「……ではそろそろ、こっちの質問にも答えて欲しいのだがねぇ」
ソルト警部の強い口調。その言葉に一同の視線が集まると、
「警察だって無能の集団じゃないんだ。そちらがだんまりを決め込んでても、それなりの調べはついているんだ」
彼はややオーバーめの動作でポケットの中から使い込まれた手帳を取り出し、パラパラとページをめくりながら、
「八日前の昼過ぎ。鉄道王ヘンリー・ハーリマンがマクンバらしい方法で殺害されていた。絵に描いたような密室でな。その鉄道王は、観光客相手にヴードゥーのお守りや人形を売っている司祭ジャマックス・プレヴァルの店のパトロンでもあった」
社会的に地位の高い人間がそうした店の出資者になる事は珍しくない。だがルネ司祭は「ジャマックス・プレヴァル」という名が出た途端口をきつく引き締めた。
「そのプレヴァルって司祭……お前の弟子だな。しかもプレヴァルはその日を境に消息を絶っており、お前が殺したり逃がしたりしてない事までは調べがついている」
朗々とした調査報告が続く中、警部はそこでわざとらしく言葉を切ると、棒立ちのままのルネ司祭を一瞥してから、
「そんな状態の弟子を、執拗に探していたそうだな？」
「仰る通りです」
「何故その時点で警察に届け出なかった」
「あの時お話しした通りです。内部の機密を漏らした者。決まり事に違反をした者を罰する。それがわしらヴードゥーの掟だからです」
眉間に皺を寄せた厳しい表情で、淡々とそう言い切った司祭。その開き直りにも受け取れなくもない態度に、さしもの警部もため息をつきつつ、
「そういう事は警察の仕事だ。理由や事情はどうあれ、な」
まだそのプレヴァルという司祭が殺したと決まった訳ではないが、状況から考えれば一番怪しい人物であり、警察から見れば事情を聞きたい人物の筆頭である。
「聞きたいのはそれだってのに、こいつは『サジータという黒人の弁護士を』の一点張りで時間を無駄にさせやがって」
「犯人が人間ではなく、そのヴードゥー教の聖霊そのものだった場合は、どうするんですか？」
しばし黙考していたラチェットが警部にそう問いかける。警部は薄く笑うと、
「ミス・アルタイル。いくら魔術だの呪いだのがあったとしても、やったのは人間に決まっています。そいつを裁く」
もっとも「魔術」だの「呪い」だので傷つけたり殺したりした場合、それを裁く法律が今のアメリカにはない。今回ルネ司祭を「逮捕」するのに呪い殺した罪にしたのは完全な言いがかりなのだ。
「ともかくだ。そのプレヴァルという司祭を探すのは、我々警察に任せてもらいたい。我々が知りたいのは、彼の行き先の心当たりだ。自分の弟子なんだ。それくらいの一つ二つはあるだろう」
「申し訳ありませんが、詰問の時間はなさそうですよ」
ラチェットはソルト警部の言葉を遮るように告げると、その場にすっと立ち上がった。その右手に光るのは投げ専門のナイフである。彼女のもっとも得意な武器だ。
ラチェットはそれを片手でもてあそぶようにしながら、部屋の中をゆっくりと見回している。奇妙に思った警部や司祭も同じように部屋の中を見回している。
そして。ラチェットと司祭の視線が同じく部屋の入口を向いた時、
「そこっ！」
気合いと共にラチェットはナイフを投げつけた。ナイフは綺麗に扉に突き立っている。だがよく見れば扉そのものには「突き刺さっていない」。その事に一同が奇妙に思った時だった。
それからきっちり三秒が経つと、何の前触れもなく唐突に人影が姿を現した。
闇のように黒い山高帽。同じ色の燕尾服。それらを着こんだ青白い骸骨。そんな骸骨が纏っているのは見るからに気味の悪い殺気。胸の奥を締めつける圧迫感。
「ゲデッ……！」
ルネ司祭が息を飲む。という事は先程話していたヴードゥーの聖霊であるゲデッに間違いないのだろう。
そのゲデッはまるでラチェット達がその場にいないかのように無関心のまま、部屋の中をキョロキョロと見回している。
額の真ん中にラチェットのナイフを突き立てたままで。何事もないかのように。
「な、何をしているんだ、お前達は？」
「何が起こってるんですか！？」
霊力を持たないソルト警部と見張りの警官にはそのゲデッが見えていないのだろう。だが宙に固定されたナイフと気味の悪い殺気だけは判るらしく、その表情には怯えと苦しみがありありと表れている。
サジータもどうにか身を起こそうとしているものの、まだ身体がうまく動いてくれずにのろのろとした動きになってしまっている。霊力がほとんど枯渇してしまっているので、ゲデッの姿も殺気もおぼろげにしか判らないのだ。
「……そいつに間違いない。気をつけろ」
か細い声を振り絞ったサジータの言葉に、ラチェットは「やはり」と言いたげにもう一本ナイフを投げた。それは無防備なゲデッの胸元に根元まで吸い込まれた。
だがそれだけだった。魔封じの呪文が刻まれた特別製のナイフがゲデッには全く効いていなかった。宗教が違うとはいえ「聖」霊に分類される存在だけに「魔」封じのナイフは効かないのだろう。
「い、一体何をしているんです？」
取り残されている雰囲気は理解できているのだろう。この場でこの状況を正確に判っていないのはソルト警部と見張りの警官の二人のみだ。
「先程話していたゲデッが、わしらの目の前にいます。お気をつけ下さい」
ゲデッから視線を逸らさないで司祭が二人にそう言うが、気をつけろと言われても何をどうすればいいのか。
「あなた司祭ですよね？ 魔法とかお祈りとかでどうにかならないんですか！？」
見張りの警官が半ばパニックを起こしつつルネ司祭に詰め寄る。その様子は今にも泣き出しそうな子供のようでもある。
だからか、司祭は子供を諭すように、しかし申し訳なさそうに、
「わしらヴードゥーの司祭にできるのは儀式を行う事のみです。今のように何の準備もない状態では、普通の人と何も変わらないのです」
もっとも、今の司祭は両手が手錠で拘束されているので別な意味で何もできないのだが。
そのゲデッだが、部屋をキョロキョロ見回していた首の動きがピタリと止まった。その視線の先には――サジータがいる。
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どこからか聞こえてきた謎の声らしきもの。被害者であるサジータには――おそらくルネ司祭にも――マクンバの前兆であると理解できた。
だが彼女は上半身だけがどうにか起き上がった状態である。とても動けるとは思えない。注意も促せない。
ところが。彼女はその「思えない事」を起こしたのである。
サジータはヘッドボードのパイプにかけられていた自分のスーツの上着を鷲掴みにし、それをゲデッめがけて思い切り投げつけたのである。その上着はゲデッの視界を隠すように顔面に被さった。
彼女の行動はそれだけでは終わらない。毛布を跳ね上げるようにして一気に立ち上がったかと思うと、ゲデッめがけて殴りかかったのである。
もちろん霊力のこもっていない一撃。自慢の拳はサジータの身体ごとゲデッの全身をすり抜けてしまったが。
サジータの行動に皆が呆気に取られる中、ゲデッの頭に被さっているサジータの上着を顔から剥ぎ取り、それに向かって黒いもやのような物を吐き出した。
それから数秒と経たずにゲデッは姿を消してしまった。足元に上着とナイフ二本を残したまま。
その場の全員が緊張が、それからたっぷり十秒は経ってからプツンと途切れた。へなへなと腰を抜かしたかのようにその場にへたり込んでしまう。
一歩間違えば全員がマクンバであの世行きだったのだ。こうした「人に在らざる者」との戦闘に慣れたラチェットとて己の死に直面した経験まで豊富という訳ではない。へたり込むのは無理もないだろう。
しかし立ち直るのは一番早かった。彼女は未だ床に転がったままのサジータの元に歩み寄ると、
「こんな無茶をして。自分の身体はもっと大切にしなければダメよ？」
自分の肩を貸してサジータを立ち上がらせるラチェット。それからへたり込んだままのルネ司祭にソルト警部と警察官の介抱を頼む。
「霊力を持っている人がその霊力を急激になくした場合、命にすら関わるのよ？」
ラチェットはサジータの耳元で、かなりきつい調子でそう告げた。
常人の場合、その肉体を動かすのは「肉体的な」力のみである。しかし霊力を持った人間の場合「霊力的な」力を併用して肉体を動かしているのだ（厳密にはどんな人間にも微量な霊力は存在するのだが）。いわばエンジンが二つあるようなものだ。
そのため霊力の高い人間はトレーニング次第で常人以上の身体能力を発揮する事が可能な分、その霊力が極度に衰えてしまった場合総ての身体的な能力が極端に落ちる。
それは筋力や腕力、跳躍力といった能力から内臓機能や五感に至るまで、ありとあらゆる能力がガタ落ちする。二つのエンジンで動いていたものが急に一つだけになるのだから当然だ。
その為、一時的とはいえ極端に霊的な疲労を抱え霊力が枯渇したサジータは本来絶対安静の筈なのだ。無理をするにも程というものがある。
そのサジータは焦点の定らぬ目のままラチェットを見ると無理矢理口だけで笑い、
「大丈夫だよ。こんなのフライドチキンとチトリンズ（豚のモツ煮込み）をたくさん食べりゃすぐ治るさ」
「昔の海賊じゃないんだから。いくら魂の食べ物（ソウル・フード）と言っても……」
心配するラチェットに、あくまでも強気なサジータは、
「やられっぱなしは性に合わなくてね。一発くらいブン殴ってやらなきゃ気が収まらないさ」
今でこそ弁護士という職についているが、その心根はまだまだ暴走族時代と変わらないようである。その様子を見て「空元気でも出るだけマシか」と思うラチェット。
身体の方は自分ではろくに動かせないほど消耗しきっているが、気力の方はこれ以上ないくらい充実しているようだ。これなら回復も早いだろう。
その時。部屋の外から音高い足音が響いて来た。それが部屋の前で止まると同時に勢いよくドアが開き、
「ソルト警部！ …………？」
制服姿の警察官が部屋に大急ぎで飛び込むと同時にそう叫ぶが、中の様子に呆気に取られてテンションが下がり首をかしげている。へたり込んでいた警部は慌てて気を取り直してよろよろと立ち上がると、
「どうした？」
その一言で呆気に取られていた様子から我に返った警察官は、急いで背筋を正すと、
「ジャマックス・プレヴァルの遺体が発見されました！ 湾岸の倉庫街です！」
その言葉に、その場の全員の動きが凍りついた。
翌朝。紐育の中心を占めるマンハッタン島。その南端に位置する湾岸倉庫街。そこに一同は急行した。
本当なら病室で知らせを受けてからすぐさま行きたかったのだが、ルネ司祭がいる事が枷になってしまった。
形式上とはいえ「逮捕」した人間を署の外に連れ出すのは許可がいる。移動させるのにもいちいち許可が要る。病院に行く事は許可されていてもそれ以外の場所に行く事は許可されていなかったのだ。外出中に目を放すなどは論外である。
そんな杓子定規なお役所体制にはソルト警部を含めた皆がいら立ちを隠せなかった。
本来はソルト警部や警察官、そして重要参考人扱いのルネ司祭達だけで行くべきなのだが、サジータが強引に付いて来たのである。「弁護人の弁護に必要な情報を集めなければならない」という建前を掲げて。
無論今の彼女はまだ回復していない。一人ではまともに歩く事すらままならないので、サジータを車椅子に乗せたラチェットが介添人として同行する事になった。
プレヴァル司祭が発見されたという倉庫の周りには厳しい表情の警察官が何人も立っており、ソルト警部を見かけてようやく道を開けてくれるような警戒体制だった。もしサジータが単独で来ていたら押し問答の末に一騒動も起きていたに違いない。
「何だこいつは……」
小さな倉庫の中から漂ってくる異臭に顔をしかめ、取り出したハンカチで鼻と口を被う警部。後から続いて来た者も同様だ。唯一の例外はまだ身体がうまく動かせないサジータくらいだ。
「これは……儀式の跡ですな」
皆と同じように手で口元を被ったままのルネ司祭が、発見当時のままの周囲の様子を見て淡々とそう言った。
見れば木箱で作った段の上にたくさんのロウソクや空の銀盃、香を入れる壷、捧げ物らしい鳩が並んでいる。特に鳩には既にハエがたかっており、それが異臭の原因でもあった。
「こんな物騒なのを毎度毎度やるのが、ヴードゥーの儀式なのか？」
露骨に嫌そうな顔のソルト警部の言葉に、ルネ司祭はロウソクや捧げ物の位置を注意深く見てから、
「これは間違いなくゲデッを呼ぶ時の儀式のやり方です。しかし……」
本業らしく自信を持って警部にそう告げた司祭。それから続けて、
「これにはヴェヴェル……失礼。ロアを呼ぶ際に必要な魔法陣にあたる物なのですが、それがない」
「魔法陣？」
二人から少し離れた位置で、そんなやりとりを聞いているサジータとラチェット。サジータはここに来る途中に買い込んだフライドチキンを不器用そうにかじっている。
ラチェットは「人が死んだ現場でよく食欲がわくものだ」と思って呆れ果てていたが、サジータにしてみればたくさん食べて一刻も早く回復させねばならないのだから、場所など構ってはいられないのだ。
サジータは骨にこびりついた肉をねぶり終えると、隣に立つ見張りの警察官に向かって、
「ここで死んでいたっていう司祭はどんな様子だった？」
「はぁ。どんなと言われましても。外傷がありませんでしたから、自分には何とも……」
その発言は、警察以外の勢力を嫌っているソルト警部がそばにいる事もあって、露骨に歯切れが悪い。事実ソルト警部が一瞬こちらを鋭い目で睨みつけた事からもよく判る。
「ただ、被害者の所持品で、ちょっと変わったものが」
「変わったもの？」
「はい。名刺です。それを持ったまま亡くなっていたそうです。自分もヴードゥー教はさっぱりですが、こういう儀式の場にはそぐわないと思うのですが……」
「何をベラベラ喋っているっ！」
案の定、見張りの警察官がソルト警部に怒鳴られる。彼は大股でこちらに歩いて来ると、
「ヘイスティ。部外者に情報を漏らすなと何度言えば判るんだ！」
「も、申し訳ありません！」
しかし一喝した後は元の仏頂面に戻り、
「その名刺とやらはここにあるか？ ある？ なら持ってこい。手がかりになるかもしれん」
ヘイスティと呼ばれた警察官は猛スピードで走り去って行く。その様子を見送った警部は、別の警察官に向かって、
「それで、第一発見者はどこにいる。そっちの話も聞かねばならん」
「ああ。それなら隣の倉庫にいます。そこに住んでいるとかで……」
「住んでる？」
首をかしげる警部だが、とりあえず「連れて来い」と命じる。
隣だけに数分経たずに警察官が戻って来た。
「リカ！？」
「新次郎！？」
警察官が連れて来た人物を見たラチェットとサジータが、目を点にしそうなくらい驚いている。
新次郎と一緒に歩いてくるのは、サジータと同じ劇場で子役を勤めるリカリッタ・アリエスだったからだ。
中米でよく見られる外套・ポンチョを纏い、十一才という年相応な元気さに満ち溢れている少女であり、この年で立派な賞金稼ぎとして活動している。当然彼女も紐育華撃団の隊員という裏の顔を持っている。
確かにリカリッタはこの辺りの倉庫に部屋を作って寝泊まりしている事は、紐育華撃団の皆が知っている。まさか現場の隣とは思わなかったが。
「あ。ラチェットとサジータがいる！」
見知らぬ警察官に引っ張ってこられたのでどこか警戒した様子だったが、二人を見た途端パッと笑顔になって一気に駆け寄って来る。
「サジータ、フライドチキン食べてる。リカにもくれ」
フライドチキンを目ざとく見つけ、目をキラキラとさせて両手を差し出すリカことリカリッタ。しかしサジータはムッとした目でリカを見つめ返すと、
「今日のはダメだ。早いとこ回復させないといけないからな」
そのいつも以上に元気のない様子を理解したリカではあるが、単純に食べ物を分けてくれないという点で「ケチンボー」と頬を膨らませて怒っている。
そこにようやく追いついて来た警察官と新次郎。新次郎は「勝手に行ったらダメだよ」と軽くリカをたしなめる。
そのやりとりを見たソルト警部は露骨に苦々しい表情を作ってサジータを見ると、ため息をつく。
「またお前さんの知り合いか……」
だがそれでも第一発見者。背の低いリカに合わせてしゃがんだ彼は、
「あー。その。君が、最初にここを見つけたのかい？」
相手がまだ子供という事もあり、多少は優しい言葉遣いでリカに訊ねる。相当にぎこちないもののようで、後ろに立つ警察官が小さく笑いを堪えている。
「リカじゃないぞ。見つけたのはノコだぞ」
「ノコ？」
すると、その言葉を待っていたかのようにやって来たのは、胴体に星形の模様がある一匹のフェレット。それが器用にリカの身体をよじ登り彼女の肩にチョコンと乗る。リカは両手でそのフェレットを持ち上げると警部に向かって突き出した。
「ノコ！」
「……そうか」
笑顔でノコと呼んだフェレットを突き出すリカとは対照的に、困り顔でため息をつく警部。
「ノコが変な紙をくわえて来たんです。それで、ノコに案内されてここへ来たらすごい臭いがしてたんで警察に……」
新次郎は、日本から紐育に来たその日に銀行強盗に間違えられて警部に捕まりかけた事のあるためか、どこかおっかなびっくりの様子でソルト警部に告げる。
確かにリカ単独ではそんな行動は起こさないだろうから、ラチェットもサジータも納得である。
「それでだな……」
大人の真似をしているのだろう。リカはどことなく偉そうにそう言うと、ポンチョの内側でごそごそとやってから、彼に一枚の紙切れを差し出した。
「こんなのをくわえて返って来た。これ、確か何かのおまじないに使ってたお守りの絵だ。リカ見た事ある」
すると、それを見たルネ司祭が血相を変えて絵を奪い取る。薄暗い中でじっくりとそれを観察すると、
「間違いありません。これはゲデッを呼ぶ時に使うヴェヴェルです。しかも書いたのはプレヴァルに間違いない」
司祭が指差す先には、昔のアルファベットを使って「ジャマックス・プレヴァル」と書いてあると言うのだ。
「何だって！？」
これで間違いない。プレヴァルはこの倉庫でゲデッを呼び出したのだ。
意外なところから出て来た証拠品に、仏頂面のソルト警部も驚きを隠せない。ルネ司祭はリカの前でしゃがむと、
「有難う。よく見つけてくれたね」
司祭のその言葉にリカは「へヘー」と素直に嬉しそうな顔になる。これにはさすがのラチェットやサジータも驚くしかない。さらに司祭は新次郎に、
「あなたには、また助けられましたな。感謝の言葉もありません」
「い、いえ、そんな。お礼なんて。ぼくは何も……」
胸を張らずに逆に萎縮するところは、控えめと云われる日本人らしい。
その様子を見たサジータは、フライドチキンが入ったバケットから一番大きい物を取り出すと、
「さっきは悪かったな。これやるよ」
ひょいと差し出されたフライドチキンを見て、リカは司祭の言葉以上に嬉しそうな顔になり、その場でむしゃぶりついた。
「だからこんなところで食べないで……」
呆れるラチェットの言葉などリカには全く耳に入っていない様子だ。
「警部。被害者の所持品を持って来ました」
ようやくヘイスティ警察官が名刺を持って戻って来る。その名刺を受け取ったソルト警部は、
「ヘンリー・ハーリマンの名刺か。確かにプレヴァルが持っていてもおかしくはない代物だが……」
その名刺自体には特に変わった様子はない。強いて変わっていると言えばそのデザインだ。
普通名刺には名前や肩書き、住所くらいしか書かない物だが、その名刺には鉄道王ヘンリー・ハーリマンの写真が印刷されている。かなり珍しいデザインである。
こうした名刺をやり取りするビジネスマンにとっては、名刺というのは第二の顔。相手に印象づけるに越した事はない。そういう意味ではうまいやり方だ。
「ちょっと待った。その名刺ならあたしも持ってる」
サジータは上着のポケットの中から名刺を引っ張り出す。
「鉄道王が亡くなった日だったか。ウチの顧問弁護士にならないかって話を持って来てくれて、彼と会ってたんだ。その時に『今朝仕上がったばかりの新しい名刺だ』って渡してくれた物さ。結局返事はできずじまいだったけどね」
当日彼と会っていた事は警察も既に承知の事実ではあるが、一応サジータはそう説明する。
ソルト警部が両方の名刺を見比べてみるが、確かに彼女の言う通り全く同じ名刺だった。
プレヴァルが持っていた名刺を見ていたルネ司祭が、ふと思いついたように問いかけた。
「……もしや、プレヴァルはこの名刺を手にしたまま死んでいたのでは？」
「名刺をかざすようにして立ったまま亡くなっていたと聞いていますが、どういう事ですか？」
警察官の問いに司祭は、ノコが拾ったという魔法陣・ヴェヴェルを皆に見せながら、
「実はこのヴェヴェル、書き間違いがあるのです。彼はよく手順を無視したり飛ばしたりして儀式を失敗する事が多かったのです。だから司祭を名乗ってはいてもヴードゥーのお守りや人形を売っている店で働く事が多かった。もしそうなら、ゲデッはプレヴァルの願いを正確に把握していない可能性が高い」
こういう魔法陣は正確に書かねば意味がない。もし間違っていた場合、その力を発揮できなかったり誤った効果を発揮してしまう事は充分に考えられる。
「ゲデッというロアはとても賢明ですが、ヴェヴェルを経由しなければこちらの言葉が届かないのです。間違ったヴェヴェルなら言葉を間違って受け取ってしまうし、マクンバの威力も加減できない」
司祭は名刺の写真を見ると、
「この名刺を手にしたまま死んでいたのであれば、この写真を見せて『こいつを殺せ』とでも願ったのでしょう。だが、その名刺を持ったプレヴァル自身が死んでしまった」
「……ひょっとして、その名刺を持っている人間を殺せと、ゲデッは解釈したのでしょうか」
ラチェットが先程の病室でのやりとりを思い出す。あの時ゲデッはサジータ本人ではなく上着に向かって黒いもやのようなもの――おそらくマクンバの呪いをぶつけていた。上着にはその名刺が入っていたのだから、もしゲデッがそういう解釈をしたのであれば……。
憶測と状況証拠でしかないが、おそらくそれが真相だろう。動機の方は判らないままだが。
その現実には、さすがの一同も「なんて事だ」と気落ちせずにはいられなかった。＜肆につづく＞