『九月十三夜の劇場 中編』
日本酒は他の酒と比べると結構高価だ。それは、太正時代においても変わらない。
ビールの大瓶が一本五十銭くらい。焼酎が一升八十銭くらいなのに対し、日本酒になると、安いものでも一升一円はした。
もちろん品質でかなりの差は出るが、高いものになると一升で三円以上はする。
舶来物の洋酒も数は少ないが一応売られている(これらよりも桁外れに高価だが)。そういった酒はさすがの米田もほとんど口をつけない。
それでも、単純に安い日本酒だけを飲んでいたと考えても、すでに三十本以上は飲んでいる計算になる。
米田自身酒はかなり強く、一見酔っているように見えて、実はそれほど酔っていない。
いくら酒が好きで、酒に飲まれない酒飲みといっても、これはどう考えても飲み過ぎと言うしかないだろう。
金銭的な問題もあるが、それ以上に健康面の問題の方が大きい。
「支配人! いくら何でも三十九円は度を越えてますよ!」
大神は、ようやく事の重大さに気がついたかのように血相変えて怒鳴る。三十九円ともなれば、自分の給料に迫る額だからだ。
米田はうっとうしそうというか、ばつが悪そうな顔というか、何とも表現に困るといった風情で、
「そうは言うがよぉ。自分の身体は自分が一番判って……」
「お言葉ですが支配人。判ってない人ほど、そう言うんですよ」
椿が心配そうな顔でも、しっかりと言い切る。
「うちの近所にも、支配人みたいに朝から晩までお酒を飲んでたおじいさんがいたんですが、お酒の飲み過ぎで肝臓の病気になったって言ってましたし」
しっかり言い切った上に、実例まで持ち出した。
「椿。そもそも『酒は百薬の長』と言ってだな……」
「だからといって、沢山飲むのはかえって身体によくありません」
見苦しく言い訳しようとするのを遮って、かすみも椿に負けじと――幾分穏やかに――言った。
三者三様に責められると思っていなかった米田は、椅子に座ったまま少し引いてしまう。
「いくら俺だって、どのくらい飲めば酔うかは判ってらぁ。少しくらい好きな酒を飲ませてくれたって……」
「一ヶ月で三十九円は『少し』とは言いませんよ!」
椿が強く言う。さすがの米田も、自分の孫ほどの年の彼女に言われては言葉に詰まる。
「それにしても、それだけのお金がどこから出てくるんですか?」
椿がもっともと言える疑問を口にする。
三十九円と言えば、当時の公務員の初任給の約半分。結構な額である。
実は、海軍少尉である大神の給料より、公務員の給料の方が高かったりする。
命懸けの職務になる軍人の方が高給のように思えるが、実際は違う。
士官でも、位の低いうちは給料は安く、危険手当を含めて初めてようやく彼等と同じくらいの給料になるのだ。
それに比べれば現役陸軍中将の給料は高い。しかし、三十九円というのがはした金に感じるほどの高給という訳では決してない。
「もしかして、帝劇のお金に手をつけてるんじゃないでしょうね?」
「バカ野郎! いくら何でも、そこまでするほど落ちぶれちゃいねぇ!!」
ぽろっと口にした大神の疑問に、間髪入れずに米田の雷が落ちる。
「買ってきてもらう事もあるが、全部自分の金だ! 文句あるか!!」
「いっ、いえ、ありません!!」
その雷に打たれた大神はその場に直立不動になり、ぴんと背筋を伸ばす。
「判りゃいいんだ、判りゃ」
立ち上がりかけた身体を再び椅子に戻し、背もたれに身を預ける。それから米田はかすみと椿の方を向くと、うって変わった落ち着きのある調子で、
「……で、お前達の『お話し』ってのは、一体何なんでぇ?」
「あ……」
すっかり話が脱線してしまっていた事にようやく気づいたかすみは、軽く咳払いをして気を取り直すと、
「別に支配人の楽しみを止めろという気はありませんけど、やっぱり公私の区別はしっかりして戴きたいんです」
その間椿は床に落ちた領収書を拾い集め、再び机に乗せる。
「公私の区別って?」
話が今一つ見えていない大神が間抜けな声を出す。
「だって、どう考えても自分の買い物なのに『大帝國劇場様』で領収書を切ってもらう人、多いんですよ」
椿が少し口を尖らせる。
「劇場で使うものならまだしも、明らかに私物の買い物で、それを何度もやられると困るんです」
「なるほど……」
椿の言葉に大神も納得する。
大神も、たまにみんなの軽食や事務用品を買いに行かされる時がある。
行く店は馴染みの店なので、大神が大帝國劇場の人間である事は、店の人間も知っている。
こちらが何も言わなくても、店の方で「大帝國劇場様」と書いた領収書を出してくれるのだ。
その影響だろうか。私用でその店に買いに行っても、何も言わなくても「大帝國劇場様」という領収書が出てくる時がある。
「安月給で大変だろう。これ持って劇場の経理に行けば、必要経費として落としてくれるから」
店の主人はにこやかにそう言ってくれた。
自分の安月給への心配はともかく、確かに犯罪行為とは言えないだけに強くも言えない。
しかし、それも量が多いと確かにまずい。
「そうだな。何から何までって訳にはいかないよな」
うんうんと大神も納得する。三人の話を聞いていた米田も、
「言いたい事は判った。俺の酒代は経費で落ちないから、ちゃんと払えと」
「それはそうなんですけど……」
机の引き出しをガサガサとあさる米田を見ながら、ちょっと困った顔でかすみが返答する。
「何してるんですか、支配人?」
「いや、金払えってんなら、とっとと払っちまいたいんだが……」
引き出しをガサガサとやりながら、彼は続ける。
「何せ、この世でもっとも恐ろしいのは、金と色恋の恨みだ。覚えがあるだろ?」
引き出しをあさる手を止め、彼は大神の方をじーっと見つめる。その視線に気づいた大神は、
「ど、どうして俺の方を見るんですか?」
大神が引きつった顔で少し後ずさる。その様子を見た米田は豪快に笑うと、
「まぁ、そのうち判るだろう。かすみ。さすがに手元に三十九円はねえ。あとで構わねえか?」
「きちんと払って戴けるのであれば構いませんが」
その返答を聞いて、米田は嬉々として部屋の隅の棚に向かう。その中には貰った酒瓶が並んでいるのだ。
「支配人!」
米田を除く三人の制止の声が綺麗に重なる。
「おいおい。今夜はせっかくの十三夜の月見だ。野暮は言いっこなしに頼むぜ」
三人をばつの悪そうな顔で見返す米田。
まるでいたずらをとがめられた子供のようにも見える彼に、椿があきれ顔で言う。
「でも、飲み過ぎはホントによくないですよ」
「そうですよ。晩酌程度ならともかく、日の高いうちからというのは……」
かすみも椿の言葉を受けて意見する。
柔和に見えても、しめる時はびしっとしめる。このくらいでないと、帝劇職員は勤まらない、という事か。
「……この辺に『お酒は控える』って貼り紙貼っておきましょうか?」
椿が棚の上を指差す。
「あら。それいいわね」
「おいおい。ちょっと待てお前達」
何か言おうとしている米田を無視して、椿の考えにかすみが乗った。
「そうだ。いっその事お茶に切り替えてもらうというのはどうでしょう、かすみさん?」
「そうね、椿。お茶の方が安いから、経済的にも助かるものね」
「待てと言ってるだろう?」
女二人で盛り上がるところに米田が口を挟むが、まるで聞いていないようだ。
「では大神さん。事務局へ行って半紙とか取ってきてもらえますか?」
「え? お、俺が行くんですか?」
いきなりかすみに話を振られた大神が、きょとんとした顔で自分を指差す。
「大神さんだって、支配人のお酒に付き合わされて困ってるって、前に言ってたじゃないですか」
椿は、以前大神がそう漏らした言葉を覚えていたようだ。
「それに、大神さん今日の伝票整理、手伝ってくれなかったですし」
「いいっ!?」
何の前触れもなく、いきなりそう言われた大神の表情が凍りつく。
別に今日手伝うという約束はしていなかったが、事務が忙しい時は大神も手伝うのが習慣であった。
「い、いや、それは関係ないだろう? それに、今日は支配人につき合わされて……」
「それじゃあ、二人で昼間からお酒を?」
「お酒飲んでたんですか?」
かすみと椿の二人に詰め寄られ、言葉に詰まりたじたじになる大神。こうなると、海軍兵学校で学んだ事など何一つ役に立たない。
「わ、判った。取ってくるよ」
これ以上いたら何をされるか判らん、とばかりに部屋を出ようとした時、支配人室のドアがノックされた。直後ドアが開き、入ってきたのは藤枝かえでだ。
帝國華撃団の副司令であり、表向きは大帝國劇場の副支配人という事になっている。
「あら、みんなで支配人に用事?」
かえでは部屋の中にいた一行を見回して、少し首をかしげた。
「今日はみんなでお月見するんでしょう? 月見団子作ってきたんです」
風呂敷包みを持ち上げてみんなに見せた。それから米田に向かって、別の細長く重そうな風呂敷包みを見せ、
「それから、自宅の近所の酒屋さんが、このお酒を支配人に、と。領収書も貰っておきましたので、ご心配なく」
その形は、明らかに一升瓶だった。それを見た大神達がガックリとうなだれる。それを見たかえでの方が不思議そうに、
「あら。一体どうしたの、みんな?」
「いえ……何でもないんです、かえでさん」
どこからともなくやってきた脱力感に支配されつつも、そう答える大神。
米田の方は嬉々として、
「そうか。あとで礼状の一つも出さんといかんな」
そこでようやく灘の地酒の事を思い出した。
「そうだ。かすみ、椿。酒屋から灘の地酒が届いてなかったか? 今日届く手筈になってるんだが」
かすみと椿は観念したため息をつき、
「はい。先程受け取ってます。領収書つきで」
それを聞いた米田は元気よく立ち上がり、
「そうか。それを早く言え。置いてあるのは事務局か? 取りに行くぞ」
ほろ酔いとは思えない程素早く、米田は事務局へ向かった。
まるで、欲しいおもちゃを買ってもらった子供のようにうきうきとした足取りだ。
「これで月見に華が添えられるってモンだ。やっぱりいい月夜にはいい酒が似合うぜ」
大神達は、領収書の束を抱えて、彼の後をのろのろと着いていくしかなかった。


支配人室と事務局は、間に応接室があるだけでほとんど隣同士だ。その距離は近い。
意気揚々と事務局に入った米田は、入口のところでピタリと立ち止まっていた。
「あの……支配人?」
立ち止まったままの彼を不思議に思ったかすみが口を開く。
「なぁ……かすみ、椿」
いきなり名前を呼ばれた二人は何事かと思い事務局に入ろうとする。
「その酒ってヤツは……どこにあるんだ?」
「どこって……机の上に乗ってません?」
椿が彼の後ろから指を差す。しかし、その指の先には――
何もなかった。
一升瓶はおろか、徳利一つ見当たらない。
「え!?」
かすみと椿は米田を押し退けて事務局に入る。
「椿。確かにここに置いたわよね?」
「はい。確かにここに置いて……それで、あたしとかすみさんは、二人で伝票整理の続きをしてたんですから」
「じゃあ、どうしてないのよ」
「あたしに言われても判りませんよ〜」
椿がべそをかきながらあちこち探す。
しかし、それらしいものは影も形もなかった。
「まさか、勘違いって事はないよね?」
事務局に入ってきた大神が、二人に尋ねる。かすみは領収書の束の中から一枚抜き出して大神に見せた。
「これが、その時に貰った領収書ですよ」
それを見ると、確かに今日の日付になっているし、帝劇の近所にある酒屋の物に間違いはなかった。
ついでに言えば、名前の欄には「大帝國劇場様」と書かれてあったので、大神は少しだけため息をついた。
「ひょっとして……俺に酒を飲ませまいとして、一芝居打ってるなんてこたぁねえだろうな?」
米田が周囲を見回しながらそう言うが、かすみも椿も勢いよく首を横に振る。
「待ってみんな。状況を整理してみましょう」
黙って見ていたかえでが凛とした顔でそう宣言した。


かえでが指示したのは、その時の状況を劇のように再現する事だった。
かすみと椿はその時の位置につき、酒屋のご用聞き役は大神がつとめた。
酒屋のご用聞きがやってきて、一升瓶を椿に手渡し、去っていく。
それを机の上に置いて、二人はお茶で一服。この時かすみはおにぎりも食べている。
一服した後、二人は伝票整理を再開。基本的に椿が各種伝票の選り分け。かすみの方がそれを元に記帳するといった具合だ。
そして、たまった米田の酒代の領収書を持って、二人で事務局を出て、隣も同然の支配人室へ入っていった。
それからここに戻ってくるまでの間、この事務局は完全に無人になる。
そこまで再現が済むと、かえでは、
「なるほど……。私がここを通った時には、お酒の瓶は見かけなかったし……。ところで、二人が事務局を空けていたのは、どのくらいになるのかしら?」
かすみと椿は少しの間首をかしげて考えていたが、
「多分……五、六分だと思います」
その五、六分の間に、一升瓶がなくなってしまった訳だ。しかし、実際にはその前にかえでが事務局の前を通った時にない事を確認しているから、もっと短い時間の間になくなった事になる。
「事務局を無人にしたのが最大の失敗ね。確かに今日は公演はないけれど……。誰か人がきていた可能性もあるし……」
かえでは一応現金などがしまわれた、小さな金庫を確認するよう命じる。他にもなくなった物があるかどうかを確認するためだ。
しかし、現金類には全く異常はなく、なくなっていたのは一升瓶だけという事を再確認したのみだった。
「どうかしたんですか?」
男の声がして振り向いてみれば、そこに立っていたのは加山雄一だった。
彼は大神とは海軍兵学校時代の同期で、なおかつ帝國華撃団の関係者である。情報収集を任務とする部隊・月組の部隊長だ。
そんな彼が、トレードマークとも言える白いスーツではなく、赤いシャツの上から「大帝國劇場」の文字が染め抜かれた前掛けをして入口に突っ立っている。
「どうしたんだ、加山、その格好は?」
いきなり現れた親友の格好の訳を大神が尋ねると、
「実はだな、大神。臨時雇い扱いで食堂で働かせてもらっているんだ。今、金がなくてな」
この帝劇には、下手な食堂顔負けの大食堂があり、公演のない日でも一般に開放されている。
銀座のど真ん中で美味しい食事が味わえるとあって、食事時ともなればあっという間に人で溢れる。それゆえに人手も必要になる。
「ああ、加山君、ちょうどよかったわ。この事務局に誰か怪しい人がこなかったかしら?」
「怪しい人って……。何かあったんですか?」
そこで加山は、事務局であった一升瓶の顛末を聞いた。
「確かに食堂を通って事務局へ行く事は可能ですが……自分の知る限り、そういった人物はおりません」
食堂から事務局へ逝くには厨房の脇を経由しなければならないので、たいがい誰かの目に止まるだろう。誰にも見られずにというのは少々無理がある。
もちろん、事務局に一番近い来賓用玄関からならば、人目につかずに事務局へ入る事も可能なのだ。
しかし、そこから入って一升瓶だけを盗んで行ったというのは、いくら何でも不自然すぎる。
「判るのは、物取りの犯行ではないという事ですね」
「そうだな」
事務局を見回した加山が、当然のごとく言う。米田も同意見らしい。
「どういう事です?」
かすみが加山に尋ねると、
「もし仮に物取りの犯行だったとしましょう。そうすれば、事務局はもっと荒らされて、現金などが持ち去られている筈です」
その後を続けるように米田が説明する。
「日中の、いつ人が戻ってくるかも判らねえ状態じゃあ、時間かけて探索ってな不可能だ。見つかる危険が遥かに高いしな。始めっから現金のしまう場所が判ってんならともかく、そうでなけりゃ、夜にみんなが寝静まってから盗みに入るだろ」
少々べらんめえ口調になってはいるが、理論整然とした物言いに説得力を感じる一同。
「だが現に……現金なんかにゃ目もくれずって感じで、一升瓶だけが消えてる。そいつがなぜだか判らねえ」
米田も事務局内をあちこちを見回している。その顔はつい今まで酒を飲んでいた飲んだくれではない。「軍神」と奉られる策略家の現役帝國陸軍中将・米田一基だ。
「そうだ。帝劇の誰かが持って行ったって事は、ありませんか?」
椿があり得そうな仮説を口にするが、加山が否定した。
「その可能性はあり得るでしょうが、黙って持って行くかどうかは……」
帝劇にいるのは彼等だけではない。食堂で働く人だっている。今日は、舞台のセットの修理のため、専門の職人も出入りしている。
だが、黙って持って行くような人間は一人もいない筈だ。この劇場内に酒をたしなむ人間はいるが、そこまでするような人間はいない。
捜査は完全に行き詰まってしまっていた。

<後編につづく>


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