『中年と青年のファーロウ 後編』
スーツケースのタイヤをガタガタと言わせながら、クルツは久しぶりの秋葉原の町を満喫していた。
ギター屋が並ぶ御茶ノ水の駅から電車で一駅。距離にして一キロもないのである。天気が良ければ歩いてもいい距離だ。
中学時代は電車で御茶ノ水の駅へ向かい、ギター屋を冷やかした後は歩いて秋葉原まで向かい、電気街の店を色々見て回ってもいたのだ。だいたいの地理は今でも頭の中に入っている。
秋葉原はクルツが知る頃から日本いや、世界有数の電気街である。その前身となった無線機やラジオの部品を売る個人商店やジャンク・パーツを扱う店がガード下の一画に今も残っている。
それがコンピュータやゲームの街を経て、現在ではアニメやマンガなどの、いわゆるサブ・カルチャーの発信基地という一面が大きく取りざたされるようになったため、街のイメージはだいぶ変わったといってもいいだろう。
だがそれでも彼がよく知る大型家電店は残っていたし、町並みもそのテのアニメやマンガのポスターが目立つかなーというレベルにしか思っていない。
一番の変化は駅前の再開発工事だ。立ち寄った店の店番に「外人を装って」片言の日本語で聞いたところ、近い将来大きな商業ビルがドンと建つらしい。
便利になるのは嬉しいし有難いが、昔ながらの光景がなくなってしまうのは、昔を知る人間の一人として一抹の寂しさも感じていた。
日本の街だから当然道往く人々は日本人ばかり。でも中には明らかにそうでない人種も多く見てとれた。きっとついでに電化製品を買って帰るつもりの観光客だろう。
今ではここで買い物をするためだけに日本に来る外国人もかなりいる様で、そこら中に「免税店/DUTY-FREE」の看板を見かける。
日本の電化製品は高品質だと世界中に広まっている。以前アメリカなどであったジャパン・バッシングの時、日本製品を壊すパフォーマンスを映していたビデオ・カメラが日本製だったという皮肉もあったくらいだ。
おかげでクルツの買い物は大変な物となった。頼まれた電化製品の種類が揃いも揃ってバラバラなので、大きな家電店を一フロアずつ回って買い物をするハメになったのだから。
だがそれでも皆に頼られるのは悪い気分はしない。クルツはそんな事を考えていた。
『タカイヨ、タカイヨ。マケテ、マケテ』
金髪碧眼という自分の外見を最大限に利用して外国人観光客の振りをすると、向こうも「しょうがないなぁ」と言いたそうにして『一二〇〇〇円だけど一〇〇〇〇円でいいよ』とまけてくれたりもする。
大型の家電量販店では英語くらいなら充分通じるのであまり使えないが、そうでない玩具店などでは日本語しか通じないケースがほとんどなので効果覿面だ。
物心ついた頃からの日本暮らしで自分の中身は日本人だと思っているクルツにとっては、少々良心が咎める部分もあるのだが、限られた予算の有効活用という大義名分で大目に見る事にしていた。
そんな訳で。スーツケースの中には頼まれた日本の品物が一杯。手にもビニールや紙の手提げ袋がいくつもある。端から見れば完全におのぼり観光客だ。
唯一の誤算は、スーツケースの留め金が何かの衝撃で壊れていたらしく、ちょっと派手なショックを与えると外れてケースが開いてしまう事だ。さっきも危うくX指定の雑誌を路上にぶちまけてしまうところだった。
なので、ガタガタいう路面にどこかビクビクとしながら街を行くのである。メモ帳を片手に。
そのメモ帳には買い物リストがビッシリと書かれており、もうそのほとんどが線で消してあった。
クルツはガードレールに腰かけると、買い物リストに漏れはないかチェックし出した。
「デジカメにMP3プレイヤーにノート・パソコンに電子手帳。電動ハブラシにヒゲ剃りに家庭用カラオケセット。ゲームボーイのソフトにプレステのソフト。少年ジャンプのコミックスにジブリ・アニメのDVD。食品サンプル。ガンプラ。グレンダイザーとボルテスVの超合金。日本限定発売のトランスフォーマー……」
調子に乗ってホイホイ引き受け過ぎたかとも思ったが、街に慣れていた分大した苦労をせずに済んでいた。
それに帰って品物を渡した時の「ありがとよ」の笑顔を思い浮かべれば、その苦労も充分報われるというものだ。その相手がゴツくムサい男どもで、しかも「貸した金はいいから、その代わり行ってこい」という交換条件であったとしても。
「……駄菓子に日本茶にレトルト・カレーにカップ・ヌードルのシーフード味。ってカップ・ヌードルなら基地でも売ってるぜ。ったく」
日本生まれのカップ・ヌードルも現在では世界中で売られている。だが名前が同じ味でもその土地に合う味付けに変更されている事が多く、日本版の味のファンも数多いのだ。
食べ物の名前が出たためか、何か軽く食べて行くのもいいか、とクルツは思い始めた。時計を見ると三時を回ったという頃合だ。おやつと考えてもちょうどいいだろう。
だが昔から、秋葉原には「機械はあっても食事がない」と云われている。
全くない訳ではない。大通りから少し裏道に入れば小さなレストランや食堂はちらほらとある。だが小さいだけにこんな大荷物を抱えていくのはさすがに大変だろう。
さっき聞いた駅前の再開発が終われば少しはそうした店も増えるだろうが、さすがにそれまで待つ余裕などある訳がない。
それに、いくら日本は他の国と比べて治安がいいといっても、店の外に置きっぱなしというのはさすがに不用心だ。
せっかく久しぶりの日本なのだから、コンビニやファスト・フードで済ませるのも味気ない。そう考えている時だった。
真後ろからタイヤが軋むかん高い音が響いてきた。この音はおそらく車だ。自転車やバイクではない。
とっさにガードレールから飛びのいて振り向くと、白い軽トラックが反対車線にはみ出しながら大きく蛇行運転をしているのが目に入った。
いくらガードレールがあるとはいえ、自分めがけて突進してくる車に驚かない訳はない。彼は慌ててスーツ・ケースを抱えようとした時、そのトラックはガードレールすれすれをかすめてまた反対車線に向かって行った。
自分にぶつからなかった事に一瞬安堵するクルツだが、あの様子ではすぐにガードレールや対向車にぶつかって大惨事になる事請け合いだ。
案の定。ガツンと大きな音がしてガードレールにぶつかる。そのまま一〇メートルほど先までガリガリと車体側面をこすりながら進んだ後、ようやく止まった。
その音を聞きつけた通行人がわらわらと集まってくる。クルツもつい釣られたように荷物を引きずるように車に近づく。
見ると車の運転手は、何故か「助手席から」よろよろと出てきた。その足取りはかなりふらついているが、自分で動けるのだからケガの程度としては大した事はないのだろう。
たまたま通りがかったらしい自転車に乗った女性がわざわざ自転車から降りて「大丈夫ですか」と声をかけている。だが、
『うらっさぁっげえ!』
意味不明の怒鳴り声を上げ、彼女が差し出した手を乱暴に払いのけた。
それに驚いて運転手をよく見ると、顔色がかなり赤い。目も据わっている。それに近づいてよく判ったが、かなり酒臭い。典型的な酔っ払いだ。
『っにってんだああっ!』
舌が回らないほど酔っぱらっているその男は、手を払い除けられて驚く目の前の彼女を荒っぽく、そして力いっぱい蹴り飛ばしたのだ。
その女性は小さな悲鳴を上げて、クルツの目の前に転がってきた。その行動に周囲の野次馬は凍りつき、ジリジリとその場から離れようと腰が引けているのが判った。
だがクルツは違った。別に取り押さえられる自信があった訳ではないのだが、自分の目の前に転がってきた女性を放ってだけはおけない。そう思ったからだ。
『大丈夫かい、あんた』
荷物をその場に置いたクルツは日本語でそう声をかけ、すかさず彼女を助け起こそうとする。
彼女は自分と同じくらいの年頃の日本人女性だった。なかなかの美人であり年相応の成熟した色気を感じさせる。
蹴り飛ばされた衝撃でまとめていた髪がバラリとほどけて流れてしまっており、そんな長く綺麗な髪が清楚な熟女という雰囲気をかもし出し、やもすると年上に見えるくらいだ。
清潔そうな白いシャツに細身の黒いスラックス。洒落たバーの店員といっても通じそうである。
これがパンツではなくぴっちりとしたタイト・スカートに黒いストッキングだったらなお良かったのだが。彼はそんな事を考えて視線を上にずらす。
そんな彼女がしているのは薄緑色のエプロンだった。胸のところには「喫茶 みどりや」と店のロゴが入っている。
(……うん。なかなかだ)
ロゴを見たついでにエプロンを押し上げているたわわな胸を一瞬だけ観察するクルツ。
昔の人は言いました。大きい事はいい事だ。
しかし女性の胸に限っては、大きいに越した事はないが大きければそれでいいというものではない。大事なのは腰やお尻を含めたメリハリと全体のバランスだ。
しかしいつまでも観察をしている訳にはいかない。クルツはじっくり見ていたい衝動と激しく戦って、どうにか酔っ払いに目を向けると、
『てめぇ、なにしやがんでい!』
まるで時代劇の岡っ引きのようにべらんめえ調で怒鳴りつける。金髪碧眼の外国人が流暢な日本語で怒鳴ってきた事に酔っ払いはぽかんとしていたが、
『てえっつぉんだあっ! ええっ!』
またも判らない怒鳴り声を上げて助手席から車の中に引っ込んで行く。だが出てきた時片手に持っていた物は――なんと日本酒の一升瓶。片手で軽々と持っているところから見ると、多分中身は空だ。
中身があろうとなかろうと、振り回せばそれは立派な凶器である。対するこちらは立派な丸腰だ。
『っざえんだあっ!』
酔っ払いはその一升瓶をブンと振り回してクルツに殴りかかる。もちろん彼は難なくそれをかわし、彼女に『ここから離れろ』と短く言って男と対峙する。
その光景に周囲の野次馬達はようやく悲鳴を上げて逃げ出す者が出始めた。しかしそれでも逃げずに携帯電話を取り出して写真を撮っている者までいる。立派な野次馬根性と言えるだろう。
一方、一升瓶をかわされてふらふらとたたらを踏む男だが、かろうじてバランスを保って倒れる事だけは防いだらしく、もう一度瓶を振りかざしてきた。
クルツはとっさに足元のスーツケースを持ち上げて、それを盾に一升瓶を防いだ。その衝撃で一升瓶が鈍い音を立てて割れてしまう。
だが。同時に壊れかかっていたスーツケースの留め金までも壊れて蓋が開き、その中身まで路上にぶちまけられてしまった。おまけに心配していたX指定の雑誌が堂々と表紙を向いている。
『やべっ』
年齢的には持っていたところで法的な問題は何もないのだが、こういった物は他人には極力見られたくないのが男心というものなのである。
酔っ払いは半分ほどの長さになってしまった一升瓶を見つめ何やら瓶に話しかけている。攻撃をしかけてこないのはいいのだが、荷物をかき集めて逃げる時間はないだろう。
だがそこでクルツは思った。瓶という事は立派なガラスだ。ガラスの切り口は下手な刃物などよりよほど切れ味がいい。
こちらは盾がなくなった上に散らばってしまったお土産のせいで動きも取りにくい。だが動けてもこのままでは無関係な人間が傷つきかねない。下手に動けない。
(やっべー)
そもそも相手の武器を強化してどうするんだ。クルツは舌打ちして酔っ払いを睨みつけた。
もちろんクルツも伊達に傭兵ではない。得意なのはライフルでの狙撃だが、格闘戦が不得手という訳ではない。でもライフルと比べればかなり見劣りする腕前である事は確かだ。
しかし酔っ払い程度なら、相手が武器を持っていたって素手で無力化はできる。できはするのだが――
(やっぱり武器の一つも欲しいぜ)
相手は理屈の通じない酔っ払いである。プロフェッショナルやスペシャリストよりもある意味動きが読めないのだ。
どうしたものかと珍しく頭をフル回転させていると、足に何やら当たった感触を感じた。そっと視線を下げると、何やら筒状の物がチラリと見えた。
(ったく、ないよりマシか)
なるべく相手から視線を逸らさずに、素早く筒状の物を拾い上げた。
よく見てみれば、それは玩具屋で買ったライトセーバーの玩具だった。立ち寄った玩具屋で、試供品として使っていたために汚れてしまった物を、定価の半額で譲ってもらった物である。
ライトセーバー。一見すると三〇センチほどの太い筒でしかないが、筒の先から伸びるビームは刃となってあらゆる物を斬り裂く事ができる。
……なんて事ができるのは映画の中だけだ。これは純然たる玩具。筒の先から出てくるのは伸縮式の警棒のようなプラスティックの棒だけだ。しかも光って音が出る。
(ない方がマシだ!)
クルツの心の叫びを無視し、酔っ払いがさっき以上に身軽になった酒瓶を振り回して襲いかかってきた。
そんな時、思わず手元にあったスイッチに力が入る。すると、
ヴォォ……ン。
鈍い電子音と共に、筒の先から真っ赤なプラスティックの棒が、赤い光を放ちながら勢いよく飛び出したのである。
それが何と。酔っ払いの喉にどすんと食い込んで相手の呼吸が一瞬止まる。反射的に大きく咳き込む。その反動で手にした酒瓶も落とす。
思ってもみない事態に一瞬ぽかんとしたものの、その隙を見逃すほど素人ではない。クルツは一歩で間合いをつめると、自身の拳を相手の顎をかすめるように叩き込んだ。
どんな人間でも、顎に強い衝撃が加わると平衡感覚が乱れて立つ事もままならなくなる。くわえて酔っ払いだ。それで完全に平衡感覚を無くしてペタンと尻餅をつき、その後ぱたりと倒れた。
「真っ昼間から呑んだくれてんじゃねえよ」
英語でそう呟くと、相手が動かなくなったのを確認し、クルツはようやく安堵した。誰かが通報したらしく、警官が二人ほど走ってくるのが見えた。もう大丈夫だ。
クルツが辺りを見回すと、さっきの女性が呆然と立ったままなのが見えた。クルツは相手を落ち着かせるように優しく、
『ケガは大丈夫かい?』
金髪碧眼のいかにも外国人という人間が流暢な日本語を話してきたからだろう。一瞬驚いて呆気に取られていたが、
『は、はい。どうも有難うございました』
褒めたくなるくらいの勢いでカクンと頭を下げて礼を言う女性。
『そいつは良かった』
笑顔でそう言ってから颯爽と歩き去りたかったが、その前に散らばってしまったスーツケースの中身を懸命に拾い集めるクルツ。もちろん瓶の破片に気をつけて。見かねてその女性や周囲の野次馬もテキパキと手伝ってくれる。
皆口々にクルツを凄いと賞讃する。やってきた警官も「勇敢だねぇ。でも危ないから」と真剣に諭された。さすがに彼の外見からつわものの傭兵というイメージは出てこないだろう。
一応現場検証や事情聴取などがあり、クルツも彼女もしばし警察から色々と聞かれはしたものの、割とすぐに解放された。拾っているところを見られたX指定の雑誌に苦笑いされながら。
しかしクルツのおかげで被害は大きくならずに済んだのだ。言うなればちょっとしたヒーローである。
警察と話している間、野次馬が携帯電話で写真を撮りつつそのように褒め讃えていた。
(これ、悪役の武器なんだけどなぁ)
当のクルツはしまい忘れた赤い刀身のライトセーバーの玩具を片手に複雑な表情を浮かべていた。


そろそろ行こうと荷物をまとめた時、マナー・モードにしておいたクルツの携帯が激しく震えた。舌打ちして紙袋を置き、ポケットの携帯電話を取り出してみると、液晶画面に「FROM : NICHOLAS」の文字が。
「何だ、あのおっさん」
若干しかめた顔で通話ボタンを押した途端、
《やったよ若者! リチャードに勝ったよ!!》
携帯電話が拡声器に化けたかのような大ボリューム。その声は明らかにさっき別れたニコラスである。
そのボリュームにももちろん驚いたが、それ以上に驚いたのはその声のテンションだ。その上がり方たるや、上がり過ぎて死んでしまうのではとこちらが心配になるほどだ。
だがそれだけ嬉しいのだろう。そして、その嬉しい知らせを会ったばかりの自分にもこうして届けてくれる。
電話の向こうから漏れてくる歓声に苦笑しつつも、クルツはニヤニヤとした笑いを抑えられなかった。
「判った判った。おめでとさん。けど声がデカ過ぎ。店にも迷惑だろ?」
《……いや、済まない若者。本当に嬉しかったんだよ。奇跡の逆転劇だ》
ようやく普通のボリュームになったニコラスの声が電話から聞こえてきた。それでもクルツは耳の穴を指先で押さえつつ、
「こっちも買い物終わるから。そうしたら電話入れるよ」
《判った。僕達はもうしばらく店にいるよ。『喫茶 みどりや』だよ》
「おう、判った。『喫茶 みどりや』だな」
クルツはそう答えながら「どこかで聞いたような……」と言いたそうにキョロキョロしだす。そして目的の物を見つけた。
さっき助けた彼女の胸……ではなくエプロンの胸の所に、確かに「喫茶 みどりや」とあった。なるほどと納得する。
しかし変だった。もう事件の聴取は終わっている。きちんとお礼も言ってもらえた。店のエプロンをして自転車に乗っていたのだから、きっと何かの用事の途中だったのだろう。この場にとどまり続けているのは妙だ。
先程のやりとりを目撃していたらしく、クスクス笑っていた彼女はすっとクルツに近づいてくると、
『良かったら、これ、使って下さい』
彼女の手にあったのはゴム製のロープだった。自転車の後部に物を載せて固定するための、フック付きロープである。
『スーツケースの留め金が壊れてしまったんでしょう? これで縛れば応急処置にはなりますよ』
自分の自転車の荷台に巻いてあったこのロープを、わざわざほどいて持ってきたのである。
事実クルツのスーツケースの留め金はとうとう壊れてしまっており、今は蓋をした状態で「寝かせて」ある。
『あぁ。けど悪いっすよ。仕事中っぽいし』
秋葉原の外れには業務用食材を揃えてある、二四時間営業のスーパーがある。そこへ買い出しにでも行くのだろう。そう読んだのだ。
『大丈夫ですよ、すぐそこですし』
『こっちこそ大丈夫っすよ。こんなのその辺のガムテープで止めとけば』
何となく日本人らしい言葉のやりとりに、彼女は小さく吹き出すと、
『では、そこまでつき合って戴けますか』
彼女は営業用スマイルではない、楽しそうな笑顔でそう提案してきた。クルツが即乗ったのは言うまでもない。
彼女は自転車にまたがらず、ハンドルに手をかけた状態でゆっくりと歩き出した。すかさずクルツも隣に並んで歩き出す。
ところが、彼女が二四時間営業のスーパーとは反対方向の裏道へ入るのを見て驚くと、
『外人さんはご存知ないでしょうけど、昔この辺りに青果市場があったんです。その名残りで、今でも果物屋さんが数軒あるんですよ』
さすがに日本暮らしが長かったクルツも、秋葉原は電気街という面しか知らない。その話は初耳だった。
彼女の言う通り、大通りから数本入った裏道には、小さな間口の果物屋が見える。うっかりしていると見過ごしそうな店だ。いろんな果物の出すおいしそうなにおいが店の外にまで漂っている。
『おお、みどりちゃんいらっしゃい。用意してあるよ』
彼女を見つけた店の親父が、さも嬉しそうに彼女に声をかけてくる。名前はミドリか。クルツがそんな風に思っていると、みどりはクルツを指差して、
『おじさん。実はこの外人さんがスーツケースを壊して困ってるのよ』
『ガムテープでいいから、貸してくれませんかね? 蓋、固定したいんで』
みどりの後にクルツが日本語で頼むと、流暢な日本語に驚いた親父は、あたふたしながら英語で話そうとするものの、すぐに思い直し、
『ああ、いいとも。これ使いな』
笑顔で快諾して、かたわらに置いてあったガムテープをクルツに放ってよこす。
あまりかっこよくはないが、ガムテープをベタベタと貼って強引に蓋を固定すると、
『ありがとな、おっさん』
クルツはガムテープを放って返しながらそう言うと、
『外人さんこそ気をつけてな』
そんなやりとりの間に、みどりは自転車の後ろに段ボールをロープで固定していた。きっと店で使う果物だろう。
『これからお時間ありますか?』
自転車のハンドルに手をかけてみどりはクルツにそう訊ねた。もちろん笑顔で。その笑顔にクルツは間髪入れず『ありますあります』と即答した。
『それなら、うちの店に来ませんか? 助けて戴いたお礼と言ってはなんですが、コーヒーくらいならごちそうしますよ』
ごちそうになりたいのは……と品のない事を言いかけて、慌てて言葉をぐっと飲み込むクルツ。
ここですぐさまがっつくような真似をしてはいけない。クールにスマートにとは行かなくとも、目を血走らせて鼻息を荒くするような露骨な真似をしてはいけないのだ。


道すがら、彼女は改めて近又(ちかまた)みどりと名乗った。喫茶店は自分が生まれた年に両親が始めたもので、店に生まれたばかりの娘の名をつけたのだそうだ。
これぞまさしく看板娘。くわえてこの美貌なら男共は放っておくまい。きっと彼女目当ての常連客が多いに違いない。
しかし傭兵はとかく疑り深いもの。「実は私、人妻なんです」。そんなガックリくるオチが用意されている確率は高い。
そんな猜疑心の目が、ハンドルを握るみどりの左の薬指を見る。指輪をしている様子も指輪を外した跡も見えない。
つまり、彼女は独身!
クルツはすかさず心の中でガッツ・ポーズをしていた。
旅先で助けた女との一時のロマンス。それも悪くない。むしろ有りだろう。最初はつまらないマデューカスと一緒でどうなる事かと思った休暇だが、こういうどんでん返しがあるなら来た甲斐があったというものだ。
そうこうしているうちに店に着いたようだ。「喫茶 みどりや」という小さな看板が見える。そしてその看板のそばに立っていたのは――ニコラスだった。
彼は二人を見るなり、両手を広げて猛スピードで駆け寄ってくる。
「ミドリ! 若者! 無事だったか!」
そう大声を上げて。彼は二人の前まで来ると、
「つい今し方教え子から写メールが届いて。ミドリが事件に巻き込まれたって」
焦っているのか早口の英語でまくしたて、自分の携帯電話の画面を見せる。そこにはクルツがみどりをかばって立っている様子が写っていた。あの時の野次馬の中に、ニコラスの生徒がいたのだろう。
「わたしは大丈夫です。彼が助けてくれたましたから」
みどりがなかなか流暢な英語でニコラスに笑顔でそう答える。その笑顔を見てようやくニコラスは全身の力が抜けたように安堵の息を漏らす。
「そうか。有難う若者。ミドリを助けてくれて」
ニコラスはクルツの手を両手で握り、うんうんとうなづいている。それからみどりに向き直ると、
「済まなかった、ミドリ。本当なら僕が助けたかったのに。助けなきゃならなかったのに」
「いいですよ。そんなに気にしなくても」
(そりゃ確かにミドリは美人だ。惚れ込むのは当然だ。けど、いい年したおっさんがそんなにしてまで入れ込むなよ。年の差考えろ、年の差。おまけに国籍)
ニコラスとみどりのやりとりに、クルツは心の中ではなく実際にそう言ってやりたい気分だったが、ニコラスの機嫌を損ねる事もないと曖昧に笑っておいた。
そこへゆっくりとやって来たマデューカス。彼も事件の事はニコラスから聞いているようだった。
「良かったな、ニコラス。細君が無事で」
「有難うリチャード。君の部下は何て優秀なんだ。いくら言っても感謝し足りないよ」
細君。英語でいえばワイフ。つまり妻の事である。
クルツの口があんぐりと開いている。目まで点になっている。
「そ、それじゃお二人は……」
震える声でようやくそう訊ねると、
「ああ。五年前に結婚してね。今、僕は帰化申請中なんだ」
「わたしは仕事一筋でここまで来ちゃいましたし、両親も『ようやく片づいてくれた』って喜んでました」
「日本人は若く見えると聞いていたから見た目よりは年上と思っていたけど、まさか僕と同い年とは思ってなかったからね。プロポーズした時は驚いたよ」
四〇代半ばのニコラスと同い年。この外見で。この美貌で。このスタイルで。
若作りの女性というのは案外いるものだし、マンガやアニメなら二〇代に見える四〇代の人妻など定番だ。だが本当に存在するとは。その事実にクルツの驚きは加速する。
「でっ、でも、それじゃ何で結婚指輪……」
クルツのその問いにみどりは胸元から何か取り出した。それはネックレス用のチェーンを通した、渋い光を放つシンプルな銀のリング。
「こういう商売だから、もし洗い物の時にスルッて抜けたら困るでしょう?」
指にはめる事ができない結婚指輪を、せめて肌身放さず持っていたいという女心であろう。
「僕も講義のない時は店を手伝ってるんだ。ミドリの英語も僕が教えたんだよ」
「感謝してます、先生」
発覚した二人のアツアツっぷりに当てられ、内心のショックを隠し切れないクルツ。
現在の彼の心証風景は間違いなく日本の真冬の雪国の港にある桟橋。どんよりとした暗い色の海と空。そこに吹きつける雪混じりの冷たい風。淋しい演歌の世界である。
そんな彼の肩をマデューカスはポンと叩くと二人に聞こえないように、
「貴様の事だ。どうせ彼女と一時のロマンスを、などと考えていたのだろう」
仮借ない言葉にクルツは返す言葉もない。事実なだけになおさら。
「帰ったら、基地のパブで一杯くらいならおごってやる。女に振られた痛手は酒で癒すのが昔からの定番だろう」
部隊の小姑役とも思えない、マデューカスの優しい申し出。当然クルツが驚かない訳はない。
「スッゲー信じられないんすけど。何か企んでんじゃねえか?」
「心身を癒す筈の休暇でストレスをためられてはかなわん。そのための一杯なら安いものだ。貴様の狙撃能力だけは高く買っているんだ。給料分くらいは働いてもらわんとな」
いつもの渋い仏頂面にくわえてチェスで負けた恨みがこもっているような、どことなく刺々しい物言い。いたわりが皆無な訳ではないが、言葉同様の優しさなど全くない。
クルツはそっぽを向いてキッパリと言い返した。
「ざけんなよ、ファッキン・ライミーが」

<中年と青年のファーロウ 終わり>


あとがき

フルメタの新作「中年と青年のファーロウ」。いかがでしたでしょうか。
今回は休暇中のお話なので、スリルとサスペンスを盛り込むよりは休暇を楽しむ様子やイギリスのうんちくなどをダラダラと淡々と書いていければと思いました。
今回は「日本びいきの外人を見るとなんか和むスレのまとめ」がとても役に立ちました。日本人だけでは決して思いつかない着眼点や思考は、外国人が出てくる話ではとっても参考になります。
一日本人として、日本を好いてくれているというのはとても嬉しくなるものですしね。
なお。この話の秋葉原の様子は、フルメタ劇中が西暦2000年前後のようなので、その辺りを思い出しながら書きました。なので駅前再開発は終わってないし、果物屋もかろうじて残ってます。
けど、宗介とかなめとテッサは全く出番がなかったな。ファンの皆様スミマセン。

今回使った「ファーロウ(Furlough)」とは、平たく言えば「休暇」の事です。それも軍人や公務員などの「与えられる」休暇。一日会社に来なくてもいい代わりに給料も一日分カットするよ、的な休暇です。
単純に「バケイション」「ホリデイ」は使いたくなかったので。でもイギリス人のマデューカスさんが出てるお話ですから、イギリス英語を素直に使っても良かったかな。

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