『少尉さんは暇がない 後編』
食事の片付けを済ませた後、二人は大神の部屋の前にいた。
普段ならこの時間でも廊下やホール周辺は電燈をつけているが、休館日だと必要なところにしか明かりをつけないため、ほとんどの場所は真っ暗だ。
そのため、大神の手にはいつも通りカンテラが。
ただしもう一方の手には木刀が握られている。万一侵入者があった際の武器である。
外からの雨は、まだ強く降り続いている。窓ガラスが割れてしまうのではないかと思うような、激しい雨だ。
「こうしてみると……ちょっと怖いですね」
外からの雨音だけが響く、静まりかえった帝劇内を見回しながらそう呟くさくらの声は、どこか震えていた。
住み慣れた筈の帝劇。しかし、普段とまるで違う天候に加え、いつもいる筈の仲間がいないというこの状態。
大きな建物の発する気配――というか雰囲気。大神がさっき味わった、どこか寂しい雰囲気だ。
しかし、今は二人でいるのでその雰囲気も和らいでいる。自分一人じゃないんだ、という思いのなせる技。
「じゃ、じゃあ、最初に二階から見て行こうか」
カンテラを掲げ、ゆっくりと進んでいく。さくらもそばに寄り添うように続く。
大神の部屋からはじまり、書庫を見て、花組隊員の個室の区画を通る。両側に扉のある廊下をゆっくりと進む。
二人の足音だけが廊下に響く。二人とも無言のままだ。
突き当たりまで行ってから戻り、今度はサロンの方から劇場の二階ホールへ向かう。外を見ると、さっきよりは弱くなったものの、雨は依然降り続いている。
「何もないみたいだな」
沈黙に耐え切れなくなったような大神の言葉に、さくらもうなずく。
「でも、雨だけでよかった。もし雷まで鳴ってたら……」
「大神さん!」
寄り添っていたさくらが、いきなり大神の背中をつねる。痛みに顔をしかめながら、
「ごめんごめん。さくら君は雷が苦手なんだよね」
「判っているなら、そんな事言わなくったって……」
さくらは大神を上目遣いで睨み、ちょっと拗ねたようにむくれてみせる。
しかし、大神の方は何の反応も示さない。普段なら素直すぎるくらい謝罪する彼らしくない。
不思議に思って何か言おうとすると、彼は人さし指を自分の口に当てて「静かに」のサインを送る。
「今、向こうでことんって音がしなかったかな?」
辺りをはばかった小声になり、ランタンのシャッターを下ろして一時的に明かりを消す。
「音ですか? 別にしませんでしたけど……」
急に険しい表情になった大神に合わせ、さくらも小声で訊ねる。
「ともかく、行ってみよう」
銀座の中央通り沿いの窓から微かに入ってくる瓦斯灯の明かりのみを頼りに、足音を消してゆっくりと二階ホールに向かう。床がじゅうたんであるため、足音を消すのは簡単だ。
しかし、大神が聞いた「ことん」という音の主は皆目見当もつかなかった。
「大神さん。明かりをつけてもらえませんか?」
一階に降りる階段まで来た時に、唐突にさくらが言った。
「明かりかい? 一体何で?」
「お願いします」
短いが有無を言わせぬ雰囲気もあり、ランタンのシャッターを上げた。その時二人が見たのは――
がらんとした壁だった。階段脇の壁にかかっていた絵が、総てなくなっていたのだ。
「大神さん!」
彼女に言われるまでもなく、彼も異変には気づいた。毎日見ている光景だ。ここに絵がかかっている事は頭の中にしっかりと入っている。
「もしかして、さっきの『ことん』って音は……」
「泥棒が入ったんでしょうか?」
ここにかかっていたのは、西洋の画家の描いた絵の複製品だ。しかし複製品と言ってもちょっとしたもの。本物と比べれば当然微々たるものだが、まとめて売ればそれなりの額になる事は大神も聞いて知っている。
それに劇場部分である一階だけで被害が済めばいいが、部外者には極秘である帝國華撃団の指令室がある地下に入られたら大変な事になる。
「急ごう、さくら君」
「はい!」
二人は急いで階段をかけ降りた。一階ホールから大きな食堂を横切る。
「泥棒だったら、絵も狙うけど現金も見過ごさない筈だ。支配人室へ……」
「じゃあ、地下室はどうするんですか?」
大神は少し考えた後、
「泥棒の人数が判らない以上、二手に別れるのは危険だ。まず支配人室へ行こう」
「わかりました!」
カンテラを激しく揺らしながら、二人は支配人室に急いだ。そこの金庫に売り上げを入れておくのが通例だからだ。
でも今日は休館日だし、その上昨日銀行に預けたばかりのため中に入っている額は少ない。だが、少ないと言っても五百円くらいは入っている筈だ。
どうにかそこまで来ると、大神はポケットに入れっぱなしの鍵の束をじゃらりと出す。
木刀を床に置き、カンテラをさくらに持ってもらって束の中から支配人室の鍵を見つけると、それで扉を開けた。
中に入ろうとした途端、さくらが大神の服を力一杯引っ張った。
「さくら君、何を……」
慌てて抗議しようとしたが、すぐさま彼女の行動の意味を理解した。
何と、部屋の中から覆面をした全身黒ずくめの男が木刀を降り下ろしてきたからだ。もしさくらが服を引っ張らなかったら、間違いなく無防備に攻撃に身をさらしているところだった。
「何者だっ!」
大神は床に置いた木刀を手にし、出入り口を塞ぐ。中にいた男は怯えたように後ずさって部屋の奥へ。どうやって入ったのかは知らないが、泥棒に間違いあるまい。
大神は木刀を構えると薄明るい部屋に入り、素早く間合いを詰めて真横に薙ぎ払う。しかし、男は身軽にひらりと飛び上がってかわしてみせると、再び木刀を振り回す。
だが、しょせんは素人剣法。正規の剣術を学んだ大神の敵ではなかった。
いとも簡単に見切って木刀を叩き落とし、切っ先を相手の首に突きつける。
「観念して降伏しろ!」
「……そっちがね」
いきなり後ろから聞こえたくぐもった女の声。木刀を突きつけたまま後ろを振り返ると、首筋に小刀を突きつけられてこわばった顔のさくらが立っていた。
その小刀を持っているのは、部屋の中にいた男と同じような覆面と黒ずくめの衣装。腰には鞘に入った数本の小刀――いや、西洋のナイフを差している。体つきと声からして女性のようだ。
「すみません、大神さん……」
こわばった顔のままさくらが申し訳なさそうに呟く。同時に素手だった事を心の底から悔やんだ。いくら剣の達人と言えども、素手となれば話は別だ。
だが、さくらも普通の少女ではない。剣の一流派の免許皆伝は伊達ではないのだ。
その彼女に気づかれる事なく近づいて小刀を突きつける事など、並の実力では不可能だ。
「武器を捨ててもらうよ。ま、看板女優さんがキズモノになってもいいってんなら、話は別だけどね」
小刀の刃がほんのわずか彼女の首に食い込む。それを見た大神は悔しそうな顔のまま、木刀を足元に放った。木刀を突きつけられていた男は急いでそれを回収する。
「武器は捨てたぞ。彼女を放してもらおうか」
大神は鋭い目でその女を睨みつける。しかし、女は楽しそうな目のまま、
「ふふ。あたしはそんな事言った覚えはないよ」
「くっ。卑怯だぞ!」
「卑怯なもんか。『武器を捨てたらこの女を放す』なんて、誰が言ったかねぇ」
小刀をさくらの首にピタリと当てたまま、クックッと笑っている。
その間にも、男が金庫の中から現金や貴重品を取り出し、厚手の袋に詰め込んでいる。
大神は、その光景を静かに見ているしかなかった。下手に動けばさくらがどうなるか判らない。
さくらも同じだった。自分が彼の足枷になっている事に憤りすら感じていた。
彼と二人きりという事で、心のどこかに油断があったのだろう。剣がなかったとはいえ、これでは北辰一刀流免許皆伝の肩書きが泣いている。さくらの胸中は後悔と自身への怒りでないまぜとなっていた。
「ま、北辰一刀流だか何だか知らないけど、刀がないならただの小娘。恐れる程もなかったね」
そう言いながら顎をしゃくって、さくらに部屋の中に入るよう命じる。さくらもしぶしぶそれに従った。
女は後ろ手で扉を閉めると、
「さて。どうしようかね、こいつら」
大神とさくらを部屋の隅に追いやり、自分達は扉の前に立つ。もちろん不意を打たれないように間合いをとってあるところは、素人とは思えない。
「バラしちまいましょう。俺達を見られたんですから」
袋を肩に背負った男がそう言うが、女の方がそれを制し、
「バカだねぇ。そんな事したら大騒ぎになるじゃないか。これから帝都を離れるって時に、余計な騒ぎを起こすもんじゃないよ」
片手で小刀をもてあそびながら男をたしなめ、しばし考え込む。
大神は無意識のうちにさくらをかばうように立ち、二人を睨みつけていた。
気配を感じさせずにあんな芸当ができるなど、間違いなくただ者ではない。おそらくはかなりの修練を積んだ――プロの盗賊団かもしれない。
せめて武器があったならどうにかなったかもしれないが、武器は取り上げられたままだ。
このまま不用意に近づいても、間合いに入る前に小刀を投げつけられるだろう。その腕前もきっと一流レベル。おそらく狙いを外す事などあり得まい。下手に動けば、間違いなくどちらかは負傷――下手をすれば殺される。
敵がこの二人だけならば、自分が盾になった隙にさくらが二人を攻撃するという捨て身の戦法も考えられる。
だが、この外に彼等の仲間がいないという保証はどこにもない。相手の人数も判らないこの現状では、さくら一人で切り抜けさせるのはいくら何でも酷だ。
大神がそうして考えを巡らせていると、さくらの方がすっと大神の前に出た。その動きに反応した男の方が、懐から銃を取り出して彼女に向ける。
「おっと。死にたくないなら動くんじゃない」
しかし、彼女はそれに構わず、一歩歩を進めた。
「忠告はしたぞ」
情け容赦なく、男は彼女に向けて引き金を引く。
「さくら君!!」
大神が彼女をかばおうと動いた時、さくらは床を蹴っていた。
首をわずかに動かして、飛んできた弾を紙一重でかわす。続けて女が腰のナイフを抜いて投げるが、同じく紙一重でしゃがんでかわし、立ち上がる勢いを利用して低く飛ぶように駆ける。
「たあぁ――っ!!」
そのまま矢のように駆けぬけ、女の鳩尾に肘鉄を叩き込んだ。
「ぐぅっ」
女の低いうめき声がして、その身体ががくんとくずおれる。
あっという間の出来事に、男が一瞬怯む。至近距離で弾丸をかわす人間などそうはいないから無理もない。
だが、大神にはその一瞬で充分だった。男が気づいた時には既に大神は間合いに入っており、渾身の鉄拳を頬に叩き込む。たまらず男は吹き飛び、壁に叩きつけられてあっさりと昏倒した。
「さくら君、大丈夫かい!?」
ぐったりした女をそっと床に寝かせると、さくらは荒い息を吐きつつ、笑顔でうなづいた。
「それにしても……何て無茶をするんだ。上手くいったから良かったようなものの。もし一歩間違ったら……」
「大神さん。『見切り』ってご存知ですか?」
立ち上がったさくらは、静かにそう訊ねた。
「見切りというのは、相手の攻撃を最低限の動きだけでかわす技です。流派によって『一寸の見切り』とか『五分の見切り』と云いますけど」
「そ、それくらいは俺にも判る。だけど……」
驚きを隠せないままさくらにそう言うと、彼女はそのまま続けた。
「ナイフや銃の弾丸は、基本的に一直線にしか飛んできません。どんなに早く飛んできても、です。とどのつまり、槍と変わりません。目線と銃口の向きが判ってさえいれば、かわすだけならそんなに難しくはありません」
彼女は額の汗を手の甲で軽くぬぐって、そう言った。
確かに理屈ではその通りだ。だが、それが判る事こそが難しいのだが。
北辰一刀流免許皆伝の肩書きは伊達ではない。大神はただただ唖然とするばかりだった。
「さくら君。肩……」
桜色の振り袖の肩の部分がわずかに切り裂かれていたのだ。血もうっすらと滲んでいる。
鋭利な刃物ほど、切られた時の痛みがないから気づかなかったのだ。それを見た彼女も、
「かわしたつもりだったんですけど……あたしもまだまだ、ですね」
寂しそうに微笑むと、急にがくんと膝をついた。
「さくら君!?」
慌てて彼女を抱きとめる。声をかけて揺さぶるが、彼女は目を見開いたまま口を小刻みに動かすだけだ。
「さくら君! しっかりするんだ。さくら君!!」
辺りを見回すと、女の投げたナイフが床に刺さっていた。それは、街灯の光を受けて鈍く光っている。
そこで初めて、その刃が濡れている事がわかった。それに彼女のこの状態。
間違いない。刃に何か毒が塗られていたのだ。
ばたん!
いきなり部屋のドアが開き、誰かが入ってくる。
「大丈夫か!?」
全身ずぶ濡れの、忍者のような黒ずくめの格好。その正体は加山だった。
「加山!? どうしてお前が!?」
「話は後だ。それより、彼女を!」
加山に言われてハッとなる大神。突然の出現に驚いている場合ではない。
その時、彼の後ろにいた同じ格好の女性が歩み寄り、さくらの手首をとったり顔色を見たりしている。
「……麻痺性の毒と思われます。投げられた刃物に毒が塗られていたのだと思います。もっとも、ごく少量のようですから、これから治療をすれば、大事に至る事はないでしょう」
その女性――おそらく月組の隊員は肩の傷を見てそう告げた。
その答えに、加山はもとより大神もほっと一息つく。
気絶した侵入者や傷ついたさくらを月組の隊員達に任せ、加山と大神は支配人室に残った。
「しかし……どうしてお前がここに? おまけにそんな格好で?」
「昼間の夫婦だよ」
昼間の夫婦。赤ん坊を捨てて、それを後悔して引き取りに戻ってきた、あの夫婦だ。増子、とか言ったか。
だが、その夫婦とこの物々しい出立ちとの関係が、大神にはさっぱり判らなかった。
「彼等は……強盗団だったんだ。上野公園にサーカス団が来ていただろう? そのサーカス団を隠れ蓑にした、かなり大掛かりな強盗団だ」
いきなり事実を告げられ、目が点になる大神。
言われてみれば、最初部屋にいた男の身軽さといい、あの女のナイフ投げの腕といい、普通の人間ではない事は薄々感じていたが……。
確か、そのサーカス団は今日が最終公演。次の巡業地へ移動する行きがけの駄賃、といったところか。
「おまけに手口というのが、目標の建物に赤ん坊を置き去りにし、そこの警備等がそっちに気を取られている間に引き込み役が侵入し、潜伏。そして夜を待って仲間を引き込み、盗みをしてそのまま逃走、というパターンだ」
確かに、いきなり赤ん坊が置き去りにされていたら、誰の注意もそちらにいってしまう。そんな赤ん坊を放っておく事はできないだろうから。
そんな人間の心理を巧みについた、実に巧妙な作戦だ。無論、今日が帝劇の休館日である事も調査済みなのだろう。
「それにしても、よくそうだと判ったな、加山」
「簡単だ。子供を受け取った時、母親は『ぼうや。ごめんね』と言ってたけど、あの子、実は女の子だったんだ。副司令が言っていた。多分、どこからか適当にさらった子供だろうな」
普通女の子に「ぼうや」とは呼びかけない。自分の子供が男の子か女の子かを間違える実の親などいる筈がない。怪しむのは当然だ。
「それで調べてみたら案の定……という訳だ」
加山の説明を聞いて、大神も納得した。しかし、かなり不満そうな顔で、
「それだったら、もっと早く助けに来てくれたっていいじゃないか」
その不満そうな顔がおかしかったのか、加山は小さく笑うと、
「すまんすまん。どうせなら一網打尽にしようと副司令が言ったものだから、その準備に手間取ってな。帝劇を守るのも、俺達月組の仕事だ」
「それはそうだけど、それならすぐ助けに来てくれても……。さくら君が人質に取られた時は、生きた心地がしなかったんだぞ」
「そうか。気を利かせてわざわざ二人きりにしてやったのが、裏目に出てしまったか」
「そうじゃないだろ!」
飄々と笑う加山に怒鳴った後、大神は急に力が抜けるのを感じた。口で彼には勝てない。そう自覚しての事だ。


明けて翌日。朝から晴天に恵まれたその日の帝都日報に、こんな記事が掲載された。

「大帝國劇場ノ祕密舞臺カ?
昨夜九時半頃、帝都銀座にある大帝國劇場に強盗が押し入り、現金五百円余と絵画十数点を奪って逃走しようとした所を、住込の職員大神一郎さんと帝國歌劇団・花組の真宮寺さくらさん両名の手によって取り押さえられる事件が発生した。
この際に真宮寺さんは軽い怪我を負ったが、以後の舞台や仕事には影響は無いとの事。
帝國歌劇団の中でも清楚可憐の印象を持つ真宮寺さんだが、実は北辰一刀流の剣の達人。その卓越した剣で強盗を次々に薙ぎ倒し、職員の大神さんも負けじと獅子奮迅の活躍で強盗を返り討ちにし、警察に引き渡すという舞台活劇の様な一幕が演じられた。
生憎休館日故に観客のいない舞台ではあったが、この様な正義の心あふるる若者がいる限り、帝都の平和と繁栄は永久の物であろう」

そのため、帝劇には朝から新聞や雑誌・果てはラジヲの記者までが押しかけてきていた。昼も近くなり、その人数は野次馬を含めてますます増え続けている。
もちろんこの記事は、月組の情報操作の賜物である。
その記者達を「昨日の今日で疲れてるから」の一点張りで何とか帰らせようとするかえでと帝劇三人娘。しかし、それもいつまで持つか。それほどの勢いである。
肝心のさくらはまだ目が覚めていないようなので、大神の方は加山と共に支配人室で事の顛末を報告していた。
「なるほどなぁ。赤ん坊を使うたぁ……最低な奴等だなぁ」
一升徳利片手の米田支配人が、ほろ酔い加減で呟く。有事の際には「軍神」の二つ名で呼ばれる彼も、平和な時にはただの飲んだくれである。
「にしてもよぉ、加山。これはいくら何でも持ち上げ過ぎだろう?」
米田は新聞の『大神氏も負けじと獅子奮迅の活躍』の部分に目を落とし、苦笑する。
「しかし、そうでないと『強盗団返り討ち』の部分に説得力がありません。それに、そう書いたのは新聞の方であって、我々月組ではありません」
「そりゃそうだけどな」
ぽつりと呟いて、杯の中の酒を一気に飲む。
「それで、さくらの傷はどうなんでぇ? 軽いのか?」
「それは大丈夫です。刃がかすっただけですから、跡も残らないって言ってました。それから、毒の後遺症も全くないようです。完全に抜けるには少し時間がかかるそうですが」
大神が米田にそう伝える。
「そう……か」
米田は持っていた杯をとんと置くと真剣な顔つきになり、
「大神。月組の協力があったとはいえ、帝劇を強盗から守った事は賞賛に値する。しかし、警戒を怠って賊に侵入された上に、部下を負傷させたっていう落ち度を見逃す訳には……」
「支配人! お話があります!」
バンと扉を開けて入ってきたのはさくらだった。その後ろには、他の花組メンバーが不安そうに立っている。
怪我の方は本当に大丈夫なようだが、まだ毒の方は完全に抜け切っているとは言い難く、少しふらついて頼りない。
さくらは、相変らずの酒臭さと部屋の中に大神と加山がいる事に驚いていたが、すぐに気を取り直して支配人に詰め寄って机に手をつくと、
「今回の事は、全部あたしの鍛練不足によるものです。ですから、大神さんは悪くありません」
一気にまくしたて、深く頭を下げる。それを見た大神は、
「いや。支配人のおっしゃる通り、警戒を怠ってさくら君に傷を負わせてしまったのは、やはり自分が原因です」
きっぱりとそう言い切って、こちらも頭を下げた。
「あたしが勝手に行動した事が原因です。処罰はあたしが受けます」
「俺がきちんと対処していれば、さくら君が傷つく事もなかった。責任は自分の方にあります」
今度は二人揃って頭を下げられるだけ下げた。
「…………」
米田は無言のまま、頭を下げる二人を交互に見比べ、さらに開きっぱなしの扉の向こうにいる花組の面々を見ると、
「まったく……そこまでされちまっちゃあ、怒るに怒れねぇじゃねえか」
ばつが悪そうに頭をかきつつため息をついた。元々怒る気はない、と言いたそうな顔だ。
同時に、入り口の方から聞こえてくる記者達の声が一層大きくなってきた事に頭を抱える。
「では、大神一郎と真宮寺さくら両名は、これより記者の取材を受けて、とっとと帰ってもらえ。これ以上うろつかれたら、うるさくってゆっくり酒も飲めやしねぇ」
そう吐き捨てるように言うと、椅子を軋ませて背もたれに身を預けた。
大神とさくらはきょとんとして、米田を見つめていた。
「あの……支配人。それだけ、ですか?」
恐る恐る話しかけた大神を赤ら顔でギロリと睨みつけると、
「あんだと? それとも謹慎と減給の方がいいのか?」
「いっ、いえ。それでは、行って参ります!」
大神は何となく敬礼をした後、苦笑いを浮かべるさくらと共に支配人室を出ていった。

<少尉さんは暇がない 終わり>


あとがき

「少尉さんは暇がない」。いかがでしたでしょうか?
今回は、始めは花組の八人よりもそれ以外の方をメインにしようとしました。
そのため、最初は帝劇三人娘やかえでさん。加山を出しました。
ですが、話の筋は変わらずとも、書いていくウチに詳細がコロコロ変わってしまうのが管理人の管理人たる由縁。
後半で「大神一人じゃちょっと辛いなぁ」と判断し、誰か花組の方も出そうと頭をひねる。
そういった訳で、今まで意外と出番が少なかった真宮寺さくらさんにご登場して頂きました。
彼女が出てくるのに一番違和感がなかったので、強引かもしれませんが問題はありません。多分。

書いてから思ったんですが、前回(「雨の午後の除霊隊」)といい今回といい、雨が舞台の話が好きなんでしょうかね?
確かに雨ですと建物の中と外を微妙に遮断できますし、がらんとした建物の中にいて、外からの雨音のみが聞こえるというシチュエーションは、結構怖いものがあります。
まぁ、大神とさくらの二人っきりという状況下でらぶらぶっぽくしなかったのは、ご勘弁を(笑)。大神の性格だと、そっちより照れとか緊張が勝っちゃうだろうから。

今回のタイトルは1958年公開のアメリカ映画「軍曹さんは暇がない(No Time for Sergeants)」が元ネタです。
純朴な田舎者の新兵とその相棒、彼等に翻弄される鬼軍曹らの軍隊生活を描いた作品で、元々はブロードウェイの舞台だったようです。さすがに見た事はありませんが、おそらくコメディでしょう。うん。
その後TVシリーズになり「ウルトラ2等兵」という邦題で日本でも1965年に放送されたそうですけど。さすがに知りません。はい。
さらに言うまでもない事ですが、この本編とこの映画との関連性は全くありません。


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