『暗殺! 12時32分 肆』
皆が気落ちしている様子に、事情がさっぱり読み込めない新次郎。彼はラチェットにこっそりと、
「一体何がどうなってるんですか? それに『殺せ』って?」
ラチェットは使う言葉を選ぶ為に「う〜ん」と考え込むと、
「サジータが仕事で紐育市警に呼ばれて、その縁の事件に巻き込まれた、というところかしらね」
ラチェットも詳細をしっかり聞いている訳ではないし、こんな曖昧な説明が精一杯である。まさかマクンバで呪い殺されかけたとはさすがに言えない。
そんな事をしたら、真っ正直すぎる新次郎がどんな突拍子もない行動に出るか、判ったものではないからだ。
一方警察の方は、先程までの警戒体制から一転。急に緊張感の抜けた雰囲気になっていた。
憶測と状況証拠だけとはいえ、事件の全貌がほぼ明らかになった上に一番の容疑者が死亡しているのでは無理もないかもしれない。
まだゲデッの存在が野放しのままだが、こればかりは警察の範疇外。仕事をしろと責め立てる事はできない。さすがの警察も人に在らざる者が相手では何もできないのだ。
だがこれで終わった訳ではない。
ゲデッは写真入りの名刺を持った人間を殺しにやって来る。憶測でしかないが、その可能性は大いにある。
その名刺を持っている人間があとどれだけいるのか。
鉄道王が亡くなったのは八日前の昼過ぎ。この名刺ができあがったのが八日前の朝。となれば、この名刺を受け取っている人間はかなり限られる事になる。
それでも「鉄道王」と称される人物のスケジュールや人脈を考えると、十人二十人では利かないだろう。その全員に護衛をつける事など不可能だ。圧倒的に人数が足りなすぎる。
「もしかしたら、また犠牲者が出る可能性がありますな」
まだ片づけられていない急ごしらえの祭壇を見ていたルネ司祭。その物騒な言葉にソルト警部が当然食いつく。
「なぜ、そう言い切れる?」
「この儀式はまだ終了していません。だいたいのヴードゥーの儀式というものは『ロアを呼ぶ』『ロアに願い事を言う』『ロアを見送る』という流れがあります。その『ロアを見送る』儀式が行われた様子がありませんので」
儀式が終了していないのだから、呼び出されたロアはまだ活動を続けている。呼び出した本人の願いを叶えるべく。たとえ間違えていたとしても。その本人が死んでいたとしても。
「あの。あなたがこの儀式を終了させる事はできないのですか?」
話を聞いていたヘイスティ警察官が司祭に訊ねる。だが彼は首を横に振ると、
「このロアはプレヴァルの名が刻まれたヴェヴェルによって呼び出された。だから儀式を終える事ができるのは彼しかいない。彼以外ではどんな高司祭でも儀式を終了させる事はできません」
司祭の言葉を聞いたヘイスティ警察官がまたもパニックを起こしたように泡を喰っている。
「じゃあその、ナントカいうのを倒したりする事もできないんですか!?」
「可能だが、この状況では如何ともできません」
そう言って手錠で繋がれたままの手を見せる司祭。
そんな二人のやりとりを背に、ラチェットだけはもっと冷静に考えていた。
もし名刺を受け取った人物がたくさんいるのであれば、それだけたくさんの人間がマクンバの犠牲になっている筈である。
あれから八日も経っているのだ。マクンバは一日に一回しか使えないと仮定しても、この一週間で七、八人は死んでいる計算になる。
しかも鉄道王と呼ばれる著名人と交友のある人間ともなれば、社会的にそれなりの地位の人間が大半。そんな人間が立て続けに死んでいたのであれば、警察が箝口令を敷いたとしても人々の噂に上る事は間違いない。
舞台にこそ上がらなくなったが、かつて世界的な舞台女優として名を馳せていたラチェットは、そうした地位の人物との交流も多少はある。その情報網でもそんな話は聞いた事がない。
という事は、その名刺を持っている人物はそれほど多くない、と推測したのだ。
だがその疑問を口にしたのはラチェットではなくサジータだった。
「警部。あの日あたし以外にその名刺を受け取ったのは?」
普通なら「警察の情報だ。外部には渡さん」として口を開かなかっただろう。だがサジータのその鬼気迫る迫力に根負けしたかのように、ソルト警部は無言で自分の手帳を開くと、スラスラと手帳の中身を読み上げていく。
「この日鉄道王はオフ日でね。ほとんど人とは会っていなかったそうだ。
 まずジャマックス・プレヴァル。既に死亡が確認されている。
 次にサジータ・ワインバーグ。お前自身だ。
 そして、ヘンリー・フォルド。フォルド自動車の社長だ。彼は原因不明の病気で意識不明の入院中」
そこまで来た時にルネ司祭が、
「おそらくマクンバを受けたのでしょう。不完全なヴェヴェルを使った為に、威力にムラが出たのでしょうな」
サジータは数百人分。フォルド社社長は意識不明程度。同じ呪いでも随分と差があるものだ。
「それからジョージャス・クレラン紐育前市長。彼は翌日からイギリスヘ船旅に出ている。今のところ彼に何かあったという連絡はない。
 最後はマイケル・サニーサイド。リトルリップ・シアターのオーナーだ」
『えええっ!?』
ラチェット、サジータ、新次郎の驚きの声が上がる。いきなりの大声にソルト警部の方が「何なんだ」と言いたそうに驚いたほどだ。
それもその筈。ラチェット達がいる「紐育屈指の劇場」が、まさしくその“リトルリップ・シアター”だからである。当然ソルト警部は知らないが、彼が紐育華撃団の総司令官なのだ。
「という事は……次に狙われるのはサニーさん!?」
「人としては気に入ってる訳じゃないが……さすがに放ってもおけないか」
必要以上に慌てる新次郎と妙に冷静なままのサジータ。その対比がおかしくラチェットが苦笑いそうになる。
だがまがりなりにも自分達の「長」である。このまま見過ごしていい訳がない。
「今は何時何分か判りますか?」
何かを思い出したように固い表情になるルネ司祭。警部は不思議そうな顔のまま自分の時計を見て、
「ああ。あと五分ほどで正午になるな。昼飯の催促か?」
「……皆さん。マイケル・サニーサイドという方のお知り合いなら、急いで知らせて下さい。十二時半頃にゲデッがその人を襲う可能性が極めて高い」
『ええええっっ!!!』
険しい表情のルネ司祭の言葉にリトルリップ・シアターの面々(リカを除く)が再び驚きの声を上げる。
「ワインバーグ弁護士が警察署内で襲われたのも、病室にゲデッが現れたのも、十二時半頃だった筈です。それはプレヴァルがその時間に儀式を行ったためでしょう。儀式が不完全だったために、ゲデッはその時間に名刺を持った人物を殺すものだと認識しているようですから」
儀式の事はよく判らないが、専門家がそう言っているのだからこちらは信じるしかない。それにサニーサイドが危ない事に変わりはないのだ。
彼は今日は一日シアターの自室にいる筈だ。急げば迎撃体制を整える事ができるし、彼に名刺を手放させれば最悪の事態だけは避けられるかもしれない。
今この場に電話がない以上、彼に注意を促すよりもこちらから出向く方が早い。
残り時間あと三十分。ここからシアターまでは車で急いで十五分。地下鉄を乗り継いでも二十分はかかる。
しかし車は交通渋滞に巻き込まれた場合に身動きが取れなくなる。これから紐育の中心部も同然の場所に向かうのだ。混雑していない訳がない。
それに車椅子のサジータを連れて地下鉄に乗るのではタイムロスが大きすぎる。まだまだ車椅子の人間が不自由なく地下鉄に乗る事はできないのだ。
「ソルト警部。ヴードゥーの神殿……といっても雑居ビルの一室だが、行く事は可能かね」
司祭が何かを決意した目で警部に訊ねる。
今の彼の立場は警察管理下にある重要参考人。届け出なしに出歩く事も、許可されていない場所へ行く事も許されていない。
だが元々逮捕に見せかけた保護である。それに、いくら杓子定規なお役所仕事といえども無実の人間をこれ以上拘束する事は、警察としての法が許さない。
だが、勝手に開放していいのか。彼は短い時間で随分と悩んだ。
司祭が何をしたいのかは判らないが、警察の範疇を越えた事をするのであろう事は想像がついた。警察にできない事まで警察がやる事はない。そう思った。
だからソルト警部は、無言で彼の手錠を外す事でそれに応えた。司祭は「有難うございます」と礼を言うとサジータの方に向かって、
「ワインバーグ弁護士。しばしわしにおつき合い願いたい。他の皆さんはマイケル・サニーサイドさんの所へ」
「どういう事ですか?」
彼の意図が全く読めない新次郎が司祭に訊ねる。
「説明する時間がありません。ルネ・オウンガンの名にかけて、悪いようには致しません。どうか信じて下さい」
その切羽詰まった発言と真剣な眼差しを見て、新次郎はその言葉に嘘はないと思った。
「判りました。サジータさんをお願い致します」
日本人らしく深々と頭を下げてそう言うと、何か言いたそうなラチェットを急かして倉庫を離れる。面白そうだと思ったリカも二人に着いていく。
それを見送る形となった司祭達だが、
「ソルト警部。我々を神殿まで送って頂けませんか。時間が惜しいのです」
「おいおい。警察はタクシーじゃないんだぞ」
露骨に嫌そうな顔でそういう警部だが、
「まぁいいだろう。形の上だけとはいえ、無実の人間に手錠をかけた侘びだ」
そう小さく笑う彼は、周囲の警察官に向かって「お前達、始末書を書く覚悟をしておけ」と冗談混じりの口調で命じる。
珍しい事もあるものだと言いたそうな警察官達だったが、別に悪事という訳ではない。少しの間惚けた後に笑顔で「了解しました」と敬礼を送った。


警察の車を走らせる事十分ばかり。中心部に向かう訳ではないので、渋滞に巻き込まれる事もなく車は薄汚れた雑居ビルの前に止まった。
車が止まった途端、ビルの中からわらわらと人間が出てきた。どれもこれも黒人か中南米系の人種ばかり。しかも不機嫌そうな顔で警戒心を露にしている。
きっとヴードゥーの信者達なのだろう。自分達の指導者が捕まっているのだから、警察に対する警戒心があるのは当然だ。
だが車の中からルネ司祭が出てくると皆その警戒心を解いて喜びを露にしていた。司祭は朗々とした声で、
「みんな。再会を喜ぶ前にしてほしい事がある。至急バロム・サンディーによる霊力回復の儀式を行わねばならん。準備を手伝ってくれ」
ビルにいた面々は二つ返事で引き受けた。ビルの中へ駆け込む者や、道路を駆けて行く者もいる。
サジータ達にはサッパリ判らないが、何やらすごそうな儀式らしい事は皆の雰囲気から伝わってくる。
警部とヘイスティ警察官は手際よくサジータを車から下ろして車椅子に座らせてやっている。
「ワインバーグ弁護士は儀式を執り行ないますのでこちらに。ソルト警部達も、儀式をご覧になりますか」
こうした儀式を見せておく事で、ヴードゥーが怪しくも邪悪でもない事を示したい。そう思った司祭だが、
「いや結構。これでも我々は忙しい。特にこれから始末書を書かねばならないからな」
慣れないジョークのつもりらしく笑いながら言うソルト警部。あまり面白くはなかったが。
そのまま二人は車に乗って走り去っていく。ヘイスティが一瞬振り向いて小さく手を振ったのが見えたくらいだ。
「霊力回復の『儀式』ですか」
サジータがルネ司祭に訊ねると、
「はい。あなたの中に火の加護を受けた霊力がある事は一目で見抜きました。その霊力ならばゲデッをこの世界より立ち去らせる事が可能でしょう」
しかしサジータは首をかしげる。火の加護を受けた霊力と言われても、彼女自身全くピンと来ないし心当たりがない。
紐育華撃団の任務で専用の霊子甲冑で戦っている時に、各隊員が「己の霊力を最大限に込めた特別な攻撃」を行う時があるが、彼女の物は火とは無縁なのである。
司祭はわざわざ車椅子を自ら押しながら答える。
「ヴードゥーには様々な考え方が取り入れられて発展してきました。その一つ、西洋占星術においては、牡羊座、獅子座、射手座の生まれにある者は四大精霊の火の加護を強く受けているとされております」
サジータはそういった知識にはうといが、そう言われれば先の「火の加護を受けた霊力」という説明もとりあえず納得がいく。彼女は射手座の生まれになるからだ。
(牡羊座と獅子座か。確かリカが牡羊座で新次郎が獅子座だったかな)
二人の経歴を思い出したサジータが無言で呟く。あの時ラチェットのナイフが全く効いていなかったのは、その「考え方」が理由の一つだろう。彼女は確か蟹座の生まれだから火の加護ではないのだろう。
「今のうちにゲデッに対抗する術をお話しておきましょう」
あまり綺麗とは言えないビルの廊下を歩きながら、司祭がそう声をかけてきた。
「ゲデッは実は火が得意ではありません。なので火の加護を持つ霊力を持ったあなたなら充分対抗できます」
それはさっきも聞いた話だ。彼はそう前置きすると話を続けた。
「火の加護を持った人間がゲデッに触れて下さい。武器を介しても直接でも構いません。そして、三度以上触れてからこう唱えて下さい。『永遠の交差点よりギニアへ向かえ』と。さすればゲデッはこの世界より立ち去ります」
永遠の交差点よりギニアへ向かえ。意味は全く判らないが、ヴードゥー独特の用語なのだろう。
「触れてから唱えるのか。忘れないようにしないとな」
自分に言い聞かせるようにぶつぶつと呟くサジータだが、
「触れる前でも後でも構いません。三度以上触れる事と言葉を唱える事。順番ではなくその行動が大事なのです」
順番はどうでもいい訳か。現地に着いてゲデッと対峙してから唱えれば後は触れるだけだ。それなら幾分楽だ。
「実はわしも射手座の生まれでして。この方法でゲデッに対抗しようとしたのですが、触れる事すら叶いませんでした」
言いながら自嘲気味に乾いた笑みを浮かべる司祭を見上げ、
「失敗したところを、新次郎……さっきのあの少年に助けられた訳ですね」
「その通りです」
サジータの言葉に司祭は素直にそう答える。今更取り繕ったところで自分が何もできなかった事に変わりはない。
そうしているうちに儀式を行う部屋に着いたらしい。車椅子を押すのがルネ司祭から別の若い女性に変わると、部屋の中へ通された。
少し薄暗い室内。さっき倉庫内で見たのとは違い、床に何かの大きな革が敷かれ、そこに色々な物が乗っている。
目立つのは、何本もの赤や白の太いロウソクだ。いずれも火が燃え上がっている。その火を受けて薄く輝く銀の盃には透き通った綺麗な水が満たされており、その水も火を反射して赤く輝いている。
そして神に捧げるのであろう果物や肉。籠に入ったままの生きた鶏まである。先程ヴェヴェルと呼んでいた魔法陣らしいものが書かれた紙も置いてある。
何より目を引くのが真っ黒の人形だろう。大きさはよくある操り人形くらい。全身に未開の部族のような紋様が描かれており、ちょっと不気味なイメージを放ったまま座るように置かれていた。
それが何なのか非常に気になったサジータだが、こういう宗教的なものは部外者に話してはいけない事が多い。
このヴードゥーも『内部の機密を漏らした者。決まり事に違反をした者を罰しなければならない』と決められているそうだ。もしその人形に関する事がそれだった場合、今車椅子を押してくれている彼女がどうなるか判ったものではない。
だがサジータの態度で何となく察したのだろう。女性は小さく笑うと、
「あの人形は、これから儀式で呼び出すバロム・サンディーという聖霊です。とても高貴で強い力を持っています」
……それは話しても違反する事ではなかったらしい。ほっと一息つくサジータ。
しかしそれはすぐさま焦りと緊張にとって変わった。彼女の乗った車椅子は、様々な捧げ物が乗った革の真正面に停められたのである。
さらに揃いの黒いフード付きのローブを纏った人物が十人ばかりゾロゾロと部屋に入ってきた。手にはそれぞれ鈴や太鼓を持ち、彼らが綺麗に半円状にサジータを取り囲む。
これではまるで自分が捧げられるようではないか。しかし部屋の中が生み出す儀式に向けた凛とした空気が、彼女の口をピタリと閉じてしまっている。
そのまま彼らは鈴や太鼓を一定のリズムで鳴らし、英語とは違う言語で歌いだした。
ブードゥーをよく知らないサジータにとって、こういう何をしているのか判らないというのが一番怖い。こういう事は事前に説明をすべきだろうに。訴えられるぞ。いや訴えてやる。
この場から逃げ出したいのはやまやまだが、とてもそんな雰囲気ではない。それにまだ自分の身体がうまく動かない。
その歌と音楽で満ちた空間に、彼らと同じ黒いローブに着替えたルネ司祭が現れた。その表情は真剣そのもの。冗談の類は一辺も見られない。
その彼が両手で大切そうに持っているのはお香が入った壷だ。そこから薄い煙と共に独特の臭みを持った芳香が立ち上る。
彼はそれを祭壇のようになった革の上に置くと、今度は盃を手に取る。指先を浸してはそれを周囲にピッピッと弾いていく。
何をしているのか。何の意味があるのかはサジータには判らないし、それを聞ける雰囲気でもない。だがこれも儀式の一環なのだろうと思うしかなかった。
一通り周囲に水を弾くと、気合いのこもった声で高々と叫んだ。
「今日この日、我は守護者がここに現れるため、これらの物を捧げると約束致します!」
今度は英語だった。どうやら儀式が本格的に始まったらしい。わずかに残ったサジータの霊力が、周囲の空気が変わった事を知らせてくれる。
小さくて聞き取れないがルネ司祭は何か呪文のようなものを唱えているようだし、周囲の歌や音楽も音高くなり止む気配が一向にない。
何をしているのか判らない怖さはあるものの、歌や音楽そのものに恐怖は全くなかった。
元々このヴードゥーはアフリカの黒人達土着の宗教。その末裔である自分の血のせいなのだろうか。
かろうじて動く首をゆっくりと巡らせて周囲を見ると、自分達の周りで鈴や太鼓を叩く面々は、それこそ「一心不乱」という言葉通りに力一杯楽器を鳴らし続けている。
その音が一度に揃って激しく鋭く鳴り響いた時、それまでの喧騒が嘘のように静まり返った。皆叩くのを止めたからだ。
ルネ司祭はよく判らない言葉をぶつぶつと唱え続けている。その言葉が進むに従って、自分の目の前に何か「感じた」サジータは、ぎこちなく――それでも大急ぎで真正面に向き直った。
そこにいつの間にか立っていたのは、皆と同じような黒いローブ姿の黒髪・黒鬚・黒い肌の紳士だった。その目は殺意にも似た力強さと安らぎに満ちた慈愛の双方を感じるという実に不可思議なもの。
「バロム・サンディーよ! この者に汝の霊力を分け与え給う事を!」
そう言って司祭はサジータの肩にそっと両手を乗せる。すると目の前のバロム・サンディー――としか思えない黒い紳士は、すっと背の高い金属のコップをサジータに差し出した。
「それを受け取って、中の液体を飲んで下さい」
サジータの耳元で司祭が小声で告げる。何を飲まされるのかと身を固くしたサジータだったが、これは霊力回復の儀式と言っていた。そして彼にはサジータを偽る理由がない。回復アイテムか何かなのだろう。
そう思ったサジータはそろそろと両手を出してコップを受け取ると、何となくその液体のにおいを嗅いでみた。ちょっと草のにおいがする。まるで不味そうな薬だ。
だが霊力回復の薬と思えば。そう覚悟を決めてコップを傾ける。
最初口をつけた時は変に苦い味がした。しかし飲まなければならない。そのまま喉を鳴らして飲んでいく。
ところが。飲んでも飲んでも中身がなくならない。もうかれこれ数分は口をつけコップを傾けているのに。
それに、普通これだけ液体を飲めば胃が重くなり、内臓が吸収しきれずに吐き出してしまう。だがそんな気配すらない。何杯でも飲めそうな程だ。
しかし飲んでいる事に意味がない訳ではない。飲めば飲む程彼女は周囲の「霊的な」気配を鋭敏に感じ取っていく。その気になれば地球の裏側の日本で起きた霊的な気配を、まるでその場で見ていたかのように事細かに説明できるくらいに。
まるでその液体が霊力そのものであるかのように。彼女に霊力が注がれているかのように。
それからさらに数分が経った時、ようやくコップの中身がなくなった。サジータはようやくこの苦さから解放されたと大きく息をつきコップを下ろす。
それを見たルネ司祭は、革の上に置かれた籠の前にしゃがみ込むと、そこから生きた鶏を引っぱり出す。そして腰に下げていた小刀を抜いて、正確に鶏の首を真一文字に切り裂いた。
そこから流れる血を見つめると、
「バロム・サンディーよ。願いを聞き届けし事、心から感謝申し上げます」
首を切り裂いた鶏を手に掲げたまま、深々と頭を垂れた。

<伍につづく>


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