『想いの噛まないビジーボディー 後編』
そのビルの屋上にはパラソルのついたテーブルが三〇脚ばかり置かれている。そのどれにも人がつき、テーブルを離れた人達が、仮設テントのある場所から何やら運んでくる様子が、まるで手に取るように見えている。
屋上にはBGMに有線がガンガンかかっているので、こちらの物音も聞こえないだろう。
隣のビルからその光景を見ていた都市迷彩服姿の宗介は双眼鏡を足元に置くと、肩に担いだ筒状のケースから何か細長い物を取り出し、組み立て始めた。
(マオとクルツは「心配ない」と言ってはいたが……)
何かを組み立てる手を休めず、宗介はそう思った。
昨日の会話の中で、招待券にこのデパートの名前が書かれていたのをしっかりと記憶し、学校が終わってすぐに下見に来ていたのだ。
その時、屋上で「ケーキバイキング」が開かれる事を知ったのだ。
しかし、宗介には「ケーキバイキング」という物がさっぱり判っていなかった。
(バイキングというのは、八世紀から十一世紀にかけてヨーロッパ各地に侵冦したノルマン人達の事。海賊のような物だ。それとケーキがどう結びつくというのだ?)
昨日からそう思っていた宗介は、先程かなめと別れてから、<ミスリル>での同僚であり、遠く離れた太平洋上の基地にいるメリッサ・マオとクルツ・ウェーバーに電話をかけてみた。
幸い予定の演習が中止になって暇を持て余していた二人は、すぐさま話に加わり、宗介に色々と吹き込んだ。
「バイキングってのは、料理がずら〜っと並んでる所から、自分の好きな物を好きなだけ持ってきて食べるっていうヤツよ」
「ああ。日本でヤキニクのヤツなら行った事あるぜ。結構楽しいんだ、アレ」
「あたしも一回行ったわ。あの時は飲み放題もついてたから、まぁ景気よくやらせてもらったわ。また行きたいわね〜」
「いいか、ソースケ。ああいうのは、少しづつ持ってきちゃ取ってくるってのをくり返した方が、結果的にたくさん食えるんだぜ」
……とりあえず、役に立ちそうな情報はあったと判断する。
次に武器の調達だ。自分の所有している武器では、どれも最適とは言えない。総てが本物の銃のため、どれを選んでも威力が強すぎるのだ。
今回の任務は相手の殲滅ではない。実弾を使うのは論外だし、暴徒鎮圧用のゴム・スタン弾でも相手が気絶してしまう。勘の鋭いかなめなら、自分の存在を感知されてしまうだろう。
今回ばかりは彼女の同意はまるで得られていない以上、わずかでもこちらの存在を知られる訳にはいかない。
仕方なく、近所の中古のモデルガン販売店を調べ上げ、そこで適当な狙撃銃と六ミリBB弾。それに、専用のサイレンサーを購入した。いつも使っている物に比べてかなり頼りないが、今回ばかりはやむを得ない。
本来こうしたエアーガンは十八歳以上でないと購入はできないのだが、別に作っておいた偽造の運転免許証で何とかごまかした。
すぐに組み立てていた物が完成する。それはレミントンM40A1というボルトアクション式の狙撃銃で、アメリカの海兵隊向けモデルでもある。
そのモデルガンを慣れた手つきで構えてみる。今構えているのはモデルガンだが、本物の方ならば何回か扱った事がある。本物と比べて少々短く、また軽いといった程度だ。狙撃は専門ではないが、この近距離なら何とかなる。
弾もプラスティックの六ミリBB弾。念を入れて、弾の色は屋上に敷き詰められた人工芝と同じ緑色を選択。これなら保護色もあって発見も困難だろう。
宗介は、ワンフロア分高くなった隣のビルの給水塔の脇にうつ伏せになり、銃を構えてスコープを覗き込む。昨日の下見通り、この位置からならば隣のビルの屋上のどこへも弾丸を撃ち込む事が可能だ。
(さて。千鳥はどこにいる?)
自分の出番などないに越した事はない。だが、何かあってから準備を始めたのでは遅いのだ。このまま自分の行動が無駄に終わってくれる事を祈りつつ、スコープから目を離さず、ポケットからイヤホンを取り出して耳に入れる。
『……全く。こんな事ならさっさとテーブルに走ってればよかったわ』
『まーまー。でも、ちゃんと取って来れたんだからいいじゃん、ミズキちゃん』
『あ。ホントおいしー。作り方教えてくれないかな?』
『いくら何でもそりゃ無理だよ、カナちゃん』
イヤホンから、ケーキを食べながらの三人の賑やかな会話が聞こえてくる。かなめが着ている防弾チョッキに仕掛けておいた盗聴器の感度もすこぶる良好だ。もし万が一、かなめの身に何かあっても即座に対応できるだろう。
『でもさ。男の人お断りじゃなかったら、相良くんも来れたのにね』
『ちょっと。やめてよキョーコ。今日くらいはあのバカの事忘れさせて』
『昨日、すぐに帰っちゃったしね。何かあったのかな、相良くん?』
『知らないわよ。あたしはあいつの飼い主でも飼育係でもないんだから』
『ま、今日くらいは女同士でのんびり楽しみましょ。あたし、お代わりとってくるから』
イヤホンから聞こえてくる会話はおおむね平和そうな雰囲気だ。
(どうやら、俺の出番はなさそうだな。しかし、だからといって気を緩める訳にはいかん)
宗介はスコープから目を離し、もう一回双眼鏡を覗き込んで周囲の探索を開始する。
その時、視界の端に猛烈な勢いで小走りにテントに向かう中年のオバサンが映った。後ろ姿ではあったが、ただならぬ雰囲気が漂っている。
何気なくそのオバサンを追うと、彼女は他人を押し退けて次々とケーキを取り皿の上に乗せている。押し退けた人の中に瑞樹の姿もあり、瑞樹は「何よ、このオバサン」という感じの不快な表情で睨みつけている。
同時に瑞樹は、そのオバサンに負けてなるかと同じようにケーキを皿に乗せまくる。
そんな二人に影響されたのかどうなのか、後からやってくる人が手当りしだいにケーキを取っていく。
そこには、先程の行列による「秩序」などかけらもなかった。
「食欲」が生み出す恐ろしいまでの「物欲」。そして、その「物欲」の不可視のオーラが作り出す、戦場にはない異質な「何か」。
そうした物が、離れた場所にいる宗介の所にまで漂ってきた気がした。
(統率する人間がいない分、ゲリラ時代の食料配給よりも酷いな。この飽食の日本で、これほどまで食べ物に執着する人種がいるとは。きっとよほどケーキとやらに飢えているのだろう。確かに千鳥が「戦い」と言った意味も理解できる。だが……これはまずい)
「心配ない」と言い切ったマオとクルツを少々恨みながらも、宗介はライフルを構えていつでも撃てる体勢に入る。
(あれでは意識がケーキに向いてしまう。もし、彼女を狙う者がいた場合、何の苦労もせず容易に近付けてしまう。気を引き締めねば)
よく判らない思考で納得すると、宗介の全身に戦場と同じ緊張感が走った。


「あ、お帰り。ミズキ」
何かぶつぶつ言いながら戻ってきた彼女に、かなめが声をかける。
「ったく、あのオバサン。人押し退けといて何考えてんのよ。そこまでして先に食べたいのかしらね」
そう言ってテーブルに置いた皿には、さっきまでなかった種類のケーキが置かれている。
「あれ? それさっきまでなかったよね?」
「コレ? 何でも時間限定メニューらしいわよ。一回につき一個限定」
それを聞いたかなめと恭子は、最後に残っていたケーキを無理矢理口の中に押し込んで席を立つ。
「まだあるかな? 急ご、キョーコ」
口をもごもごとさせながら、かなめと恭子は仮設テントまで歩を速める。まだ列の最後尾ではないが、自分達の前には何人かいる。これでは限定物をゲットするのはちとキツイか……と思われたその時。
前にいた女性がいきなり取り皿を落としてしまう。その前の女性はいきなり体勢を崩して転びそうになる。更に前の人は立ち止まって不思議そうにきょろきょろと辺りを見回している。そんな人達が続出した。
二人は不思議そうな顔をしながらもその人達を追い抜き、目的の限定ケーキを簡単にゲット。悠々と戻ってきた。
「お帰り。どうだった?」
そのケーキを食べ終えた瑞樹が二人に訊ねる。
「ゲットゲット。さて。ゆっくり食べよっと」
「あ。カナちゃん。何かジュース貰ってこようよ。もうコップ空っぽだし」
恭子に言われて自分のコップを見る。中はさっき飲み干して空だったのを忘れていた。
「そうね。さっきはコーラだったから、今度は何にしようかな?」
そう言いながらコップを片手に再び席を立つ。
そして、ドリンクコーナー前でも転びそうになる人や立ち止まって辺りを見回す人が多く、二人は大して並ばずにジュースを貰って戻ってきた。
「あ。早かったわね、二人とも」
「うん。日頃の行いがいいのかな。ラッキー」
かなめはそう言うと、ゆっくりと限定ケーキを食べ始めた。もちろん味は今までの物と甲乙つけがたい美味しさであった。
それからも、瑞樹や恭子はともかく、かなめ一人に限っては、いきなり取り皿を落としてしまう人。転びそうになる人。不思議そうに立ち止まって辺りを見回す人が続出し、彼女は大して並びもせずに好きなだけケーキやジュースの確保に成功。
風はそれほど強くない。うっすらとした雲に隠れた太陽の光もパラソルが遮ってちょうどいい具合になっている。
天気予報でも最高気温は二八度くらいと言っていたし。今なら少し暑いかな、くらいで済む気温だ。
まさしく絶好のケーキバイキング日和である。そして、不思議と青空の下で食べる食事という物は美味しいのだ。
そんな雰囲気とケーキを満喫でき、最初のうちはラッキーで済ませていた彼女も、先程のような「偶然」が立て続けに起こると、さすがに気味が悪くなってくる。そのため「何か変だ」と思い始めたのも無理はないだろう。
「何か……気味が悪いわね」
いきなりそう言い始めたかなめに、恭子と瑞樹の視線が集まる。
「何が?」
ケーキをつつきながら恭子が訊ねる。
「あたしがケーキとかジュースのお代わりに行くとね。前にいる人がいきなり取り皿を落としたり、転びそうになったり、立ち止まって辺りを見回したりってのが続出するのよ」
「ふーん。ラッキーじゃん、カナメ」
瑞樹も何の感心もないように聞き流し、フォークでケーキを小さく切り、それを口に運ぶ。その無反応ぶりにちょっとムカッときたのか少々声を荒げる。
「さっきので五回よ五回。その全部がそうなのよ。絶対変よ」
そう言いつつ、ケーキをぱくつきながら首をかしげ、ジュースを口に含む。最もありそうな考えが浮かぶが、あえて黙殺を決める事にする。
「……相良くんかな?」
不意に恭子の口走ったセリフに、かなめがぶほっと咳き込む。そのかなめの反応に二人とも心配そうにしているが、
「キョ、キョーコ。それだけは考えたくなかったのに〜」
「きっと相良くんが、カナちゃんの事手助けしてるんだよ」
すっとぼけた顔でしれっと気になる事を言ってのける恭子。
「手助けねぇ。どうやって?」
瑞樹が恭子を横目でじろーっと見ている。
「そんなの……判んないけどさ。それが一番しっくり来るんじゃないかな?」
かなめがテーブルの上にへなへなと突っ伏した。
あれ程「来るな」と言っておいてこの始末。幸い普段の騒動に比べて、信じられないくらい被害らしい被害は出ていないが、それもいつまで続くやら。
かなめは急に不安になって席を立ち、あちこちきょろきょろと見回して怪しそうな箇所に目を配る。
「……いないみたいね。でも、油断はできないわ。ソースケの事だから、どんなバカやるか判ったもんじゃない」
とりあえず席につき、ケーキをぱくつくかなめ。
「探さないの、カナちゃん?」
「探してらんないわよ。アイツ、隠れるの得意だし。もう、気にするのもやめやめ。今はケーキの方が大事」
ケーキをぱくつくスピードが上がる。しかし、どこか気になるのか、ろくに味わいもせず口の中に放り込んでいるといった感じだ。
「あ。相良くんがあんなトコに」
恭子が適当にフォークで隣のビルを指差す。かなめはびっくりした様子で、焦って彼女の指差す方向を見てしまう。だが、もちろんそこには誰もいない。
「カナちゃん。すっごく気にしてるじゃん」
してやったりという表情でクスクスと笑う恭子と瑞樹。かなめは渋い顔で二人を睨み、
「あたし、お代わりとってくるわ」
そう言って席を立った。


(危なかった。……なぜ常盤はこの場所が判ったのだ?)
恭子が指を差した瞬間さっと給水塔の影に隠れた宗介。
彼がいる場所は、彼女達の位置からは角度的に微妙に見えないのだが、そんな事は宗介の方からは判らないし、恭子の方は全くの当てずっぽうである事など更に判っていない。
気を取り直した宗介は、もう一度双眼鏡で慎重に彼女達の方を見る。イヤホンからは相変わらず三人の会話が聞こえている。
『あのバカ……。ホンットにこっちの言う事聞いてないっつーか、信じてないっつーか』
『まーまー。それだけ心配なんだよ、カナちゃんの事が』
『愛する人を影ながら守る姿ってのもいいわよね〜。あたしはごめんだけど』
『二人とも。あんなのとあたしをくっつけるのやめてよ。いい加減にしてほしいな、もう』
『その割に嬉しそうだよ、カナちゃん』
『ん……んな訳ないっしょ。う、うはははは』
(千鳥はよく「女の勘をなめないで」と言っているが……どうやら侮っていたようだ)
どうやら向こうはこちらの存在に勘づいたらしい。これだけ証拠を残さないよう努力したというのに察知するとは。
彼女達の察知する能力が高いのか。それとも、自分の腕が落ちているのか。
(こうなれば、より慎重にいくしかあるまい)
ゆっくりと狙撃銃を構え直し、再び銃口を彼女達のいる屋上に向けた。
その直後、イヤホンからドン、という大きな音が聞こえた。
何事かと思ってスコープから目を離し、双眼鏡で三人のいるテーブルの方を見る。
『あ〜あ。カナちゃん。チーズケーキ潰しちゃった』
『もったいな〜い』
見ると、抗議の意味でテーブルを叩いた時、下にケーキがある事を忘れていたのだろう。振り下ろしたかなめの手の下で、チーズケーキは見事に潰れていた。
『くっそぉ。ちょっと手、洗ってくる』
手を舐めながらそう言って立ち上がリ、荷物の引換所に向かって歩く。「ハンカチくらいは自分で持ってるんだったな〜」という呟きがイヤホンから聞こえている。
かなめは引換所で自分のリュックを持って建物の中に消えていった。それを見た宗介も、双眼鏡を自分の脇に置いた。


金属製のポールとプラスティックのチェーンで分けられた通路に出ると、あれから結構たつにもかかわらず未だに列は続いていた。
「ごくろうさま」と思いつつ通路を行くと、トイレのある場所はすぐに判った。
扉を開けて中に入ると、かなめは誰もいない洗面台で手を水で軽くすすいでから石鹸をつけ、泡立てている。
「あのバカ。今度会ったらタダじゃおかないんだから、もう……」
ぶつぶつ言いながら手を洗っていると、誰かもう一人入ってきたらしい。鏡を見ると、長い髪の人物がかなめの後ろに立っているのが映った。
(何だろ? 隣の洗面台なら空いてるのに?)
不思議に思っていると、いきなり後ろから手が伸びてきて口を塞がれる。悲鳴を上げようにもがっちり押さえ込まれているのでくぐもった小さな声しか出ない。
「安心シロ。用カアルノハ、オ前ノ財布タケタ」
明らかに男――それも外国人と判る妙なアクセントの日本語がした直後、かなめの背中がビリッと痺れる。
同時に必死にもがいていたかなめの拳が相手の顔面にまともに入り、男は目を押さえてよろめいてかなめから離れる。かなめは振り向いて、その男を睨みつけた。
「ナセSTUN GUN、効カナイ!?」
相手をよく見ると、このデパートの女性店員の制服を着ていた。あの長髪も多分カツラだろう。かなめも少し驚いている。
そんな男の手には青白い火花を散らすスタンガンが一丁。ご丁寧に両手にゴム手袋をはめている。対するかなめは電気を通すであろう革製の小さなリュックのみ。
いや。かなめのTシャツの下には耐電性もある防弾チョッキがある。ちょっとビリッときたものの、これのおかげで助かったのだ。さすがにかなめも宗介に感謝する。
しかし、驚いているのは相手も同じだ。絶対の自信をもって使った二〇万ボルトのスタンガンを受けてぴんぴんしている人間がいるのだから。さすがに耐電性のチョッキの存在など知るよしもない。
出口は相手が塞いでいる。倒すかどかすかしなければ、ここから逃げる事もできない。
「オトナシク財布ヲ出セ。痛イ目、アイタイカ?」
スタンガンを突き出してくるその手を、驚異的な運動神経を発揮してかわす。が、かなめは奥の方に逃げ込んでしまう。
「オトナシクシロ!」
そう言われておとなしくなる者などいない。かなめはとっさに時間稼ぎも兼ねて個室に飛び込んだ。
しかし、後一歩及ばず腕を掴まれる。直後、スタンガンの電極がかなめの腕でスパークした。
さすがに耐電性のあるチョッキといえど、腕までは保護していない。そのまま彼女の全身に鋭い痛みが走る。
遠くの方で自分を呼ぶ宗介の声が聞こえた気がするが、それを確認する間もなくかなめの意識は遠のいていった。


バリバリッザザザーッ!
かなめの姿が消えて少し経ってから、いきなりイヤホンに飛び込んできた頭の割れそうなノイズ。宗介は顔をしかめてイヤホンを外すと、
(あれは多分……スタンガンだ。千鳥に何かあったな)
スタンガンの高圧電流が、チョッキに仕込んだ盗聴器を破壊したらしい。こうした電気機器は高圧電流に弱いのだ。
時間から考えると、手が洗えそうな場所はトイレしかない。直前まで流れる水の音も聞こえていたし、男の声もした。そのトイレの中でその男に襲われたとみて間違いはないだろう。
チョッキに受けたという事は、まだ彼女は無事だろうが、急がねばならない。
宗介は狙撃銃をそのままにして、懸垂降下用ザイルと機具一式をバックパックから取り出し、それを抱えて助走をつけ、一階分低い隣のビルの屋上の建物部分に音もなく着地。ビルとの間が五メートルもないからできる芸当である。
宗介はすぐ下で行われているケーキバイキングの方に悟られぬよう手近の頑丈そうなパイプにザイルを固定し、手早く身体に巻きつける。
この真下に、女性用トイレ入口脇に出る小さな窓がある。そこめがけてスルスルと降下。開けっ放しの窓の縁に足をかけ、器用に身体を滑り込ませて建物内に入りこんだ。
彼の視界に人はいない。できるだけ音をたてないようにトイレの扉を少し開けると、中からバタバタと物音が聞こえた。
ちょうどその時、スタンガンの発動する音が聞こえる。
「千鳥!?」
宗介は一気に扉を開けて中に入る。奥でかなめの腕にスタンガン押しつけている人物を確認。
彼は無言のまま弾丸のような素早さで近づく。その人物は宗介に気づき、かなめを放して振り向く。宗介はスタンガンを構えようとする人物の口を無造作に塞ぎ、すぐ後ろの壁に押さえつけると、鳩尾に鋭く拳を叩き込む。
寸分の狂いもなく拳は身体にめり込み、その人物はスタンガンを使う間もなくあっけなく気を失った。鍛え抜かれた現役傭兵の実力である。
よく見ると、女性店員の服を着た男のようだ。こっそり忍び込み、不意をついてスタンガンで気絶させて……という大雑把で荒っぽい手口だろう。目的までは考えるのをやめた。
そばには、全身の力が抜けてぺたんとしゃがみ込んでいるかなめの姿が。抱き起こして様子を見る。
スタンガンで気絶させられただけで、他に外傷らしいものもない。放っておいてもじきに目を覚ますだろう。
ほっと胸をなで下ろし、洋式トイレの蓋を閉じて、そこに腰かけさせた。
その時、先程からの物音に不審を抱いた誰かが、慎重に扉を開けて中に入ってきてしまった。個室から出てきた宗介と、トイレに入ってきた女性店員の目が合う。
一瞬の空白の後、女性店員がものすごい悲鳴をあげた。
(これは……非常によくない!)
そう判断して事情を説明しようと近づくが、そんなものを聞くような雰囲気はまるでなかった。更に、彼の足下には女性店員の服を着た人物が倒れているのだ。彼が襲ったのだと解釈しているに違いない。
やむを得ず宗介はその店員を体当たりで突き飛ばし、通路を走って逃げた。ロープをたらした小さな窓から出るには時間がない。後ろから「その男を捕まえて!」と叫ぶ声がする。
階段の前はケーキバイキングの行列で人垣のようになっている。彼は腰のホルダーから拳銃を抜き、天井に威嚇射撃をする。
その銃声に驚いた女性達が一斉に宗介の方を見る。そして、彼が持っている物が何か判ると、悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
その場は驚いた女性客で一時大混乱に陥ってしまった。その拍子に行列が崩れて将棋倒しまで起こってしまった。
そんな騒ぎを起こした彼は、その隙間をついて抜け出し、階段を一気に駆け下りていく。
結局、その混乱に乗じて宗介はどうにか逃げおおせたようである。
この事故で出た怪我人は三五名。しかし、いずれも軽傷であったという事が、夜のニュースで報道されたそうである。


そんな大騒ぎがあった事も知らず、店員の休憩室でかなめが目を覚ましたのは、だいたい四時間程たってからだった。
そばには恭子と瑞樹の姿もある。かなめは不思議そうに二人を見ると、
「あ。キョーコ。ミズキ……」
「よかった、カナちゃん。気がついたんだね!」
メガネの奥に涙を浮かべて、恭子が抱きついてきた。かなめは少し身を起こして彼女を受け止める。
「ま、気がついたのはよかったけど。カナメって結構ドンくさいのね。たかだかスタンガンごときで……」
瑞樹の方は呆れ顔を浮かべていたが、一応心配はしていたらしい。かなめは慌てて瑞樹に訊ねた。
「ところで、今何時?」
「四時半。今から水着の方に行ってもねぇ。カナメを置いて行くってのも気が引けるし」
自分の時計を見た瑞樹がため息交じりに答えた。それを聞いてかなめも気落ちし、
「そっか。ごめんね、二人とも。あたしのせいで……」
恭子は、そんなかなめの肩をポンポンと叩き、
「しょうがないよ。まさか襲われてたなんて思わないもん。幸いカナちゃんに被害はないって聞いたし、犯人も気絶してたから捕まったし。何か別な人が大騒ぎ起こしたみたいだけど、そっちは結局逃げられたみたい。意外とさ、そっちは相良くんだったりして」
「可能性はあるわね」
冷ややかに瑞樹が相づちをうつ。かなめも力なくため息交じりに笑っている。
その直後、デパートの店長らしいスーツ姿の中年男性と私服の女性が休憩室に入ってきた。
私服の女性は上着から黒い手帳――言わずと知れた警察手帳だ――を取り出した。
彼女は、かなめを襲った犯人は手配中の不法就労の中国人と説明した。中国語には日本語の濁音・促音にあたる発音がないので、なかなかうまく発音できないのだ。変なアクセントだったのはそのためである。
それから、被害に遭った事を慰める言葉を述べ、結果的に大した被害がない事に安堵している。
しかし、かなめはそんな話をろくろく聞いていなかった。殆ど右から左に抜けている。
そんな風に半ばぼーっとしているかなめを見て、その女性警察官は「傷ついているのだろう」と判断して手短かに話をまとめると、かなめ達は解放された。
三人の手には系列デパートで使える三千円分の商品券。デパート側からのせめてものお詫びのつもりらしい。
この不況の中での事。金額も渋いが、とりあえず喜んでおくとしよう。
「よし。カナメも無事だった事だし、ぱーっと何か食べてこっか?」
大きく伸びをした瑞樹がそう提案する。さっきから何やら考え込んでいたかなめが、
「ゴメン。悪いけど、あたし……先帰る」
かなめの言葉を聞いた二人はきょとんとしていたが、かなめの方は二人の返事を待たずに駅へ駆け出した。
走りながらPHSを取り出し、かけ慣れた番号にダイヤルする。数回の呼び出し音の後、相手が電話に出た。
「もしもし、ソースケ? あたしだけど。これから帰るんだけど、ちょっと……あたしの家で待っててくれない? 晩ごはんまだなんでしょ? 今日はあたしが作ったげるからさ」
努めて明るい声で電話の向こうの宗介にポンポンと話しかける。
「遠慮なんかしないでよ。何でも好きなの作ったげるって。え? 『どうして』って言われても……」
彼にいきなり理由を問われ、言葉に詰まるかなめ。しかし、やがて小さく笑うとこう答えた。
「……何かね。そういう気分なの! とにかく、ちゃんと来なさいよ。もし来なかったらタダじゃおかないからね!」
そう言って電話を切ると、極上の笑顔で横断歩道を軽やかに駆けて行った。

<想いの噛まないビジーボディー 終わり>


あとがき

すっかりご無沙汰してしまったフルメタ新作でございます。長いですが、楽しんで頂けたなら何よりです。

今回も……多分「らぶらぶ」寄りに分類されるのかな。書いてるこちらとしては、全然そんなつもりはないのですが。
今回は「ダラダラとした会話でストーリーが進んでいく」という事にチャレンジしてみました。だから、最後の方は会話が少ないので、はしょったように見えるかもしれません。いや。実際はしょってるけど(^_^;)。
さて。いつも通りタイトルの解説。ビジーボディーとは「busybody」と綴り「おせっかいな人」とか「でしゃばり」という意味の単語です。
誰の事かは言わずともお判り戴けると思います。

この話は、姉の部屋に置きっぱなしだった水着の展示会のダイレクトメールと、ビアガーデンに行った経験から思いつきました。
だから、普通はホテルの最上階等でやるであろうケーキバイキングがデパートの屋上で行われた訳です。それに、そうでないと宗介の出番を作る事が難しいし。
結局悩んだ挙げ句、最後は大騒ぎにしました。やっぱりフルメタはこうでないとね。
あ、それから、劇中に登場する護身具や銃器の事は、あくまでもミリタリー音痴の付け焼き刃の知識です。細かくつっこまれたら困ってしまいます。
そんなミリタリー音痴にも、この程度のフルメタSSは書けます。書いてる皆さん、自信を持ちましょう。

今回は珍しく書いた時期と話の中の時期が近いです。いつもは結構どの季節でも使えそうな感じが多いのですが。
しかし、お礼が「料理」とは使い古されたパターンという気もしますが、かなめが宗介に対してできる「お礼」なんてそれくらいでしょう。
間違っても、伏せ字ヌキには語れない年齢制限に引っ掛かっちゃう事(苦笑)をさせる訳にもいかないし……当たり前か(-o-;)。

ちなみに前編にあった「北摂(ほくせつ)高校」というのは、富士見ファンタジア文庫から出ております「粛正プラトニック」をお読みいただければ判ると思います。


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