『女神と天使のディアリスト 前編』

外では小雨がぱらつき始めていた。
ぴんぽーん。
「相良宗介」と表札の出ている、とあるマンションの一室。その前に立ち尽くしている人物が、二人。
そのうちの一方。一〇代半ばの少女がアッシュ・ブロンドの三つ編みを指先でいじりながら、ぽつりと言った。
「出ませんね」
彼女は首をかしげ、もう一度呼び鈴を押してみる。
ぴんぽーん。
一秒。二秒。三秒。
しかし、やはり家人は出てこない。中から物音も聞こえてこない。
呼び鈴のボタンに指をあてたまま、一種呆然とした暗い顔を浮かべているテレサ・テスタロッサ。
「留守? それとも……まだ学校なのかしら?」
もう一方。テッサよりひと回りくらい年上の彼女が、やたらとごつい軍用モデルの腕時計をちらりと見る。
こざっぱりとしたスーツ姿の彼女――メリッサ・マオは、その時計が一八〇〇時近くをさしている事を再確認し、
「学校にしても遅いわねぇ。いくら月曜日といっても。確か……」
ジャケットのポケットに入ったメモ帳を取り出し、素早くページをめくっていく。
「……ああ、やっぱり。今日は特に学校行事はないわ。なのにこんなに遅いなんて変ね。普段通りなら、もう帰って来てる筈よ」
何やら考え込みながらゆっくりとメモ帳を閉じ、ポケットにしまう。
「いきなり行って驚かそうとしたのが、裏目に出てしまいましたね」
テッサは寂しく呟くと、閉まったままの扉に背を預ける。いくら待っても約束した恋人がこない。そんな雰囲気を漂わせている彼女を見たマオは、
「落ちこまない落ちこまない。どうせ合い鍵はこっちも持ってるんだし。中に入って待ってようか?」
マオはこの部屋の合い鍵を持っている。それならばわざわざ呼び鈴を鳴らす必要もないのだが、
「そうなんですけど、やっぱりここはサガラさんの部屋ですから」
テッサの沈んでいた表情に、ほんの少し笑顔が戻る。
「でも、一応<ミスリル>のセーフ・ハウスなんだし」
「ですが、侵入者と勘違いされて、サガラさんに銃を突きつけられるのは」
以前、訳あっていきなり転がり込んだ時の事を思い出し、テッサは苦笑する。
「それに……。サガラさんの事ですから、何かトラップの一つも仕掛けてそうですし」
世界中の紛争を秘密裏に処理する、多国籍構成の極秘対テロ部隊<ミスリル>。
その実動部隊である作戦部の西太平洋戦隊<トゥアハー・デ・ダナン>に属するこの二人。テレサ・テスタロッサ大佐とメリッサ・マオ少尉は、部下の相良宗介軍曹の部屋の前でため息混じりに立ち尽くしているという訳だ。
「……やっぱり、今日こっちに来る事を言った方がよかったかしらね」
「……ちょっと、後悔してます」
あれから一〇分ほど経ち、何の変化もない状況の中で口を開いたマオに、テッサも同調する。
元々少ない貴重な休暇で、わざわざ遠く離れたこの東京の地に来て、彼の元へ行く。それだけ聞くと部下思いの上官であるが、テッサの場合はそれに――微量ではあるが「恋心」が加味されている。
実際はただの片思いな上に、自分の横恋慕である事が証明されてしまっているのだが、こうした恋心は振られたからといってプチンと切り捨てておしまい、とは限らない。トカゲのしっぽとは訳が違うのだ。
あれからずいぶんと経つし、自分の中では完全に吹っ切って、単に「親しい異性の友人」である。しかし、以前の想いが未だに胸の奥で小さくくすぶり続けているような気もしている。人が聞けば未練たらしいと笑う事だろう。
(それにしても……)
何となく、雨のそぼ降る眼下の都道を見下ろして物思いにふけるテッサ。
どうして自分はこうした事に縁がないのだろう?
この道を選んだのは自分自身だ。こうした形でしか、自分は生きられなかったであろう事も。
自由自在にではないが、現在の科学技術を遥かに超えた知識を引き出せる、生きたデータバンクのような存在<ウィスパード>である自分が。
そんな知識を持つ存在だと世間に知られたら、どこの軍・テロリストその他も放っておくまい。その知識を独占しようと、懐柔策・強硬策を次から次へと繰り出してくるに決まっている。
そんな生活から逃れるためには、ウィスパードである事をひた隠し、同時に大きな武力を持つ公平な組織を頼るしかないだろう。
でも、普通の生活を捨てた者に、普通の幸せは得られないのだろうか。つかみ取る事もできないのだろうか。
答えはおそらくノーだ。幼い頃から戦場で過ごし、苛烈な戦いの中で暮らしてきた部下の相良宗介は、今でもその身分は「傭兵」だ。
そして<ミスリル>の任務として、とある少女の護衛のためこの地を訪れた。しかし今はその任務を解かれたものの、自分の意志でその護衛を全うするとして、傭兵と学生の二つの身分をどうにかやりくりしている。
戦いしか知らなかった彼が、今ではささやかな幸せを知るまでに至っている。それはこの地で彼を取り巻く人間関係を見れば容易に察しがつく。
だが、それは「戦いとは無縁の世界」に住んでいるからだ。自分のようにずっと組織に身を置く人間では、こううまくはいかないだろう。
テッサは「とある少女」。千鳥かなめの事を思い浮かべた。
彼女もテッサと同じウィスパードである。しかし彼女は<ミスリル>の方針で、宗介という護衛をつけた上で今まで通りの生活を送っている。
自分と同じウィスパードでありながら、自分とは全く正反対の生活。何でもない些細な事に喜び、怒り、笑える。そんな普通の生活。
どんなに望んでいても、今のままの自分には決して手に入れる事ができない物。それを妬む気持ちがないと言えば、やはりウソになる。
これが典型的なラブコメマンガであれば「わたしのカレを取らないで!」と彼女と一悶着起こしている事は間違いないくらい、はらわたが煮えくり返っていただろう。
だが、不思議とかなめに対してはそういった気持ちはあまり沸き上がらなかった。むしろ、同じ目標に向かって歩み続ける「同志にしてライバル」という関係の方がしっくりとくる。
それにしてはずいぶんなハンディ・キャップだ。こちらは離れた地にいる事と大佐と軍曹という階級差もあって、そう親しく会う機会はない。
一方かなめの方は彼の正体も境遇も知っている上に立場は同じ「学生」。おまけに彼女が住んでいるのは道路を挟んだ向かいのマンション。会おうと思えばいつでも会える。
口では何だかんだ言っていても、食事を作ってあげたり、彼の苦手な古典や日本史を教えてあげたりと確実に親密度を上げている事は間違いない。
(でも、サガラさんは常軌を逸した朴念仁だし。もしカナメさんが色じかけなんかしかけてきても、そうそう動じないとは思いますけど。ああ、でも好きなくせに「あんなヤツどうでもいいわよ」なんてしれっと言っちゃうカナメさんがそんな事をするとも思えないし。でも、世の中には楽観視できない「万が一」という事も……。サガラさんの方からというのはちょっと考えにくいですけど、転んだ拍子とか酔ったはずみに急接近して雰囲気が盛り上がって……というのは、あり得ないとは言い切れないかも)
テッサのあまり豊富とは言えない「そのテの」知識による妄想が頭の中で繰り広げられそうになった時、その思考はタバコの臭いで中断された。
見ると、いつの間にか隣で同じように景色を眺めていたマオがタバコに火をつけたところだった。マオはつまらなそうに煙を吐くと、
「しっかし遅いわねぇ。電話かけてみる?」
テッサは少しの間黙考する。電話をかけては「いきなり行って驚かす」目的は果たせなくなる。しかし、このまま待っていてもおそらく進展はあるまい。
「……そうですね。かけてみましょう」
しばしの間考え込んでいたテッサがそう言うと、マオはすぐに内ポケットから携帯電話を取り出した。手慣れた調子で親指でちょいちょいとボタンを押し、耳に当てる。しかし、
「……繋がらないわ」
「繋がらない?」
不思議そうな顔のテッサの耳に、マオは自分の携帯電話を押し当てる。
『……電波の届かないところにおられるか、電源が入っていないため、かかりません』
「……なるほど」
聞こえてきた電子音のアナウンスに、テッサも納得する。
マオは仕方なく電話を切り、しかめっ面のままで内ポケットに戻した。
「それにしても、高校生がこんな時間まで何してんのよ」
忌々しく舌打ちして、フェンスをこつんと蹴る。
「それに、律儀なサガラさんが何の連絡もないままっていうのも、変といえば変ですよね」
基本的に宗介は真面目でかつ律儀だ。携帯電話とて、できる限り繋がるように配慮した行動を取っている筈だ。
にもかかわらず、繋がらないという事は――。
「何かあったんでしょうか?」
「何かって?」
急に考え込んだテッサに、不思議そうな視線を投げかけるマオ。テッサは何か思い浮かんだ事があるらしく、自分の携帯電話を取り出した。
左手に持ったまま、右の人さし指でぽちぽちとぎこちなくボタンを押し、登録された番号を呼び出す。
《CHIDORI KANAME C》
液晶画面に表示された名前を、わざわざ指をさして確認する。
Cとは英語で携帯電話の事を「Cellular phone」というので、携帯の番号の場合は名前の最後に「C」の文字を入れてあるのだ。
テッサはそんな仕種を見ているマオに、どこか照れくさそうに笑うと、
「あ、あんまり使った事ないから」
苦笑いして携帯電話を耳に当てる。
ぷるるる。ぷるるる。ぷるるる。
呼出し音が鳴り響いている。しかし相手は電話に出ない。
こうして呼出し音が鳴っているという事は、彼女は「電波の届かないところ」にはおらず「電源を入れていない」訳でもない事になる。
(カナメさん……)
しかし、その呼出し音も五回、六回と回を数えるにつれて、テッサの心に鈍い痛みが走る。
なぜ彼女は電話に出ないのだろう。最近の携帯電話は、自分の番号が相手機にも表示される物が多いから、自分からの電話という事は一目で判るだろうに。
自分からの電話など、出たくもないという事か。それとも、出たくても出られない状況にあるのだろうか。
では、出たくとも出られない状況とは、いったい……。
一〇回目が鳴り始めた直後、呼出し音が唐突に切れた。
『はい。千鳥です』
(よかった。電話に出た!)
テッサは心の底から安堵して、溜めていた息を吐く。それから、
「もしもし、カナメさんですか?」
少し弾んだ声で電話の向こうのかなめに話しかける。
『あれ、テッ……きゃあっ!』
ぶつん。
かなめの悲鳴がした直後、実に不自然に電話が切れた。
「カナメさん、カナメさん!」
思わず切れた電話に叫んでしまうテッサ。その異常な雰囲気にマオもただ事ではないと身を固くする。
「どうしたの、テッサ?」
「判りません。急に電話が切れてしまって。もしかしたら、カナメさんに何か……!」
そこまで言って、現在の状況にはたと気がつく。
よく考えてみれば、かなめも自分と同じ「ウィスパード」。いつ狙われてもおかしくはない彼女を守るために、宗介はここにいるのだから。
だが、その彼と連絡が取れず、かつ今のかなめの電話の不自然な切れ方。<ミスリル>大佐のテッサの脳裏に閃いた事はただ一つ。
宗介は別の場所で足止め、もしくは命を落とし、今まさにかなめは敵の手に落ちようとしている!?
「メリッサ。今すぐカナメさんのところへ!」
「了解。テッサはセーフ・ハウスに隠れてて!」
マオはすぐさま自分の持つ合い鍵をテッサに放ってよこす。その直後、現役傭兵の素早い身のこなしで階段を駆け下りていく。運動が得意ではないテッサではとてもついて行けないスピードだ。
テッサも取り落とした鍵を急いで拾い、それで鍵を開けてドアを開き、素早く入ってドアを閉める。もちろんドアをきちんとロックするのも忘れない。
テッサはドアをロックした姿勢のまま、その場に固まっていた。
久しぶりの休暇で彼に会えるからといって、心のどこかがゆるんでいたのだろうか。
そもそも自分達<ミスリル>がかなめと関係を持っているのは、彼女が不特定多数の諜報機関やテロリスト達に拉致されて悪用されないがため。
直接の担当ではないにせよ、その重要な任務を抱えているにも関わらず、それを忘れて浮かれてしまった。
もしかなめの身に何かあったら、自分は大佐失格。いや、彼女の友人である資格もない。
(カナメさん……!)
テッサはドアノブを握る両手を震わせて、固く目をつぶっていた。


時間は少しだけ遡る。
千鳥かなめは久しぶりに早く帰宅していた。早くといってもそろそろ五時になろうかという時刻だが。
だが、今日の彼女ははっきり言って不機嫌だった。
今朝は寝起きの悪い彼女にしては非常に珍しく、目覚まし時計よりも早くしかもすっきりと目覚めた。
時間もあるので朝食を作るついでに弁当までこしらえてしまう。しかも二人分。さらに言えば、一方は自分の分よりも若干分量が多い。
「……ま、たま〜にはこうして恩ぐらい売っておかないとね」
恩を感じているか非常に判断しにくい、朴念仁の相良宗介の顔が思い浮かんだ。
幼少から戦場で戦いと共に生きてきた現役傭兵のためか、その行動パターンが未だに抜けていない彼。
普段は校内で銃やナイフを片手に暴れ回ったり、地雷や爆弾をしかけたり、端から見ればただの危ないヤツである。
いつも口を固く引き結んだむっつりとした顔だが、かなめの弁当を食べる時はわずかにその口をゆるめて「うまい」と一言漏らすのだ。
相手が誰であれ、自分の作った料理を誉めてくれるというのは、何よりの報酬になる。そんな場面を思い浮かべるだけで、かなめの心はどこかうきうきとしてくるのだ。
クラスメイトはそんな二人を「凸凹カップル」と認知しているが、その話になると彼女は力を込めて否定する。
「あたしは学級委員だし、生徒会の副会長だし、こういう問題児の面倒を見るのは責務よ。お仕事」
しかし、これもいつものやり取りだ。たまにとはいえこうもかいがいしい様子では、その言葉にも説得力がないが。
ところが、今日はそれがなかったのだ。
自宅近くの駅で彼と会い、一緒に電車に乗る。そして車内で「いつお弁当を渡そうか」と考えていた時、彼の携帯の呼出し音が鳴ったのだ。
電車の中とあって小さい声で電話に出た彼は、ぼそぼそとした早口の英語で相手と応対している。周りは英語もろくろく判りそうもない通勤客ばかりだから問題もないだろう。
かなめはそのリアクションで「また<ミスリル>の仕事かな」と漠然と思った。
一応彼はかなめの護衛のためにここにいる訳だが、同時に<ミスリル>の傭兵でもある。海外で傭兵としての仕事があればそちらへ行かねばならない。
思っていたより長いやり取りのあと、宗介は口を開いた。
「済まないが、これから出かける。危険はない……と思うが、君も十分警戒を怠らないようにしてくれ」
そう言うが早いか、駅に着いて開いた扉からカバンを抱えて一目散に電車を飛び出し、向かいのホームに止まった特急車両に飛び乗ってしまった。特急車両では、学校最寄り駅の泉川には停車しないのに。
「ちょっと、ソースケ! どこ行くのよ!?」
慌ててその背中に呼びかけるが、聞こえていないようだ。
「待ってよ、せっかくこれ作ったんだから、持って行きなさいよ!」
二人分の弁当が入った巾着袋を掲げて叫ぶが、特急車両は扉を閉めて出発してしまう。
「こら、ソースケッ!! あたし一人で二人分食えっての!?」
……といった感じで、まさに出鼻を挫かれたかなめは、その日一日「不機嫌オーラ」をまき散らして過ごしていた。
数学の授業中、教師に「前に出てやってみろ」と言われて渡されたチョークを筆圧でへし折り、体育の授業のソフトボールではボールを力一杯叩いてライナーをピッチャーに命中させ、昼休みには仏頂面で渡しそびれた弁当を含め二人分を平らげていた。
その光景を見ていた親友の常盤恭子は「相良くんがいないとこれだもんなぁ」と苦笑いしていたが。
そんな風にもやもやと晴れぬ気持ちのまま家に帰って来たかなめ。気分がいい訳もない。
ドアの郵便受けに入っていた回覧板をテーブルに放り、カバンをリビングのソファーに投げつけるように置き、制服姿のままそこにごろりと寝転がる。
(ソースケのヤツ……)
<ミスリル>の任務らしいから、彼が悪い訳ではない。
だが、せっかく作った弁当くらいは持って行ってほしかった。誰かのために作った料理を食べてもらえなかった事ほどショックな物はない。
それに、宗介がここにいるのはかなめを守るためである。こうした傭兵との二足のわらじというのもかなり無理な事なんじゃないかと、ずいぶん前から思っている。一応宗介の他に影ながら護衛する人物もいるが、そっちの方ははっきり言って信用していない。
それに向こうも向こうだ。宗介がこういう状態と判っているのに、人材不足だか何だかで遠慮なく呼び出してくる。
しかも、その宗介の部隊の上官とはしっかり面識があったりする。
テレサ・テスタロッサ大佐。初めて会った時はとても信じられはしなかったが、自分と同じ年齢で、数百人の隊員を束ねる<トゥアハー・デ・ダナン>戦隊の戦隊長。
軍服を着て勇ましく指揮する姿より、自分と同じく学校に通って、たわいない暮らしをしている方がよっぽど似合うだろうに。
その辺りの経緯については聞いていないが、きっと自分の想像を絶する事があったのだろう。
ただ一つ問題があるとすれば、テッサは宗介の事が好きだという事だ。
初めてテッサに会った事件の際、それが終わってから彼女はかなめに対して「ライバル宣言」までしている。「お互い頑張りましょう」と。
クラスメイトには「凸凹カップル」と認識され、初めて会ったテッサにライバル宣言をされ。
(あたしとソースケって、そんなに恋人同士に見えるのかな?)
ソファーにちょこんと座っていた、某遊園地のマスコット・ボン太くんのぬいぐるみの頭をぽんぽんと叩く。
だがテッサは大佐で宗介は軍曹。今どき身分違いの恋もないだろうが、こうした軍隊であれば話は違う。
上官が特定の部下の事を好きだと露骨に表わすような部隊では、運営そのものが成り立つまい。
しかし、任務や訓練の合間には、よく二人で会っているとテッサ本人から聞いている。
詳しく問いただしてはいないが、過去に『基地を二人で抜け出して、誰もいない砂浜で』何かあったらしい。
きっと任務が終わったあと、あの二人は人目を忍んでどこかで会ったりしているのだ。最近では宗介の方も「以前に比べて」くだけてきたと聞くし。
しかし、それでも生真面目で堅物すぎる宗介の事だ。自分の方から声をかける事はすまい。きっと忙しい仕事の合間を縫って、テッサの方から色々とアプローチをしかけているのだろう。

 テッサ:「サガラさん。任務ご苦労様でした」
 宗介:「大佐殿。自分は命じられた任務を全うしたにすぎません」
 テッサ:「(くすりと笑って)サガラさん。もう任務は終わっているんですから、テッサって呼んで下さい。それに、二人きりですし」
 宗介:「は。で、では。(やや緊張した面持ちで)……テッサ……」
 テッサ:「(そっと彼の胸に飛び込んで)サガラさん……」
 宗介:「(かなり狼狽して)たい、いや、テッサ!?」
 テッサ:「(うっとりと目を閉じて)少しだけ、甘えさせて下さい、サガラさん……」

「――だあぁぁぁぁぁぁっ!!」
いきなり沸き上がってきた鳥肌モノの妄想を大声で振り払い、肩でぜーぜーと息をするかなめ。
「な、何。今の妙にリアルで鮮明な妄想は……」
冷静に分析すればそんな事はまずないと思えるくらい不自然で唐突な展開だが、今の彼女にそれを期待するのは無理だろう。
だが、こうして宗介がいない今。落ち着かない気分である事は間違いない。
気になり出したら止まらない。坂道をスケート・ボードに乗って滑り降りるようなものだ。
そんな時、かなめの耳に雨音が聞こえてきた。そう言えば夕方から夜にかけて雨が降ると天気予報で言っていた。
かなめは大急ぎでベランダに干しっぱなしの洗濯物をとりこみに向かった。
洗濯物はどうにか無事であった。たたむのを後回しにして部屋の中に吊るしておく。
そう。一人暮らしの自分には、やる事が山ほどあったのだ。無駄な妄想にふけっている時間はない。
まずお風呂を掃除して、それから食事の準備。洗濯物をたたんで、明日提出する宿題も片付けなくてはいけない。一人暮らしの高校生は、下手な専業主婦より忙しいのだ。
そんな時、いきなりガタガタガタっと物音がした。その音にびくっとなったかなめは、血相変えて辺りを見回す。
すると、ソファーに放りっぱなしのカバンが小刻みにガタガタと震え、音はそこからしているのが判った。
きっと、カバンの中に入れっぱなしのPHSが、知らない間にマナー・モードになっていたのだろう。音の正体に安堵したかなめは、急いでカバンを開けてPHSを取り出す。
(ソースケからかな!?)
もしかしたらという楽観的な考えもあって、液晶画面に表示された番号をろくろく見ずに電話に出た。
「はい。千鳥です」
すると、一拍ほど間が空いてから、
『もしもし、カナメさんですか?』
間違いない。これはテッサの声だ。噂をすれば影。日々任務に忙殺されているテッサからの電話など珍しい。しかもまだ夕方だ。
「あれ、テッ……きゃあっ!」
朗らかに話し出そうとした矢先、自分の身体がガクンと後ろに傾いた。そのまま背中からソファーに倒れこむ。
見事に転んでしまった。見ると、爪先に洗濯物の靴下が引っかかってる。知らずにこれを踏んで転んでしまったのだろう。かなめは気を取り直すと、
「ごめんごめん。テッサ……あれ?」
うんともすんとも言わないPHSの液晶画面を見てみると、通話時間六秒と味気なく表示されていた。転んだ拍子に電話を切ってしまったらしい。
すぐさま電話をかけて謝ろうかと思ったが、きっと今は仕事が忙しいだろう。邪魔をするのは悪いと考えて、再びかかってくるのを待つ事にした。
「あ。お風呂の掃除しなきゃ」
PHSをソファーの上に放り出し、制服を着替えに自分の部屋へ戻った。

だから着替えの真っ最中に、靴のまま拳銃片手に入ってきたマオと鉢合わせして、互いに唖然とするのであった。

<中編につづく>


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