『刀が行方不明 弐』
その頃。裏御三家の破邪の血筋を今に伝える娘・真宮寺さくらは、大帝国劇場にやって来た中年の男と相対していた。
両端が綺麗に跳ね上がった八の字髭――カイゼル髭が目を引く、中肉中背の男。
この時代の流行だったから別に珍しいものでもなかったが、軍人には比較的このカイゼル髭を生やす人間が多かった。
しかし男が着ているのは舶来物らしき地味な色合いの背広に黒いネクタイ。それに帽子を被っているところから見ても、軍人という訳ではなさそうである。
だがその威風堂々としたたたずまい、凛とした表情は軍人のそれを思わせた。
だからだろうか。別に気圧された訳でもないに、さくらの応対が不思議と二、三歩引いた感じになってしまった。
「あ、あの。今日は公演はないんですけど、何かご用でしょうか……」
男は静かに笑い、帽子を取って軽く一礼すると、
「あなたは、この劇場の方ですか?」
「は、はい。そうです」
その生真面目だが妙に親しみのある言い方に、思わずさくらは頭を下げてしまう。
「つかぬ事をお伺いしますが、こちらの劇団員の『真宮寺さくら』さんというのは……」
いきなり出て来た自分の名前にさくらは驚いてしまい、必要もないのにあたふたとした態度で、
「は、はい。わたしです。わたしが真宮寺さくらです!」
折れた稲のようにカクンと九十度のおじぎをしてしまう。
もう何年も女優として舞台に立っているにもかかわらず、こうして舞台を下りて見知らぬ人と一対一で相対すると不思議と緊張してしまうのだ。その辺の不器用さが逆に彼女の魅力と写るのだが。
すると男は一瞬拍子抜けしたようにぽかんとしていたが、さくらの顔を見つめてホッとしたような笑みを浮かべると、
「……もしや。お父上の名は真宮寺一馬殿とおっしゃいませんか?」
その一言にさくらは鋭く反応してしまう。
「ち、父をご存知なのですか!?」
さくらは目を点にして驚いていた。その驚き具合を見て「やはりそうか」とうなづくと、
「ええ。私の上官でありました。もう十五年以上も前の話ですが」
きっと当時を思い返しているのだろう。ふとどこか懐かしい話をしそうな穏やかな目になる。
しかし、男は小さく咳払いをすると、しっかりとさくらに向き直り、
「失礼。私は上尾(あげお)と申します。真宮寺中佐――いや、もう大佐になられているでしょうな。お父上はお元気ですかな?」
上尾と名乗った男の言葉に、さくらの表情が一瞬こわばった。だがすぐに小さな、そして寂しそうな笑顔を作ると、
「……父は、十年前に亡くなりました」
実の親が亡くなった報告を笑顔でするのはどうかとも思ったが、初対面とはいえ生前の父を知る者に辛い顔を見せたくない、という気持ちが働いたためかもしれない。
「そう……ですか」
だがその事実は、娘であるさくら以上に上尾の胸を貫いた。力なく肩を落としたばかりか、立派なカイゼル髭がどことなく萎れてしまったようにも見える、そんな落胆ぶりだ。
だがすぐに彼女に向き直ると、本当に申し訳なさそうに、
「これは失礼を致しました。退役して父の跡を継いで伊太利(イタリア)へ行っていたものですから、日本の事情にはうとくて、申し訳ありません」
さくらに向かって深々と頭を下げる上尾。そこまでして謝られたさくらは、逆に申し訳ない気分になると、
「どうかお顔を上げて下さい。父は自分のなすべき事をなしたと言っていました。その上での死ならば……未練はなかったと思っています」
それでもどこか誇らしく、彼女は静かに語った。
彼女の父・真宮寺一馬は、かつて帝国陸軍に在籍する大佐であった。
この帝國華撃団の前身とも言える帝国陸軍対降魔部隊に配属され、破邪の血と生まれ持った霊力を駆使して、この帝都を――文字通り命懸けで守り抜いたのだ。
だが、一馬自身はその死闘の末に命を落とす結果となってしまった。
一馬が亡くなった当時は彼女も十二、三の少女。
父を失った辛さ、苦しさには絶えられず、破邪の血を恨んだものだが、今ではほんの少しだけその重荷が苦にならなくなっている気がしている。
人の死というものはそうなのかもしれない。だが、人の死ぬ事に慣れる事は決してないだろう。この先も。
その時、不意に誰かの会話が聞こえてきた。目だけでそちらを見ると、米田が誰かと別れ、こちらに歩いてくるのが見えた。
「おぅ、さくら。どうした。お客様か?」
声をかけつつ、米田は上尾を一瞬だけ油断なく睨みつける。しかしすぐに好々爺のような笑顔を浮かべると、
「今日は公演のない日ですが……」
「……もしや、あなたは米田陸軍中将閣下では?」
上尾の顔が明らかに強ばっている。十五年以上も前の話とはいえ彼も陸軍軍人。雲の上の存在である中将を目の前にして緊張を隠せなかったのだ。
「いかにも米田だが。お前さんは?」
すると上尾はすかさず背筋を伸ばして敬礼すると、
「元帝国陸軍中尉の上尾と申します! かつては真宮寺一馬殿の下におりました!」
凛とした声がエントランスに響く。その声に何事かと振り向く職員さえいたため、米田は敬礼を止めさせると、
「今日は軍人遭遇の当たり日かぁ?」
ぼそっと小声で口にする。幸い、それが聞き止められる事はなかったが。
それから中将らしく、少々威厳のあるよう胸を張ると、
「ここは劇場だ。軍人言葉は控えてくれ」
「はっ!」
条件反射なのか、敬礼は止めても声と直立不動の姿勢は変わらない。
軍隊で叩き込まれた立ち居振る舞いは、軍を止めて随分経ってもすぐには直らないらしい。
米田は苦笑いしたまま、劇場内の食堂の方を指差す。
「まぁ、立ち話もなんだ。その辺でゆっくり……」
食堂は公演のない時でも一般に開放されている。和洋様々なメニューが揃っており、中でも「帝劇ランチ」は評判のメニューだ。
米田が食堂へ案内しようとしたが、ふと何かを思いついたような顔で、
「それとも、こっちの方がいいかな」
米田は盃で酒を飲む仕草をしてにやりと笑う。
「あの……」
不意にさくらが口を開いた。
「わたし、そろそろ雑誌の取材で出かけないとならないので、これで……」
その言葉に二人の男は顔を見合わせる。
「判った。しっかりな」
「お忙しいところをお引き止めして申し訳ありませんでした」
手を振る米田と頭を下げた上尾の二人に見送られ、さくらは奥へ駆けて行った。
さくらが奥に消えたのを見計らい、米田は上尾に声をかけた。
「一馬の部下だって言ってたが……やっこさんの事、聞いてるかい?」
反射的に背筋を伸ばしかけたが、上尾は一所懸命にそれを止める。
「……はい。亡くなっていた事を、今しがた、お嬢さんからお聞きしました」
上尾の声にはやはり力がない。
「自分にとって、真宮寺殿は憧れでありましたから」
空元気にしか聞こえないその言葉に、米田も「そうだろうな」と納得した。
文武両道を絵に書いたような男で、温和な顔に似合わぬ、曲った事を許せぬ一本気な気質。
人には優しく自分には厳しいが、それらを自慢げにひけらかす事もない。
しかし規律に縛られた四角四面の頑固さなど無縁の柔軟さも持ち合わせているという、非常に出来過ぎた男だ。
「男が惚れ込む男」とは、彼のためにあるような言葉である。
そんな男を部下として、そしてかけがえのない仲間として共に対降魔部隊で戦い抜いた事は、米田一基一生涯の誇りである。
「町でこちらの劇場のポスターを見かけまして。そこに『真宮寺さくら』とあったものですから、もしかしたら真宮寺殿のお嬢さんかと思い、つい……」
確かに真宮寺という苗字は全国でも珍しいだろうから、上尾がそう考えたのも当然だろう。
「そうだったのか。済まねぇな、わざわざ」
「いえ」
上尾が短く返答する。
一方米田は彼の顔、ひいてはその目の奥を射貫くように見つめると、
「どなたか、亡くなったのかい?」
唐突に問われて上尾は返答に詰まったが、
「洋装の喪服は、地味な背広に黒いネクタイって聞いてるからな」
この時代、まだまだ洋装が広まっているとは言えなかった時代である。米田はともかく女性であるさくらが男性の洋装に詳しい筈もなく、気づかなかったのは無理もない。
「……いえ。死んだ父の命日の、墓参りです」
気まずそうな上尾の言葉だ。彼はさらに、
「本当は一月以上も前なんですが。伊太利での仕事が片づかなかったもので」
なるほどと米田は思った。確かに遠い欧羅巴(ヨーロッパ)からでは、日本へ来るだけでも時間がかかる。
「それから、昔なじみがケガで入院したと聞いたので、それを見舞ってきました」
米田は名も知らぬ若者――米田から見て、だが――の無事に安堵する。だが、同時に奇妙にも感じていた。
先日まで世間を騒がせていた「魔」の者による侵攻は、このところ全くと言っていい程ない。
戦争もしていないし、大規模な暴動事件もない。更に言うなら凶作で人々が飢えたという報道もない。
「立ち入った事を聞くようで済まねぇが、その昔なじみのケガってのは、何か事故にでも遭っちまったのか?」
米田が不思議そうに訊ねたのも無理はないだろう。
すると上尾はグッと唇を噛んで押し黙ってしまった。その様子に米田は彼をなだめる様に、
「いや。話したくねぇなら、無理に話さなくったっていい」
「いえ、違うのです」
米田の言葉を遮るように声を荒げてしまう上尾。だがすぐに申し訳なさそうにうなだれると、
「……不可解だったんです」
「不可解?」
言葉の意味はすぐに判ったが、米田がそう返答するまでに三呼吸分程の時間を要した。
上尾は、うつむいたまま言葉を絞り出すように苦しげに語り出した。
「彼は神田で剣道道場の師範代をしているのですが、その道場の庭で……」
「それのどこが不可解なんでぇ? 竹刀や木刀の当たり具合が悪くてケガでもしちまったんだろ?」
師範代や師範であっても、そういったケガからは無縁ではいられまい。話の途中で口を挟んだのは当然である。
「頭を『何者かが握り潰したように』握られて、頭蓋骨にヒビが入ったそうで」
続きを聞いた米田が訝しんだのは無理もないだろう。
大の大人の頭を握り潰し、骨にヒビを入れられる者。そんな者がどこにいるのだろう。どんな力自慢でも、普通の人間にできるとは到底思えない。
まるで、魑魅魍魎の仕業のよう――そう考えたのは、あまりにも突拍子もない事だろうか。
だが、長年「魔」の者と戦ってきた彼の勘が、放っておけないと何かを訴えている。
しかし、もう彼は華撃団の司令官ではない。
それでも個人的な頼みくらいは聞いてくれる。先程の加山のように。
ところが、今この場にそういった荒事を頼める人間は、あいにく誰もいない事は判っていた。
だからこそ彼は決意した。
「ここは一つ、老兵が重い腰を上げてやろうか……」
その決意に満ちた米田の呟きは、誰にも聞こえる事はなかった。
もっとも、聞こえていたら「年寄りの冷や水ですよ」と言われるのが関の山だったろうが。


「ほぅ。伊太利で美術品の貿易をやってんのか」
道すがら上尾の話を聞いていた米田が、感心しつつうなづいていた。
「兄がいたんですが、流行病で父と兄を亡くしまして。それで自分が継ぐより他なくなって、退役しました」
わざわざ軍に入った者を呼び戻すとは、どこの家庭にも複雑な事情という物があるようだ。米田は口に出さずにそう思った。
「美術品ってぇと、あれかい。壷とか絵画とか、そういう奴かい?」
「はい。自分のところでは掛け軸や浮世絵が多いですね。向こうの人は喜んで高く買ってくれています」
文明開化の世になってから、日本古来の浮世絵や日本刀が海外に「美術品として」流出するようになった。
日本刀を使う米田としては、浮世絵はともかく日本刀が「美術品」というのは納得がいかないのだが、姿形の美しさは認めている。
「特に向こうは漢字が珍しいようで。よく『ここに何か漢字を書いてくれ』と色紙を渡される事もありますよ」
「なんでぇ。向こうじゃ漢字も美術品になっちまうのか?」
「さあ、どうでしょう。珍しい事は確かですが」
そう楽しそうに話す上尾だが、その表情はどこか暗さがある。心底楽しそうに見えないのだ。
それも、仕事が辛いという感じではない。もっと別な物だ。
「……退役した事を、後悔してやがんのか?」
上尾の心を見抜いたような、米田の一言が彼の胸に突き刺さる。
事情が事情とはいえ、辞めた職場の上司と共にいるのだ。気が気でないのだろう。
「お国を守るのも重要な役目だが、家督を継ぐのも男子たる者の重要な仕事だ。しょうがねぇだろ」
退役した事を悔いているように見える上尾に、米田は笑ってそう言った。
上尾はその気遣いに心から感謝すると、道案内を続ける。
「この角を曲って、すぐのところです」
言われた角を曲ると、なかなかに大きな屋敷が見えてきた。確かに町名こそ神田ではあったが、神田の中でも北の外れに建てられていた。そこが事件のあった道場なのである。
『源武館剣道道場』
おそらく道場主の筆だろう。達筆というよりは力強さ、そして闊達な印象すら感じる。
典型的な日本家屋にして道場の門構えは、非常に立派である。それだけこの道場が流行っている事の証であろうか。
剣道とは、剣を使って戦う技術を磨くためだけのものではない。
身体を鍛え、心を研ぎ、礼節を学び、一人の人間として成長する。そういった物でもなければならないからだ。
そういった事を学んだ人間が一人でも多くなってくれる。一介の軍人として、そして剣の使い手として米田はそれを嬉しく感じていた。
しかし、時刻はそろそろ夕方になろうかという頃合だ。
流行っていそうな道場にしては、そこに出入りする門下生の姿が全くないというのはおかしい。
かといって道場の奥から声が聞こえてくる訳でもない。静まり返っている。
それどころか、通りには通行人すらほとんどなかった。
「あんな不可解な事件があったばかりですからね。門下生も減ってしまったのでしょう」
少し寂しそうに上尾が口を開く。
明冶の文明開化以来五十年余。西洋から様々な物が入ってきて、それらを貪欲に取り入れていった日本。
物珍しさも手伝って、日本古来の物から離れていく若者が多い昨今。それも致し方ない事なのだろう。
「……まったく、人っ子一人いやがらねぇな」
注意深く周囲を見回す米田がつまらなそうにぼそっと呟いた。
「おかしいですね。師範殿は道場にいる筈なのですが」
上尾も建物の中を覗き込もうと首を伸ばす。しかし外から建物の中が見える訳もない。
「けど、このままここに突っ立っててもしょうがねぇ。お邪魔してみるとしようか」
一歩踏み出そうとした時、ふいにその足が止まった。それから後ろの上尾をちらりと見ると、
「あ、お前さんはここにいてくれ」
「な、なぜです?」
唐突な米田の言葉に、上尾は勢い込んで訊ねた。
すると米田は一見つまらなそうにため息をついた。だがその本心は違っていた。
枯れかけた米田のわずかな霊力が、道場から漂った「気配」を感じ取っていたのだ。この世にあらざる者の気配を。ほんの一瞬だが確かに。
魑魅魍魎という存在を相手に、霊力抜きで戦うなど正気の沙汰ではない。自殺行為もいいところだ。
だが、老いた今の自分には全盛期の三割程の霊力しかない。もしかしたらそれ以下かもしれない。
まともな戦いになるかは正直微妙だ。
そんな戦いに一般人を巻き込む事はできない。しかし詳しい事情を話して信じてもらえる保証もない。
「元軍人とはいえ、戦いに民間人は巻き込みたくねぇよ」
言ってから「しまった」と米田は後悔した。これでは何かいると言ってしまったも同然だ。
「何かいるんですか? ならばなおさら中将殿を一人で行かせる訳にはいきません」
「いろんな修羅場をくぐり抜けてきた俺にゃ判るんだよ。この先に待っているのは生半可な奴じゃねぇって事がな」
静かだが強い意志のこもった言葉に、上尾は気圧されたように押し黙った。
「済まねぇが、お前さんに頼みてぇ事がある」
ふいに米田が口を開いた。
「同業者に、刀剣に詳しい奴はいねぇか?」
「おります。この近所に店を構えている、父の知り合いが」
米田はその返答に笑顔を浮かべると、
「実は、昔の部下の息子が、なくなっちまった親父の愛刀を探しててな。元は紀州椎出(しいで)神社の御神刀だった代物だそうだ。そいつが競売にかけられていたらしい」
いきなり始まった話に、上尾は黙ってその言葉を聞いている。
「商売上の道義ってのがあるかもしれねぇが、それらしい日本刀の情報があったら、根来っていう若い陸軍士官に教えてやっちゃくれねぇか」
上尾はいきなり何をと言いそうになったが、米田のその目は真剣そのものだった。
口調こそべらんめえ調だが、その目には己の意志を決して曲げない、強い決意がありありと写っていた。
皆が憧れ、尊敬してやまぬ、英雄と称えられるに相応しい――陸軍中将の肩書きに相応しい軍人の目だ。
「さっきも言ったが、今のお前さんが一番にしなきゃならねぇのは俺の援護じゃねぇ……」
米田はそこで言葉を切り、上尾に背を向けた。
危険な事に巻き込みたくないが故に、あえて冷たく突き放す。そんな優しさもあるのだ。
決して器用とは言えない、不格好な男の優しさ。それが判るだけに、押し黙るしかなかった。
「……それに、これ以上若い奴らに順番越されるのは、御免なんでな」
「ちゅ、中将。それはどういう……」
「とにかく!」
上尾の言葉を遮って怒鳴りつける。
「心配すんな。死にに行く訳じゃねぇ。やばかったら逃げるくらいの頭はあるさ」
それから、ゆっくりと振り向く。その表情はとても戦いに行くと言ったとは思えない程穏やかな物だった。
「今言った事、頼んだぞ。……上尾元中尉」
上尾は観念したのか覚悟を決めたのか、晴々とした顔で、その場でゆっくりと敬礼をした。
「…………了解致しました、中将殿」

<参につづく>


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