『大誤解のインブレイス 中編』
さて。釣りに行く連休一日目の朝。
いつもは朝に弱いかなめもどうにか早起きし、眠い目をこすりながらお弁当を作っていた。
「あ〜。しっかし、何で朝に弱いかなぁ〜あたしは」
そんな事を言いながらも手の方は手際よくちゃかちゃかと動く。
定番のおにぎり、卵焼き、鶏の唐揚げと次々に出来上がっていく。その手際は手慣れた主婦を連想させた。
男子には「短気だ」「がさつだ」「乱暴だ」というイメージがあるかなめだが、本当はこうした家庭的な面もきちんと持ち合わせているのである。
そうしてお弁当を作り終え、これから着替えようとした時に恭子がやってきた。
いそいそとドアを開け、中に招き入れる。
「おはよ、カナちゃん。やっぱり眠いね、こんな朝早くだと」
「うん。あたしも。いつもなら寝てる時間だもの」
二人揃って大きくあくびをする。恭子はきょろきょろと辺りを見回すと、
「そういえば、相良くんまだなの? 早めに来るって言ってたのに」
そう言われて部屋の時計を見ると、出発時間にはまだ余裕があるが「早めに来る」と言っていた割には遅いかもしれない。
「そういえばそうね」
そう言ってからかなめの胸中にサッと不安がよぎる。
急に任務が入って呼び出しがあったのかもしれない。だが、その時は必ず留守電に入れるように言ってある。
しかし、その留守電にメッセージは入っていない。
何の連絡もなしに遅れるとは。時間には必要以上に気をつけている彼らしくもない。
「あいつに限って寝坊って事はないだろうし、部屋で時間を忘れて準備でもしてるのかしらね」
「準備って、何の?」
「釣りだから、エサとか釣り竿とかいろいろあるんじゃない? それに、ソースケの事だから海でも大丈夫な銃とか爆弾とか並べてたりして」
「あ。なるほど。ありそー」
恭子は素直に納得する。かなめは自宅の電話で宗介の携帯に電話をかける。
十回程呼び出し音が聞こえた後すぐに電話を切った。
「何やってんのよ、アイツは!? あたし、ちょっとソースケのとこ行ってくる」
小さく舌打ちした後、そのまま彼の家に向かおうとする。
「カナちゃん。そんな格好じゃ寒いよ」
確かに今のかなめの格好は、部屋の中で動きやすいようにとTシャツにデニムのタイトミニ。日も昇ってないうちでは寒いだろう。
「平気よ。すぐそこだし。悪いけど、キョーコはちょっと待ってて」
「うん。気をつけてね」
かなめは玄関に出しっ放しのサンダルに足を突っ込み、ぱたぱたと走って出ていった。
宗介の住んでいるマンションは、かなめの住むマンションとは都道を挟んだ向かい側にあった。
彼女は人気のない都道を横切り、彼のマンションの扉を開けて中に飛び込み、エレベーターを待つ時間ももどかしく階段を段飛ばしで駆け上がり五階に到着。
廊下を歩きながら切らした息を整え、彼の部屋の前に立つ。
ぴんぽーん。
部屋の呼び鈴を押してみる。反応はない。中から明かりが漏れてもいる。いるのは間違いない。
「……何やってんのよ、あいつ」
何の応答もない時間にイライラしながらもう一回呼び鈴を鳴らす。
しかし、やはり応答はない。
「しょうがないか」
小さく呟くと、意を決してドアノブを握り、軽く回してみる。すると、いとも簡単にノブが回った。
「おっかしいわね。あの危機管理にうるさいソースケが鍵かけてないなんて……」
ゆっくりとドアを引き、開いた隙間にそろそろと首を突っ込む。
「ちょっと、ソースケ? いないの?」
確かに部屋の奥に明かりはついている。
そのままの状態できょろきょろと辺りを見回すが、彼がいるような気配はまるでない。
きょろきょろ見回している時、ドアの内側のノブが壊れて取れている事に気づいた。そこに弾痕がついているのを見て、
「何でこんなとこ撃つのよ、あいつは」
かなめはなぜか、しつこい新聞勧誘員を銃で追い返そうとする宗介を想像し、小さく笑った。
「コンビニに買い物にでも行ってるのかな?」
「……千鳥か?」
奥の方から小さく宗介の声が聞こえた。
「ソースケ? いるんなら返事くらいしなさいよ」
そう言いながらドアを開け、構わず中に入る。サンダルを脱いでぺたぺたと素足で奥の部屋に入っていく。
「……は?」
一番奥の部屋の状況を見たかなめは、訳がわからず立ちつくすばかりだった。
「え、え〜と。何なのかしら、これは?」
部屋の真ん中で上着を脱いだ制服のまま、左のふくらはぎから下にべったりと黒い「何か」をつけて座っている宗介を見下ろしたまま訊ねた。
彼の周りにも黒い「何か」の飛沫が飛び散っており、形容しがたい色の液体が入ったプラスティックのボトルや袋、それに銃の弾丸らしき物がいくつも散乱している。
「先日も話したと思うが、新型の対人粘着地雷用の粘着剤を作る為の溶剤を手に入れてな。それを応用してペイント弾用の弾丸に入れようと溶剤の分量を調整していたのだが……」
「……失敗した訳ね」
呆れつつも冷ややかな目で見下ろしたまま、ふう、とため息をつく。
「面目ない」
宗介は素直に謝罪し、悲しげにうつむいた。
「電話はベッドの上で手が届かず、連絡がとれなかった。申し訳ない」
見ると、確かに彼の携帯がベッドの上にちょこんと乗っており、その小さなディスプレイには「着信あり」とメッセージが出ている。
しかし、彼の方をよく見てみると、腰の所にはしっかり愛用のグロッグ19を収めたホルダーがあった。
「あんたね。拳銃持つんなら、携帯持ってなさいよ」
「……そうだな。君の言う通りだ。反省している」
珍しく素直になっている。
「ちょうど良い。その黄色の蓋のボトルを取ってくれ。それがこの樹脂の溶解剤だ」
彼の指差す先に確かに黄色の蓋のプラスティックのボトルが転がっている。どうやっても今の彼の手の届かない位置だ。
「あんたねぇ。助けを呼ばなくても、服を脱げば動けるんじゃないの?」
「それはできない。足も固定されてしまっている」
かなめからボトルを受け取ると、蓋を開けて中の溶解剤を少しずつ振りかける。乾き切った黒い樹脂の表面が不気味に小さく泡立った。
「でもさ。自分で作らなくったって、そういう弾丸って売ってるんじゃないの?」
その黒い樹脂の無気味な変化を一応観察しながらかなめが訊ねる。
「無論売っている。だが、性能的に不満があってな。自分で改良していたのだ」
銃だけでも弾丸だけでも何の役にも立たない。銃の整備をするのはわかるが、弾丸などは売られている物をそのまま使う物だとばかり思っていたかなめには意外な驚きだった。
更に溶解剤をかけると泡が大きくなり、やがてぽろぽろと剥がれ落ちていった。足に張りついた樹脂を手で払い落とし、
「助かった。感謝する」
量が残り少なかったのか、空になったボトルをトンと床に置く。
「この粘着弾は威力の調整をする為に三種類の薬品を混合させるタイプの物でな。その分量によって飛び散る範囲や粘着力を調整できるのだ。なかなか上手い具合にいかなかったのだが、昨夜急に良いアイデアを思いついてな。つい没頭してしまった」
なぜか左脚を投げ出したまま床に座り、事情を説明する。
「没頭したのはわかるけど、今日が何の日か、忘れてないでしょうね?」
「忘れてはいない。だが、ずっと同じ姿勢でいたので脚が痺れている。こんな事は珍しい。もう少し待っていてくれないか」
なるほど。脚を投げ出しているのはその為か。
物陰に隠れて何時間もじっとしている任務などで動かない事には慣れているだろうに、脚が痺れているとは。かなめはちょっとだけおかしくなった。
「わかったわ。あたしもこれから着替えなきゃならないし」
「最初から出かける時の格好をすれば済む事ではないのか? てっきりその格好で行くものと……」
宗介の言葉にため息をついたかなめは、少々不機嫌そうに、
「あのね。あたし今までお弁当作ってたの。油がはねたりしたら汚れちゃうじゃない」
「理解に苦しむ」と言わんばかりの顔で首をかしげる宗介を見下ろして言った。
「あんたも早く来なさいよ」
そう言ってその場から立ち去る。ぺたぺたと素足で玄関まで行き、サンダルに片足を突っ込んだ所で、ふとさっきの部屋の光景が頭をかすめる。
意外と几帳面な彼の事だ。あのままにしては行かないだろうが、あれを片づけるとなると出発時間が更に遅れてしまう。
かなめは一人で「ええい、世話の焼ける」と思いつつ、突っ込んだ足をサンダルから抜いて、再び彼の元に戻る。
「千鳥、どうした?」
いきなり戻ってきた彼女に面喰らったようだ。かなめは「めんどくさい」と思いつつも乾いた笑顔で、
「片づけるのは帰ってからで良いけど、せめてこういう物はひとまとめにしときなさいね。時間ないんだし」
そう言いながらかなめは物を踏まないように爪先立ちになり、転がったボトルや袋をひょいひょいと拾い上げて抱えていく。
その時、ちょっとした事故が起きた。
かなめが床に転がった空の弾丸気づかずにそれを踏んでしまい、それに足を取られ転んでしまったのだ。
「きゃあぁっ!」
「千鳥!」
彼女は袋やボトルを抱えたまま宗介の方に倒れてくる。彼も慌てて彼女を抱きとめた。だが、倒れた勢いに負け、彼女を抱えたまま床に倒れる。
まるでかなめが宗介を押し倒したような格好になり、互いの身体が密着する。彼の体温が生地の薄いTシャツを通して伝わってくる。
「……大丈夫か、千鳥」
「あ、あたしは平気だけど。そっちこそ大丈夫?」
言いながら、彼女は自分の顔が赤くなっていくのがわかった。相手の髪の毛先まで良く見える距離にまで接近しているのだ。その為か、このままではあたふたとパニックを起こしてしまいそうなくらい心臓がドキドキしている。
宗介の方も自分の心臓が急に早く打ち始めた事に戸惑いを隠せないでいた。
(何なのだ、これは!? 千鳥が近くにいるだけなのに、こんなに鼓動が早く……)
しばらく意味もなく見つめあっていた二人だが、
「……あ。あたしが退かなきゃ、ソースケ立てないよね」
かなめは我に帰ると、ぎこちない動作で立ち上がろうと身を起こす。するとなぜか着ていたTシャツがぐいと引っ張られ、一瞬Tシャツの襟から胸元が丸見えになった。
「きゃああ!! 見ないでよっ!!」
日も昇ってないうちなので、かろうじてボリュームを押さえた叫び声を上げ、慌てて再び勢い良く伏せる。顔はさっきより真っ赤になっており、心臓の鼓動もより激しくなっている。喉から飛び出しそうとはこういう事を言うのだろう。
「ど、どうしたのだ、千鳥。見るなとは一体……」
「うるさいっ! とにかく見ないでったら見ないで」
「? ……了解した」
宗介はよくわからないながらも一応承諾する。
かなめはパニックになりそうな頭をフル回転させて「どうしてああなったのか」を検証する。
が、検証するまでもなかった。あの時抱えていた物の中に樹脂の原液があったのだろう。
それがぶつかったショックで袋が破れでもして、液がもれてくっついてしまったのだという事を。
そんな訳で現在、二人の上半身は黒い樹脂でべったりとくっついてしまっている。
それを手短かに説明された宗介は、とても困った表情になった。
「まずいな。溶解剤はさっきので使い切ってしまった。溶解剤の原液はクローゼットの中にしまってあるのだが……」
「それの何がまずいのよ」
「あれは水で薄めなければならないのだ。原液のままで使うのは強すぎる。皮膚がただれるくらいでは済まんぞ」
「じゃあ、さっさと作っちゃってよ」
「わかってはいるが、この体勢では……」
確かに寝そべったままでは薬品の調合どころではない。しかし、大きく動けばまたさっきと同じ事になる。
「うー。わかったわ。とりあえず立てれば良い訳よね。脚はまだ痺れてる?」
「何とかしよう」
そう言うと、彼は腹筋を使って、いきなりがばっと上半身を起こした。何の予告もなくいきなり動かれた為、彼女はとっさに宗介の首にしがみつく。
「きゃっ! ちょっと、いきなり動かないでよ」
「動かないでと言われても……」
彼にそう言われた時、かなめは自分が彼の上半身にピッタリとくっついたまま、彼の太ももにすとんとまたがる格好になっている事に気づいた。
「ちょっと! 何てカッコさせんのよ。こんなの恥ずかしいじゃない!」
かなめは彼にピッタリとくっついたまま口を引きつらせる。
「そうなのか?」
「あったり前でしょ!?」
宗介の不思議そうな答えに耳まで真っ赤にしたまま言い返す。かなめは彼の肩や頭や首や背中を拳でがしがしがしと叩き、足をバタバタとさせる。
「ち、千鳥、落ち着け。暴れられると立てん!」
「うるさいっ! 立つより前にこのカッコだけは何とかしてよ!」
「静かにしてくれ! 今……」
「あんた、ひょっとしてわざとやってんじゃ……って、どこ触ってんの! チカン! ヘンタイ! レイパーッ!!」
「いい加減にしてくれ! 今そこに誰か……」
そう小声で言い合いながらバタバタとやっていたせいだろう。宗介はともかくかなめは侵入者に全く気づかなかった。
どさっ。
部屋の入口の方でした物音に、かなめの動きがピタリと止まる。
かなめは素早くそちらを向き、宗介は右手に握った銃をホルダーから取り出した所で動きが止まった。
「キョーコ!?」
「常盤!?」
かなめと宗介の声がきれいに重なる。
かなめが宗介の家に行ったままなかなか帰って来ないので様子を見に来たのだろう。
彼女は自分の荷物を足元に落とした事にも気づかずに呆然とその場に立ちつくしている。
宗介&かなめと恭子の間に時が止まったかのような沈黙の時間が流れる。
「床に座った宗介の太ももにまたがるようにして腰を下ろして彼にしがみついている自分」の図。事情はどうあれ気まずい事に変わりはないし、こういった状況を乗り切れるほどの知識も経験も二人には当然ない。
「あ〜、あのね、キョーコ。これは、その、あの……ね?」
かなめが宗介にしがみついたままあたふたと説明しようとするが、完全に頭がパニックを起こしてしまい、何を言って良いのか、何を言っているのかさえわからなくなる。彼女の頭の中は今や完全に真っ白になっていた。
「……ごめん!」
表情が凍りついていた恭子が我に返り、いきなり深々と頭を下げる。
「あたし、愛する二人の邪魔をするつもりはなかったの。許して!」
そう叫んで、荷物を置いたまま走ってその場を去っていった。
「ちょっと、キョーコ! 何考えてんの! 誤解よ! 戻ってきて〜〜!!」
かなめは手を伸ばして引き止めようとするが、もちろん届く訳はない。
恭子が閉めたドアの音が、かなめには以前ドキュメンタリー番組で聞いた刑務所の重たい扉が閉まる音にも聞こえた。
頭の中は真っ白。目の前は真っ黒。そんな例えようもない絶望的な気分がかなめを襲う。事故とはいつでも、ほんの些細な偶然がいくつも重なりあって起こる物だとわかっていても。
そのまましばらく無音の時間が過ぎていく。その時間の間にゆっくりと、しかし確実に怒りが込み上げてきたかなめが、彼の耳元で静かに怒りを込めて言った。
「……どーしてくれんのよ、ソースケ! かんっっぺきに誤解されちゃっちゃぢゃないのよ!!」
驚きのあまり舌が回らなくなったまま怒りを彼にぶつけていた。更に辺り構わずがしがしと叩く。
「誤解とはどういう事だ」
「……どうもこうもないわよ」
殴り疲れたせいもあり、ガクンとうなだれる。
(はぁ。何でこいつとからむとこうなっちゃうのよ、あたしは……)
何だか良くわからない空しい風が、彼女の心に吹き荒れる。
「全部……あんたが悪いんだからね」
やがて、彼女の怒りの鉾先は、総て宗介に向けられた。
「そもそも、これから出かけようって時にそんな事やってるあんたが全部悪い」
口調こそ静かなものの耳元で冷ややかに言われると言いしれぬ圧力があった。宗介の方は訳がわからないままだったが、
「……俺が、悪いのか?」
それだけをどうにか言うと、宗介の方もそのままうなだれてしまった。
そのまま再び無音の時間が過ぎていく。だんだんと重くじめじめとした嫌な雰囲気が部屋に満ちていく。その雰囲気にに耐えられなくなったのか、宗介が口を開いた。
「千鳥。一つ聞きたいのだが」
「……何よ」
「さっきも言っていたが、先日常盤が言っていた『あいする』とはこれの事なのか?」
その一言で我に返ったかなめは、自分がまだ宗介にしがみついたままだったという事を思い出した。
「んな訳あるかっ!! 今頃そんな事むし返すなぁっ!!」
今度は後頭部に拳を一発入れた。
しかし、彼等にとっては悪い事に、騒動はこれだけでは終わってくれなかった。

<後編につづく>


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