『突然のファイア・ザ・レッド(上) 中編』

一月一〇日 一五一二時(日本標準時)
東京郊外 井の頭線 渋谷行きの急行車内

帰りの電車の中、目録を持ったままの宗介に、
「で、相良くん。やっぱりカナちゃんを誘うの?」
どこか期待に満ちたまなざしで彼を見つめる恭子。それを聞いたかなめは泡食った様子で、
「キョーコ。何でそこであたしが出てくるのよ」
「だって、相良くんがこういう事誘いそうな人って、カナちゃんくらいしかいないじゃん」
恭子に言われ、かなめも言葉に詰まって考え込む。
人付き合いが得意ではない宗介の事。仲のいい友人知人が多いとは決して言えない。
<ミスリル>や戦場での友人知人はそれなりにいるであろうが、一泊のためにわざわざ日本に来るとも思えない。
強いて挙げれば「宗介の誘いに応じそうな人物」が一人いるものの、ほぼ高い確率で自分の仕事に忙殺されているに決まっている。
かといって、せっかくの券を使わないで無駄にするのもしゃくだし、売り払うのも気がひけた。
「千鳥」
いきなり声をかけられたかなめの心臓が、口から飛び出しそうなくらいに跳ね上がる。
「この券は、君に進呈しよう」
そう言って目録をぽんと手渡した。
「本来君が引く筈だった福引で当てたものだ。君が持つべきだろう」
「えっ。い、いきなりそんな事言われても……」
思っていなかった行動に、かなめも焦る。
「くじを引いたのはソースケじゃない。これはソースケが持ってなよ」
苦笑いを浮かべて目録を押し返す。
「ほら。八丈島って島だから、釣りとかいっぱいできるんじゃない? 来週にでも行ってくれば?」
かなめのその返答を聞いて押し黙った宗介を見て、恭子が、
「ここは、やっぱり二人で行くしかないでしょ」
と、ちょっと意地の悪そうな笑顔で言い切った。
「ちょっと待ってよ、キョーコ」
かなめが言葉を詰まらせて彼女に詰め寄ると、恭子の腕を引っ張って宗介から少し離れた。
「前からずっと言ってるけど、あたしとあいつはただの近所に住むクラスメート。キョーコが思ってるような恋愛対象とか、そういうもんじゃないの」
「照れなくたっていいじゃん。それに、あれってペア宿泊券でしょ? だったら二人で行かなきゃダメだよ」
恭子に小声で言われ、かなめの頬が朱に染まる。
旅行はともかく、宿泊券という事は、そのホテルに一泊する訳である。それも二人っきりで。しかも同じ部屋で。
(あいつは男で、あたしは女で、その、だから、つまり……)
「千鳥」
考えに没頭している最中に背後から声をかけられたかなめは、びくっとして身体をこわばらせる。
「え、な、なに、ソースケ!?」
ひょっとして今までの会話を聞かれていたのでは、とびくびくして声が裏返る。びくびくしながらも「一体何の用だ?」と内心では一応身構える。
「これは『カノジョ』と行くものなのか?」
「はい?」
かなめは身構えてはいたものの、問いの内容に思わず情けない声を上げてしまう。
「福引所の人間は『カノジョと楽しんできて下さい』と言っていた。という事は、これは『カノジョ』と行くのが正当な使い方なのか?」
ふざけた様子は一切なく、宗介は至って真剣そのものだ。凛々しさすら感じられる。
しかし、かなめと恭子は我を忘れて一瞬ぽかんとしてしまった。何を言い出すんだ、と言わんばかりの目で宗介を見つめる。
だが、恭子の方が先に我に返ると、
「そ、そーだよ、相良くん。これは『彼女』と行くんだよ〜」
やや遅れて我に返ったかなめが恭子の口を力一杯塞ぎ、
「ちょ、ちょっと何言ってんのよ、キョーコ。あ、ソースケ。こんなの真に受けなくていいからね!」
かなり動揺して引きつった顔で彼に言うものの、宗介はうつむき加減になって熟考モードに入っていた。
まずい。かなりまずい。
今までの経験から言って、このあと飛び出す言葉は、たいがいとんでもないセリフに決まっている。
かなめが冷や汗をかいているところに、彼の口から出た言葉は、
「……困る」
女二人が電車の中で綺麗にずっこけた。宗介は彼女達の反応を意外に思ったらしく、
「この場合の『カノジョ』とは、英語でいう“she”の事ではないだろう? そのくらいは理解している」
まるで辞書に書かれている事をそのまま朗読したような答えを言う。
そう思ったが、気持ちを切り替えた恭子が先に口を開いた。
「それはそうなんだけど。相良くんにだって、好きな女の子くらいいるでしょ? 『守ってあげたい』とか『大切にしたい』っていう女の子」
かなめは泡喰って恭子の口を塞ごうとしたが、さすがに二度目とあって腕で懸命にブロックされてしまう。
「相良くんにとって、そういう女の子を誘えばいいんだよ。ね、カナちゃん」
意味ありげに「カナちゃん」の部分を強調する恭子。
「キョーコ。あんたねぇ……」
じと〜〜っとした目で睨むかなめに向かって、恭子は考え込んでいる宗介に聞こえないように言った。
「あとはカナちゃん次第だと思うよ」
「どういう事よ、それ!?」
「ずっと前に相良くん言ってたもん。『俺は千鳥を護る。もとより恩を売る気などない』って。不器用で鈍いからあんな風だけど、相良くんは絶対本気だよ」
「そ、それは……」
その発言で、かなめの冷や汗は一層激しさを増していた。
本来<ミスリル>の傭兵である宗介が、こうして一高校生として生活を送っているのは、存在しない技術(ブラックテクノロジー)を持つ者と云われる<ウィスパード>である、自分を影ながら護衛するためだ。
それに、自分は彼のもう一つの身分も知っている。彼絡みのイザコザに巻き込まれた事もある。無論自分が狙われた事だってある。
彼に命を救われた事も――彼の命を救った事もある。
普通なら「ただのクラスメート」を超えた仲になっていても不思議ではないくらい、出会ってから一年足らずの間に、共に様々な事件をくぐり抜けてきた。
でも、未だに「恋人同士」と形容するには少々無理のある関係である。
このままじゃいけないと判っている。しかし、先に進んでみたいような、ずっとこのままでいたいような、それ以上踏み込む事ができない、説明困難な複雑な心境。
仲よくなれても好きにはなれないもどかしさ、とでも言うべきか。
「彼女」と聞かれて「困る」と答えた彼の感覚では、「護るべき存在」で「大切にしたい」女の子というのは「彼女」とイコールではなさそうである。
だが、彼にとって自分――千鳥かなめは間違いなく「護るべき存在」なのだ。
だとすると、バカ正直すぎる彼が出す答えは――
一つしかないじゃないか。
かなめはかなり困惑した様子でそう悟った。
一方宗介の方も、数少ない「恋愛」の知識を総動員して考え込んでいた。
これまで出会った戦友の何人かが語った「自分の彼女」像。
『こいつのためなら命も惜しくない』『守ってやりたいやつ』『誰にも渡したくない』『隣にいるだけでホッとするやつ……』
自分も彼女のためなら命も惜しくない。守ってやりたい。彼女を独占したいと思う。
しかし隣に彼女がいると、どうにも自分は落ち着かなくなる。決してホッとなどしない。
特に彼女が危険にさらされているかと思うと、感情が昂って冷静でいられなくなる。自分が自分でなくなってしまうような焦りや、憤りや、不安感で満たされてしまう。
(つまり、俺にとって千鳥は「カノジョ」ではないという事か。しかし――)
いつも通り悩み、いつも通り答えが出ない問答が続く。
恭子に言われて熟考していた宗介は、ふいにかなめの方を見ると、
「常盤の言った条件に合う人物を考えてみたが……君が一番条件に合うと思う。行く気はないか?」
宗介の言葉に、かなめの表情が凍りついた。
判ってはいた事だが、改めて正面きって言われると不思議と鼓動が早くなる。先ほどの動揺がぶり返し、顔も真っ赤に火照る。
昨年の夏も、宗介に旅行に誘われるという同じシチュエーションがあった。
その時は<ミスリル>の任務の「ついで」という空しいオチがあったが、今回は違う。
純粋に「旅行」の誘いなのだ。
普段は彼のしでかす「戦争ボケ」の後始末などでドタバタは絶えないものの、彼との仲が悪い訳ではない。それは認める。
普段は「お姉さんと弟」「飼い主とペット」等と周囲に言われている間柄といえども、やはり男と女である。
戦争バカで、常識知らずで、はた迷惑で、朴念仁で、鈍感で、無愛想で、不器用で、融通がきかなくて、デリカシーのかけらもないやつではあるが、かなめが一番親しくしている「異性」には違いないのだ。
そんな親しい異性と同じ部屋で――それも外泊という形で――一夜を過ごすというのは、二人で遊園地に行ったり、一緒に食事をするのとはレベルが違う。立派すぎるくらい立派な懸案事項である。
人生の一大事、とまではいかないものの、充分大問題である。
そこまで考えて、ふと我に返る。
(結局、な〜んにも変わってないのか、あたしは)
夏の時と殆ど同じパターンの悩みが浮かんだかなめの胸中は、悩みから空しさにとって変わった。
だが、空しくなった途端に別の考えが浮かんできた。
真面目でカタブツ過ぎる宗介の事だ。一緒の部屋にいるからって、手を出してくるようなやつじゃないし。
もし「旅先の開放感」とやらで、万が一変な事してきたら、けちょんけちょんに叩きのめして窓からみの虫みたいに吊るしてやろう。
そこまで考えて、思考は急にポジティブになる。
(それに旅行なんだから、やっぱ楽しまなきゃね。めいっぱい遊びまくって、名所を巡ったり、いい景色を堪能したり、名物料理に舌鼓をうったり。そもそも、あたしはそんなに自分を安売りするつもりはないし。そう簡単に流される女じゃないぞ)
やがて空しさは持ち前の強気に変わり、少しそっぽを向いたままではあったものの、
「……ま、考えとく」
ぽつりと小さく呟いたが、実際は考えるまでもなかった。

そして、この旅行も――残念ながら普通には済まなかった。


一月一五日 二一一九時(グァム島標準時)
グァム島

そんな事があった日曜から五日後の夜。
米軍の基地がある島の一つ。観光でも有名なグァム島から、一隻の巡洋艦が出港していた。
タイコンデロガ級イージス巡洋艦・キングゲイザーの艦橋では、艦長と副長らしい人物が何やらぶつぶつと言い合っていた。
「まったく。空軍のくそったれ共のせいで、こっちまでとばっちりを喰うとは。そう思いませんか、中佐」
そう言ったのは小柄だが妙に筋肉質な黒人男――ガイ・ビーン大尉だ。
二ヶ月前の空爆失敗以後、空軍だけではなくアメリカ軍そのものが(フランスを中心に)白い目で見られまくっているのだ。悪態をつきたくなるのも無理はない。
いきり立っているビーン大尉が「中佐」と呼んだのは、隣に立つ妙にひょろっとした長身の白人男。米国海軍で二〇年を生き、荒ぶる海軍の精鋭達から全幅の信頼を置かれる、この艦の艦長ジョージ・ホルムン中佐である。
ガイ・ビーン大尉にジョージ・ホルムン中佐。二人の頭文字をとって「GGコンビ」と呼ばれている二人だ。
その長身の男は大尉に向かって静かに言った。
「空軍は『くそったれ共』ではなく、我が『合衆国海軍最大の宿敵』だ」
中佐は味気ない感情に乏しい声で部下に言う。
同じ国の軍隊でも、所属が違えばいざこざも多いし対立も激しい。
「自分達が国を護っているんだ」という誇りからくるものであればまだマシだが、実際はそんな愛国心溢れるものばかりとは限らない。
「理由はどうあろうと、上から来た命令は確実にこなさなければならん」
ホルムン中佐はビーン大尉に、それ以上に自分自身に言い聞かせるようにそう言った。
あまり感情が表に出るタイプではないだけに判りにくいのだが、気持ちはビーン大尉と同じだった。
こんな実用的でないミサイルの実験などにつき合う義務など全くない。
しかし、自分達は軍人である。
たとえ、自分が気に入らない任務であろうとも、それを行わなければならない。それが軍人というものだ。
「しかしですな。ペルシャ湾へ行って、あのヒゲおやじにでもミサイルをブチ込むなら世界もちょっとは平和になるでしょうが、あんな若造の作った、役に立つのか立たないのか判らない巨大な鉄クギを撃ちに行くんじゃ、物笑いの種でしょう?」
ビーンは、丸めて持っていた、軍上層部から渡された今回のミサイルに関する資料のコピーを広げる。
その表紙には「新型トマホーク・ミサイル/フラクシナス型(仮称)」と書かれてある。
フラクシナスとはトネリコの木の学名だ。吸血鬼退治の手段として有名な木の杭の材料。目標に杭のごとく突き立てるミサイル、というシャレのつもりだろうか。大して面白くもないが。
ホルムンは彼の手にある資料をちらりと見ると、
「聞いた話だが、そのミサイル自体は二年も前に開発されたものだそうだ。しかし、当時は『バカバカしい』と一蹴した」
ホルムンは幼子に昔話を語るかのような口調で続ける。
「実際バカバカしい事は事実だが、一蹴したのには、理由がある」
彼は周囲の人間が懸命に自分の持ち場で働いている様子を見てから、小声でビーンに言う。
「その設計図は『異常』だったのだ」
妙に重苦しい顔になった彼に、ビーンの方も小声になる。
「『異常』、と言いますと?」
「私もこうした兵器の設計・開発についてはそう知識のある方ではない。しかし、外観はこれまで通りにもかかわらず重さが一〇倍、飛距離が一・五倍というのは、どう考えても不自然だろう?」
ミサイルは、ちょっとした艦隊戦に使うものから大陸間弾道ミサイルまで、たくさんの種類がある。それにつれて大きさも重さも飛距離もまちまちだ。
しかし、これだけ違って外見は従来のトマホーク・ミサイルと殆ど大差がないのだから、いくら何でも尋常ではない。
重いだけ、遠くに飛ぶだけならいくらでも作れるかもしれないが、そんなミサイルを、従来のトマホーク・ミサイルと「全く同じ発射方法で」撃てるのは異常を通り越して不可解だ。
実際に積み込む時に、その重量故に桁外れの手間ひまがかかっているところからも、そのミサイルがどれだけ異常なのかが判る。
通常こうしたミサイルは軽量化を考えてアルミニウム等が使われているが、その外観の色とあまりの重さから「鉛で作ってるんじゃないのか?」とぼやく作業員もいたほどだ(実は、本当に鉛が使われているのだが)。
このミサイルを設計したウォルター・アッシュスクワードという人物。確かに若く優秀だという話は聞いているが、こうまで常識外れな物は作った事がなかった筈だ。
優秀だが平凡な物を作っていたにもかかわらず、いきなりこのミサイルで「異常ぶり」を発揮したのだ。
何かあると勘ぐる人間が出ても、不自然ではないだろう。
確かに、現在世界にあるハイテク兵器の数々は、このウォルターのような若い世代の方がよほど詳しい。
その知識がどこから出たのか。自分で閃いたのか。それともどこかからアイデア・技術の提供を受けたのか。
実は、彼のアイデアをあっさり一蹴したと見せかけて、彼の背後関係を探り出す時間が欲しかったというのが、軍上層部の本音らしい。
結論を言えば、彼の背後関係を解明する事はできなかった。元々なかったのか。それとも至極巧妙に隠されているのか。それは判らない。
「……怪しい物をすぐさま使うほど、我が合衆国海軍は落ちぶれてはいない。今回の一件は、上層部の方で我々の預かり知らない駆け引きがあったのだろうと、私は推察している」
ホルムンは自分の推測もまじえた説明のあと、
「今の兵器テクノロジーは異常だと思っている。アーム・スレイブを見ても特にそう思わなかった私でも、あのミサイルは異常と思うしかなかったよ」
アーム・スレイブとはここ一〇年ほどで各軍の主力級になった人型兵器の事だ。
「この事は他の者には他言無用だ。余計な情報を与えて混乱させる訳にはいかん」
「了解しました」
小声の談義はここで終わった。
「……博士はどうしている」
ホルムンはビーンに訊ねる。
今回の「任務」の発端となった「バカバカしい兵器」を開発した若き技術者も、今回この船に乗り込んでいるのだ。ウォルターとかいったか。
「ウォルター博士はあてがった部屋にいます。『少しでも寝ておきたい』そうですがね」
苦虫を噛み潰したという表現があるが、今のビーン大尉の顔がまさしくそうだろう。
だが、彼の気持ちも判る。
博士はミサイルの取扱いはもちろんの事、船の行き先から航行時間に至るまで、事細かにうるさいくらいに質問し、注文をつけたのだから。さらに「この機材はこうしておけ」とあちこち好き勝手にいじっていたようだ。
言うだけ言って、人任せにして、自分はのうのうと高いびき。
全くの門外漢の人物に、自分達の専門分野であれこれ言われた上にこれでは面白い訳がない。
「……とりあえず、発射予定地に到着するまで、絶えず監視をつけておくように。これ以上邪魔をされてはかなわないからな」
「了解しました」
ビーン大尉は、今日一番の笑顔でその命令に答えた。


同時刻 タイコンデロガ級イージス巡洋艦<キングゲイザー> 船室内

そのウォルター・アッシュスクワード博士は、一人であてがわれた部屋にいた。
今回は本格的な戦闘でも艦隊訓練でもないため、この艦の定員分の乗組員は乗っていない。そのため、あまり余計なスペースを取れない船舶にも、少々の空き部屋はできる。
普段は作戦会議などをする簡素な部屋こそが今回彼の部屋とされていた。
一応、形の上ではVIP待遇であるために、ドアの外には警護する兵が一人。
しかし「彼に関わるな」というのが上からの命令なので、その兵も部屋の中でゴトゴトいっていたのを「なかった事」にしていた。
やる気という物が、まるでうかがえない態度なのである。
その兵はわざわざホテルのように「起こさないで下さい」という紙を貼っておいたくらいだ。
しかし彼の姿は仮設のベッドの上にはなかった。そのベッドは何故か出入口を塞ぐ形で置かれている。
問題のウォルターは、小さなテーブルの上に少し型遅れのノート・パソコンを開いて、その前に座っていた。
あれこれうるさく指示するふりをして、こっそりと艦内の電気配線に細工をし、即席の無線LAN環境を構築していたのだ。それでノート・パソコンを艦内のコンピュータと接続するために。
もちろん外部に連絡されては面倒なので、無線機や内線の電話がスイッチ一つで繋がらなくなるように細工をしておく事も忘れなかった。
二年前。思い悩んでいたウォルターは、いきなり自分の元にやってきた謎の男を思い出していた。
<アマルガム>の使いと名乗った男は、こちらの境遇をすべて知っていると言い、二つの物を置いていった。
その一つが、全く新しいミサイルの推進装置の基礎理論だ。その理論は優秀と言われた彼ですら考えもつかないくらいハイ・レベルの物。
文字どおり「この世の物とは思えない」代物だった。
自分を超える「天才」の存在に嫉妬を覚えてもよかろうに、不思議とそんな気分にはならなかった。
きっとこれを考えた人間は、自分が嫉妬するほど手の届く存在ではないと察したのだ。
しかし、その推進装置を利用したミサイルを米軍に発表したために、軍の情報部からあからさまにマークされ、慣れ親しんでいた八丈島を出るはめになってしまった。
それについては多大な迷惑を被ったが、もうどうでもいい事だ。もしこの場にその男が現れたとしても、それを責めるつもりはない。
そしてもう一つ。自分の「本来の」目的のために。
向こうが何を考えてこのソフトを送ってきたのか。そんな事はどうでもいい。
たとえ利用されているだけにせよ、自分の目的と一致している限り、利用されてやってもいい。
ノート・パソコン脇のスリットからDVDを挿入し、作動させる。
DVDを読み込む小さな音が微かに響く。その間、画面中央にはカラフルなバーが踊り、一分ほど経ってから「COMPLETE」の文字が表れた。
あの男が言っていた事が真実なら、これで艦の制御はこのノート・パソコンからできるようになるのだ。
常識的に考えれば、全く信じられない事である。
確かに、最近のコンピュータは非常に優秀である。処理速度も向上し、まさに万能の機械と呼ぶにふさわしい。
だが、それでも携帯型のノート・パソコン――それも少し型遅れの機体一つでこの大きな巡洋艦の総てをコントロールできるなど、夢物語もいいところだ。
しかし、現実は違った。
画面には艦の現在位置・速度など、航行に必要なデータが表示されている。ウィンドウを切り替えると、ミサイル発射の設定から上下水道のシステム、エンジンの出力に至る総ての項目の表示・変更が可能。
まさに、ここからコントロール可能になってしまったのだ。いわばもう一つの艦橋である。
「……あの男、嘘を言っていた訳ではなさそうだ」
ウォルターは驚きに満ちたまなざしで画面を見ていたが、早速自分「本来の」目的を達するため、キーを叩いた。
イージス巡洋艦キングゲイザーは、艦橋の誰にも知られる事なく、その目的地を変えたのだった。

<後編につづく>


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