『暗殺! 12時32分 壱』
買い物の帰り。大河新次郎は建物の隙間の細い道に、誰かが倒れている事に気づいた。
ここ紐育は――彼の故郷・日本と比べれば――かなり治安が悪いと言っていい。ちょっと油断しているとスリや強盗に身ぐるみ剥がされる事など日常茶飯事だ。
日常茶飯事はオーバーとしても、そういう物騒な事を生業にしている人間が多い事は確かな町である。
(一体何があったんだろう。やっぱり強盗にでも遭ったのかな。血が出ている様子はないから、殺されたって事はさすがにないと思うけど)
そんな風にどこかおっかなびっくりで、そろそろと倒れている人影に近づいていく。
近づいてようやく判ったが、この人物は黒人だ。
その大半が、遥か昔アフリカ大陸から奴隷として連れてこられ、人権を無視した扱いをされ続けてきた者達の末裔である。
だがそれは過去の歴史。現在はアメリカ市民として認められている。
しかしアメリカ市民と認めているのは国家や法律であり、そこに住む人々ではない。世界中からあらゆる人種が集まる町と言っても過言ではない紐育だが、各民族・種族間の差別や細かい小競り合いが絶えた事はない。
この黒人の人物は、そんな「小競り合い」に巻き込まれたのだろうか。
ふと。その黒人の指がピクリと動いた。小さいうめき声を上げ、腕や足がぎくしゃくと動く。
どうやら生きていたらしい。新次郎はその事に素直に安堵すると、抱えたままの紙袋を地面に置き、
「だ、大丈夫ですか。しっかりして下さい!」
その声にようやく首が動き、ぎこちなく見上げてきたその顔は、どう見ても自分より数倍は年上の老人であった。
「大丈夫ですか、立てますか?」
そう言いながら新次郎は老人に手を貸し肩を貸し、壁に寄りかからせるようにして座らせてやる。それからハンカチで顔についた埃や血の痕を懸命に拭っていく。
そうして現れた顔は確かに老人のものであったが、皺も少なくみすぼらしい印象は全くない。着ている物もこざっぱりとした紺色の背広だ。今は薄汚れてしまっているが。
高貴な雰囲気は言い過ぎだが、明らかに身分の高さのような、凛とした高潔さが感じられた。
「……いや、誠に申し訳ない、若人(わこうど)。礼を言う」
その言い回しは少し訛りがきついものの、上流社会でも通用しそうな綺麗な英語である。そして、ややゆっくりだが聞き取りやすい落ち着いた声。
「この若人に加護と祝福あらん事を」
胸に手を当てぽつりと小さく洩れたその一言で、新次郎は彼を僧侶なのだろうと判断した。
そんな人間がこんな場所で暴行を受けている。その事実に、この紐育という町が抱える治安の悪さ、そして黒人に対する差別の根強さをひしひしと感じてもいた。
「えっと、ぼくはよく判らないんですが、お坊さんにこんな事をするなんて普通じゃないですよ。警察に言うべきです」
正義感を露にした鋭い表情で、まるで力一杯訴えるような口調の新次郎に、その老人はやんわりとたしなめるように答える。
「いや。その必要はないよ。わし自身は悪くなくとも、我々が悪い事に変わりはないのだ」
一種の謎かけのような言葉を呟き、のろのろと壁に手をつき立ち上げる老人。
「それなら弁護士を紹介しますよ。サジータ・ワインバーグっていう女性なんですけど、その人も黒人ですからきっと力になってくれます」
新次郎は自分が知っている唯一の弁護士の名を挙げた。しかし老人は年相応の達観した笑みを浮かべて、
「その他人を思いやる気持ちを、大事になさい、若人よ」
優しい笑顔でそう言い残し、よろよろと頼りなげな足取りでその場を歩き去る老人。新次郎はそんな老人の背を見送る事しかできなかった。
だから驚いたのだ。
翌日、顏写真入りの新聞記事で彼の逮捕を知った時には。


「サジータさん、この記事!」
『ワインバーグ法律事務所』。
紐育はハーレムにあるそんな法律事務所に、新聞片手に飛び込んだ新次郎。
そんな新次郎を見た女主人サジータ・ワインバーグ弁護士は、書類を書く手を休めると、
「今日はこっちの仕事があるから、シアターには行かないって昨日言っておいた筈だよね?」
サジータは黒人女性にして弁護士だが、紐育屈指の劇場の劇団員も務めている、変わった経歴の持ち主だ。
そんな彼女がどことなく冷たい雰囲気で彼を一瞥して仕事に戻ろうとする。しかしその眼前に突き出される新聞記事。サジータは「しょうがない」と幼子の駄々に付き合うようなため息を一つつくと、事務所の奥にあるキッチンを指差し、
「コーヒー、濃い目でよろしく。ミルク多めで」
と、体よく彼を追い払う。
新次郎は何か言いたそうにむくれていたが、サジータがその視線を無視してキッチンを指差し続けていると、不承不承という感じでのろのろとキッチンに向かっていった。
その間に机に置かれた新聞記事に目を通す。そこには黒人の老人ルネ・オウンガンが逮捕されたという記事があった。
それだけなら別に珍しくも何ともない。珍しかったのは、この老人がヴードゥー教の司祭であった事。そしてその司祭が人を「呪い殺した罪」で捕まったという事。この二点だ。
「はいサジータさん、コーヒーです」
彼女は差し出されたコーヒーを受け取ると、ほんの一口飲む。何となく気分がしゃきっとした気がした。
新次郎は適当な椅子に座ると、両手でコーヒーカップ(中身はホットミルクだが)を持ったまま、
「その新聞記事にある人、昨日誰かに暴行されてたのを見たんです。それで気になっちゃって……」
サジータから微妙に視線を逸らし、うつむき加減に元気なく口を開く新次郎。
確かに彼の真っ正直な性格からすると、自分が少しでも関わった人がこんな目に遭っては、心配するのも無理はない。
「なるほどねぇ……」
その記事を見たサジータは新次郎が泡喰って飛び込んできた理由を、おぼろげながら察した。
同時にどう説明したものか、とも。
しかし彼の顔に浮かんでいるのはその司祭が心配という表情だけではない。
「ひょっとして、ヴードゥー教ってトコロが、引っかかってるんじゃないか、坊や?」
実際の年齢は大差ないのに、外見的には年の離れた姉弟(人種は違うが)にしか見えないため、サジータはつい彼を子供扱いして「坊や」と呼んでしまう。
新次郎は無言でうつむいてサジータの発言を肯定する。子供扱いされるのを何より嫌っているのに、「坊や」にはいささかも反応を示さない。
彼女は「こりゃ本気かな」と言いたそうに背もたれに身を預けると、
「日本人の坊やじゃ無理もないけど、ヴードゥー教自体は別に怪しくも邪悪でもないんだよ」
さばさばした調子でそう言ってのけた。
新次郎達日本人、いや、大半の人間が「ヴードゥー教」と聞いて嫌悪感を浮かべてしまうのは、六十年以上も前にここアメリカで起きた「南北戦争」が原因だ。
戦争当時圧倒的不利に立たされていた南軍は、藁にもすがるような気持ちでヴードゥー教徒の協力を仰いだのだ。
ヴードゥー教には相手を呪い殺す「マクンバ」と呼ばれる呪法が存在する。その呪法の力を借りたのである。
すると瞬く間に戦況は一変。今度は北軍が陥落寸前にまで追い込まれてしまったのだ。その時の恐怖が今も根強く残っているのである。
しかし、それは悪い事ばかりをもたらしたのではない。
ある戦いの日。戦火に巻き込まれ、呪殺の餌食となってしまった村に生存者がいたのだ。それは、粗悪な蒸気トラクターの中に取り残されていた赤ん坊。
今度は北軍が藁にもすがる思いで同型のトラクターをかき集め、それに乗ってヴードゥー教徒へ突撃を敢行したのだ。しかも呪いの呪法が行われている真っただ中へ。
だがトラクターに乗る兵士が、その呪法で倒れる事はなかった。そこから北軍の逆襲が始まり、マクンバが効かなくなった南軍は連戦連敗。ついには北軍勝利で南北戦争は幕を閉じる。
後で判った事だが、トラクターに使われていた質の悪い鉛と鉄が炉の中で溶けて結晶化を起こしており、その結晶がマクンバの呪法を弾き返していたのだ。
その結晶を研究して生まれたのが呪法の力を弾く新素材・シルスウス鋼である。
やがてその呪法を弾くシルスウス鋼を纏う、蒸気トラクターが発展した人型兵器・霊子甲冑が誕生する。そして、その兵器を駆り人々を、そして都市を守る霊的防衛部隊が設立された。
その名も「紐育華撃団」。新次郎もサジータもその隊員であるという裏の顔を持っている。そのためか、こうした「霊的な事柄」に対しては敏感に反応を示してしまうのだ。
「いいかい坊や。ヴードゥー教ってのは、元々はアフリカに住んでいた黒人達土着の宗教の事。それがアメリカに持ち込まれて、先住民族とかキリスト教やその他のいろんな宗教なんかと結びついて生まれたものの一つさ。ヴードゥー教は中米のハイチって国になるね」
宗教論議は完全に専門外であるサジータだが、さすがに黒人同士のコミュニティーから大雑把な知識くらいは得ている。
「確かに『マクンバ』ばっかりが有名になったから、怖がるのも無理はないか。元々は死者の霊や神様を呼んで、願いを叶えてもらったり、病気を追い払ったりするだけなんだ」
「そうなんですか。宗教というよりもまるで魔術ですね」
サジータの説明を聞いて、新次郎もとりあえずは納得したようだ。まだまだどこかおっかなびっくりではあるが。
「そうだねぇ。その儀式の時に生きた鳥を捧げたりしてるの、見た覚えはあるから。確かに魔術っぽいかもね」
その言葉に思わずその光景を想像してしまう新次郎。さすがにそんな血なまぐさい「宗教」はごめん被りたい。そんな苦い顔をしている。
その苦い顔がおかしかったのだろう。サジータは興味本位で、
「日本の宗教は、そういう捧げものとかはやらないのかい?」
「日本の場合はお米とか魚とか。あとお酒なんかも神様に捧げますけど。さすがに鳥は……」
新次郎は日本の神社の境内に生きた鳥を捧げている様子を想像してみる。だが正直ピンと来なかった。
だがすぐに新聞記事を指差すと、
「で、でもこの人。記事だと『呪い殺した罪』で捕まったって」
心配そうに怯えた表情で訴える彼を見て、サジータも困った顔になると、
「そりゃあ噂にはなっているからね。一週間くらい前、紐育のヘンリー・ハーリマンって金持ちが謎の変死を遂げたって記事、あったろう?」
その話なら新次郎も新聞で見た。紐育でも名高い著名人で「鉄道王」の異名を持つ人物。
そんな大物が内側から鍵のかかった密室の中で死んでいたという事件である。それも白昼堂々。
外傷はなし。疾患もなし。凶器は当然なし。侵入・脱出経路いずれも不明。まるでよくできた定番ミステリーである。
余談だが、サジータもその変死を遂げる直前に彼に会っており、だらだらとされたくもない事情聴取をされている。それで劇場の方の用事に大遅刻をした嫌な記憶が蘇った。
その嫌な記憶を無理矢理胸の奥底に詰め込むと、
「ところが、だ。定年退職間近の警察官が覚えていたんだよ。南北戦争の頃に見た『マクンバ』による死に方とそっくりだったってね」
確かに呪いであれば外傷も凶器もなく人を殺せるかもしれない。
記事によると、この司祭は紐育にいるヴードゥー教徒達の指導者的立場にある人間という事だ。
そんな人物のいきなりの逮捕報道。いくら黒人に対する人種差別が根強く残るとはいってもこれはあまりに性急すぎる。犯人ではなくとも何かの意図をもっての逮捕なのかもしれない。
新次郎はそこで初めて、あの時彼が言っていた「自分自身は悪くなくとも、我々が悪い事に変わりはない」という言葉の意味を理解した。
彼は犯人を知っているのだろうか。それとも自分の宗教が悪用されている事に対する自戒の言葉なのか。それとも――
そこで部屋に響いたのは、蒸気電話の呼び出し音だった。けたたましく鳴り響く音に、新次郎の思考は中断する。
一方のサジータは説明疲れから解放されたとばかりに電話に飛びついた。しかし表面上は無表情を装い、
「はい。ワインバーグ法律事務所」
電話の内容は新次郎には判らないものの、会話が進むに連れてサジータの表情が苦虫を噛み潰したようになっていく。
「……判りました。これからそちらにお伺いします」
声にこそ出していないが、その表情は露骨に嫌そうに受話器を置く。よほど嫌な相手からだったのだろうか。
「……この厄病神が」
嫌そうな表情のままぼそっと呟くと、姿見に無造作にかけていたジャケットを羽織り、鏡を見ながら手で軽く髪を、そしてネクタイを整える。
「あたしはこれから仕事で出かけるから。新次郎はシアターに戻ってな」
「えっ、仕事って……?」
何か聞こうとする新次郎の言葉を遮るように、サジータは一瞬鋭い目つきになると、
「弁護士が仕事に関する内容を、他人にベラベラ喋ると思うのかい?」
言われてみればその通りと、新次郎は持って来た新聞を掴んでとぼとぼと出て行った。


サジータが向かったのは紐育市警だ。そこに先程の電話の主がいるためだ。
しかしそこには黒山の人だかり。見ると半分は新聞やラジヲの記者達。もう半分はおそらく紐育市民。それも黒人や中米・南米系を思わせる人物ばかりだ。彼ら彼女らが入口を取り囲むようにして騒いでいたのである。
(……嫌な予感がする)
人混みをかき分けていくのが面倒に思った彼女は、人気のない裏口に回った。表からも裏からも何度も来ているので、裏口で立ち番をしていた警察官とは顔見知り。完全に顔パスで通過する。
さてこれから電話の主のところへ向かおうとした時に、当の本人が仏頂面でやって来た。
「ようやくお出ましか、弁護士」
そんな乱暴な言葉で出迎えたのは、この市警のソルト警部だ。
別に彼自身は乱暴な人間ではない。陰で悪事を働いている人間でもない。真っ当な一刑事である。
単に「自分自身の手で」この紐育の町を守りたいという気持ちが強すぎるあまり、他人の手を借りるのが嫌なだけなのだ。それがサジータのような弁護士であっても。
それに加えても「弁護士」という呼びかけはないだろう。これは相当機嫌が悪いらしい。そのしかめ面が三十九歳という年齢が信じられないほど老けた印象に拍車をかけている。入口の人だかりがその原因だろうか。
(来やがったな厄病神が)
それでもサジータは軽い営業スマイルを浮かべて右手を差し出すと、
「容疑者が私を指名してきたそうですが?」
「ああ。どんな容疑者であれ、黙秘する権利と弁護士を呼ぶ権利は法律で保証されているからな。警察自ら法を破るような真似はできん」
一応、という感じで軽く握手を交わすと、ソルト警部は淡々と無感情にそう言った。
(何か本当ならやりたくないって感じだね)
その無感情な表情からサジータは何となくそう思った。
「では、早速ですが会わせて下さい。それが私の仕事ですから」
そんな考えをおくびにも出さずにそう言うと、警部は無言で「ついて来い」と促してさっさと歩き出した。
その道すがら、サジータは警部に声をかける。
「しかし、その容疑者というのはどんな人物なのですか? とにかく来いの一点張りで、名前も教えてもらえないのではさすがに」
「色々聞きたい事はあるんだが、向こうが『サジータという黒人の弁護士を』の一点張りでね。『黒人の』の部分を強調してるように聞こえたのは、こっちが黒人じゃないからかな」
サジータの発言を遮るような警部の言葉。確かに警部はどう見ても黒人ではない。だがそれは被害妄想が過ぎるだろう。
「という事は、相手は黒人なんですか?」
「そうだ。手間ばっかりかかるようになったなぁ」
かつて奴隷の身分だった黒人を蔑み見下す態度をとる人間はまだまだ多い。法が市民と認めていても、そこに住む人々が認めているとは限らない事を痛感させられる黒人のサジータである。
聞きようによっては警察官にあるまじき発言ではあるが、「手間ばっかりかかる」の部分に引っかかる物を感じた彼女がその事を指摘すると、
「今朝の新聞読んだか?」
そう前置きして彼は話を続ける。
「ヴードゥー教のマクンバに『極めてよく似た』殺され方をしていた事件があっただろう。それで話を聞きたかったのと、市民が誤解から暴動を起こして殺害、なんて事態を避けたかったから、あえて逮捕という形を取ったんだが……」
そこまで聞いて、サジータの歩みが一瞬止まった。
「それはひょっとして……」
「ああ。この紐育のヴードゥー教徒達の指導者的立場にある人間だ。本人は『ルネ・オウンガン』と名乗ってるが、本名はルネ・ガルシア・ベルリーヴ」
警部の言葉にサジータはすかさず、
「オウンガンというのは、英語でいえば『プリースト』に当たる言葉です。以前聞いた事があります」
その解説に警部が一瞬歩みを止めて「そうなのか」と言いたそうな顔を作る。彼女はさらに畳みかける。
「しかしそれなら、何故新聞に『呪い殺した罪で逮捕』なんて書かせたんですか。それでは逆に、暴動を起こしてくれと言わんばかりでしょう?」
入口にたくさんの記者達や黒人・中南米系の人種が警察署の前にいた理由がようやく理解できた。
すると警部は「こっちも困っている」と言いたそうな顔になると、
「全部の新聞がそう書いている訳ではない。書いているのは黒人の存在を疎んじている方向性の新聞社だけだ」
事実を人々に伝えるのが新聞の役割だが、そのやり方は新聞社に一任されている。良く言えばそれが新聞社の「個性」であるが、裏返せば印象操作そのものである。
嘘や誇張をそれと見抜ける「頭の良さ」がないと、こうした新聞を読む事すら難しい世の中なのか。サジータはため息をつく他なかった。
もちろんため息をついた理由はもう一つある。そのルネという人物が自分を指名したのは、十中八九新次郎との出会いが原因と踏んだからだ。
トラブル・イズ・マイ・ビジネス。そんな言葉があるが、それはあくまで「他人の」トラブルである。自分のトラブルは仕事になりはしない。
(やっぱり厄病神だ、あいつも)
怒りのやり場のない心境に、サジータの方もソルト警部同様の仏頂面になってしまった。


「この部屋だ」
やがて一つのドアの前に立ったソルト警部は、数回ドアをノックすると、中からの返事を待たずにドアを開けた。それから顎をしゃくるようにしてサジータに「入れ」と命じる。
サジータがゆっくりと狭い部屋に入ると、見張りらしい警察官と、見た事がない黒人が一人座っていた。
自分の数倍は年を経た老人だ。しかし顔に皺は少なく背はしゃんとしており、こざっぱりとした灰色のスーツを隙なく着こなしているところから少々若く見える。両腕には手錠がはめられているが。
こんな状況にもかかわらず、どこか達観した落ち着きを感じている。指導者的立場の司祭だそうだから、あまり人前で取り乱す事はしないようにしているのかもしれない。
本来なら頑丈な柵の向こうでこうした容疑者とやりとりをするものだが、形式だけの逮捕というのは本当らしい。司祭とサジータの間にあるのは、安っぽい机一つだけだ。
サジータは黙って自分も空いている椅子に座ると、彼を真正面から見据えるようにして、
「初めまして。サジータ・ワインバーグと申します」
「ルネと申します」
すると彼の方もサジータを――そしてその瞳をすっと見つめてくる。突き刺さるような嫌な感じは全くないものの、自分の頭や心の中まで見通してくるような、そんな視線だった。
しかしサジータはそんな視線に負けずに、
「私がやるべき事は、あなたを犯罪者にする事でも、無罪にする事でもありません。あなたの立場を正確にする事です」
弁護人はあくまでも「弁護」が仕事である。
弁護という言葉の意味は『その人の利益になるように主張して助けること。また、その人に代わって事情をよく説明してかばうこと』であるが、弁護人がいくら言ったところで、犯罪者か否かを決めるのは裁判官や陪審員だ。弁護士ではない。
だからこそ、弁護士は依頼人の現状や立場を正確に把握しなければならない。その上で裁判官に主張するのが仕事である。
「その為には、あなたの事を正確に知る必要があります。今後何日かにわたっていくつもの質問をする事になると思います。それには正直にお答え頂きたいのです。お答え頂いた内容は全て法廷での証拠として扱われます。無論、自分に不利な発言になると判断した場合、黙秘する権利もあります」
一応型通りの説明を続けるサジータ。いちいち仕事を始める度に言うのは正直疲れるのだが、ここアメリカはちょっとした事で訴えられる可能性がある国だ。
「言ってなかったから」。「聞いてなかったから」。そんな理由で始めてしまう裁判の、何と多い事か。
だからたとえ面倒でも、始めに言っておかねばならないのだ。
そんな彼女の説明を、ルネ司祭は黙って聞いていた。一通り説明が終わったところで司祭は、
「なるほど。確かにあなたなら力になって頂けそうですな。答えられる事は全てお話致しましょう」
落ち着いた静かな声でそう答える司祭の言葉に、サジータは一瞬表情を緩めていた。

<弐につづく>


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