『戦争のおこしかた 壱』
帝都銀座にある「大帝國劇場」。
その総支配人職を継いだ青年・大神一郎は、慣れぬ支配人業に戸惑う毎日を送っている。
だがそれでも周りに助けられながら、どうにか職務を全うしていた。
そんな大神だが、どんなに忙しくとも毎日の新聞を読む事だけは欠かしていない。今も劇場の食堂で出された昼食を綺麗に片付けた後、ゆっくり新聞に目を通していた。
「ふーん。『来月東京府美術館で仏蘭西(フランス)の美術展開催』かぁ」
ふと漏らした声に、その場にいた劇団員が集まってくる。大神は見やすいように新聞をテーブルの上に広げた。皆は揃ってその美術展の新聞記事と全面広告を見ている。
記事には一昨日来日した使節団のちょっとした歓迎会が昨日催された、とある。その席で視察した美術館を「仏蘭西にもここまで設備の整った美術館は数少ない」と絶賛したと記事は結んでいた。
来月開催と言っても、今は月末なので実質一ヶ月もない。これから準備に大忙しだろう。大神はその準備の大変さには同情を覚える。
「東京府美術館て、あの上野の美術館の事かいな?」
真っ先に話に加わってきたのはこの大帝國劇場の少女歌劇団「帝國歌劇団・花組」の一人李紅蘭。中国生まれの関西育ち。彼女は美術より機械工学の方が好みなので、美術展そのものにはあまり関心がなさそうである。
東京府美術館はできてからまだ数年の新しい美術館だ。これだけの大きな美術展を成功させれば箔もつく。美術館側も必死だろう事が容易に想像できる。
「欧羅巴の絵や彫刻品は、日本のような高温多湿な気候では傷みやすい物が多い。そのため気温や湿度を調整する最新鋭の機械が配備されている筈だ」
淡々と解説するのは同じく花組の団員で、独逸(ドイツ)生まれのレニ・ミルヒシュトラーセ。どこで仕入れたのかは判らないが非常に博識である。あまり感情を表に出せないのが玉に瑕な、中性的な少女だ。
「最新鋭の空調設備。一度拝んでみたいわぁ……」
紅蘭は目をうっとりとさせて空調設備を想像している。その様子にクスクスと笑い声が起こる。そこへ唐突にかかった声があった。
「支配人。只今戻りました」
小脇に新聞などを抱えて食堂にやってきた女性が、大神に軽く一礼する。それからテーブルに広げた新聞記事を見、紅蘭の先程の発言に見当をつけると、
「気持ちは判るけど、見に行くのは美術品だけにしておきなさい」
そうたしなめたのはマリア・タチバナだった。日露の混血児であり、幼くして露西亜(ロシア)の革命運動に参加していたという波瀾の過去を持つ、射撃の名手でもある。
そこで身につけた訳ではないが、落ち着いた冷静な判断力は皆に頼りにされ、最年長という事もあって自然と花組のまとめ役を担っている。
改めて記事に目を通すと、「モザ・リナの微笑み」を始めとする、過去一度も仏蘭西を出た事のない美術品のいくつかが初めて国外で公開されるとあって、その注目度はかなり高いらしい。
一方、諸事情で渡仏した事のある大神は、その時の事をまぶたの裏に思い浮かべていた。
街は変わっていないだろうか。向こうで出会った人達は元気にしているだろうか。まだ五年と経っていないのに、もう数十年は昔の事のように懐かしく。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
ふいに大神に声をかけてきたのは花組最年少のアイリスこと、イリス・シャトーブリアンだ。
初めて出会った頃は九才だった事もあり年齢以上に幼く感じたものだ。だが十代も半ばに差しかかった今となっても少々背が伸びたくらいであまり変わった感じがしない。
子役から「女優」へ変貌するのはもう少し先か。そんな風にも思う。
そんなアイリスは、彼が見ていた紙面をじっと見ると、
「あ。アイリスのパパだ!」
彼女が指差す先には、件の美術展の協賛となっている企業や個人の名がある。その中に彼女の父ロベール・シャトーブリアン伯爵の名があった。もちろん他にも大神が聞いた事のない会社や人物名がいくつも書いてある。
アイリスの家は仏蘭西でも指折りの貴族。間違いなく「大物」だ。きっと政財界への発言力も大きいだろう。
こうした美術品は「国の宝」として門外不出の扱いを受ける物も数多い。そうした決まりごとを緩和するのは並大抵の苦労ではない筈だ。
それを欧羅巴から遠く離れたこの日本で。しかも欧羅巴の人間が「東の果ての地」と格下に見ている日本で初めての公開を許される。それがどんなにすごい事かは、美術にうとい大神にもよく判った。
「パパがお願いしてくれたのかな?」
「さあ。判らないけど、そうだったらいいね」
アイリスの問いに小さく笑って答え、再び新聞に目をやる大神。
「支配人。実はこの新聞の記事なんですが……」
マリアは自分が持っていた新聞(英字新聞だった)をバサリと広げ、目当ての記事を指差すと、
「欧州大戦の末期頃からつい最近まで、仏蘭西軍の物資を横流ししていたピストレット株式会社という会社が摘発を受けた、というものです」
欧州大戦とはその名の通り、欧羅巴全土を巻き込んだ未曾有の大戦争だ。戦争は四年にわたって続き十年ほど前に終結したが、その間に出た死者は九〇〇万人とも一〇〇〇万人とも言われている。
そもそも戦争の規模に関係なく、軍の物資というものは正確に把握・管理されていなければならない。それを横流しするなど本来あってはならないし、してもならない事だ。たとえ過剰に余った物であっても。
「横流しに係わったのはごく一部の者でしたが、あちらではかなり有名な会社らしく、随分大騒ぎになったそうです。国外に逃亡して、現在指名手配中の者もいるとか」
大神も一応英語と仏蘭西語は判るが、スラスラと文章を読めるほどではない。
「け、けど、その記事が一体どうしたんだい?」
その大神の疑問を察したかのようにマリアは、
「その企業の名前が、その美術展の協賛企業の中にあったもので。ちょっと気になっただけです」
マリアが指差す先には確かに「ピストレット株式会社」とある。一部の人間が横流しをしたと報道されたばかり。何かあるんじゃないかと深読みのひとつもしたくなるだろうが、それはさすがに考え過ぎだろう。
大神は「考え過ぎだよ」とやんわりたしなめ、
「俺も曲がりなりにも軍人だから判るけど、物資の横流しなんて、バレたらタダじゃ済まないぞ」
彼の本来の身分は帝國海軍の中尉。それがなぜこの劇場の支配人の地位にいるのかには訳がある。
大帝國劇場の帝國歌劇団とは世を忍ぶ仮の姿。その実体は「霊力」という力で帝都を守る極秘部隊「帝國華撃団」。
大神を部隊長とした部下=花組の女優達によって、幾度もこの帝都を守り抜いている。
もっとも。彼が劇場支配人を兼ねる総司令官に着任してからは帝都を脅かす存在の出現もなく、華撃団の方は開店休業状態が続いている。
だがそれでも先代総司令官の「治において乱を忘れず」の言葉を胸に日々の生活を送っている。
一方、「横流し」という単語が今一つピンと来なかったアイリスは、レニから解説を受けると途端に憤慨し、
「でもさ。悪い事をした人が捕まるのって、当たり前の事でしょ?」
しかしその答えを聞いたマリアの表情が一瞬曇る。
「そうね。アイリスの言う通りね」
マリアは子供を諭すようにわずかに声のトーンを落とすと、
「やってはいけない事は『やってはいけない』わね。でも、その『やってはいけない事』でなければ生きていけない人がいるのも事実なのよ」
その言葉を真正面から受け止めるにはアイリスはまだ幼く、また無垢だったかもしれない。
「確かに物資の横流しは悪い事だわ。でもそれしかできる『仕事』がなかったら。家族を養うにはそれをやるしかなかったら。悪いと判っていてもやらねばならない。そういう事もあるのよ」
余っている物をそれが足りないところへ持って行って売るのは、商売では至極当然の事。むしろそれができるのが商人の才覚というものだ。だからと言って横流しを認める事はできないが。
レニもアイリスに淋しそうに語りかける。
「軍人は戦うのが仕事だ。戦えば人は傷つき、もしくは殺してしまう。人に限らず生き物をむやみに傷つけたり殺したりするのはよくない事だというのは判っている。でも軍人は、必要な時には戦わねばならない」
レニは意味ありげにわずかに言葉を切ると、続けた。
「そういう軍人は、悪い人だと思う?」
ストレートなレニの問いに、アイリスは答える事ができなかった。軍人ではないにせよ。自分も「戦う事」が使命であるから。
戦う事はいい事なのか。悪い事なのか。戦っても相手を傷つけなければいいのか。殺さなければいいのか。
明確な答えが出せる者などいよう筈もない。
マリアは必死に考え込んでいるアイリスを見て小さく笑うと、
「アイリス。あなたが私くらいの年になる頃には、すぐ答えが出せる世の中になっているといいわね」
「……うん」
力なくうなづいたアイリス。マリアは彼女の肩にそっと手を置き、
「でも。やってはいけない事を、素直に『やってはいけない』と言えるその気持ちは、とっても大事な物だから、大切にしてね」
「……うん」
今度は少しだけ元気にうなづいたアイリス。だがマリアの方は困ったようにため息をつくと、
「過去のせいか年齢のせいか。こういった事は『仕方のない事だ』とすぐ割り切ってしまうわね」
それが大人というものだという事は簡単だ。だが、それが正しい事だと言い切る事ができないのも、また人間というものである。
「……隊長」
レニが大神の背中をポンと叩く。どうしたのかと訊ねると、
「キネマトロンの呼び出し音が聞こえる」
大神はビックリした顔になり、慌てて食堂を飛び出して支配人室に駆け出した。
キネマトロンとは一見したところ革張りの旅行鞄だ。だがそれを開けば通信相手の顔を見ながら会話ができる、紅蘭が作り出した通信機へと早変わりする。
公演のない今、帰省などで劇場を離れている花組のメンバーもキネマトロンを持っている。彼女達から何かの知らせかもしれない。
そう思い、大神は大急ぎで支配人室に飛び込み、呼び出し音が鳴り続けているキネマトロンをデスクへ置くと、すぐさま開いて通信体勢を整える。
「こちら帝國華撃団・銀座本部……」
回線が繋がり、小さな画面に映像が浮かび上がった。その顔に大神は一瞬どう反応していいか迷ってしまった。
《……久しいな、隊長》
懐かしい声。間違えようもない。
「グリシーヌ!? 一体どうしたんだい!?」
大神は思わず呆気にとられた声を上げてしまった。
グリシーヌ――グリシーヌ・ブルーメールは大神が渡仏した時に出会った、あちらでも有数の貴族であり、同時に帝國華撃団の巴里(パリ)版とも言える「巴里華撃団」の隊員でもある。
以前大神は暫定的に巴里華撃団の部隊長を務めた事がある。彼女が大神の事を「隊長」と呼ぶのはそのためだ。
グリシーヌは、祖先がバイキングだった事もあってか常に威風堂々としており、勇ましい「男らしい」言動が多い。
だが顔立ちは明らかに女性のそれであり、長い髪をバッサリと切っていたら「男装の麗人」で通ってしまうだろう。
おまけに微妙にアクセントはおかしいものの、きちんとした発音の日本語で話してくる。
きっと必死になって猛特訓したのだろう。何にでも完璧を目指し、自分が一番でなくては気が済まない彼女らしいと言えるかもしれない。
キネマトロンは紅蘭が作った物だが、巴里華撃団にも何機か置いてある。それゆえに通信も可能なのだが、グリシーヌは仏蘭西の巴里にいる筈。それにもかかわらず画面に浮かぶ映像や届く声にノイズがあまりにも少ない。
その間にもゾロゾロとマリア達が部屋に入ってくる。画面に映るグリシーヌに皆驚いたものの、めいめいに挨拶を送っている。
グリシーヌは何かに気づくと、急に切羽詰まったように、
《隊長。大至急東京府美術館まで来てほしい》
いきなりの誘いに大神は泡食ったように慌ててしまう。そんな大神に代わって紅蘭がからかうように、
「何や? デートのお誘いにしてはずいぶんと素っ気ないですな」
《そ、そんな冗談を言っている場合ではない!》
急に声を荒げるグリシーヌ。だがその頬が微かに染まっているのはからかわれたからか。それとも微妙な乙女心という物か。
初めてグリシーヌと会った頃は、彼女の「貴族らしさ」に何度も手を焼かされたものだ。だが人当たりこそ柔らかくはなったが、貴族らしさと手を焼かされるという部分は大して変わってないかもしれない。
だが、そんな貴族らしい堂々とした彼女らしからぬ、どこか疲れたような困ったような、焦燥感を隠し切れない顔をしていた。
女心を察するのは今も昔も苦手だが、そうした表情の変化を見抜けぬ程鈍くはない。
大神は一瞬聞いてもいいかどうか考えたが、やはり思い切って訊ねてみた。
「グリシーヌ。でもどうして東京府美術館なんだい?」
「今度開かれる美術展絡みで、日本に来ているからだと思う」
大神の質問に答えたのはレニだった。レニは相変わらず淡々とした調子で、
「新聞記事の協賛のところにブルーメール家の名があった。その可能性はある」
新聞記事を見ていたにもかかわらず全く気づいていなかった大神は、一瞬気まずそうに口ごもってしまう。
《そうなのだ。我がブルーメール家が所有している美術品も数点進呈したのでな。日本語が判ると言うので、使節団の一員にまつり上げられてしまった》
グリシーヌは少々困ったようにため息をつくが、一員となった事自体には何の不満もなさそうだ。それにキネマトロンの通信状態も、同じ都内ならノイズが少なくて当然だ。
「……何かあったのかい、グリシーヌ」
大神の唐突な問いに身を固くするグリシーヌ。
《そ、そんな事は……ないぞ。うむ。貴公らが気にするような事は、何一つないぞ》
子供のアイリスが見ても判るくらいオロオロとうろたえ、しどろもどろになってしまうグリシーヌ。これでは何かあったと白状したも同然だ。
堂々とした立ち居振る舞いは得意でも、ウソや隠し事となるとそうもいかないらしい。皆はため息をつきつつ彼女を見ている。
「何の用件もないのに、わざわざキネマトロンを使う筈ないでしょう。話してくれない?」
冷静なマリアのとどめの言葉に、グリシーヌはますますうろたえたように口をパクパクさせる。だがやがて観念したように肩を落とすと、
《本来なら、我らのみで解決せねばならぬ事なのだ。己の失態は己で解決せねばならんからな》
それは大神にも判った。そうでなければ周囲の人々は絶対に認めてはくれない。
《だが、我らだけでは力不足なのも事実だ。このグリシーヌ・ブルーメールが恥を偲んで頭を下げる。一刻も早く美術館に来てほしい》
貴族たるグリシーヌが「頭を下げる」まで言う事態。不謹慎だがこの場の全員の好奇心を刺激するにはあまりに充分すぎた。
「……判った。これから美術館に行くよ」
《助かる、隊長。では後ほど》
グリシーヌは短くそう言うと、通信が切れた。
「どうしたんだろうね、グリシーヌ?」
皆の気持ちを代弁したような、アイリスの問いかけ。しかしそれに答えられる者など誰もいない。大神はスッと真剣な顔になると、
「とにかくこれから上野に行ってくる。みんなは……」
「待機していてくれ」と続けようとした大神は、みんなの意味ありげな視線に気づき、言葉を止めた。
「……ひょっとして、みんなも来る気じゃあ?」
「当ったり前や。困った時はお互い様。助け合わんといかん」
紅蘭が得意そうに胸を張る。
「助けを求めている。人手は多い方がいい」
レニはぽつりと呟くように発言する。
「『義を見てせざるは勇無きなり』、でしたね。行きましょう、支配人」
マリアにまでそう言われては、大神も単独で行く気持ちが揺らぐ。理由はともかく皆の気持ちは同じだ。
「それに、お兄ちゃんの浮気を許す訳にいかないもん」
笑顔でそう言うアイリスの口調は冗談ぽく可愛らしいものだったが、彼女達からそこはかとなく発せられている雰囲気に、冗談は全く感じられない。
(信用ないなぁ、俺って……)
大神は心の中でそう言い返す事しかできなかった。


銀座から上野までは地下鉄で十五分もあれば着く。上野へ来てしまえば、上野公園の敷地内にある東京府美術館は目と鼻の先だ。
地下鉄の駅を下りた一同は、まっすぐ美術館に向かう。さすがに何度か来ているだけはあり、迷う事なく到着した。
名のある実業家の寄付によって数年前にできたばかりの東京府美術館。しかも日本初の美術館といってもいい。
まだ新しさの残る石造りの建物が、昔からある上野の森の中に、まるで何かの神殿のように静かに佇んでいる様子は、美術館そのものが一種の芸術作品である。
だが。その「芸術作品」の周りはどうだろう。警備の人間が目を血走らせて走り回っている。それこそ「縦横無尽」という言葉のように。
「何かあったのかしら?」
自問するようなマリアの言葉。だが聞いたところで自分達のような無関係の人間には何も教えてくれないだろう。
「そりゃ準備で忙しいに決まってますって。こうした裏方稼業ちゅうのは、始まるまでは苦労の連続や」
女優でありつつ、自らも進んで裏方を手伝う紅蘭が、しみじみとうなづいている。
「皆殺気立っている。警戒し過ぎて神経を疲労している感じとは違う」
警備員達の表情から、レニがそう分析する。
「うん。何だか……すっごく怖い」
アイリスが大神にそっとすがりつく。彼らの発する雰囲気の異様さを、持ち前の霊力で感じ取ったのだろう。少し顔が青ざめている。
確かに仏蘭西の宝とも云うべき美術品があるから、厳重に警戒するのは当然だ。だがそういう雰囲気とはどこかが違う。上手く言えないが、それだけは大神にも判った。
そして多分。警備員達をそうさせている原因が、グリシーヌが自分達をここへ呼んだ理由だ。
「しかし……。こんな状況じゃあ誰かに聞くって訳にもいきそうにないな」
時折自分達をジロッと睨みつけては走り去る、忙しそうな警備員達を見た大神は、肩を落として呟く。
こんな調子では、一歩間違えば自分達が「怪しい人物」として拘束されかねない。いくら無実でもそれだけは御免被りたかった。
それにしても。来いと言ったグリシーヌの姿がない。確かに具体的な時間や場所を指定した訳ではないが、このままではどうしたらいいのか判らない。
だがそんな心配は無用だった。なぜなら、当のグリシーヌがこちらに向かって走ってきたからだ。
「……何だ、大勢で来たのか」
開口一番に出た言葉がそれでは、急いで来た大神達の立場がない。大神は思わずコケそうになりながらも、
「大人数で押しかけて済まない。皆がどうしても来るって聞かなかったから」
頭をかいて謝罪する。それに言葉自体は嘘ではない。
「人数が足りないようだが……他のメンバーはどうした?」
「ああ。今は公演のない時期なんだ。帰郷していたり他の仕事に行っていたりで……」
グリシーヌの疑問に大神は包み隠さず答えた。彼女は大神の答えに「それは残念だ」と少し顔を曇らせる。
それからチラリとアイリスに目をやると、
「私としては隊長とイリス・シャトーブリアンだけでも良かったのだが」
「どうしてアイリスなの?」
出て当然の疑問に、グリシーヌはアイリスの肩に手を置くと、
「この美術展にはそなたの父上にも多大な協力を戴いている。いわばスポンサーの一人だ。ふいに訪れてもそう文句は出ないだろう」
確かにスポンサーの娘が来たのでは、無下に追い返す訳にもいかない。
「それでグリシーヌ。俺達を呼んだ用件っていうのは……?」
大神の発言に、さすがにグリシーヌも言葉に詰まらせてチラチラと周囲を見回す。
「いや。それなのだが、ここでは……」
『グリシーヌ殿!』
ふいに仏蘭西語で彼女を呼ぶ声が聞こえる。その声の方を向くと、立派な口ひげの初老の男性が、気難しい顔でこちらに来るのが見えた。
『済まぬ。今来客が……』
初老の男はつかつかとグリシーヌの元まで歩いてくると、大神達を鋭い目でジロジロと観察している。
『ああ。紹介します。こちら日本の大帝國劇場支配人・大神一郎殿』
『大神と言います。どうぞよろしく』
大神は久しぶりの仏蘭西語でそう挨拶し、西欧風に握手を求めた。男性は鋭い眼光のままだったが、握手に応じる。
『それから、シャトーブリアン伯のご息女でイリス・シャトーブリアン。帝國歌劇団の団員です』
グリシーヌはアイリスの背をそっと押す。アイリスもおずおずと初老の男に軽く会釈する。
彼はアイリスを見るなり気難しい顔を崩してぴしりと背を正すと、
『お初にお目にかかります、マドモアゼル。わたしは今回の美術展の使節団の一員でアンヴァイエと申します。お見知りおきを』
自分の娘か孫ほどの年のアイリスに対して、仰々しいほどに礼儀正しく挨拶をする。それから再び大神を見ると、
『こちらの青年は、確か以前ライラック伯爵夫人の舞踏会でお見かけしましたな』
アンヴァイエの言葉に大神の方が驚く。確かに渡仏したばかりの頃ライラック伯爵夫人(実は巴里華撃団総司令官)の舞踏会に出席した事がある。
だが、そうした公の場に出たのはそれきりの筈。それを覚えているのだから大したものだ。
『……なるほど。東洋人とはいえ伯爵夫人お墨付きか。それにグリシーヌ殿が全幅の信頼を置く人物でもあるようだ。信用してもいいだろう』
何か感ずるところがあったのだろう。一目で信用に値すると言われた大神は、照れくさそうに頭をかいている。
『何かあったら遠慮なく使えと、伯爵夫人も言っていたからな』
グリシーヌの仮借ないこの言葉には、さすがに大神も黙ってない。日本語で言い返してしまう。
「グリシーヌ。いくら何でもそれはないだろう?」
日本語を知らない筈のアンヴァイエが、そんな大神を見て大笑いすると、キッパリと言った。
『そう怒るな青年。それだけ伯爵夫人が君を信用している証だ』
気さくに大神の背を叩くと、
『では、早速使わせてもらうとしよう。互いの友好のためにもな』
その言葉に、大神はもちろん、仏蘭西語が判るアイリスやレニも首をかしげていた。

<弐につづく>


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