『将校達のプッシュ・オン・アローン(上) 中編』
空港が閉鎖されている。
そんなカリーニンの耳を疑う知らせに、テッサの頭が一瞬パニックを起こしてしまう。内容とロシア語の両方の意味でだ。
テッサもロシア語は問題なく読み書き会話が可能だ。理解はできる。普段使う事はないので少々発音は怪しいが。
普段基地の中では皆英語を使っている。カリーニンもそうだ。しかしいきなりロシア語で話されてはさすがのテッサも慌ててしまうのは仕方ないと言えるだろう。
だがそれだけに「何かある」と察したテッサは、懸命に頭の中をロシア語に切り替えると、
「どウいう事ですクぁ、それわ?」
ああ、やっぱり微妙な発音は厳しいか。テッサは目を閉じて顔をしかめる。しかしカリーニンはそれには全く触れずに、
『照明器具の急な故障で夜間の便が総てキャンセルになったとアナウンスされたのですが、予備も含めて総て一斉に故障というのは不自然です』
確かに正規・予備共に一斉に故障というのは明らかに不自然だ。万が一に備えて「予備」があるのだから。何だろうと怪しむには充分すぎる状況だ。
『それに、完全武装の兵士を空港内で見かけました。それも何十人も。ゲートに張りついて誰も通さないつもりのようです』
淡々とした彼の言葉に、眉をひそめているテッサ。一体何が起こっているのだろうか。
『おまけに、先程別件の電話があったのですが、会話の途中で兵士に咎められ、切らされました』
「咎メラれた!?」
思わずテッサが声を上げてしまう。電話を切らされるなどよっぽどの事だからだ。
『何かが起こりつつあるのかもしれません。おまけにこの辺りは携帯電話が圏外になって繋がらなくなっています。そちらもどうかご注意下さい』
その時電話の向こうで「何をしている!」と大声が聞こえた。きっとこの電話をその兵士に咎められたのだろう。
『済みません。また連絡しま』
話の途中で電話が切れた。いや。切らされたと考える方が正しいだろう。
テッサもゆっくりと電話を切って、その場に棒立ちになった。三つ編みの先を口元に押し当ててしばし考え込む。
英語ではなくロシア語での電話。それは少しでも会話の内容を聞かれまいとしての事だろう。それは容易に判る。
正規・予備を含めた空港照明の一斉故障。電話をかける事すら咎める完全武装の兵士の登場。そして空港なのに携帯電話が圏外になっている。でもこのホテル内は大丈夫。
これだけでは「何かヤバそうだ」という事以外何も判らない。
だが空港が閉鎖されてしまったのはまずい。このままでは基地に帰る事ができなくなってしまう。
「おじさま……おじさま?」
ふとテッサが我に返ると、傍らのボーダの姿がなくなっている。どこへ行ったのかとキョロキョロしていると、彼の後ろ姿をホテルのカウンターで発見した。
「何をしているんですか、おじさま?」
ホテルマンとのやりとりが終わるのを待って、テッサがボーダに声をかける。するとボーダは乾いた笑いを浮かべると、
「今日はここに泊まらざるを得ないようだ。何でも凶悪犯が町で暴れているらしい」
そう言ってボーダはホテルの入口を指差す。そこには完全武装の兵士が張りついていた。各入口に二人ずつ。それも建物内部に。その違和感に気づかぬ程テッサは鈍くない。
もし本当に町に凶悪犯が出たのなら、その凶悪犯を建物内部に入れないよう兵士は外に配置する筈だ。それに犯罪行為で警察ではなく真っ先に軍が出動するのは不自然極まりない。もう軍部の独裁政権下ではないのだから。
当然不思議に思った他の客が兵士に食ってかかっているが、兵士はかなり威圧的に「黙ってこの中にいろ」と言うばかり。これでは埒があかない。
ボーダもその不自然さは読み取ったらしいが、無駄に争うつもりはないようだ。
「行こうテレサ。部屋で対策を練ろう」
ボーダの小声での提案に、テッサは無言でうなづいた。その顔は既に<ミスリル>大佐のものだった。


適当な安い部屋――高級ホテルなのでそれでもそれなりの部屋に入った二人は、素早く窓のカーテンを閉め、灯りをやや暗めにつける。灯りを煌々とさせていては外から人がいるのが丸見えになってしまうからだ。警戒をしておくに越した事はない。
ボーダが時間稼ぎの為に適当なチェストをドアの前に引きずっている間、テッサはバッグの中から携帯端末と衛星回線を使う通信機を取り出していた。当然<ミスリル>に連絡を取るためである。
盗聴の危険がない訳ではないが、通信内容は強力な暗号をかけて変換されており、専用端末以外で受信をしたら訳の判らない言語にしか聞こえないだろう。
幸いにして電波妨害などはなく、通信機はすぐに繋がった。相手は<ミスリル>作戦部の本部だ。
『はい』
「こちら<トゥアハー・デ・ダナン>のテレサ・テスタロッサ大佐です」
そう名乗ると、無言だが相手の態度が幾分硬化したように見受けられた。テッサはそれに構わず現状を報告していく。
基本的に<ミスリル>は警察機構と同じである。何か事件が起きてから、もしくは依頼があってからでなければ動く事はできないのだ。
だが情報を集める事はできる。通信衛星はもちろん、テッサが指揮する戦隊が所持する強襲揚陸潜水艦のAI<ダーナ>は、世界各国のあらゆるコンピュータ・システムに侵入する事ができるからだ。
普段は<ミスリル>に関する情報を操作・消去してその秘匿性を高めるために使われるが、各国の情報収集に使う事ももちろん可能だ。
でもこれは立派な犯罪行為。どんな大義名分があろうとも、だ。そのため<ミスリル>作戦部長の許可がなければできない事になっている。
しかし。幸いにしてこの場にその「作戦部長」たるボーダがいる。その許可は三秒で下りた。早速通信衛星や<ダーナ>がこの国の情報を片っ端から集めている事だろう。
それ以上に問題なのは、ここからどうやって脱出をするか、である。
本来ならテッサの根城とも言えるメリダ島に連絡を取り、迎えに来てもらうのが最も確実だ。この国には<ミスリル>諸活動の拠点がまだないのだから。
だが基地にあるヘリコプターではここへ到着する前に燃料切れになる。かといってわざわざ強襲揚陸潜水艦を持って来させるのは、こんな事態とはいえさすがに公私混同が過ぎるし、コストも時間もバカにならない。
来る時に使った輸送機ならノンストップで来られるが、さすがに町中には着地できない。現在閉鎖されている空港まで行かねばならないのだ。
この町のどこかにいるカリーニンと連絡を取って合流し、何十人もの完全武装の兵士を相手どり、やってきた輸送機に乗って空港を脱出。
そんなハリウッドのB級アクション映画みたいな真似は――無茶が過ぎるというものだ。ボーダはともかくテッサの生身での戦闘能力は皆無と言っていいのだ。この時ほど自分の運動オンチを恨んだ事はない。
こればかりは天才と謳われているテッサも、百戦錬磨の強者たるボーダにもすぐに思いつく事ではなかった。なので、思いついたら連絡を取る、という事にして、一旦通信を切った。
「済まないな、テレサ。とんだ休暇になってしまったようだ」
ベッドの端にドカッと座り込んだボーダが、沈んだ表情でテッサに謝る。この国に来るように言った本人だけに、自分が悪い訳ではないが、責任は感じているようだ。
テッサはまるで彼の母のように「気にしないで」と言いたそうに微笑むと、
「構いません。いつもの事ですから」
こんな「非常事態」を気を使っていつもの事と笑って済ませるテッサを見て、ボーダは亡きカールに向かって「済まない」と心から謝罪する。
テッサもそんなボーダの心境を理解し、失言だったと押し黙ってしまった。
そんな沈んだ空気を何とかしようと思い、ボーダはわざとらしく明るく「とりあえずテレビでも見るか」と、高級ホテルらしからぬ型遅れのブラウン管テレビのスイッチを入れた。
相当型遅れのテレビらしく、映像がすぐに出てこない。だが、その間にも小さく漏れてくる音声から察するに、ニュース番組らしかった。
ところが。喋っていたアナウンサーがいきなり悲鳴を上げた。バタバタという足音がし、スタッフらしい人間の怒号や悲鳴。機材やセットが倒れたり壊れる音がする。
型遅れのぼやけていた映像がだんだんハッキリしてくる。その映像を見たボーダ、そしてテッサは息を飲み込まんばかりに驚いた。
『……我々は軍部の人間である。軍縮を宣言する大統領に物申したい事がある』
両脇にライフルで武装した兵士を従え、将校服の人間が静かにそう宣言したのだ。


それはテレビのスタジオではなく、どこか別の場所だった。映像の感じからするとテレビカメラではない。市販のビデオカメラで撮影された映像を流しているのだろう。
だが背景に大きな白い布がかけられているので、場所の特定ができない。部屋の外かららしい車のエンジン音が少し聞こえるくらいだ。部屋の明るさから察するに、これが撮影されたのは日中であろう。
『我々の要求は非常に単純明快だ。大統領は今すぐ軍縮を撤回し、その愚かしい選択の責を取って辞任せよ。これだけだ』
将校服の人間は、無感情だがキッパリとそう言った。その態度は無駄に偉そうに胸を張ったものだ。威風堂々と言うにはかなり卑屈な印象がある。
確かに軍部からすれば軍縮は民間会社のリストラにも等しい行為。いくら軍事国家から文化国家へ転身する方針でも、容易に受け入れられるものではないだろう。
先の大統領との会話ではほとんど触れていなかったが、何とか折り合いをつけようと懸命だった事は各種メディアで報道されている。
それがどうしても受け入れられなかったか。はたまた自身に有利な条件を通すための過激な実力行使か。
「まるでクーデターだわ」
テッサが重苦しい声で呟く。その視線は冷ややかで、画面をじっと睨みつけている。
「これは明らかにやり過ぎだわ。軍部に反感を持つ民衆も黙ってない。一年前に逆戻りさせるつもり?」
映像越しではあったが町中で軍と市民が衝突し、けが人や死人が多数出ていた光景が脳裏に蘇る。
「国家に限らず権力とはそんなものだ。一度手にしたら易々と手放せるものではない」
ボーダのその淡々とした物言いは、権力を手にした事がある男の、一種の達観さを言葉以上に感じさせた。
しかし、その続きにはさすがのボーダも一瞬顔を曇らせた。
『この要求が受け入れられない場合、残酷な手段も辞さない。ここにいる大統領夫人とその子供は死ぬ事になるだろう』
カメラが真横にすっと動いてアングルが変わる。ここにも白い布が背後に張られており、これまた場所の特定作業は不可能である。
その映像に、テッサの顔から完全に血の気が引いていた。
映っていたのはほっそりとした三〇代半ばの女性ただ一人だった。口には声を出せないよう布切れを詰め込まれ、椅子に座らされている。胸の下辺りにロープがグルグルと巻かれて、完全に拘束されてしまっていた。
彼女の顔から血の気が引いたのはそれが理由ではない。問題は彼女の腹部だ。細い顔や手足とはアンバランスなくらい大きく膨らんでいる。そう。彼女は妊娠しているのだ。大きさから察するにいつ生まれてもおかしくない程に。
そんな彼女を兵士の誰かがライフルの銃床で殴りつけたのだ。それも膨らんだ腹部を。一応手加減されたものだが、夫人は目を見開いてくぐもった叫び声を上げる。
「なんて事……」
テッサは全身を流れる血液が一気に沸騰し、逆流して駆け巡っているような感覚を味わっていた。じっとりと汗で湿った掌を服で拭き、奥歯をギリッと噛みしめていた。
おそらくこの映像を見せられているであろう大統領の気持ちを思うと、まさしくはらわたが煮えくり返るようである。
もし今彼女がその場にいたら。そして大佐という階級に相応しい戦闘技量があったら。迷う事なくその場の兵士や将校を皆殺しにしているだろう。それも見せしめるかのような残忍な方法で。
死ににくく、かつ痛みを感じやすいところに一発一発銃弾を撃ち込み、幾度もナイフを突き立てる。場合によっては歯や指の一、二本もへし折ってやるのもいい。泣いて命乞いをしながら呻いて苦しみのたうつ様を足蹴にしながら見下ろしてやる。緩慢だが確実に迫る死と恐怖の足音をじっくりと聞かせてやる。
「テレサ」
ボーダの感情を押し殺した声で、テッサは我に帰った。そして激しい自己嫌悪に陥る。
純粋な怒りとは全く異なる、ドロドロとした「暗黒面」と表現するようなどす黒い感情と殺意に、今自分は明らかに支配されていたのだ。
「それが悪い事とは言わん。こうしたやり口に無関心になるよりはマシだろう。決して誉められる事ではないがな」
彼が感情を押し殺しているのは、怒りや理不尽さを感じているからだ。そしてそれを表に出せない状況である事も。提督として上官として、部下の前で感情的になってはいけない事を知っているからだ。それが軍隊なのだ。
『返答は今夜一二時まで待つ。それまで都市部ヘの出入りを禁止する。都市内部の外出も同様だ。これを破った者は誰であっても射殺すると思え。以上だ』
放送されていたVTRがブツンと切れる。しばらく画面は真っ暗のままだったが、映像が回復すると「しばらくお待ち下さい」という簡素な文のみが浮かぶ静止画が映し出された。
無表情のままボーダがテレビのスイッチを切ると、振り返ってテッサに訊ねた。
「どうしたものかな、テレサ」
そんな他人事のように聞かれても困る。テッサは声に出さないが素直にそう思った。
もちろんこんな事態を放っておきたくない。本当ならすぐにでも部下達に出撃命令を下したいくらいだ。だが自分単独ではその権限がない。
仮に今すぐ出撃命令が出たとしても、テッサ率いる<トゥアハー・デ・ダナン>戦隊の充分な戦力を強襲揚陸潜水艦に搭載してこの国に到着するのには最速でも二日はかかる。基地から約五〇〇〇キロ離れているのだ。潜水艦ではどう急いでもそのくらいかかってしまう。
少人数なら半日かからずに到着させられるが、一国の軍隊を相手にするにはさすがに力不足だ。それまでにどれだけの被害が出るか。
その間に現政権が倒されて軍部が再び国を掌握する事態にならないとも限らない。むしろその公算が大きいだろう。
かつての軍部主体の独裁政権が倒されたのは現大統領達市民運動家の力はもちろん、反政府軍や市民側についた正規軍の力――どこからか供与されたらしい全長八メートルの人型兵器アーム・スレイブがあったからである。
この人型兵器にかかれば、対人間との戦闘なら何百人が相手でも互角に戦えるだろう。その戦力差は計りしれない。
だが今回はどうだろう。反政府軍はもういないのだ。これでは間違いなく市民側に勝ち目はない。本当に一年前の独裁政権体制に逆戻りしてしまうだろう。
考えようとした時に、テッサの携帯電話が再び鳴った。ディスプレイには「PAY PHONE」の表記。この戒厳令下といってもいい状態で電話が通じる事が一種疑問に感じられたが、彼女は素早く電話に出る。
『大佐殿、ご無事ですか』
電話から聞こえてきた、カリーニンの淡々とした声。だがそれがどんなに頼もしく聞こえた事か。テッサはそれがロシア語である事も忘れ、思わず英語で、
「今どこにいますか?」
『空港を抜け出して、先程のホテルへ戻るところです。やはりこの辺りも携帯電話は圏外になっています』
彼の言い方に焦りも気負いもない。本当にいつも通りだ。まるで散歩の途中でこれから帰るよ、という感じの気楽さである。先程の映像が本当なら、見つかり次第射殺されてしまうのに。
それでもテッサは先程のVTRの事を手短かに話し、自分が今そのホテルにいる事と部屋番号を伝える。
『了解しました。あと一五分で到着します。ご忠告感謝します』
逆にテッサが心配になりそうなくらい冷静な言葉。こうした場数を多く踏んでいるカリーニンらしいと言えばそれまでだが。
「まぁ少佐はこの事あるを予想していた節があるな」
電話が切れると、ボーダはどこか感心したようにぽかんとしてそう言う。
「ホテルに入った時、私服で警備をしていた軍人達の様子がおかしかったと言っていた。何か大きな事を企んでいるのを隠している。そんな印象だったと」
なんと。そこまで見抜いていたとは。歴戦の兵士は魔法や超能力としか思えない「感覚」を持っているという話は聞くが。そこまで的確に見抜けるものなのだろうか。
彼が先程テッサの元を離れたのは、一人でこれを調べるためだったのだろう。「思い出の中に余所者は不要」などと洒落た言葉にまんまと騙されてしまった。
色々な意味で一〇代の小娘である事を痛感したテッサだった。


それからきっかり一五分が経った時、部屋のドアが小さくノックされた。立ち上がろうとしたテッサを無言で押し止めたボーダが足音を消して入口に向かう。
気休め程度の時間稼ぎに置いたチェストに手をついて身を乗り出すようにして、ドア・スコープを覗き込む。
そこには魚眼レンズでぐにゃりと歪んだ、生真面目なカリーニンの顔が見えた。他には誰もいないようである。
ボーダは再びガタガタとチェストを動かし、それからドアを開けてカリーニンを迎え入れた。
「ご苦労だった、少佐」
「いえ。大した苦労はありません」
確かに、過去ソ連の特殊部隊にいたカリーニンならば、この程度の包囲網を単独で切り抜けてホテルに侵入するのはお手のものだろう。
まんまと騙されていたテッサはカリーニンの顔を見て一瞬ムッとした表情を向けるが、すぐに指揮官の顔に戻ると、
「状況の報告を」
手短かにそう告げ、自分は携帯端末に向かい合った。AI<ダーナ>が入手した情報を彼女の端末に送ってきたからだ。
「まず。この国の軍隊は、クーデターを画策しています。軍縮の撤回と大統領の辞任を要求しています」
先程のVTRの内容を簡略化した内容である。どこかで見てきたのだろうか。
「さらに大統領夫人と生まれてくる子供を人質に取ったようですが、現在は都市部で外出禁止令が発令されました。市街地で市民への発砲もあったようです。この町の住人も人質とみなした方がいいでしょう」
他人事のような淡々とした報告。冷徹なまでに感情を殺さねばならない事が判っていながら、テッサは小さないら立ちを感じていた。
カリーニンは昔、医療事故で妻を亡くしている。それも妊娠中の我が子と共に。
今回は事故ではないが、大統領夫人もお腹の子供と共に死んでしまうかもしれない。それには何も感じていないのかと、問いたい気持ちで一杯だった。
続くカリーニンの話を聞きながら、テッサは<ダーナ>から送られてきた情報を読み、頭の中で整理していく。
さっき彼から報告があった通り、空港は総ての照明施設の「故障」により、夜間の発着便総てがキャンセルとなっている。
先程のVTRはインターネットでも配信されたようであり、動画投稿サイトでは早速夫人の非人道的な扱いに対するコメントが山のように付いていた。
周辺はもちろん先進各国もこのクーデター騒ぎは遺憾とコメントしており、特に周辺諸国のタカ派政治家は武力介入も辞さない勢いだという。
物資的にも観光的にも、大して恵まれていないこの国を「支配」して何が面白いのだ。情報の海を仕分けるテッサはその思考の冷淡さに気づいてもいなかった。
「有難う少佐。では、君はどうするのが最良と判断する?」
報告を黙って聞いていたボーダが、不意にカリーニンに問いかけた。最良と言ったが世の中にそんなものはありはしない。
良いところもあるが悪いところもある。そんな選択肢の中からたった一つだけ苦渋の選択をするしかないのだ。
カリーニンは一見何の迷いもせずにサラリと答えた。
「我々がこの国から逃げ出すのであれば話は簡単です。適当な軍の車両を奪うか買収して、それで国外に脱出すればいい」
「簡単に言ってくれるな、君は」
「簡単です。この国の軍隊は、永き独裁政権の為に酷く弱体化しています。弱き者に威張り散らす事には慣れていても、目の前の敵に立ち向かえる強さは持っていない。技術的にも精神的にもです」
実際カリーニンは遭遇した完全武装の兵士を素手で「無力化」したり、ドル紙幣を渡して買収したりして、ここまでいともたやすく辿り着いていたのだ。これでは確かに特殊部隊経験者の彼から見れば「技術的にも精神的にも未熟」と言い切られてもやむを得まい。
「あるいは何もせず傍観するという手段もあります」
「傍観?」
「はい、大佐殿。この一件は我々とは無関係です。やり過ごして事態が終結すれば、大手を振って無傷で帰投可能です」
トゲのあるテッサの言葉に、カリーニンは感情を交えず答える。「やはり反対されるだろうな」と思いはしたが。
それから少し間を取るように口をつぐんでから、
「従って、荒っぽくいくのであれば脱出。気長にいくのなら傍観が最良と思われます」
どちらにせよ、この出来事には関わらない。カリーニンはそう言っているのだ。
別に彼が臆病という訳ではない。いつでも慎重で、避けられる危険は必ず避ける。戦闘や危険を最小限に抑えた策を取る。それがカリーニンのやり方だ。
何もせずに脱出する事に反対している風なテッサを慰めるように、彼の言葉は続いた。
「仮に、もしこの事態に立ち向かうのであれば、大統領夫人を救出する事くらいしかできないでしょう。たった三人ではどんな武装があったとしても、一国の軍隊を相手にする事はできません」
三人といっても、まともに拳銃すら撃った事がないテッサがいるのだ。実質二人ではいかに弱体化しているとはいえ一国の軍隊に立ち向かえるとは思っていない。そんな事ができるのはフィクションの世界だけだ。
「そして本気で国軍を相手にするのならば、ASを中心とした二個中隊が最低でも必要でしょう。C−17輸送機ならばメリダ島から六時間ほどで到着します」
それはテッサも考えた。しかしそれではタイムリミットの今夜一二時には間に合わない。
<ミスリル>のASは他国のASとは違い、電磁迷彩システムによる完全な透明化を実現している。うまく使えばそれだけの戦力でも一国の軍隊を相手に互角以上に戦い抜けるだろう。
それに二個中隊はあくまでも「最低」人数。それでは思いがけない事態になった場合の対応が難しい。そして実戦ではその「思いがけない事態」の方が当たり前によく起こる。
だからといって部下に「どうせそうなるから知らん。勝手に戦え」と命令を出すのはナンセンスだ。思いがけない事態を極力無くすような作戦を立てるのが司令官たる者の務めだ。
逃げるにしろ戦うにしろ、どんな作戦を立てるべきか。
そう考えたテッサはちらりとボーダを見た。この中では彼が一番の高官だ。<ミスリル>が軍隊の体裁を取っている以上、彼が命令を下すのが最も自然な形になる。
その彼が下した決断とは、
「そうだな。大統領夫人の救出をしてみるか」
眉間に皺を寄せて困った顔をしたものの、彼はキッパリとそう言った。
「あんな映像を見せられて放っておけないという正義感もあるのだが……」
テッサの方を見て前以上に困った顔になるボーダは、何やら言いにくそうに黙り込んだ後、
「この国には<ミスリル>の拠点がまだない。ここで恩を売っておいてそうした交渉をやりやすくするのも、組織にとっては必要だからな」
まだまだ交渉や駆け引きというものをよく知らないテッサは若干のショックを隠し切れなかったが、自分達は正規軍ではない。いわば傭兵部隊である。いくら何でも無報酬で動く事はあり得ない。その報酬が金銭か否かという違いである。
「自分にはそうした政治的判断力はありませんが、そうした方策も有効でしょう」
終始控えめな態度のカリーニンである。
「でもおじさま。救出といってもどこにいるのかが判らなければ……」
「そうだな。だが手がかりがない訳ではない」
サラッとしたボーダの言葉に、テッサはハッとなった。
さっきの脅迫VTRの映像を<ダーナ>に分析させればいい。人間の目や耳では判らない情報が、その映像には隠されているかもしれない。
テッサは端末を経由して<ダーナ>と連絡を取り、先程のVTRを徹底検証するよう命じた。
何か――ほんのわずかでもいい。場所を特定する情報や手がかりが入っていればいいのだが。テッサは祈るようにしてAIの分析を待っていた。
それほど長いVTRではなかったからだろう。三〇分経たずに分析は完了した。その時間を一日千秋の思いで待っていたテッサは、その結果が表示されたウィンドウを必死になってスクロールさせていた。
このデータが作られたのは今日の現地時間一五四九時。加工を終えたのが現地時間一七四三時。そしてその加工をしたのは日本製のデジタルビデオカメラに付属する動画編集ソフト。きっと映像を撮ったのもそのデジタルビデオカメラだろう。それを行ったパソコンのOSはWINDOWS 98。
そんな情報の羅列を表示するウィンドウを、一行一行食い入るように見ていくテッサ。
何かないのか。何かないのか。その一心で目を走らせるテッサ。
だが、天は彼女達に味方したようだ。一見理解不能な分析内容が、テッサの目に飛び込んできた。
00:03:15 - 00:03:24 FURAIMITUZAAMUN
「ふらいみつざあむん?」
スクロールさせる指がピタリと止まり、思わず口に出してしまったテッサ。
これは日本語なんだろうか。<ダーナ>の基本言語を英語に設定しているため、日本語だとよくこうした表記になるのだ。
「『FLY ME TO THE MOON』がどうかしたのか、テレサ?」
FLY ME TO THE MOON。フランク・シナトラを始めとする多くのアーティストにカバーされている名曲である。現在でもたくさんの歌手が歌い、またそのインストゥルメンタルが多くの映画やドラマに使われている。そう言ったボーダは出だしの一節を口ずさんだ。あまり上手くはなかったが。
でもこれは英語で書かれた詩である。なぜ<ダーナ>はわざわざ日本のローマ字のような表記にしたのだろう。
これを見ていても始まらない。テッサは<ダーナ>に命じて、この部分を再生するよう命じた。見守っていたボーダとカリーニンも、揃ってスピーカーに耳をそばだてる。
『ふら〜ぃみつざぁむん〜〜、えんれみっっぷれ〜あまざすた〜〜』
将校の大きな声に隠れていたものを無理矢理引き出したため、小さく聞こえてきたかすれた音声。節回しから察して、歌のFLY ME TO THE MOONに間違いはなさそうである。
これでようやく判った。これは多分日本人が英語で歌ったものだ。
日本語は必ず母音のみか子音と母音の組み合わせで発音される。だが英語は子音のみの発音、子音が連続する発音が頻繁にある。そのため日本人は無意識に勝手に母音を補完して発音してしまうので、英語が英語に聞こえないケースが多いのだ。<ダーナ>がローマ字表記にしたのはそれが原因だ。
しかしなぜ。この国でこんな音楽がかかっているのだろうか。この部屋(?)の隣にでもこの歌が好きな日本人が住んでいるのだろうか。
無駄だとは思うが、テッサはすぐに声紋を分析するように<ダーナ>に命じた。
「……今の声、聞き覚えがあります」
黙っていたカリーニンが、唐突にそう告げた。

<後編につづく>


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