『少尉さんは暇がない 前編』
ここ帝都銀座は、今日も平和な日々を謳歌していた。
それもこれも、帝都を守る「帝國華撃団・花組」の活躍があってこそ。
そのメンバーであり、同時に銀座にある大帝國劇場の看板女優達。
その「女優」としての彼女達も、休館日にはわずかな休日を謳歌しに出かけてしまっている。または、舞台とは別の仕事でお呼びがかかっていたりもする。
真宮寺さくらはラジヲ番組のゲストに。
神崎すみれは化粧品のポスターのモデルに選ばれ、その撮影に。
マリア・タチバナは帝國華撃団のスポンサーでもある花小路伯爵の別邸へ。外人の来客のため通訳兼護衛である。
アイリスとレニ・ミルヒシュトラーセの二人は上野公園にやってきたサーカスの最終公演を観に行っている。
李 紅蘭は支部である浅草花やしきの工房に行って、趣味の「ハツメイ」に勤しんでいる。
桐島カンナは故郷の沖縄へ帰省。
ソレッタ・織姫は父の住む深川の長屋へ遊びに行っている。
そして、劇場支配人にして帝國華撃団総司令官の米田一基陸軍中将は軍部へ出向中。
といった具合である。
もっとも、出かけたくとも出かけられない面々も、中にはいるが。


大神一郎は、自室のキネマトロンで沖縄にいる桐島カンナと話をしていた。
キネマトロンとは紅蘭の発明した、今風に言えば持ち運び可能なテレビ電話といった所か。大きさはちょっとしたトランク程だ。
『……てなわけでよぉ。親戚揃って「結婚はまだなのか?」って言われて困ってたんだ』
屈託のない快活なカンナが、珍しくほとほと困り果てた顔で愚痴っていた。その様子を見た大神も、
「親戚の人達も心配なんだよ」
そうは言うものの、大神自身も故郷に帰った時は今のカンナと同じような目にあっていたが。
小さい頃から男顔負けに空手一筋で、色恋沙汰とはほとんど無縁の生活を送ってきたカンナも、「年頃の女の子」である事に変わりはない。
確かに二十歳を過ぎて結婚相手がいないというのはこの時代では少数派だ。たいがいは結婚しているか、それに準じた相手がいる事が多かった。
『隊長。そりゃあたいだって叔父さん叔母さん達の言いたい事は判るけど……恋だの何だの、そういうこっぱずかしい事は、どうも苦手でさ』
そう言いながら画面の向こうのカンナは気恥ずかしそうに頭をかいて苦笑いしている。
『こっちの事より、そっちの方は大丈夫なのかい? 確かここ数日はみんな仕事で忙しいんだろ?』
カンナが少しだけ不安そうな顔で大神を見ていた。大神はいつも通りの笑顔のまま、
「確かに今日はみんな出かけてるよ。俺もこれから伝票整理を手伝えって言われてさ」
それを聞いたカンナはにかっと笑うと、
『じゃあ、悪い事しちまったな。早く行かないと、みんなにどやされるぜ。帝劇の方は頼んだぜ、隊長』
「ああ。じゃあ、これで」
力強く答えてからキネマトロンのスイッチを切り、急いで事務室に走って行った。


劇場の事務室に遊びに来ていた加山雄一は、出されたお茶を静かにすすっていた。
右手に湯飲みを持って左手を糸尻に添えるという年寄りくさい仕種ではあったが、不思議とそういう雰囲気はない。
白いスーツ姿で背筋もしゃんとした青年だからという事も、その一因だろう。
静かにお茶をすする彼の後ろでは、さっきやってきた大神がこめかみに脂汗を浮かべつつ、懸命に伝票整理に勤しんでいた。
加山は彼が忙しく働いている事はもちろん知っている。彼とは海軍兵学校時代の同期で、階級は同じ少尉。
有事には帝國華撃団降魔撃退部隊「花組」隊長を勤める大神も、普段は劇場のモギリ係。こうして事務仕事を手伝う事も多い。
対する加山も華撃団の関係者ではある。そういう彼の事情もきちんと心得ていた。
親友なのだから少しくらい手伝っても良さそうなものだが、元々書類整理は得意な方ではないし、それに手伝おうにも目の前の女性がそうさせてはくれなかったからだ。
「加山さん。もっとないんですか、大神さんの昔の話」
あこぎな商人を思わせる揉み手をして笑顔で詰め寄るその仕種は、何とも言い様のない小さな戦慄すら感じられた。
身体のラインにあった赤いスーツに、まだ珍しいパーマネントをかけたモダンな髪型の女性。
この帝劇の受付を勤める榊原由里である。元々噂話とおしゃべりが好きな彼女は、ことあるごとにこうして何か新しい話題はないかと探しては、それを手当りしだいに周りに話してしまう。
悪気はないのだが話を大きく膨らませる事もあり、無責任に話される側にしてみればたまったものではない。
加山は湯飲みを机に置くと、
「そうだなぁ。昔の話と言われても。俺と大神が会ったのは兵学校に入ってからだし。そりゃあ兵学校の宿舎では同じ部屋だったから、いつも一緒だった事は確かだけど」
そう言って少し上を向き、懐かしそうに小さく微笑む。
しかし、その微笑みとは反対に大神の表情が凍りつき、辛そうに口をきゅっと引き結んでいる。
加山は帝國華撃団の中でも情報の操作・収集・偵察任務を主とする隠密部隊・月組の隊長である。
別に何もやましい事はないが、自分でも忘れている事を知っていそうな雰囲気が、彼にはあった。
「へぇ。一緒の部屋だったんですか。じゃあ、寝相が悪かったとか、いびきがすごかったとか、そういうのはないんですか?」
由里は好奇心に目を輝かせてさらに加山に詰め寄る。加山は後ろで黙ったまま伝票整理の手が止まっている大神をちらりと見ると、
「いや。そういう事はなかったんだけど。一度、寝言で『姉さん』って」
それを聞いた大神が「あっ」と小さく叫んで立ち上がる。
「か、加山! それは……」
急いで机を回りこみ彼の口を塞ごうと飛びつくが、残念ながら彼の方が一枚上手。伸びてきた手をひらりとかわして話を続ける。
「大神。恥ずかしがるなよ。同郷で近所に住んでた、二つ年上のお姉さんなんだろ?」
はっはっはと笑いながら彼の手をかわし続け、狭い事務室をドタバタと駆け回る。
「そうなんですか? 私はてっきり大神さんの初恋の人かと思ったんですけど……」
駆け回る二人をのんびりと眺めつつ、何やら意味深な視線の由里に、大神が情けない声で、
「べ、べ、別にそういう人じゃないよ。憶測だけで勝手な事を言わないでくれよ!」
由里の性格を心底心配して、加山を追いかけながら念を押す。
「そうじゃないのなら、別にいいじゃないか、大神。ただ男の子と一緒に野山を駆け巡って遊んでたお転婆さんってだけなんだろう?」
隅に追い詰められた加山が乾いた笑いを浮かべてそう言うと、
「う〜ん。でも、それならどうして加山さんが話そうとするのを止めるんですか?」
加山を追い詰めた大神の後ろから、怪しい笑みを浮かべて近寄る由里。
「やっぱり何か隠してますね、大神さん。キリキリ喋ってもらいますよ。うふふ」
ジリジリと怪しい笑みのまま大神に迫る。大神は彼女の方を向いて何とか押し止めようとするが、その隙に加山に羽交い締めにされてしまう。
「大神。俺とお前の仲で、隠し事は良くないよなぁ。俺も、詳細は聞いてないし」
「か、加山!」
慌てて振り解こうとするが、がっちりと極められているのでいくら大神でもそれはできなかった。
そこに、マッド・サイエンティストの狂気か取り調べの鬼刑事の迫力を思わせる威圧感を漂わせた由里が迫る。
「ゆ、由里君。もう勘弁してくれよ」
しかし、好奇心の塊のような彼女が、この程度で引き下がる筈はない。道端でヤクザ者に恐喝を受けるのは、こんな感じなんじゃないだろうかと空しく思った程だ。
「やっぱり初恋の人なんですか? そうなんですね?」
実際は、以前故郷の栃木に帰省した際に彼女に会って「『小さい時』好きだったの」と言われた事があるだけなのだが、こうも迫力をもって尋問されると「そうです」と答えなければならないような心境になってしまう。
そこに、事務室のドアが開いて一人の女性が入ってきた。
「何をドタバタと騒いでるの?」
事務室に入ってきたのはこの帝劇で事務を勤める藤井かすみである。長い髪を無造作に束ねた着物姿の、落ち着いた雰囲気の美女だ。
「大変よ、みんな。今すぐ楽屋に来てほしいんだけど」
そこで、彼女は加山の存在に気づく。何度か顔を合わせているので知らない仲ではない。彼に軽く会釈した後、
「ちょっと面倒な事が起きたのよ。急いで」
いつも落ち着いた雰囲気の彼女も、今日ばかりは落ち着きがない。何をしていいのか。どうしたらいいのか判らずオロオロとした雰囲気である。
その雰囲気を察し、ドタバタをピタリと止めて事務室を出たかすみの後に続いて楽屋へ走った。
一行が楽屋へ入ると、そこには藤枝かえでが困り果てた様子で正座していた。
この劇場の副支配人であり、帝國華撃団の副司令でもある彼女は、入ってきた面々を見るなり、
「ちょっと、この子を見てもらいたいのよ」
楽屋の畳の上に置かれた座布団に寝かされた「この子」とは……。
まぎれもない。産着をまとった幼い赤ん坊だった。
「わぁ、かわいい赤ちゃん。この子ってかえでさんの……」
「かえでさんのお子さん」という言葉をかえでに睨まれてどうにか飲み込み、適当にはぐらかそうとする由里。
「あの。かえでさん。この子は一体……」
ぽかんとした顔のまま大神は彼女に訊ねる。
「帝劇の裏口に、この子が『置かれていた』のよ」
かえでは無表情のまま、たたまれた紙を大神に手渡す。
大神は不思議に思いながらその紙を広げる。加山と由里も後ろから覗き込んだ。
『この子をお願いします』
その紙に書かれていたのはこれだけだった。
「……この子の産着に挟まっていたものよ」
かえでは無表情のままだ。
「……いくら何でも、大神さんの子供って事はないですよね?」
ぽつりと由里が呟く。それは単に噂好きゆえの根も葉もない思いつきだったのだが、
「いいっ!?」
その爆弾発言に驚いた大神がすっとんきょうな声を上げてしまう。その意外な反応に由里が、
「まさか! 大神さん、身に覚えがあるんですか!?」
由里に詰め寄られ、彼は口を引きつらせて後ずさる。
「ないよ! いい加減な憶測だけで物を言わないでくれ!」
「あ〜、そうやって慌てるところなんか、怪しいなぁ〜」
由里が意地悪そうな目でじーっと見つめている。
「由里。大神さんが困ってるでしょ。大神さんに限って、そんな事ある筈ないでしょう?」
かすみがため息混じりになだめに入る。さすがに普段から落ち着きのある彼女の事。由里の説をやんわりと否定しようとする。
しかし、一旦こうだと思い込んでしまうと、客観的に物事を判断する事ができない物だ。
「さっき話してた『姉さん』と関係があったりして……」
「か、関係ないよ。彼女とは……」
「じゃあ、どうしてそんなにびくびくしてるんです?」
その言葉に大神も困った顔になり、
「い、いきなりそんな事を言われたら、誰だって驚くよ!」
そう言い返すが、表情は堅いままだ。
「じゃあその辺の事。きっちり説明してもらいますよ! いいですね!」
ずん、と由里が立ちはだかる。将棋で言うなら「詰み」の状態だ。
「加山〜」
何とも情けない声で親友に助けを求めるが、淡々とした口調で、
「気持ちは判るが、この状況で彼女を敵に回す勇気はない」
にべもない返答。大神の顔から血の気がさっと引いた。だが、加山は、
(彼女には、単なる捨て子って可能性は思い浮かばなかったんだろうなぁ。そのうち気がつくだろう)
と気楽に考えていたりする。
しかし。
その異様な緊張感に包まれたからであろうか。今まで眠っていた赤ん坊が突然泣き出したのだ。
その声を聞いた女性陣がはっとなり、赤ん坊を囲んで逆にオロオロとしている。
「え、え〜と、どうしたらいいんでしょう?」
「由里。こういう時は泣き止むようにあやすに決まっているでしょう!?」
「そ、それは判ってるんですけど、やった事ないですよぉ。かえでさ〜ん」
由里が慌ててかえでに泣きついた。かえでも「仕方ない」とため息をつきつつ、
「あぁ、もう判ったわよ。……よしよし、いい子だから泣き止んで」
おっかなびっくり抱きかかえてあやしているが、自分の母親でない事が判るのか泣き止もうとはしない。
できるだけ優しく包み込むように抱きしめ、色々とおどけたりもしてみたが、かえって逆効果だったらしい。
「ああ。困ったわね。え〜と、どうしたらいいのかしら」
さすがに子供を生んだ経験がないために、こうした事態になるとどうしたらいいのか判らずにパニック寸前になる。その有様は副司令官とはとても思えないくらいだ。
「ちょっと貸してもらえませんか?」
かすみが差し伸べた手に、かえでが赤ん坊をそっと託す。彼女なら迷子になった子供の相手をする事がある分マシかもしれない。
「ほら。もう怖くないわよ。いい子ね〜」
まるで揺りかごのように優しく揺らしながらそう語りかける。大きかった泣き声も次第に小さくなる。
が、そこまでだった。
小さくなった泣き声が再び大きくなる。
「ああ。一体どうしたらいいの? 由里お願い」
ぽん、と赤ん坊を隣にいた由里に手渡す。手渡された由里はますますオロオロしながら
「え!? 私に言われても困りますよぉ」
「お腹が空いてるのかしら? おしめじゃ……ないみたいですし」
かすみが赤ん坊の様子からそう推測する。
「あ、私じゃおっぱい出ませんよ」
「当たり前でしょ!?」
「え〜と、厨房に牛乳があったかしら? でも、今から温めるんじゃ……」
女性陣三人で輪になってあれこれと相談するが、赤ん坊の泣き声が皆の混乱をあおるだけだった。
「……え〜と、え〜と。あ、はい、お父さん」
由里はとっさに赤ん坊を大神に渡した。勢いで受け取ってしまった大神はますます混乱し、
「ちょ、ちょっと待ってくれ! お父さんって何だよ!?」
「言葉のあやです」
「あやって……。俺だって赤ん坊なんてあやした事は……」
さっき以上に困り果て女性陣にどうにか預けようとするが、微妙に距離をとってしまっているために手渡せない。
それに生来の優しさと責任感がむくむくと沸き出し「どうにかしないと」と真剣に考えてしまう。
大神もぎこちなくかえでやかすみの見よう見まねであやし始めた。
「あ〜、よしよし、いい子だ。泣くんじゃないぞ〜」
苦笑いを浮かべていたものの、意を決してどうにかなだめようとする。
するとどうだろう。大声で泣いていた赤ん坊がピタリと泣き止み、すうすうと静かに寝息を立て始めたではないか。
それを見届けた大神と女性陣は意味もなく襲ってきた疲れと脱力感に、その場にぺたんと座り込んでしまっていた。
「……つ、疲れるわ」
「当分いいです、子供は……」
がっくりとうなだれ、ため息混じりに呟くかえでとかすみ。
「でも、お母さんってこれを毎日やってるんですよね?」
「『女は弱し、母は強し』と言いますから……」
由里が漏らした言葉に、加山がそっとつけ加える。
「大神さんに懐いてるんですから、やっぱり大神さんがお父さんなんじゃないんですか?」
何気ない由里の言葉に、かえでとかすみの動きがピタリと止まる。
「赤ちゃんが見ず知らずの人に懐くなんて、そうそうある事じゃないですし……」
彼女は小首をかしげて何か考えた後、
「加山さん」
何もせずに立っていた彼を呼びつける。
「その子のお守をお願いします。私達はする事がありますから。かすみさんとかえでさんも手伝って下さい」
そう言ってから女性陣は大神を引きずったまま楽屋を出て、隣の楽屋に入った。


大神は文字どおりの尋問よろしく楽屋の中央に座らされ、由里がその正面に立つ。
その両脇にかすみとかえでが立ち、上から見下ろしている。
かずみとかえではともかく、由里の威圧感たるや並ではない。マンガなら燃え上がる紅蓮の炎がバックに描かれているだろう。
そう。女性は別に怖い脅し文句を使わなくても男を震え上がらせる事ができるのだ。
「さて。大神さん。ホントの所はどうなんですか? 大神さんがあの子の父親なんですか?」
「ちょっと待って。まずは落ち着いてくれよ」
大神はきっぱりとそう言うものの、少々声が震えているのが情けない。
「やっぱり何か隠してるんですね!? 大神さんがそんな人だったなんて。最低! 不潔です!」
由里の集中砲火を浴びて表情が凍りつくが、それでもどうにか落ち着かせようとする。
「いい加減にしてくれ! 俺の話も聞いてくれ!」
「花組のみなさんや支配人がいたら、こんなもんじゃ済まないですよ!」
その言葉を聞いて、冗談抜きに大神の背筋に冷たいものが走る。
確かにこうなる事は目に見えているからだ。
花組の八人に、程度はどうあれ慕われている大神。
そんな男にこんな話が持ち上がったら、たとえ無実であろうとも軽蔑どころでは済まないだろう。それは男女の人間関係にうとい大神でも容易に察しはつく。
その時ドアがノックされ、若く元気な女の子の声がした。
「あの、すいません。椿ですけど……」
「どうぞ」
仕方ないとは思いつつ、由里は彼女を中に入れる。
入ってきたのは黄の着物と橙の法被が良く似合う、帝劇の売店担当の少女・高村 椿だった。
ちなみにかすみ・由里・椿で俗に「帝劇三人娘」と呼ばれている。
椿は室内の異様な雰囲気に驚いて一歩引くと、
「ど、どうかしたんですか、皆さん……」
乾いた笑顔を浮かべ、恐る恐る訊ねる。由里は先程のテンションのまま椿に向かって、
「ちょっと聞いてよ、椿。大神さんったらどこかの女の人と、結婚もしないのに子供をこさえたらしいのよ。さっき帝劇に『この子をお願いします』なんて手紙と一緒に赤ちゃんがぽつんと置かれてて……」
そこまで聞いた椿は、ようやく合点がいったという明るい顔になり、
「ああ。じゃあ、その赤ちゃんの事ですね」
「え? どういう事?」
思いがけない椿の言葉に、一同が彼女に注目する。彼女は皆に見つめられてちょっと照れたように笑うと、
「その赤ちゃんのご両親がお見えになってるんです。応接室にお通ししてあります」
努めて明るく、皆にそう言ったのだ。
かえで達は部屋を飛び出した。椿は隣の楽屋にいる加山の所へ走る。
一同が応接室に入ると、うつむき加減で思いつめた表情の二十代半ばの男女が小さくなって座っていた。多分、あの赤ん坊の両親だろう。
かえでは小さく咳払いをして気持ちを切り替えると、両親の向かい側にとすんと座る。
「初めまして。大帝國劇場副支配人の藤枝と申します」
静かにそう言って、軽く頭を下げる。両親も揃って深々と頭を下げた。
赤ん坊の両親――増子(ましこ)夫妻が語るには、勤めていた会社が事実上倒産し、仕事に行き詰まってにっちもさっちも行かなくなった末に思い余って子供を捨てたが、思い直して引き取りに来た、という事。よくある話だ。
十数年前にあった欧州大戦。それに端を発した戦争と時勢に乗った軍需産業がもたらす景気によって、日本の経済は上向きの好景気だった。
しかし、好景気は永遠に続くものではない。少し景気が翳れば潰れる企業が出ないとは限らない。それが会社の運営。冷たい現実というものだ。
どんな事情があったとしても、幼い我が子を捨てるというその苦渋の選択には同情を禁じ得ない。
そこに、お茶を持ってきた椿と赤ん坊を抱えた加山が入ってきた。
無事に眠っている赤ん坊を見た夫妻の目が安堵に満ちる。
椿が静かにお茶をテーブルに置いてすっと下がった時、加山が口を開いた。
「あなた方が、この子のご両親ですか?」
「え、ええ……」
「残念ですが、この子を返すわけにはいきません」
加山は、はっきりとそう言い切った。

<中編につづく>


文頭へ 進む メニューへ
inserted by FC2 system