『中年と青年のファーロウ 中編』
喫茶「みどりや」。
ニコラスの案内でやって来た喫茶店の、小さな看板にはそう書いてあった。当然日本語が判らないマデューカスに読む事はできない。
「翡翠の色の事だよ」
ニコラスは看板の「みどり」の部分を指でなぞってそう説明する。
別に解説は要らなかったのだが、言われてみれば入った店内は緑と白で構成された落ち着いた色彩に包まれている。道路に面した側はガラスになっており、日の光が心地よく降り注ぐその様は開放感すら感じた。
ただ、店内は暖房が効き過ぎているらしく、マデューカスには少々暑かった。ニコラスは「日本ではこのくらいがちょうどいいらしいよ」と説明してくれたが。
しかし。昼過ぎにしては妙に客の数が少ない。座席数はだいたい三〇席ほどと決して大きい店ではないのだが、そのほとんどが空席なのだ。
「あまり流行っていないのか?」
英語なので日本人にはそうそう聞き咎められる事はないのだが、それでもマデューカスは辺りをはばかった小声でニコラスに訊ねる。
人でごった返しているよりはよほどくつろげる事は間違いないのだが、それでも限度がある。客が自分達しかいないも同然なのでは、かえってくつろげないだろう。
「ここは食事時よりはティータイムの方が混むんだよ」
二人掛けの席についたニコラスがテーブルに置いてあったメニューをマデューカスに渡しながらそう言った。
クリア・ファイルの中に挟まれたA4サイズのメニューをざっと見る限り、彼の言葉が正しい事が判った。
サンドイッチやスパゲティといった品よりもケーキやアイスクリーム、パフェやカスタード・プディングといった、いわゆる「甘味」の方が種類が豊富なのだ。
マデューカス自身日本の喫茶店には数えるほどしか訪れた事はないが、それでも品目が偏り気味な事くらいは判る。
いつ何を食べるかは人それぞれだろうが、ケーキやアイスクリームを「食事」として食べる人は少数派だろう。だからこの時間は空いているのだ。
そしてなぜマデューカスが日本の喫茶店のメニューが理解できるのか。それは“アイスクリーム/Ice Cream”というように、日本語と英語が併記してあるからである。
彼が今見ているのは食べ物のメニュー欄である。それをくるりとひっくり返すと、飲み物のメニュー欄になる。それをふんふんと見ていたマデューカスだが、とある一点で目を点にしていた。
想像できるだろうか。陰気なまでに冷静沈着な事で知られ、公爵(デューク)の異名を持つ彼が、喫茶店のメニューを見ただけで驚愕し目を点にしている様子を。
「……ニコラス」
「何だい、リチャード」
ぽかんとして感情を忘れた声を出すマデューカスを、いじわるそうな目で見つめるニコラス。
「私の目は、頭は、どうかしてしまったらしい」
マデューカスは震える声でそう言うと、空いている手で自分自身の頬をつまみ、ぎゅいっとつねった。
痛い。
その痛みで「どうやらこれは夢ではないらしい」と自覚するに至った。しかし、むしろそんな非科学的な行動をとってしまった事に、マデューカスは今さらながら気まずそうに顔を伏せた。
私は正常、私は正常、私は正常、私は正常、私は正常、私は正常、私は正常、私は正常、私は正常、私は正常……
自分の頭の中で何度も何度も呪文のようにくり返し唱えるその単語。
……よし。私は正常だ。
伏せていた顔を上げ、もう一度メニューを見る。
しかし、目の前の現実は何一つ変わっていない。
マデューカスはようやく自分の震える指を、メニューのとある一点に置く事ができた。
「ニコラス」
さっきよりは感情を込めた声で、マデューカスは言った。
「これは、私の目には『Iced Tea』と見える。私の頭は『冷たい紅茶』と解釈している」
「そうだね」
あえて無感情にニコラスは返答する。
それからたっぷり一〇秒は間が空いただろう。マデューカスは丘に上がった魚のように口をぱくぱくとさせている。まるで何か言いたいがどうやって言っていいのか判らないかのように。
大きく息を吸い、大きく息を吐き、そしてようやく出た言葉が、こうである。
「なぜ『冷たい紅茶』なんて物がある!」
「あるんだよ日本には!」
店内という事でボリュームを抑えたマデューカスの怒鳴り声に、間髪入れず合わせたニコラスの一喝。
お腹が一杯の時に怒鳴ったからだろう。吐きたくなるのを懸命に堪え、運ばれてきたお冷やをぐいとあおったマデューカス。ニコラスはそんな彼を見て、
「いいか、リチャード。日本はイギリスと比べて夏はとてつもなく暑い。いや熱い。おまけに湿度がとても高い。そんな気候で熱い紅茶なんて飲めないよ」
「そんな事は関係ないぞ、ニコラス。その熱い、または温かい中に漂う香りが紅茶の持ち味の一つだろう。それをわざわざ冷たくして、無くしてどうするというのだ」
テーブルを小さくドンと叩いてお互いの意見をぶつけあう二人。
もっとも、食べ物がくたくたになるまで火を通して食材の持ち味を殺してしまう調理習慣のイギリス人が「持ち味を無くして」などとは皮肉というか矛盾というか人の事を言えた義理ではないというか。
マデューカスはその勢いのままメニューの別の部分を指差し、さらに続けた。
「おまけにこっちには『冷たいコーヒー』だと? 私はあまりコーヒーは飲まないが、冷めたコーヒーは香りが全くしないし、その苦さと言ったら喩えようがないぞ。それとも日本人は苦さも判らんのか? それとも苦い物が好きなのか?」
次から次にポンポンと出てくる言葉に、ニコラスは「落ち着け」とばかりになだめている。
マデューカスの言う通り、イギリスはもとより大多数の国に「冷たい」紅茶というものは存在しない。喫茶店で出される物はもちろんの事、大都市部のスーパーやコンビニエンス・ストアに至るまで。コーヒーも同様だ。
存在しなかった「冷たい」紅茶やコーヒーが日本以外にも知られるようになったのはここ数年の事なのだ。世間から隔離された秘密基地にこもりがちなマデューカスが知らないのも無理はないだろう。
「僕も最初は驚いたし、信じられなかった。だが冷たい紅茶もコーヒーも、これはこれで味わいや趣がちゃんとある。決して不粋な代物ではない」
ニコラスが真剣な眼差しでマデューカスに訴える。いや説得といった方がしっくり来る雰囲気だ。しかしマデューカスはそれこそいつも以上のしかめっ面になると、
「しかし……だなぁ」
言いたい事は頭では判っている。自分達が「常識」と思っている事が、よその土地でも「常識」とは限らないのだ。逆転する事だってある。「ところ変われば品変わる」という言葉もあるくらいなのだから。
それが判らない・理解しない事を「頑固」と表現し、柔軟な思考をできなくしてしまう。戦術や戦略を考える人間が最もしてはいけない事の一つだ。
「リチャード。君は日本茶を飲んだ事はあるかい?」
ニコラスは急に話題を変えた。あまりの唐突さにマデューカスは一瞬きょとんとしてしまったが、
「ま、まあ、全くない訳ではない」
イギリスにいた頃、売られていた物を興味本位で飲んだ事があったし、メリダ島の基地でも人に勧められて日本食を食べた時は、それに合わせて日本茶を飲んでいた。
「じゃあ僕が話す事は、きっと君にとってはショッキングだろうね」
それを聞いたニコラスは、フッフッフとどこぞのドラマの悪役のような小さな笑いと共にこう言った。
「日本では、日本茶には何も入れない。砂糖も、蜂蜜も、牛乳もだ」
「……」
マデューカスの表情が、今度こそ本当に凍りついた。
「…………そうなのか!?」
まるで言葉を忘れていたかのような間が空いた後の驚きの叫び。その驚きたるや、先程の「冷たい紅茶がある」と言った時以上の衝撃なのが見え見えであった。
ニコラスも「やはり驚いたか」と真面目な顔で呟くと、
「僕も日本で日本茶を飲んだ時に『砂糖が欲しい』と言ったら、それだけでとても大笑いされたよ。まるで変質者を見るような目で見られたよ」
事実、日本以外の国で日本茶(緑茶)を頼むと、十中八九砂糖や蜂蜜などで甘くした物が出てくる。その傾向はヨーロッパよりも中近東の方が強い。あちらではお茶に砂糖をたっぷり入れて飲むのが「贅沢な飲み方」とされているからだ。
余談だが、マデューカスは冷たい紅茶に怒っていたが、そのイギリスを始めとするヨーロッパでは冷たい日本茶も温かい日本茶も(甘くした上で)普通に売られている。
ともかく。文化・風習の違いを「我こそが正義」と言わんばかりに一方的に責めるのはかわいそうという物だ。
しかしニコラスは何も注文せずに席を立つと、喫茶店の入口に立ち、何やら内ポケットをごそごそとやり始めた。そうして出したのは何と携帯電話。
「……おお若者か。聞いてくれないか。やはりリチャードは冷たい紅茶に驚いて怒っていたぞ!」
どうやらわざわざクルツに電話をかけたようである。その行動にはさしものマデューカスも呆れる以外の行動を取る事ができなかった。


ほんの一分ほど会話していたニコラスは素早く席に戻って来るなり、
「リチャード。若者から伝言だ。『ファッキン・ライミー』と言ってくれ、とね」
辺りをはばかった小声でマデューカスにそう伝えた。当然彼は憮然とした表情になる。憮然としたのは「ファッキン」ではなく「ライミー」の方にだ。
ライミー(Limey)というのはイギリス人を表わす俗語である。
元々はイギリスの水兵を指していた言葉である。一八世紀末頃、壊血病予防のために必ずライムを飲むよう強制した事が理由とされている。
しかもこれはイギリス英語ではなくアメリカ英語の言い回しである。イギリス人は当然イギリス英語に愛着があるし、また元祖というプライドも強く持っている。アメリカ英語そのものならいざ知らず、アメリカ英語だけの言い回しを聞いたイギリス人は、たいがい良い気分にはならないのだ。
例えば今日のような休暇の事は、アメリカでは「バケイション(Vacation)」と言うのが一般的だがイギリスでは「ホリデイ(Holiday)」を使う方が一般的である。この様にアメリカとイギリスでは同じ物を呼ぶのでも言い回しが違う単語がたくさんあるのだ。
「ウェーバーめ……」
まだ楽にならぬ胃の辺りを押さえ、マデューカスが呻く。もっともクルツならこの程度の事を言ってくるのは想定内だ。
「さ、リチャード。早く注文を済ませて一局打とうじゃないか」
相変らずの渋面を見たニコラスは取ってつけたように笑うと、目が合った店員を呼び寄せた。
やって来たのは二〇才くらいの日本人女性だった。長い髪が邪魔にならぬよう後頭部でキッチリとまとめてあるので、もう少しは快活で若そうに見える。
日本人は欧米人から見るとかなり若く、もしくは子供に見えるので、本当の年令はもっとずっと上なのかもしれないが。
喫茶店の店員らしくシンプルで清潔そうな白いシャツに細身の黒いトラウザーズ(ズボンの英国表記)。その上から店の名前が入った、翡翠色をしたコットンのエプロンをしていた。
「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」
そう話しかけて来た女性店員の英語に、マデューカスの耳がぴくりと反応した。
英語で話してきたからではない。そのアクセントが明らかにイギリス英語だったからだ(若干日本語の発音を引きずったものであったが)。日本人にはほとんど区別できないが、聞く人が聞けば一発で判るものなのだ。
日本の学校で教えているのは基本的にアメリカ英語だ。だからイギリス英語の方が珍しいとも言える。
「なかなか綺麗な英語だが、この店では両方の言葉を使っているのかね」
だからついマデューカスは店員に訊ねてしまった。すると店員は、
「この辺りにも外国の観光客の方が訪れるようになったので、勉強しました」
言われてみれば、隣街同然の秋葉原は世界に名だたる電気街。外国人観光客も多いと聞く。その周辺を歩いて回ってみようという物好きがいても何の不思議もないだろう。
マデューカスがそのように納得していると、ニコラスは彼をちらりと見て、
「リチャードはミルクティーでいいかい?」
「あ、ああ。頼む」
「じゃあまずそれを。僕はアイスレモンティーがいいな。濃いめで頼むよ」
「かしこまりました」
笑顔で軽く会釈する女性店員の様子からみると、ニコラスはこの店の常連なのだろう。接客用の笑顔とはどことなく違う。その笑顔は明らかに見知った親しい人間に見せるものだ。
彼女の後ろ姿に向かって楽しそうにひらひらと小さく手を振っているニコラスをじろりと睨んだマデューカスは、
「ニコラス。私の目の前でそんなゲテモノを頼むとはいい度胸だ」
「だから言っている。これはこれで非常に趣があると。リチャードも一度飲んでみれば判るよ」
「…………いや。一生判りたくもない」
相変らずの拒絶感丸出しの渋面に、ニコラスは今度こそ楽しそうに笑うと、ブリーフケースから何やら取り出してみせた。
それは携帯用の折畳み式のチェス盤だった。開けると小さな駒がゴロゴロと入っている。それを見たマデューカスはようやく落ち着いたように汗を拭うと、
「携帯用とはいえ、こうして駒に直接触れるのは久し振りだな」
黒く塗られた小さな「王(キング)」の駒を手に取り、マデューカスが呟く。
まるで昔なくした玩具を見つけた子供のように、彼の目が輝いている。普段は仕事の忙しさからか、合間にチェスの本をパラパラと見るくらいの事しかできないのだ。
それ以前に基地内に彼の相手を務めるだけのチェスの腕前を持った人間がほとんどいないからでもある。どんな優れた実力も、相手がいなければ発揮のしようがない。
マデューカスは己の実力を発揮する場所に飢えていた。そう言っても過言ではない。
ただし、その腕を振うに足るほどニコラスのチェスの腕前は高いものではなかったが、滅多にない機会が訪れたのだ。贅沢を言ってはいられない。
二人はまずジャンケンをして先攻・後攻を決めた。チェスでは白い駒が先手、黒い駒が後手と決まっているからである。
ジャンケンで勝ったのはニコラスだった。彼は喜んで白く塗られた「王」の駒を取り、同じ色の駒をボードに並べ始めた。マデューカスも同じように黒い駒を並べて行く。
とは言うものの、先手だから有利という事もなければ、後手だから不利という事も全くない。
チェス・プレイヤーの間では、チェスはゲームであり、頭脳を使うスポーツであり、人によっては芸術とも科学とも云われている。単に効率的に駒を動かせば良いというものでは決してないのである。
もちろん勝負なのだから運・不運もつきまとうものだが、それだけで勝てるほど単純で甘い世界でもないのだ。
特にニコラスはとっさの判断や短い攻防にかけては天才的と言える采配術を持っている。「公爵(デューク)」と呼ばれたマデューカスすら時として出し抜くほどに。
だが戦い全体を見た場合、ところどころは目を見張るものがあるものの、無駄や非効率的な部分も多いと評価される。
マデューカスは最終目標とも言えるものを見い出し、それに向かってあらゆる手を尽くし、最終的に勝利をおさめる事をよしとするタイプだ。
例えるなら、ニコラスは短期決戦トーナメントに挑む監督に向いており、マデューカスは長いリーグ戦を指揮する監督向きと言えるだろう。
さて始めようとした時に、先程の女性店員がやって来た。どうやら注文した物が来たらしい。
「お待たせ致しました。アイスレモンティーです」
紙製のコースターの上に置かれたタンブラーに八分目まで注がれた紅茶。紅茶の上に浮かぶ四角い氷。タンブラーの口に輪切りのレモンが刺さり、ストローが添えられている。その紅茶が温かくなく冷たい事は、タンブラーにうっすらついている水滴で判った。
それがマデューカスが初めて見た「アイスティー」であった。確かにその涼しげな印象は、高温多湿の日本には合うかもしれない。客観的にそんな事を考えた。
それに驚いていると、今度は自分の方に受け皿付きのカップが置かれた。中身は何と空である。
日本の喫茶店ではほとんどの場合、カップに紅茶が入った状態で運ばれ、牛乳は別の容れ物に入って添えられてくるケースがほとんどという事は、マデューカスの数少ない入店経験でもハッキリしている。それなのに空のカップが置かれている。
すると彼女はマデューカスに向かって笑顔のままこう訊ねた。
「お客様は牛乳を先に入れる方がお好みですか?」
ミルクティーにおいて、牛乳を先に入れるか後に入れるかというのは、紅茶好きの間では答えの出ない、しかし答えを出したい永遠の命題と云われている。
大半の人間は「どっちでも同じだよ」と思っているが、やはりどうしても好みというものが出る。
そしてそれが違えば必ず意見のぶつかり合いとなる。その様子はもはや言葉を使った戦争というのが相応しいくらいになる事もある。そのくらい個人の好みやこだわりは恐ろしいのだ。
「この店は、どちらか選ばせて戴けるのですか?」
小さな驚きとともに店員に訊ねるマデューカス。店員は先程からの笑顔のまま、
「はい。どちらになさいますか?」
丁寧な接客はこういった店に必須の物だが、ここまで笑顔を絶やさない様子に彼は柄にもなく、そして年甲斐もなく緊張した声で、
「で、では、牛乳を先にして戴けますかな」
何となく浮かんできた照れくささを隠すかのように、顔を伏せ気味にして眼鏡のブリッジを直しながらそう言うと、
「はい、かしこまりました」
彼女は受け皿ごとカップを持つとそこに牛乳を注ぎ込み、それからポットの紅茶を注いでいく。
「どうぞ」
カップの中には見事な琥珀色のミルクティーが小さく波を打っていた。そしてその色合いはまさしく絶妙としか言えないものであった。
「ではごゆっくりどうぞ」
そう言うと彼女は厨房に引っ込んでいった。そして何となくその後ろ姿を見送ってしまった中年二人。それに気づきお互い気まずそうに無言になってしまう。
だが口火を切ったのはニコラスだった。
「凄いだろう日本は。誰に対してもあんな風な笑顔で接客するんだよ。皮膚の色も、人種も、宗教も関係ない。楽園(エデン)とはこういう場所を言うに違いないよ」
それがどんなに凄い事なのかは、多国籍の部隊にいるマデューカスにはよく判っていた。
いくら人種差別が良くない事と理解していても、長い歴史の間に築かれた白人至上主義の考え方がどうしても残ってしまう。自分が白人だからなおさらだ。
マデューカス自身白人至上主義でも差別的でもないと思っているが、いわゆる黒人や黄色人種などの人間に対しては、階級差以上に「白人である自分の方が偉いのだ」という感情で接してしまっているかもしれない。こういうものほど自分では気づかないのだから。
それは「自分の国が最高だ」という意地やプライド、愛国心といった感情とは全く別種の物だ。
そんな思いを飲み込むように、マデューカスは受け皿ごとカップを持ち上げて紅茶を一口含んだ。
強い紅茶の香りと味を、わずかな牛乳がそっと和らげてまろやかな口当たりに変えている。温度も熱からずぬるからず、まさしく見事の一言だった。
おまけにこのまろやかさは低温殺菌の牛乳でなければ出ない味だ。高温殺菌の牛乳では、こうして紅茶にくわえた時にどうしても臭みや雑味が出てしまうからだ。
一般的にはティーカップ一杯一三〇ccの紅茶に対して八ccの牛乳を加えるのが理想とされている(煮出すタイプのロイヤル・ミルクティーやチャイはまた別)。それでは少ないと思うかもしれないがそんな事はない。それにティーカップに溢れんばかりに紅茶を注ぐなど野暮の極みだ。
おまけにこの紅茶はイギリスでは普通な、真っ黒になるくらい濃く煎れたものだとニコラスは言う。
(そう言えば、初めてカフェで飲んだ紅茶も、こんな感じだったな)
あのカフェはまだあるのだろうか。主人は元気だろうか。マデューカスは柄にもなく郷愁にふけりそうになってしまった。
「リチャードは先に牛乳を入れるタイプだったね」
そのニコラスの言葉にマデューカスは淡々と、
「その方が、紅茶の味が悪くなりにくいと思っている。熱い紅茶の中に冷たい牛乳を入れたのでは、牛乳のたんぱく質が変質して、風味を損なってしまうからな」
そう言って紅茶をもう一度一口飲む。
まろやかな口当たり。落ち着きのある琥珀色。茶葉の爽やかな香り。心身をも温めるような優しさ。それらが渾然一体となり、まるでアロマセラピーのように自分を落ち着かせてくれる。これこそ本物の紅茶である。
たった一杯の紅茶に過ぎないが、本当においしい物に出会えた瞬間の喜びというものは、どんな人間にとっても何物にも替え難い至福の瞬間なのだ。
「そういえばジョージ・オーウェルの随筆にもあったな。『A Nice Cup Of Tea』だったかな」
マデューカスはふと昔の記憶が甦った。
「ああ。それなら僕も昔読んだ事があるよ。そうそう。インターネットで見たんだけど、その随筆に載っている事を王立化学会が検証したら、牛乳を先に入れる方が良いのではないかって結果が出たそうだよ」
王立化学会とはイギリスで権威のある学会の一つだ。そこが一杯の紅茶のために全力を注いで調べたのだから、どれだけイギリス人が紅茶を愛しているのかが判ろうというものだ。
しかし。そんな事を言ったニコラスではあるが、
「でも僕は牛乳は後から入れるね。その方が調整がしやすいからね。先に牛乳を入れてしまうと紅茶が足りなかった時に困るだろう?」
ニコラスはアイスティーのストローをマドラーのようにくるくる回しながらそう答えた。
するとマデューカスは若干乱暴にカップを受け皿ごとテーブルに置くと、
「だから言っているだろう。紅茶と牛乳の味と風味を大切にしたいのなら牛乳を先に入れるべきだ。ニコラスも一度飲んでみれば判るぞ」
先程のニコラスと同じセリフで返してやるマデューカス。すると案の定、くるくると回していたストローの動きがピタリと止まる。
「リチャード。どちらが正しいのかを証明するためにも、ここは一局打って決めようじゃないか」
殺気立つ、とまではいかないが、明らかにさっきまでとは雰囲気を変えたニコラスの言葉。その雰囲気に釣られたかのようにマデューカスも、
「まるで『勝った方が正義』と言わんばかりだな。アメリカ軍ではあるまいし」
「なに。戦争なんてそんなものだよ。勝てば官軍負ければ賊軍」
マデューカスのイギリス人らしい皮肉にニコラスが同意する。お互いかつては軍籍にいた身にもかかわらず(マデューカスは今でも軍籍だが)。
二人の男はいそいそと駒を並べる作業を再開させた。
その駒を並べる作業をしながら、マデューカスはぽつりと呟く。
「なぜだろうな」
「何が『なぜ』なんだい、リチャード?」
彼の独り言に律儀に反応するニコラス。その律儀さに答えるかのようにマデューカスは続けた。
「自分でもよく判らんのだが」
そこで彼は一旦言葉を切り、作業の終わりとばかりに「王」の駒を定位置にそっと置くと、どことなく疲れを見せた様子でこう続けた。
「ここまで来るのに、なぜだか妙に時間がかかってしまった気がするんだが。どことなく気疲れも感じているし」
「それはおそらく、日本の事一つ一つにいちいち驚いていたからじゃないかな。違う国に来ているのだから、イギリスとの違いにいちいち驚いていたのでは身が持たないよ?」
ニコラスが過ぎたくらいにあっさりとそう言ってのける。
「僕も日本に来て判った事なんだが、白人は自分達の文化・習慣が一番と信じて疑わない面がある。もちろんそれはそれで大事な事だと思うよ」
それからさもおいしそうにアイスティーをすすってみせると、
「しかし『自分達が最高』という考えを出しっ放しにして、どこでも自分達の文化・習慣を押しつけたり、それが通じる事を当たり前と考えてしまう。それだけに自分達が少数派になったり、異文化の中に放り込まれる事に慣れていないんだ」
まるで講義のような、聞き取りやすいややゆっくりとした喋り方でニコラスの話が続く。
「だから異文化の土地では自分達の文化と違う事に戸惑いや憤りが出てしまう。下手をすれば『差別された』とすら思ってしまう。『郷に入りては郷に従え』なんて言葉があるくせに、白人自身が一番それをやろうとしない。それを白人の傲慢と考えるのは、僕の考え過ぎかな」
ニコラスの話にマデューカスはむぅと黙り込んでしまう。
秩序や公正さを何より尊ぼうとする自分だからかもしれないが、自分の文化は押しつけて、他人の文化を拒絶するのは明らかに公正とは言えない。ニコラスが「傲慢」と言ったのも判らなくもない。
先程の「誰にでも笑顔で接客する」もそうだ。日本とイギリス。同じ島国でなぜこうも違うのだろうか。
その考えの中、ふとマデューカスは我に返った。
「そうやって話の筋道を途中でねじ曲げるからだろう。だがおかげでだいぶ胃の方は楽になった。早速始めるとしようか」
駒を並べ終えたチェス盤を、人差し指でこつこつと叩いた。

<後編につづく>


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