『将校達のプッシュ・オン・アローン(上) 前編』
多忙を極めるテッサ――テレサ・テスタロッサ大佐にも、ささやかながら休暇がある。
普段は歴戦の古強者達が集う、どの国家にも属さない極秘の傭兵部隊<ミスリル>作戦部<トゥアハー・デ・ダナン>戦隊の戦隊長。
そんな激務が勤まるだけの力量がある天才児とはいえまだ一〇代の乙女。常に身も心もくたくたであり、たまの休暇も書類仕事や急な任務で潰れる事もしばしばだ。
そんな彼女に振って沸いた――実際はきちんと休暇と定められた日だが――何もない休暇。
彼女は今、南アジアのとある国を訪れているのだった。


きっかけは些細な電話だった。電話の主は<ミスリル>上層部の人間であり、作戦部の総責任者であり、彼女やその父とも古くから付き合いのあるジェローム・ボーダ提督だ。
『久しぶりだなテレサ。元気そうで何よりだ』
早朝。電話で叩き起こされてかなり不機嫌な彼女の声を聞いた提督は、心底楽しそうにそう言うと、
『確かテレサは今日一日は休暇だったな。基地の残務処理はあるのか?』
「いえ、ありませんけど?」
何か予定があるのか、ではなく残務処理があるのか、と間髪入れずに訊ねてきた様子に小さく苦笑した彼女の答えに、
『実はな。お前さんさえよければ来て欲しい場所があってな。そこからは若干遠いんだが……』
「あ、あのジェリーおじさま? 来て欲しい場所って一体? それに……」
勝手に話を進めようとしている彼に向かって、テッサは思わず声を上げてしまう。
彼女が今いるのは南海に浮かぶメリダ島という小さな島。その地下に隠された<ミスリル>の基地だ。どこかへ出かけるには船なり飛行機なりの準備を整えなければならない。
空いている機やパイロット、燃料等の確保をしなければならず、自転車や車のように乗ってすぐさま出発とはいかないのだ。
例外は定期的にこの島に各種物資を運んでくる輸送機である。今日はあと一時間ほどで島を飛び立つスケジュールの筈だ。
『大丈夫だ。これから飛び立つ機は、その国へ向かう筈だ。急げばまだ間に合うぞ、テレサ』
……ひょっとして、その時間を当て込んだ上で電話をしてきたのだろうか。彼女がそう判断したのも当然だろう。
親子以上の年の差があるのは事実だが、こうまで変に子供扱いをされると何となく腹が立ってくる。
しかし休暇といっても何の予定もない。どこかに買い物に行きたいほど欲しいものもないし、パーッと遊びに行くにも一人ではどうしようもない。
それに彼女は戦隊長の地位にある。本当の意味で一人で出かけるのは稀だ。たいがいは護衛がついてくる事になるし、またそうしなければならない事になっている。
その護衛は誰にしようか。
プライベートでも仲のいい女性隊員は、今日は書類仕事に忙殺されていてそんなヒマはない。
密かに想っている同い年の部下は現在遠く離れた日本にいる。今から呼び寄せるには時間がかかり過ぎる。
かといって申し出を断わり、基地内をぶらぶらしているのも何となくつまらない。
彼女はうーんと頭をひねるようにしばし唸ると、
「判りました。これからそちらに向かいますので。着いたら連絡します」
そっけなく返答すると電話を切る。それからすぐに基地の内線電話をかけた。電話がすぐ繋がる。
「あの。急で大変申し訳ないんですが、護衛をお願い致します」


空港の隅に着陸した輸送機から降り立った、そっけないほど地味なワンピース姿のテッサは、昼下がりにもかかわらず良すぎるくらいの天気の太陽を恨めしく睨みつけていた。
彼女の後に続くようにゆっくりと降り立ったのは、身長一九〇センチはあろうかという、大柄な男性だった。
テッサの片腕とも言える部下の一人であり、作戦指揮官を勤める人物だ。「本来の」傭兵部隊であれば彼のような人間がトップに立つのが相応しいのだと思える。
長い灰色の髪と顎ひげ。鍛え上げられた逆三角形の体型が特徴的だ。その髪も後頭部で一つにまとめてあり、四〇過ぎという年相応の若さが感じられる。
しかしその眼光や立ち居振る舞いは明らかに苛烈な戦いをくぐり抜けた軍人のそれであり、年齢以上の古風な戦士という雰囲気をもかもし出している。
彼――アンドレイ・カリーニン少佐は、寒国ロシア出身にもかかわらず眩しい太陽を全く意に介した様子もなく、いつもと変わらぬ淡々とした調子で、
「参りましょう、大佐殿」
護衛という事なので普段の制服や野戦服ではなく、ブラウンの地味なスーツ姿だ。有り体に言ってあまり似合っているとは言い難い。それだけ軍隊生活が染み付いているのだろう。
いきなりの護衛任務にもかかわらず、彼の言葉や態度から不平や不満と言ったものは一切見られない。上官の意にはすぐさま従う、部下の手本とも言える人物だ。
しかし上からの命令がなければ何もできない人間ではない。出なければならない時は頑として出るし、言うべき時には冷徹な発言も辞さない。
それだけに頼れる人材でもある。護衛を依頼したのもそういった点を考慮しての話だ。
「とりあえず、提督に連絡を取りますね」
テッサが携帯電話を取り出そうとしたが、すぐにそれを止めた。向こうからボーダ提督が大股で歩いてきたからである。
その容貌は町のどこにでもいる気のいいおじさん、といった感じだ。とてもアメリカ海軍で水兵から提督まで上り詰めた叩き上げの元軍人には見えないだろう。
ラフな格好にもかかわらず、視線や仕草のそこかしこにはきびきびとした軍人の名残りが残っており、そのためか六〇近い年齢なのに一〇歳は若く見える。そうした意味でもカリーニンとは正反対だ。
「テレサ。こうして直に会うのは久し振りだな」
「そうですね」
アメリカ人同士らしく、軽く抱き合うような仕草をする。傍目にも親子か親戚のように見えるだろう。まさか一傭兵部隊の上層部と戦隊長には見えまい。たとえ後ろにスーツが似合わぬ軍人全とした人物がいたとしても。
「少佐も急な事でご苦労だな」
「いえ。問題ありません」
カリーニンを労うようなボーダの言葉に、彼は淡々と答える。ボーダは少々つまらなそうな顔をすると、
「話したい事はそれこそ山ほどあるんだが、今日くらいは仕事の事は忘れようじゃないか。それが目的でわざわざ呼び出した訳じゃないからな」
ボーダの話にテッサは曖昧な表情を浮かべる。そうは言ったが提督がこの国に来たのは仕事がらみだった筈というのを知っているからだ。
<ミスリル>は世界の地域紛争を鎮める目的で作られた、設営されてから一〇年ほどの若い組織だ。
こうした活動を円滑に行うためには、世界各地に活動拠点を置く必要がある。
いくらインターネットの発達で遠く離れた地域の情報がほとんどリアルタイムで手に入る世の中になったと言えども、活動の拠点があるのとないのとでは、運営のしやすさに天と地ほどの差が出る。
加えて極秘の組織だ。人材も豊富とは決して言えない。各活動や補給を潤滑に進めるため、時には提督自らが直接出向いて交渉活動をしなくてはならないのだ。
その一環で、この国の大統領ラタン・タルールと直に極秘会談する機会を得たボーダ。そこから雑談になった際、なんと大統領がテッサの父親カール・テスタロッサと親交があった事が判ったと言うのだ。
ボーダが元々アメリカ海軍にいた人間というのは雑談の中で出た。そこから海軍にいた彼女の父親の事が出るとは確かに突飛ではある。
一瞬<ミスリル>に反する組織に与する人間かと思って微かに身構えたが、ボーダも伊達に三〇年以上軍隊で暮らしていた訳ではない。最低限の人を見る目くらいは持っている。
一国のトップだけに駆け引きに長けたしたたかな一面は感じられるが、それだけだ。何か腹黒い陰謀を以て発言をしたという意図は全く感じられない。その地位に似合わぬ、信頼に足る真っ正直な人柄なのだ。
あなたはアメリカ海軍にいたんですか。実は私にもアメリカ海軍に知り合いがいましてね。その程度の世間話だ。それがたまたまテッサの父親だったという話である。
だからボーダは正直に話した。愚かかもしれないが、正直に話すのは相手を信頼する証でもある。相手を信頼する意志がなければ、相手からも信頼はされまい。
「確かにわたしもそう思いました。といってもテレビの演説でしか見た事はありませんが」
以前、仕事をしながらつけっぱなしにしていたテレビのニュース映像を思い出すテッサ。
「一年ほど前、長く続いていた独裁政権を打倒した市民運動家のリーダーでしたな。今でも軍部の対応には手を焼いているようですが」
特に感情らしい感情を交えぬカリーニンの発言に、ボーダも渋い顔で唸ると、
「どんな国にも最低限の軍備は必要だからな。軍が実権を握っていた独裁国家の体勢が崩れても、軍そのものをなくす事はできんよ」
ボーダはそれが現実だ、と言わんばかりに口をつぐむと、
「ともかくだ。世話になった人の娘さんに一度お会いしたい。そんな単純で人間らしい理由だ。立派な護衛もいるんだ。問題はあるまい」
何を一人で勝手に決めている。一瞬そう言いかけたテッサだが、彼女もその話には興味を引かれた。
テッサの父カールは、随分前に亡くなっている。軍人で潜水艦乗りであったため、家にいた事の方が少ない父との思い出などほとんどないのだ。
だから自分の父親とは、職場での父とはどんな人物だったのかを知りたい。そんな興味や好奇心が沸くのも当然だ。
それからテッサは今の自分の服――そっけないほどに地味なワンピース姿を見回して、
(……失礼にあたらないかしら?)
と悩みはしたものの、テッサは大統領と会う事を了承した。


空港から出たテッサ達を待っていたのは黒塗りの高級車だった。その高級車の隣に執事のように畏まって立っていた男性が一行に深々と一礼する。
「ようこそ我が国へお越し下さいました」
日本で暮らした事があるテッサが、何となく反射的に頭を下げようとして思いとどまる。ここは日本ではないのだ。
「こちらこそ、急な申し出にお答え下さって恐縮です」
「いえ。それが第一秘書の私の職務です」
ボーダと秘書のやりとりを見て、テッサはなんだか申し訳ない気分になった。
一国の大統領ともなれば、そのスケジュールは秒刻み。そんな中からこうして見ず知らずの人間と会う時間をひねり出しているのだ。その大変さは<ミスリル>大佐である彼女以上だ。
「これからホテルへ向かいます。そこで大統領がお待ちです」
皆が車の後部座席に乗り込むのを待っていた秘書は、助手席に乗ると静かな声でそう告げた。それから運転手に小声で何か命じると、車が静かに動きだす。
黒塗りの高級車といい、大統領第一秘書自らの出迎えといい、何だかVIPにでもなったかのようだ。もっともテッサとボーダに関しては、ある意味VIPで間違いはないのだが。
おまけにこの車。外観の割に微妙に車内が狭い感じがする。大人二人に挟まれて座っているテッサが何となく車内を見回していると、
「この車は防弾設計になっていますね?」
唐突にカリーニンが口を開く。こうした場ではあまり喋らないので、テッサが珍しがっていた。
「はい。先の政権で使われていた物を、そのまま使用しています」
秘書が淡々と答える。前政権が倒れたからといって、前に使っていた物を総て処分する事もない。その考えは判る。しかし本来なら総てを新しくしたいのが本音だろう。
防弾設計になっている車はいくつかあるが、これは一般車の内部に防弾性の高い装甲や繊維を敷き詰めるなどして改造を施した物だ。そのレベルも拳銃程度から狙撃銃に耐えうる物まで様々だ。
もちろんこれは暗殺者やテロリストから国家元首・政府高官や要人を守るための車だ。
ボーダ提督は判る。元アメリカ海軍の高官であり、軍関係者からすればひとかど以上の敬意を払うべき相手だ。一方自分は極秘部隊では大佐の地位だが、今はただの大統領の知人の娘に過ぎない。
でも今日の主役はある意味テッサなのだ。主役ではあるがこんな待遇をされる立場でも身分でもない。
それなのにこの扱い。場違いなVIP待遇に、彼女の小柄な身体が益々畏縮して小さくなる。
そんな心配そうなテッサの顔が気になったのだろう。第一秘書はわざわざ後ろを振り向いて笑顔を作ると、
「先の政権が使っていた車は、総てこのような改造防弾車なんですよ」
つまり。わざわざ防弾車で来たのではなく、この国には政府が所持している車は防弾車しかないのだ。だからこれで来た。それだけの事である。
場違いなVIP待遇ではなく安堵するのと同時に、違っていたのかという小さな悔しさも混じった微妙で複雑な苦笑いを浮かべるテッサの表情に、隣に座るボーダが遠慮なく大笑いしていた。
カリーニンですら苦笑を浮かべているのだから、よほどおかしかったのだろう。そんな雰囲気に包まれた車はホテルに向かってゆっくりと走っていった。


到着したホテルは、この国で一番の高級ホテルとの話だ。
以前は肩からサブマシンガンを下げた軍人が入口に立っていたそうだが、今は普通のホテルマンだ。もっとも軍人が全くいない訳ではなく、私服で警備しているだけのようだ。
すっかり習慣になっているのだろう。カリーニンが視線だけを動かしてその様子を眺めている。
ホテルマンの一人が第一秘書の姿を見つけると駆け寄ってきて、恭しい態度で「いらっしゃいませ」と応対している。
「大統領は?」
「明日の準備が長引いておりまして。少々遅れてしまうと連絡がありました」
そんな小声のやりとりが聞こえてくる。やっぱり忙しいのかとテッサの表情が軽く曇った。
「明日、大統領の講演があるようですな。先程それらしい建物の前に看板が立っているのを見ました」
テッサに耳打ちするようにカリーニンも小声で話す。どうやら移動中の車中から見たらしい。
しかし。車中からの眺めは決していいと思えるものではなかった。一年ほど前にあったという独裁政権打倒の際の紛争痕が、まだ町のあちこちに傷ましく残っていたからだ。
そんな中このホテルはほとんど被害を受けた様子がない。理由は判らないが何故かそれがとても不気味に感じられた。
「お部屋にご案内致します」
秘書と応対していたホテルマンが一行の前にわざわざ来てそう言う。テッサ達も素直に彼の後に着いていく。
その間もカリーニンは周囲を警戒している。外見はそんな素振りを見せていないが、微かな視線の動きと厳しさくらいは軍にいた経験のないテッサにも見当がつくのだ。
「提督」
カリーニンが小声でボーダに何やら耳打ちしている。彼も少し考えてから「判った。好きにしろ」と厳しい表情を見せる。
それからカリーニンはテッサに向き直ると、
「申し訳ありませんが、少々席を外させて頂きます」
この言葉に彼女は「えっ!?」と目を丸くした。まさか護衛である彼がこの場を離れようとするとは。任務に忠実な彼らしくもない。
「思い出の中に、私のような余所者は不要でしょう」
その言葉にテッサはハッとなる。確かに今回の目的は「大統領が昔世話になったカールの娘に会ってみたい」だ。
大統領もボーダも、当然テッサもカール・テスタロッサという人物を知っている。しかしカリーニンは知らない。
思い出話が弾めば、彼を知らないカリーニンが浮いてしまう。テッサもその事に気を使ってしまうだろう。
カリーニンはテッサに気を使っているのだ。随分遠回しな、それでいて実に彼らしい言い方で。それが判ったテッサは、
「判りました。でもすぐ戻って来て下さいね」
「了解しました」
重い声でそう言うと、カリーニンは小走りでホテルを出て行ってしまった。そんな後ろ姿を見送りつつ、テッサ達はエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターは高速でビルの最上階を目指して上って行く。その中で第一秘書が、
「申し訳ありません。大統領は所用で少々遅れます。お部屋でお待ち戴けますか」
それは先程聞こえていたのだが、ボーダもテッサも無言で了承する。
それにしても、講演の前日ならやる事は山ほどあるだろうに。何もそんな日に合わせなくても。テッサの表情が申し訳なさで益々曇ってしまう。
やがてチン、という小気味いい音がしてエレベーターが止まる。最上階に着いたのだ。しかし扉が開かない。故障だろうか。
テッサはそう思ったが違っていた。秘書が巧妙に隠されたエレベーターのコンソールの一部を開けると、そこを片手で隠すようにして何やら作業をしている。きっと扉を開けるのに必要なパスワードでも入力しているのだろう。
こうしたホテルには一般の利用客が入れない「特別な」エリアという物がたいがいある。今回は大統領が来るので、少しでも部外者の侵入を防ぐ意味で使うのだろう。
随分と長い作業の末、扉は問題なく開いた。しかしいちいちこんなパスワードを入力しなければならないとは。カリーニンが後から来る事になっているのに。
でも連絡は取れそうだ。ちらりと見た携帯電話のディスプレイには、送受信状態を示すアンテナが三本きちんと立っている。その事を伝えればいいだろう。
ボーダとテッサは、秘書に案内されて廊下を進み、その中の一室に到着する。ドアの脇には二人の黒いスーツの男が直立不動で立っており、明らかにSPだと判る。
「失礼します」
そのうちの一人が、持っていた棒状の機械のスイッチを入れ、ボーダの全身を撫でるように動かしていく。携帯型の金属探知機である。これも仕方あるまい。国のトップと会うのだから。
やがて機械を持ったSPがテッサの前に立ち、改めて「失礼します」と断わってから探知機を全身に這わせるように動かしていく。
別に怪しい物は何も持っていないのに、妙な緊張感がある。一応金属らしい金属といえば、今つけているネックレスくらいか。しかしそれは検知されずにSPは彼女から離れて機械のスイッチを切った。
そこでようやく部屋の中に案内される。この国一番の高級ホテルと言っていたが、確かに内装や調度品は豪華の一言である。秘書は「大統領が非公式会談の際に使う部屋だ」と説明してくれた。
「無駄に物々しいな」
ドアが閉まって二人きりになったボーダがポツリと漏らした。テッサには「無駄に」の意味が今一つ判らなかったが、
「仕方ないです。まだ政権が安定したとは言い難い情勢ですし」
さすがにテッサも基本的な世界情勢は頭に入っている。ちょうど政権交代の前後に<ミスリル>の任務でこの国に来た事があるからだ。実際に「仕事」をする事はなかったのだが。
あの時は町中が火と怒号にまみれ、そこかしこで市民と軍の衝突があった。よくある光景と言えばそれまでだが、いくらこういう仕事をしていても何度も見たいものではない。
結果市民側が軍の独裁体勢を打ち破って今の政権が誕生した訳だが、一年かそこらでは安定しないだろう。今でも厄介な火種を抱えたままなのだ、この国は。
しかしこの国の心配は、この国の首脳陣の仕事である。自分達のような部外者の出番はない。
そこへ軽くドアがノックされた。ドアに近かったボーダがドアスコープを覗き込む。それからゆっくりとドアを開けた。
「お待たせ致しました。大統領が到着されました」
そんな秘書の声に続いて入って来たのは、グレーのスーツ姿の、少々小太り体型の中年男性だった。南アジアの人間に多い浅黒い肌。高校球児を思わせるような極端に短く刈り込まれた黒い髪。映像で見たこの国の大統領ラタン・タルールに間違いなかった。
まだ若いのに好々爺という言葉が似合いそうな、少々老け気味の印象だ。体型の割に頬がこけており、精神的な苦労が並大抵のものではない事を感じさせる。資料ではこれでも四〇才手前の若さの筈なのに。
やはり国のトップに立つというのは大変なのだとテッサは思った。大変と一言で片付けるのも失礼なくらいに。
しかしその視線は意志とカリスマの強さを容易に感じさせ、人を惹き付けて離さない。その辺りはいかにも若きリーダーというものを感じさせる。
そんな大統領はボーダと固く握手をかわしており、浮かべる笑顔はまさしく好々爺だ。
ボーダは大統領から離れると、
「紹介します。カールの娘のテレサです」
いきなり紹介されて思わず肩を震わせて驚いてしまうテッサ。別に人見知りする質ではないが、テッサはこうした公の場に出る事が滅多にない。おまけに相手は一国の大統領。緊張しない方が間違っている。
自分でもかなりカチコチに緊張している。そう思いつつも、
「お、お初にお目にかかります。テレサ・テスタロッサです」
大統領はテッサを見るなりオーバーアクション気味に両手を広げて歩み寄ると、
「ようこそ我が国に。大統領のラタン・タルールと申します。お父上の事は先日ミスタ・ボーダより伺いました。非常に、非常に残念です」
少し訛った英語で自己紹介し、テッサの手を両手で強く握った。その顔に浮かぶのは悲しみよりも懐かしさ。きっとカールを思い出しているのだろう。
「本来ならもっとゆっくりお話をしたいのですが、あいにくと今は忙しい身の上です。慌ただしい事をご容赦下さい」
本当に申し訳なさそうに謝罪するラタン大統領。テッサは慌てて両手を振って、
「い、いえ。こちらこそ、お忙しい時にご無理を言って、申し訳ありません」
彼の好々爺のような笑顔に、自分の緊張も何となく解れていくような気がする。海外のメディアから「民衆の支持が高い」と言われているのはこんな親しみやすさも要因の一つなのだろう。
一同は側のソファに腰を下ろし、大統領自らお茶を煎れると言い出した。
客を呼んだ場合、主自らお茶を煎れて客に振る舞うのがこの国のマナーというので、ボーダもテッサも素直にそれを受け入れた。味の方は今一つだったが、こういう風習とはいえ大統領手ずからのお茶を飲める人間などそうはおるまい。
それから少し早口で、大統領は身の上を語り出した。
まだこの国が軍の独裁政権下だった頃。民主化活動のリーダーをしていた父が投獄され、当時一〇代だった彼はアメリカに亡命をしたのだという。形の上では海外留学という事だったが。
後ろ楯もほとんどなく、学費も生活費も自分で働いて稼がねばならなかった。その働いていた店が、テッサの父カールが勤務していた海軍基地のすぐ側だったのだ。
当時南アジアから留学に来る人間は少なく、あっという間に基地の人間に自分の事が知れ渡ったという。
自分の国の軍人のイメージしか持っていなかったため、アメリカ海軍の人間の気さくさや開放感には心底驚き、また彼らもラタンの境遇には心底同情してくれ「言ってくれればすぐにでもお前の国に乗り込んでやるぜ」と言う者までいた。
特にカールは、わざわざ店に来て問題ない範囲で軍隊内部の事を教えてくれたり、わざと多めにチップをくれるなど影に日向に援助をしてくれた。
そんな人々に支えられたラタンが大学院を卒業する頃、父が母国で処刑された事を聞き、すぐさま帰国。それからは民主化運動グループの一員として頭角を表し、長い戦いの末にようやく民主化を勝ち取った、という訳だ。
「まさか軍人が自分のような人間に親身になってくれるとは。特にあなたのお父上は素晴らしい方でした」
「カールはそういう男でした。冗談やイタズラめいた事が好きだったが、個を殺して他人の為に動けるヤツでしたよ」
そんな優しさを、子供にももっともっと注いで欲しかったんだが。ボーダはそんな事を言ってテッサを見る。彼女はそんな父が誇らしく、今この声を伝えられない事を悲しみつつ、一言「有難うございます」とだけ言った。
「これからは軍事国家よりも文化国家です。先進諸国を見習っていかなくては」
話の最後に、ラタンは力強くそう宣言した。
「しかし。先の政権の事で軍部を嫌う国民も多いですが、無視はできません。軍の見直しをしてより効率的な組織にしていきませんと。その際には外部の専門家の意見も聞くつもりです」
タイムリミットがきたらしく、秘書が声をかけてきた。一同は揃って立ち上がると、
「判りました。月並みな言葉ですが、頑張って下さい、大統領閣下」
テッサと改めて固い握手をかわし、ボーダに何やら目配せをした大統領は急ぎ足で部屋を出て行った。
その後でテッサとボーダも別のエレベーターで階下に降りる。
一時間にも満たない時間だったが、テッサは本当に来て良かったと思った。
確かに家庭的には幸福とはいえなかった生涯かもしれないが、今になってもここまで恩義に感じてくれる人がいる、そんな自分の父の姿。胸を張って誇るには充分すぎる。
「ジェリーおじさま。有難うございました」
テッサはボーダに深々と頭を下げると、
「私は何もしていないよ。したのは君のお父上だ」
どこか照れくさそうにそう言うと、腕時計を見る。もう午後六時過ぎだ。帰るのならば急がなくてはならない。
だが。ホテルのロビーに出たところで、テッサの携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。
ディスプレイには「PAY PHONE」の表記。公衆電話からだ。公衆電話からこの携帯にかけてくるような人物には、当然心当たりはない。
テッサはごくりと息を飲むと、警戒して電話に出た。
「も、もしもし……?」
警戒心をあらわにした声。すると電話の相手は、
『大佐殿。空港が閉鎖されています』
その声は紛れもなくカリーニンのモノだった。「ロシア語」である。そしてその内容はテッサが息を飲むには充分すぎるものだった。

<中編につづく>


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