『中年と青年のファーロウ 前編』

南太平洋の真ん中に浮かぶ小さな無人島・メリダ島。
地図にも載っていないその島には、どの国家にも属さず対テロ戦争を行う極秘のハイテク多国籍傭兵部隊<ミスリル>の西太平洋戦隊の基地が隠されている。
その傭兵部隊の中でもエリート中のエリートが揃う特別対応班に属する若者が今、電話の応対に負われていた。
「おう、伍長か。今度はなんだ? ……ああ、例のプラモのシリーズだな。判ってるよ。それと……え? ライトセーバーの箸!? そんなバカげた物……マジであんのかよ。……全種類だな。判った判った」
話している内容は、とても傭兵部隊で交わされているとは思えない。彼は電話を切ると、手元のメモ帳にさらさらと品物をつけ加えていた。
「どこの怪しげな売人なんだか」
そばのデスクで真面目に演習の報告書をまとめていたメリッサ・マオ少尉が、くわえタバコのまま見ていたそのやりとりに、ぽつりとそんな感想を漏らした。
怪しげな売人と言われた若者――クルツ・ウェーバー軍曹は、そんな意見にピクリと反応を見せ、
「失礼な事言わないでくれよ、姐さん」
長身の上に金髪碧眼でモデルと言っても通用しそうな細面の若者は、少々カッコつけて立てた人差し指を舌打ちしながら左右に振って、
「俺は娯楽に飢えたこの基地で働く連中に、ささやかなプレゼントを運んで来るサンタさんになるんだぜ?」
とはいうものの、クリスマス・シーズンなどとっくの昔に過ぎ去っている。大遅刻したサンタ・クロースを喜ぶ子供など、どこの世界にいるのやら、である。
「どこの世界にプレゼントの代金を請求するサンタ・クロースがいるのよ」
心底楽しそうなクルツの様子にマオはため息一つつくと、報告書の作業に戻った。
しかし。彼の気持ちが判らない訳ではない。
まがりなりにも極秘の傭兵部隊。こんな絶海の孤島になくても頻繁に基地の外に外出できる訳ではない。
明日はクルツの久方振りの休暇である。そう。大手を振って基地の外に出られる貴重な日なのだ。
娯楽が少ない基地の中で暮らし、殺伐とした任務と訓練に明け暮れ、ようやく勝ち得た休暇なのだ。
クルツは休暇を取るとたいがい日本へ、それも東京へ飛ぶ。
彼は生粋のドイツ人だが物心つく前から中学時代までそこで育ったと聞いている。それからは色々あったらしいのだが、それでも日本にはかなりの愛着があるようだ。
それを見越してか、彼に「日本で売っている○○を買ってきてくれ」と頼む人間が多いのは確かだ。
デジタル・カメラや音楽プレイヤー。玩具に携帯ゲーム機に様々な日本食と、その種類と量はまるでデパートかディスカウント・ストアの仕入れである。
インターネットが発達したこの現代。いくら極秘の軍事基地でも通信販売で品物を取り寄せる事は可能である。
それでも彼に頼む人間がいるのだから、そういった方面の手腕にも長けているのかもしれない。
だが。品物をインターネットで調べ、値段をメモしつつ電卓を叩いている姿は、とてもエリート傭兵にもモデルのようにも見えなかった。
「あーちきしょう。金が足りねぇじゃねーか。もっとふんだくっておくんだったぜ」
などと真剣な顔でぶつぶつ呟いているのだから、どっちが本業か判ったものではない。
「けど、あんたが人の買い物を引き受けるなんてねぇ」
パソコンのキーを叩きながらマオがぼやく。クルツはそのぼやきに電卓を叩きながら、
「自分の国の物を喜んでくれてんだ。悪い気はしないだろ」
「自分の国って。あんたドイツ人じゃない?」
「瞳の色は青くても、心はヤマトダマシイさ」
「ヤマトダマシイねぇ」
ノリばかりが良いお調子者と周りに思われているクルツだが、それだけの男でない事はよく承知している。それでも彼を「軽いヤツ」と判断してしまいがちではあるが。
マオはやれやれと言いたそうに苦笑すると、再びパソコンに向かい合った。
「ウェーバーはいるか」
ふといきなりオフィスの入口から聞こえてきた、ぶしつけな低い声。ふとそちらに顔を向けたマオは、慌ててその場に直立不動の姿勢を取る。
なぜなら。開け放したままの入口に立っていたのは、この西太平洋戦隊で二番目に偉いリチャード・マデューカス中佐だったからだ。
生真面目で陰気な印象があり、まるで小姑のように口うるさい人物ではあるが、英国海軍時代の潜水艦乗りとしての高名と「公爵(デューク)」の二つ名は周囲から聞き知っている。部隊と同名の潜水艦の副官でもある。
マオ自身あまり好きなタイプの人間ではないし、あまり接点のない上官ではあるが、それでも上官は上官だ。直立不動の姿勢はその敬意の表れでもある。
マデューカスはオフィス内をきょろきょろと見回してクルツの姿を確認すると、大股でズカズカと彼に歩み寄り、
「ウェーバーはいるかと言ったのだ。いるなら返事くらいせんか」
マデューカスはすかさずクルツの頭に軽くげんこつを叩き込む。
「いて。なんすか中佐!」
思わず立ち上がって抗議するクルツ。しかしその剣幕にも陰気な表情を崩さぬまま眼鏡のブリッジを直すと、マデューカスは訊ねた。
「軍曹は、明日から休暇だったな」
「そうっすよ。東京へ……ひょっとして買い物頼みたいんすか?」
「そうではない」
マデューカスはそこで言葉を一旦切った。相変わらず上官を上官と思わぬクルツの横柄な態度に、苦虫を噛みしめたようなしかめっ面をしたまま、
「護衛と通訳と道案内を命ずる。明日は私と一緒に来い」
「ええっ!? そりゃないっすよ中佐。俺もう秋葉原での買い物結構頼まれちまってますよ? 今さら断れってんですか!?」
当たり前のクルツの猛抗議。そんな抗議にも生真面目な態度を崩さぬまま、マデューカスは言った。
「案ずるな。私が行くのも東京だ。軍曹は東京には詳しい筈だったな」
「んな事言っても、東京ったって広いんだぜ? どこ行くんすか?」
地図で見れば小さく見えるかもしれないが、日本の国土の広さは世界の国の中で中間くらい。思っているほど狭い国ではないのだ。その首都東京も同様である。
「軍曹はサルガッデイという町を知っているか? 東京の中心部にあるそうだが」
マデューカスの問いかけに、クルツは「サルガッデイ、サルガッデイ」呟きながら頭をひねって考える。
マデューカスは日本語が全く判らない。だから絶対にローマ字を読み間違えたり発音を聞き違えたりしているだろう。それを考慮してクルツは考える。
「……猿楽町(さるがくちょう)か?」
「聖ニコラスの名の聖堂があるそうだが」
「ああ。そりゃ駿河台(するがだい)だ。ス・ル・ガ・ダ・イ。都心でニコラスの聖堂ったら神田駿河台の『ニコライ堂』くらいしかねぇ」
マデューカスの日本語の判らなさに小さく笑いながら、クルツはそう答えた。
都心にある神田駿河台には、確かにニコライ堂の通称で親しまれている“東京復活大聖堂”がある。日本の重要文化財にも指定されている有名な場所だ。ニコライはロシア語やドイツ語などでの発音で、英語ではニコラスとなる。
行くのが駿河台であるのなら、クルツが買い物をしようとしていた電気街・秋葉原は目と鼻の先だ。
クルツは品物の名前がびっしり書かれたメモ帳をひらひらと見せ、
「……こっちの買い物の時間、くれるんならイイっすよ」
その返答にマデューカスは一層眉をひそめた渋い表情になリ、
「護衛が私から離れてどうする。だいたい、貴様の買い物に興味などない。私にそんな事につき合えと言うのか?」
「この買い物の経費を出してくれって言わないだけ、良心的じゃん?」
メモ帳をさらにひらひらとさせるクルツを睨みつけるマデューカス。
たとえ休暇中でも上官の命令には従うべきだろう。マデューカスは心の底からそう思った。
だがここはマデューカスがいた英国海軍ではない。そもそも正規軍でもない。任務や訓練中でない期間まで命令で従わせるのはあまりよい事ではないのかもしれない。
マデューカスは懸命に自身の考えを曲げ、そう考えを修正し、
「……いいだろう。基地を出る機に乗り遅れるなよ。明日は早いんだ」
随分と腹を立てた様子で踵を返し、入ってきた時のようにズカズカと歩いて出ていくマデューカス。
その姿が見えなくなってから、たっぷり十は数えたくらいの間が空き、クルツはぼやいた。
「ざけんなよ、ファッキン・ライミーが」


翌日。正午過ぎ。
マデューカスとクルツの姿は、東京は神田駿河台にある「ニコライ堂」の門の前にあった。少し見上げれば特徴のあるドーム型の屋根がよく見える。
マデューカスが言うには、ここで友人と待ち合わせなのだという。
その友人・ニコラスとは王立海軍大学の同期生であり、下手なジョークとブルースとロックン・ロールをこよなく愛する人物だという。
大学でもどちらかと言えば劣等生だったそうで、出世コースとはほとんど無縁の男だったらしい。
最初は勝手につきまとってくるだけで疎ましくすら思っていたのだが、親しくなるうちに割とウマが合う事が判り、以後は趣味は全く違うが友達としてつき合うようになった。磁石のN極とS極のように、タイプが異なるゆえに引かれたのかもしれない。
事情があってマデューカスが左遷されたり軍を辞めた時、本気で親身になって心配をしてくれた、数少ない友人でもある。
その後で彼も軍を辞めたと風の噂で聞いていたが、こうして顔を合わせるのは何年ぶりになるだろうか。
常日頃周りから仏頂面だの陰気な顔だの云われているマデューカスの表情が、心無しか楽しそうにほころんでいるのは決して気のせいではない。
一方のクルツの顔は露骨に不機嫌なのであった。
傭兵である事を忘れてひとときの安らぎを得る筈が、休暇にもかかわらず上官の命令に従わなければならないのだから無理もないだろう。
同じ上官でも自分より少しばかり年下の美少女の方となら、いくらでも大歓迎して東京観光に繰り出しているのに。
なぜ共通項の全くないつまらないおっさんと一緒にいなければならないのだろう。それも日の出と同時に起きて狭い機内に押し込められて。
クルツはそんな事を考えながら、露骨につまらない事をアピールするかのようにスーツケースをコンコンつつく。
マデューカスの視線がふと遠くを見た。それに気づいたクルツも同じ方向を見る。すると白人の中年男性がこちらにゆっくりやって来るのが目に入った。
年かさはマデューカスと同じくらい。だが、立派な口ひげを生やしている割にどこか子供っぽさが抜けていない。しかしその割に茶色の髪の量はだいぶ乏しい。細身の身体にカッチリとしたイギリスらしいデザインのスーツを着込み、手には革製のブリーフケースが。
そんな男はこちらを見ると、大急ぎで駆けてきて開口一番、
「久し振りだね、ディック」
男の口から発せられた、年にしてはかん高い声。そして「ディック」の単語に、マデューカスの表情がかなりムッとしたものになった。
ディックというのはマデューカスのファースト・ネーム「リチャード」の略称である。だが彼はこのディックという略称で呼ばれる事を殊の外嫌っているのだ。
その男はマデューカスのそんなムッとした表情を見てにやりと笑うと、
「どうやら本物らしいね。日本へようこそ、リチャード」
「相変らず貴様のジョークは笑えんな、ニコラス」
互いが差し出した手をガシッと握りあう二人。特にマデューカスの表情は、刺々しい言葉ほど険悪にはなっていない。
それからマデューカスは傍らのクルツを指して、
「こっちは私の部下だ。日本に詳しいので道案内兼通訳で連れてきた」
「初めまして。クルツ・ウェーバーです」
普段は軽いお調子者な態度ではあるが、さすがに初対面の年上の人間が相手だ。最低限の礼儀と挨拶くらいは心得ている。
ニコラスはクルツの顔を見てほう、とうなると、
「ロックが似合いそうな面構えだね。ジミー・ペイジは知っているかい?」
「一応は。でもスロー・ハンドの方が好みだな」
真面目な顔のニコラスと澄まし顔のクルツがしばし睨み合う。睨み合ったまましばし間が開き、やがて同時にプッと吹いた後に高笑い。
「我が国の偉人エリック・クラプトンを、こんな若者が好んでくれているとは光栄だね。嬉しいよ」
「さすがにリアルで知ってる年代は、反応が早いや」
ニコラスが真面目な顔から一転。さも楽しそうにニカッと笑うと、クルツも負けじとタメ口で対応する。共通の趣味を持つ男達に、年の差は関係ないのだとばかりに。
ジミー・ペイジもエリック・クラプトンも、四〇年以上活動を続けているイギリス出身の世界的なギタリストである(スロー・ハンドとはエリック・クラプトンのニック・ネーム)。
「よし。時間もちょうどいいし、これから食事と行こう」
ニコラスは二人の背を押すようにして一気に駆け出した。
そんな彼の案内で到着したのは、一軒の小さな店だった。
「とんかつ専門店とんかつ村」
あまり上手とは言えない筆書きの看板がかかっている。随分古くからある店らしく、そこかしこが油で汚れており、店の中からはかなり強烈な揚げ物と油のにおいが漂う。
「うわぁ。この店まだあったのかよ」
目を丸くして薄汚れた看板を見つめるクルツ。その反応にきょとんとするニコラスに、
「ほら。あっちの通りにギター屋がズラッと並んでるだろ? 中学時代に冷やかしでよく行ってたから顔覚えられてさ。そこのオヤジに『よし。メシおごってやる』って連れられてよく来たんすよ」
クルツの言う通り、この近所にはギターを始めとする楽器店が並ぶ大通りがある。
「その大通りにある大学が、今の僕の職場だよ。そこで英語の講師をしているんだ」
「って事は明冶大学? すっげー、大学の先生かよ」
「そうそう。昼食はここか、学校近所の『アジスアベバ』が多いよ」
「ああ。あのカレー屋まだ潰れてねえのか。おっさんカレー通だねぇ。なら『ボンDカレー』は?」
「当然です。全メニュー制覇しましたよ。この辺はカレー屋が多くてね。僕にとっては天国だよ」
ローカルすぎる話題に、完全にマデューカスが取り残されている。せっかく友人に会いに来たのにこの扱い。クルツなど早速携帯電話の番号とメール・アドレスの交換までしているというのに。
一抹の寂しさを感じると同時に、出会って五分で親しく会話できるくらい他人とすぐに打ち解けられるクルツの社交性を、正直うらやましくすら感じていた。陰気でお堅い性分の自分ではこうはいかないだろう。そう思って。
「食事にするのだろう。早く入らんか」
ようやく会話の横から口を出す。その声で我に返ったニコラスが、元気よく引き戸を開けて中に入る。同時に『先生いらっしゃい』と店の主人の声がした。もっとも日本語が判らないマデューカスにだけは意味ある言葉には聞こえなかったが。
店の中も外同様あまり綺麗とは言えなかった。それだけ昔からある店なのだろう。だが、いかにも「庶民のための飾らない店」という雰囲気に満ちている。客の方はサラリーマンだけでなく学生街だけあって学生の姿も多い。
『おっちゃん、俺のこと覚えてる? 随分前にギター屋のオヤジとよく来てた江戸川の……』
『……ああ、あの外人の坊主か。デカくなりやがったな。今何してんだ?』
日本語なので何を言っているのかは判らないが、店の主人がクルツを見て驚き、そして懐かしそうに目を細めている。そんな光景を見たマデューカスは、
(ウェーバーも、この稼業に身を置かねば、こういう町で暮らしていたのだろうな)
上官である以上、クルツの経歴はだいたい判っている。彼は傭兵出身だ。軍人ではない。
こんな平和な国で暮らしていた若者が、どうして傭兵稼業をする事になったのか。運命というのか因果というのか。その無情さと残酷さを少しばかり恨みながら。
その一方でニコラスの方は慣れた動作で空いていた四人掛けの席に陣取り「早く来い二人とも」と急かしている。
二人が狭い店内で身体がぶつからないようひねりながら席につくなり、ニコラスが店の主人に大声で何か言った。おそらく注文だろう。
「ここのカツカレーがもう絶っ品なんだ!」
ニコラスはまるで子供のようにニコニコとした笑顔で、ここのカツカレーがいかに絶品なのか熱弁している。
「確かにここのカツカレーはうまいけど、イギリス人からすれば、何でも絶品なんじゃないの?」
中学時代の味を思い出しつつ、しみじみとクルツが呟いた。
王侯貴族の食事ならいざ知らず。基本的にイギリスに「美食」はないと云われている。
イギリスで有名な庶民的食べ物に「フィッシュ・アンド・チップス」がある。白身魚とジャガイモを揚げ、塩やビネガー、マヨネーズなどをつけて食べる揚げ物だ。
だがそれも真っ黒になるくらい徹底的に揚げ、しかも「味付けは食べる側でやれ」と言わんばかりに何の味もつけないのが普通だ。人によっては揚げたてでなくわざわざ冷たくしてから食べる人もいる。
それ以外でも食べ物の味を無くすかように徹底的に熱を通したり、缶詰の肉を冷たいまま食べたりするのを「昔からこうだから」と当たり前に考えている。イギリス人はもちろん他国の人間からも「まずい食事」と言われる原因である。
しかし、ティータイムの時に食べるお茶菓子と朝食のメニューとロースト・ビーフだけは例外で、イギリスはもちろんそれ以外の国でも高い評価を得ている。
『茶菓子はうまいがメシはまずい』『イギリスでうまい食事が食べたければ、朝食を三回食べろ』『イギリスで食文化と言えるのはロースト・ビーフだけ』とまで言われているくらいだ。クルツの呟きもそれを知っての事である。
「だからこそ、我が祖先は美食を求めて七つの海を渡ったのだよ、若者」
「そして、七つの海を支配するに至った、だったかな」
ニコラスの芝居がかった言葉に続け、マデューカスがブラック・ジョークの一説を呟く。あまりジョークのセンスがない彼であるが、有名な一説くらいは当然知っている。
「そうそう。インドからカレーを持ち帰り、それを日本に伝えたのは我が国最大の功績と言っていいね」
まるで自分がその功績をなし得たかのように胸を張るニコラス。
それから十分と経たぬうちに『はいよ。カツカレー大盛り三つね』と料理が運ばれてきた。大盛ライスの上に分厚いカツが乗り、さらにたっぷりとカレールーがかかっている。学生街に似つかわしい大盛っぷりである。
「これぞ我が国が日本に伝えたカレーと、我が国が生んだエリック・クラプトンの好物とを合体させたカツカレーだ」
クルツにはそこらでよく見るカツカレーにしか見えないのだが、マデューカスはぎょっとした目で目の前のカツカレーを見下ろしていた。
「どしたんすか? カレーを見るのが初めてって訳でもあるまいし」
早速スプーンですくったカレーを頬張りながら、クルツがマデューカスに訊ねた。
「いや。イギリスのカレーライスはもっと長い米を使っていたのでな」
長い米。いわゆる粘りの少ないインディカ米の事だ。日本の粘り気のあるジャポニカ米とは品種が違う。
そもそもイギリスでは粘り気=でんぷん質の多い食材は主食とはみなされず、副菜か付け合わせに使う食材という概念しかない。付け合わせと思っていた物が主食として出されれば驚きもするだろう。
「それにイギリスではカレーライスよりチキン・ティッカ・マサラの方が人気がある」
チキン・ティッカ・マサラというのは焼いた鶏肉をカレーソースで煮込んだカレー料理である。トマトやクリームも入れるのであまり辛くない。今ではイギリスの国民食とまで呼ばれるほどの人気であり、多国籍構成のメリダ島基地の食堂にもちゃんとメニューがある。
「へぇ。でもそっちは何かうまそうだな。イギリスにもうまい料理あるんじゃん」
チキン・ティッカ・マサラを初めて聞いたクルツが想像し、感想を述べる。
「いや。あれはインド料理のイギリス風アレンジだ。イギリス料理と言えるかどうか」
口ひげが汚れるのも構わず、幸せそうにカレーまみれのカツを頬張るニコラスの解説。その意見にはマデューカスも無言で同意した。
日本に詳しい二人が心底おいしそうに食べているのをしばらく観察していたマデューカスは、ようやくスプーンを手にしてカレーを一口放り込んだ。
今まで食べたどのカレーとも違う香辛料の複雑な香り。一瞬だけ強いが、それでいて爽やかに抜けていく辛味。徹底的に煮込まれてルーに溶け込んだ具材の味。それらが粘り気のある米と絡みあう、日本独特のカレー。
「……確かにうまい」
一瞬目を丸くしたものの、それすら恥ずかしいのだとばかりに無表情を作るマデューカス。その様子を見逃さなかったニコラスもニコニコして、
「そうだろうそうだろう。どんどんいこう」
『カツカレーおかわり!』と日本語で怒鳴ると、まるで早食い競争のようにガツガツと食べ進むニコラス。
だがその目は心底幸せそうなのが丸わかりだ。それだけこのカツカレーが好きだというのが、口に出さずともこちらにも伝わって来る。
冷静かつ客観的に考えても、確かにこのカツカレーはおいしいとマデューカスは感服した。油濃そうな外見にもかかわらず、それが気にならず綺麗に一皿平らげてしまえたのだから。
だが。ニコラスは調子に乗って三皿平らげた。クルツも二皿完食した。ところが、マデューカスは二皿目の途中でギブアップしてしまった。


「……乗せられたな」
食べすぎで苦しい胃の辺りを押さえながら、マデューカスが呻いている。ニコラスはからから笑いながら、
「だいぶ食が細くなったね、リチャード」
「いや。こういう部下を持つと毎日胃に穴が開く思いをする。それが敗因だ」
彼にしては珍しいジョークにニコラスは笑うが、クルツの方は憮然とし、
「中……おっさんが堅苦しすぎるんだよ。戦略は柔軟に計算できるクセに、どうしてその柔軟さを他に活かせないかねぇ」
「若者も言うなぁ。部下に言われっぱなしとは『公爵(デューク)』の二つ名が泣くよ」
胃が苦しいのを判った上で、マデューカスの腹をポンポンと叩くニコラス。その様子はまさしく「してやったり」と言わんばかりだ。
「じゃ、そろそろ一局いこうか」
「ちょ、ちょっと待てニコラス。この体調で打たせる気か」
二人の会話に「?」マークを浮かべるクルツに向かって、
「チェスだよ。どうしてもリチャードから一本取りたくてね」
ニコラスは得意げに口ひげを撫でると、立てた親指をぐっと突き出して笑っている。
「今はインターネットでも対戦できるけど、やっぱり向かい合って盤の上で打つのが一番だからね」
「ニコラス。まさか最初から……」
わざわざ「日本に来い」と連絡をしてきた事を思い出したマデューカスは、じわりと脂汗をたらしながらそう訊ねると、
「その通り。戦いはすでに始まっている。こちらの策にまんまとハマったね。腹が一杯では頭も回らないだろう」
策と言うほど立派とも思えないが。マデューカスもクルツも苦笑いでニコラスを見つめる。それから彼はクルツを見ると、
「若者はチェスは判らんかね?」
「日本の将棋なら判るんすけど」
そのクルツの答えに「しょうがないか」と言いたそうにため息をつくと、クルツの後ろを指差して、
「じゃあその間に友達へのお土産でも買ってきなさい。秋葉原はすぐそこだよ」
その言葉にクルツの表情がパッと明るくなった。これでようやくマデューカスから離れられる。一時的にでも。そんな喜びが顔にしっかりと出た。
ニコラスは横断歩道を渡った道路の反対側に見える喫茶店を指差すと、
「向かいの喫茶店にいる。終わったら連絡をくれないか」
「わっかりましたー」
元気よく返事して自分のスーツケースを持って去ろうとするクルツに向かって、マデューカスが苦しそうに怒鳴る。
「き、貴様。上司を見捨てて行く気か!?」
「いやぁ。親友同士の語らいに水を差すほど、野暮じゃないっすよ〜」
心はすでに秋葉原に飛んでいたクルツは、ひらひらと手を振りながら大通りを駆けて行った。

<中編につづく>


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