言葉をかける。そこで彼は始めて兵士の拘束の手を緩めた。それから兵士の耳元で、
「うまくこのナイフを引き抜けば、少々出血が多い程度で助かるだろう。すぐ医者に診せる事だな」
「こ、この辺に医者なんかねーよ。ちゃんと喋ったろ? 早く助けてくれ。助けて下さい。お願いします!」
カリーニンが離れても、両脚が折られている上に下手に動くと死ぬと脅されたため、うつ伏せのまま泣いて懇願する兵士。
「ならば救援を呼ぶ事だ。その間に我々は大統領夫人を連れて行くが」
「そんなもんねぇよ。全部終わったら迎えが来る事になってたんだ」
それはないだろう、とカリーニンは思った。もし政権交代がなった暁には、口封じに殺されるか濡れ衣を着せて投獄されるかのどちらかだろう。
人質がいるというこの重要拠点に緊急連絡用の無線機一つない事がそれを如実に語っている。この場所が絶対に見つからないとタカをくくり過ぎていたのかもしれないが、それにしても杜撰だ。
その時だ。いきなり大統領夫人がお腹を押さえてうめき声を上げたのだ。
顔色はさっき以上に血の気が引いた青い顔であり、顔をしかめて痛みを堪えているような感じだ。
「オッサンまずい。こりゃ多分出産だ!」
二人が怖れていた事が、このタイミングで起きてしまった。

<中編につづく>


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