自分の数倍は年を経た人物と、真正面から対峙するサジータ。
こういうケースは無論これが初めてという訳ではないが、やはり柄にもなく緊張しているのが自分でも判る。
うっすら汗ばんできた手のひらをこっそり拭い、メモ帳を広げペンと取り出すと、
「ではまず、ヴードゥー教の事からお尋ね致します」
一部の新聞社が彼を陥れるかのように『ヴードゥー教のマクンバで殺害した』と吹聴しているのは、このヴードゥー教が人々に正確に伝わっていないからでもある。
もしこれがキリスト教の司祭が事件を起こしたというのであれば、怖れられるのは司祭本人であり、彼が信じるキリスト教までもが迫害される事はない筈だからだ。
「私が聞いた話によれば、ヴードゥー教というのは死者の霊や神などを呼び、願いを叶えてもらったり、病気を追い払ったりする物だと聞いていますが、間違いはありませんか？」
「間違いありません。それが司祭の務めであります。しかしヴードゥー『教』は正確ではありません」
「どういう事ですか？」
サジータが間髪入れず問いかけると、司祭は淡々と、
「ヴードゥーには教義も教典もありません。それ故に布教活動も行いません。依頼があれば儀式を行い、願いを叶える。それだけなのです」
世界には教義も教典もなく、布教活動もしない宗教は意外と数多い。日本の神道も同様だ。民族宗教、民間信仰などと呼ばれるのがそれだ。
それに司祭はヴードゥーの神を信仰して儀式を行うが、儀式を受ける側がヴードゥーの神を信仰している必要は全くないのも特徴だろう。
その発言だけで、そばで聞いていたソルト警部と見張りの警察官が驚いて目を見開いている。きっと彼らもある意味で「マクンバ」の呪縛に囚われているのだ。
それでも今では観光客相手にお祈りをしたりお守りを売って生計を立てている司祭もいる。が、そういった偏見が災いして繁昌しているとはとても言い難い事は、サジータも人づてに聞いた事があった。
その苦労を想像した彼女は祈りを捧げるように一瞬目を閉じると、質問を続けた。
「その死者の霊や神とは、具体的には？」
「たくさんいて、とても具体的には申し上げられません。ヴードゥーはアフリカに端を発し様々な文化、宗教、概念を取り入れながら発展してきたものです。元は別の宗教の神や聖霊であった者もたくさんおります」
別の宗教の神を自分達の宗教に取り入れるのは、多神教の文化圏ではよくある事である。ルーツを辿ると別の宗教の神だった、という事は珍しい話ではない。日本に古くから伝わる七福神も日本・中国・インドの神々を一まとめにしている。
だがアメリカは大多数の人間が一神教のキリスト教を信仰している。それゆえに「神様がたくさんいる」という概念そのものが根本から欠落しているので、その説明と理解が極めて困難なのである。
案の定サジータもソルト警部も見張りの警官も首をひねって理解に苦しんでいるのがよく判る。
よく判らない事を聞き続けても埒があかない。それは別の日にこちらも資料を用意してきた方がよさそうだ。
そう考えたサジータは、質問をガラリと変える事にした。
「……ヴードゥー教、いえ、ヴードゥーには相手を呪い殺す『マクンバ』というものが存在するそうですが。間違いはありませんか？」
「はい。間違いありません。わしも使う事ができます」
この発言には周囲はもちろん、サジータ自身が驚いた。
そう発言した司祭の表情は、脅迫をしているのでもヤケになっているのでもない。知識人が「字の読み書きができますけど、それが何か？」と言っているような、ごく自然なものだった事もある。
「どういう事だ、貴様！ まさか貴様が……」
一気に激昂したソルト警部が司祭に掴みかかろうとするが、サジータが腕を出してそれを食い止める。
「まだ質問が終わっていません。下がって下さい」
日頃から凶悪犯と対峙している警部が、彼女のその一睨みで苦々しく引き下がった。相手を威圧するような恐怖ではない。弁護士の仕事を全うしようとするプロ魂である。
サジータは改めて司祭と向かい合い、話を続けた。
「その『マクンバ』について、お話できる範囲で説明をお願いします」
すると司祭は難しい顔をして黙り込んでしまった。さっきまでは淡々と正直にこちらの質問に答えてきたのに。
彼に与えられた「黙秘する権利」を行使されてしまったのか。そこが一番重要なポイントなのに。それ次第では彼の、いやヴードゥーの潔白を証明できるかもしれないのに。
あまり気の長くないサジータのイライラが頂点に達しようとした時、ようやく司祭の口が開いた。
「マクンバはもとより、ヴードゥーの儀式についてお話をする方が良いでしょう。よろしいですかな」
年の差か司祭という貫禄の差か。どちらが質問者なのか判らない雰囲気すらある。
サジータ達の無言を肯定と判断した司祭は、ゆっくりと落ち着いた口調で語り出した。
「ヴードゥーの儀式は、先程あなたが仰った通り、死者の霊や神などを呼び、願いを叶えてもらったり、病気を追い払ったりする物。それ以上でもそれ以下でもありません。その儀式を執り行なうのが、わしら司祭の役割でもあります」
改めて、という感じでキッパリとそう告げる司祭。それから、まるで講義をする教師のように呼吸を整えると、
「その儀式の際に牛や鶏などを生け贄として捧げる事もあるので、キリスト教徒の方々からは『黒魔術のようだ』と言われる事もたびたびあります」
その辺のイメージはサジータも知っているし、実際に見た事もある。
「儀式のやり方は呼び出す神や願い事によって千差万別の上、ヴードゥーの機密に関わる部分もありますので、一概に語る事はできません」
「願いを叶える事しかしないって言うんなら、もしも、その願い事が『誰かを殺してくれ』っていうものなら、それが『マクンバ』になるのか？」
説明の途中でソルト警部が口を挟む。司祭は無言だったが、サジータに話すよう促されると特に気分を害した様子もなく、
「そう考えて戴いて差し支えありません。そういった呪法を行う者を、わしらの間では『ボコール』と呼んでおります」
「待って下さい。そうしたマクンバをする者をボコールと呼ぶのであれば、あなたもボコールと呼ばれるのでは？」
浮かんできた疑問をすぐさま司祭にぶつけるサジータ。当然である。彼は先程「マクンバを使える」と言っているのだから。
すると司祭はその質問を予測していたかのように、
「オウンガンとボコールは表裏一体ですよ。ほとんどのオウンガンはボコールの技も持っていて、必要があれば使う。それだけです」
立て板に水、という喩えがしっくりくるような、そして自分達ヴードゥーにうとい人間にも判りやすい話である。サジータは質問を続ける。
「では、その『必要があれば使う』の、必要になった時というのは？」
「わしらヴードゥーの決まり事として、内部の機密を漏らした者。決まり事に違反をした者を罰しなければならない、というものがあります。これはヴードゥーの間では、何よりも優先される事です」
「……私個人としては、合衆国で暮らす以上合衆国の法律に従って戴きたいのですが」
サジータとしては渋い表情でそう言うのが精一杯だった。自分達とは基準が違うが、彼らも彼らなりの「法律」で動いている事が判ったからだ。
「法律」は場所が変わればその価値や重さも変わる。例えば飲み水が少ない地域では水泥棒は間違いなく重罪になるが、飲み水が豊富な地域ならさほど重い罪には問われないだろう。
同じ「法律」で動く人間として、自分達の決まり事だけを押しつける訳にもいくまい。そう気を取り直すと、
「では次に……」
サジータがそう問いかけようとした時、ソルト警部が彼女の肩を叩いた。
「悪いが時間だ。続きはまたの機会にしてくれないか」
その言葉に、何か言いたそうに口を開きかけたサジータだったが、渋々引き下がらざるを得なかった。こうした容疑者から話を聞ける時間というのが決まっているからだ。別に警部が意地悪をしているからではない。
これからという時に。露骨にそんな顔をしかけたサジータだが、パタンとメモ帳を閉じて内ポケットにしまうと、
「判りました。では続きは後日」
淡々とそう告げたサジータは、手錠で繋がれたままの司祭の手を握ると、振り向かずに部屋を出た。
そしてしまっていたメモ帳を開き、少々困った顔で走り書きされたページを見る。
さすがに宗教は専門外だけあって、さっきの説明だけではまだまだ「理解した」というレベルには程遠い。
それに、おそらく無いとは思うが、司祭が嘘を言っている可能性も考えなくてはいけない。
無論依頼人を信頼するところから弁護士の仕事は始まるのだが、どんな事でも集めた資料の裏付けが必要なのがこの稼業。
その裏付け作業をどこでやろうか。それともその前に昼食にするか……もうすぐ十二時半を差す時計を見てそう思いながら廊下を歩いている時だった。
何かで胸の奥をカリカリと引っかかれるような、気味の悪い違和感を感じ一瞬立ち止まった。
（何だ、こいつは……）
周囲にあるのは警察署内部の風景だけだ。彼女の目に不可思議な点は何も見られない。
だが、彼女が生まれ持った莫大なる「霊力」だけは違った。この霊力こそ、彼女を霊的防衛部隊・紐育華撃団隊員たらしめている力だ。
その霊力が感じ取っているのは、一言で言えば気味の悪い感覚。何か得体の知れない、人々に害をもたらす「何か」。そんな「人に在らざる者」の存在を、ハッキリと感じるのだ。
この警察署は人間の犯罪者には厳重な警戒をしているが、そんな「人に在らざる者」にはまったくの無警戒だ。
ならば逃げるか、とも考えた。わざわざ自分から危険の渦に飛び込むのは愚か者の行為であるから。
だが彼女は「霊的防衛部隊」の人間である。勝ち目がないから逃げるのならともかく、何もしないうちから逃げ出すような真似だけはできなかった。
「……あっちか」
霊力の感じるままに歩を進めるサジータ。その歩が次第に早歩きになり、やがては駆け出していく。
進むにつれ、さっき胸の内で感じていた、カリカリと引っかかれるような違和感はドンドンと強くなっていく。
時折署内の人間に不審そうな目で見られながら警察署内を行ったサジータが、とある角を曲がったところで思わず足を止めてしまった。
そこに在る「者」をまともに見て、足が自然に止まってしまった。そう言った方が正しいかもしれない。
「な、何だ、こいつは……」
驚くサジータだが、自然に少しだけ腰を落として身構えていた。弁護士になる前暴走族のリーダーとして過ごしていた頃の習性がそのまま出たのである。
彼女の霊力を伴った目には、暗がりの中で青白い骸骨がふわふわと宙に浮いているのが見えていた。
その骸骨が発している見るからに気味の悪い殺気。その殺気を見ただけで、胸の奥をカリカリと引っかく違和感が胸を締めつける圧迫感へと変わっていく。
これがさっきから感じていた「人に在らざる者」に間違いないと確信していた。
しかし。「人に在らざる者」総てが人々に害をもたらす訳ではない。そうだとしたら神も天使も「害をもたらす存在」になってしまう。
だがサジータの勘が告げていた。「こいつは絶対にヤバイ」と。放ってはおけないと。
ところが彼女は睨みつけたままその場から動けずにいた。
当然である。今の彼女には何の武器もない。弁護士の武器たる「法律」は、こんな相手には何の役にも立たない。人に在らざる者相手では、暴走族時代からケンカで馴らした自慢の拳も同様だ。
彼女の身体には莫大な霊力が宿ってはいるものの、世にいる霊能力者のようにその霊力を武器に「生身で戦う」訓練はほとんど積んでいないのだ。
（少しはやっておけば良かったか）
心の内でそう悔やむがもう遅い。後悔とはそういうものだ。
しかしそれでも、手が全くない訳ではない。彼女は手探りでスラックスのベルトに手をかけ、骸骨を睨んだままベルトを取り外し、それを鞭のようにダラリと下げる。
そのダラリと下げたベルトに、サジータは少しずつ自身の霊力を注ぎ込んでいく。だが生身での霊的戦闘経験に乏しい為思ったよりもうまく注ぐ事ができない。
それまで黙っていた骸骨だが、霊力を注ぎ始めた時に初めて動きを見せた。
近づいて来たのである。
そこで初めて判ったが、骸骨がふわふわと浮いていたのではなかった。闇のように黒い山高帽と燕尾服を着た人物の姿をしていたのである。骸骨以外が闇に同化していて見分けがつかなかっただけなのだ。
そして、その閉じられていた口がゆっくりと開き出した。その口の奥には何もなく、ただ闇が広がるのみ。
そして窪んだ目の奥からゆっくりと顔を出したのは赤茶けた色の蛇だ。その蛇も大きく口を開け舌を伸ばし、サジータを威嚇するように鎌首を持ち上げている。
そのまましばし睨みあいが続く。生理的に嫌悪感を感じる風体の相手だが、サジータは気迫負けだけはしないよう、霊力をベルトに注ぎつつ蛇と骸骨を睨みつけていた。
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どこからか聞こえてくる、理解不能な声。いや、声と言っていいのかどうか。そんな不可思議な「音」が静かに辺りに響いている。
理解はできないが、サジータの全身に走るおぞましい不安感。爆発しそうな程早く脈打つ心臓。一気に水気がなくなって乾く喉。全身を伝う粘ついた脂汗。
それら総てが「ただ事ではない」事を彼女自身に告げている。
だが逃げる事ができない。暴走族時代の「自分から引いたら負け」という意地でもなく。紐育華撃団としての「町を守る」という使命感でもなく。
純粋に自分自身が持っている正義感が、彼女から「逃げる」という選択肢を奪っていた。それが逆に彼女が覚悟を決める決定打になった。
「はああぁぁぁっ！」
サジータは一気に間合いを詰めると、霊力を込めたベルトをその骸骨の顔面めがけ叩きつけた。しかしそのベルトに大きく口を開けた蛇が喰らいつき、骸骨自身は全くの無傷。
その時だ。その骸骨を取り巻いていた殺気がしゅるしゅるとその内に吸い込まれたのは。
サジータが一瞬呆気に取られた直後。開いたままの骸骨の口から、黒い煙のような塊が吐き出された。至近距離から勢いよく吐き出されたそれは、避ける間もなく確実にサジータの胸に直撃した。
「ぐああああああぁぁぁぁぁぁっっっ！！」
内臓という内臓が。血管という血管が。神経という神経があらゆる方向にねじ曲がる、凍りつく、引き裂かれる、焼けただれる、感覚の許容量を超えた激痛が彼女の全身を貫いている。
その激痛が起こす叫びたるや苦悶の声というものではない。断末魔の声だ。
そんな声も、もはや彼女の耳には届いていなかった。雷に打たれたかのように全身を硬直させ、ひたすら声にならない声を上げ続けるだけの、ただの肉の塊と化していたのだから。
ところが。それだけの激痛が一瞬にして消し飛んでしまった。代わりに襲ってきたのは恐ろしいまでの疲労感と脱力感。
サジータが正気を取り戻した時には床にペタンと座って両手をつき、肩で激しい息をしていた。全身から滝のような汗がしたたらせながら。
視点のぼやける虚ろな目をかろうじて上げると、その人影はふうっと姿を消していこうとしているところだった。
「……ま、待て……」
今のサジータには、か細い声でそう言うのが精一杯だった。
そして、姿を消したのを見届けるかのように、彼女の意識はすうっと遠ざかっていった。
サジータの意識が戻った時、まだ頭の中自体は半分もやがかかったようになっており、気分も正直に言って最悪。全身の筋肉が鉛にでもなったかのように重くだるい。頭痛のない二日酔いのような気分であった。
薄目を開けてみても、周囲の様子はよく判らない。見知らぬ殺風景な部屋から病院かもしれないと思った程度であり、ただ明るい事だけが目から飛び込んでくる光で判っただけだ。
「気がついたみたいね」
聞き覚えのあるその声で、ようやくサジータは大きく両目を開けて起き上がろうとした。しかし身体は自分でも驚く程ゆっくりとしか動かない。サジータは無理矢理寝かしつけられる子供のように肩を押さえ込まれた。
そのサジータの肩を押さえ込んだ人物はラチェット・アルタイルという。
サジータ属する紐育屈指の劇場の関係者であり、同時に紐育華撃団の副司令官でもある才女。初めて会った時にはとても同じ年とは思えなかった程だ。
サジータがこうした「防衛部隊」に入る前からずっとその道で戦い続けてきたベテランの風格、とでも言うのだろう。そういう意味でも新次郎とは真逆の人物像である。
そのラチェットがまるで涙をこぼしそうな程に安堵した表情を浮かべている。自分はどうなったのか。ここはどこなのか。どうしてこうなったのか。口を開こうとするがうまくいかない。
「これから説明するから、黙って聞きなさい」
口調こそ昔話を始める親のように優しいものだったが、その雰囲気は有無を言わせない迫力すらあった。
サジータは起き上がるのも口を開くのも諦め、そのまま力を抜いて耳を傾ける。それを確認したラチェットは単刀直入に、
「あなたは『マクンバ』の直撃を受けたのよ。それも至近距離から。そしてこの病院に運ばれたの。それから一昼夜目を覚まさなかったわ。今はちょうどお昼を過ぎたところよ」
その一言で、サジータは全身の血が一気に引くような怖さを思い出していた。あれが六十余年前に全米を震撼させたヴードゥーのマクンバなのか、と。
確かにあんなものを普通の人間が受けたらただでは済むまい。そうした呪いに対抗する霊力を持った自分ですらこの有様なのだから。
しかしそんなものからよく助かったものだ。誰かが助けてくれたのだろうか。
「あなたの霊力が、マクンバの力を弾き返したのね。もっともその代償はご覧の通りだけれど」
言われてみるまでもなく。普段なら少し意識を集中すれば感じる「霊力」の流れをほとんど感じない。それほど霊的な意味で消耗してしまったのだろう。
でもこうして生きていれば、時間はかかっても回復してくれる。それが霊力という力だ。
「そしてもう一つ」
ラチェットはどこか言いにくそうにもったいぶったあと、
「実は黙っていたのだけれど。あなたのスーツには、シルスウス鋼の粉末をまぶした繊維が使われているのよ。それもマクンバを弾き返す手助けになったみたいね。もちろんあなたの霊力があったからこそだけど」
いつの間にそんな事を。怒鳴る元気があったなら真っ先にそうしているが、今のサジータにその気力はない。
それに、命が助かった要因の一つには違いないのである。感謝こそすれ文句を言う筋合いはない。
「意識が戻って早々で申し訳ないけれど、早速警察の事情聴取があるから覚悟しておいて」
そのラチェットの言葉に、サジータは「もう少し休ませろ」と本気で思った。
だが、こうした情報の記憶という物は時が経てばどんどんと曖昧になり、もしくは忘れていってしまう。警察からすれば記憶に強く残っているうちに聴取をしたいと思うのは当然だ。
「……判ったよ」
思った以上にか細い自分の声にサジータも苦笑せざるを得なかった。こんな声で聴取ができるのだろうか。
そんな不安を感じる間もなく病室のドアがノックされた。間髪入れずに入って来たのは例によってソルト警部だ。
「災難だったな。いや、マクンバに遭って生きてるんだから幸運だったと言うべきかな」
少々嫌みのように聞こえなくもないが、別に嫌がらせをしたい訳でない事くらい理解している。
あからさまにお義理の小さな花束をラチェットに渡した警部は、開けたままのドアの向こうへ「こっちに来い」と手招きする。すると現れたのはあの時一緒にいた見張りの警察官と、手錠がはめられたままのルネ司祭だった。
その人選にラチェットはもちろんサジータも驚く。ソルト警部は露骨に嫌そうな顔で、
「本当なら連れて来たくはなかったんだが、どうしてもって聞かなくてな」
相手に聞こえるような小声でサジータに言う。しかし司祭は嫌な顔一つせずにサジータを見つめている。
「まだ回復しきってないんだ。手短かにな」
口を開こうとした時に、ソルト警部が口を出した。司祭は「判っています」と言いたそうにうなづくと、
「まずはその幸運を喜びましょう。あなたが受けたマクンバは、おそらく数百人の命を殺める威力があったのですから」
それを聞いたサジータはもちろん、ラチェットすら顔が青ざめた。いくら莫大な霊力があっても、数百人分の呪いをたった一人で受けて生きているとは。これは確かに「幸運」だ。
それから司祭は改めてという雰囲気で静かな表情になると、
「では、単刀直入に訊ねさせて下さい。あなたを襲ったのは黒い服を着た骸骨ではありませんでしたか」
訊ねると言うよりは念を押して確認する。そんな口調だ。
という事は、ルネ司祭は正体を知っているのだろう。そもそもサジータが「マクンバにやられた」と断言したのは、十中八九彼だろうから。
「ああ。……黒い帽子に黒い服。青白い骸骨で、目のところから蛇が出てた」
耳をそばだてるようにサジータのか細い声を聞いていた司祭の表情が一変した。
物事の核心を得た。そしてそれに驚きを隠せない。サジータはそんな風に見てとった。
弱っているサジータが気づく程である。類稀な観察眼を持つラチェットも司祭の様子には気づいていた。
「随分趣味の悪い扮装だな。どこの魔術師だ」
一方さもつまらなそうな態度のソルト警部。それからぶつぶつと呟くように、
「その骸骨は仮面だろうな。黒い帽子に黒い服ではあまりにも手がかりに乏しいが」
その服に特徴があるならいざ知らず。それだけではさすがに犯人を探す手がかりにはなりそうもない。
だがルネ司祭の方は違った。自分の記憶の中から何かを引っ張り出すように、やや上を向いて静かに目を閉じている。
「黒い帽子。黒い服。青白い骸骨。……ゲデッでしょう」
『ゲデッ？』
一同の当然の疑問に、司祭は信じてもらえるか不安そうに警部をちらりと見てから話を続けた。
「ヴードゥーの儀式の際に呼ばれる神や聖霊を総称して『ロア』と呼ぶのですが、その中でも『生と死の仲介者』と呼ばれる、とても賢明なロアの事です」
司祭の説明によれば、そのゲデッは黒い山高帽と燕尾服を着た男の姿だとされているというのだ。
確かにサジータの目撃情報に合致する特徴を持っている。それに「生と死の仲介者」という二つ名からして、いかにも相手を死に追いやる「マクンバ」と関係がありそうな印象がある。
「ヴードゥー教の儀式でそのゲデッが呼び出され、彼女を襲ったと？」
ラチェットの問いに司祭は「おそらくは」と小さく答える。
そんなやりとりを聞いていたソルト警部だが、我慢の限界と言いたそうに強い口調で言った。
「……ではそろそろ、こっちの質問にも答えて欲しいのだがねぇ」＜参につづく＞