『九月十三夜の劇場 前編』
藤井かすみは、いつものように大帝國劇場の事務局で伝票整理に勤しんでいた。
ここ大帝國劇場――通称帝劇は、この帝都東京でも有数の大劇場である。
そこで演じられる帝國歌劇団・花組の舞台は、古典芸能から西洋オペラ、果てはコントまでと実に幅が広い。
そのため舞台で必要な小道具大道具から、場合によっては花組の団員が買った物の領収書まで数限りなく舞い込んできて、まさにてんてこ舞いなのである。
それらを月毎にまとめ、記帳し、しっかりと保管・管理しておく。
それは劇場に限らず、どこの会社でも重要な仕事である。
ふと顔を上げて時計を見ると、午後の二時を回ったところだった。
「……一息入れようかしら」
誰に言うでもなくそう呟いたかすみは、ずっと同じ姿勢だったために硬くなってしまった首をゆっくりと回し、肩を叩く。
「かすみさん。一服しませんか?」
そう言いながら事務局に入ってきたのは、売店で売り子を担当する高村椿だった。手には湯気を吐くやかんとおにぎりの乗った皿を持っている。
「お昼ご飯もほとんど食べないで、ずっと一人で伝票整理していましたからね、かすみさん」
椿はやかんと皿を机に置き、棚に入った湯飲みやきゅうすをテキパキと出していく。
「言っても仕方ないんだけど、何でこんなに多いのかしらね」
かすみは事務机に肘をついて、伝票を眺めている。そんなかすみを見た椿は、
「かすみさんらしくありませんね、そういう風に愚痴を言うなんて」
落ち着いた物腰で、事務局では自然とまとめ役になる彼女らしからぬ仕種ではある。
「そうは言っても、この量を一人でやっていたら、愚痴の一つも言いたくなるわよ」
かすみの机には、まだ未整理の伝票や領収書が山のようになっている。
「あ、そう言えば今日は由里さんはお休みでしたね」
いつもは帝劇の受付を担当している榊原由里と共にこういった作業をするのだが、今日は彼女は休暇をとっているのだった。
そういう時は、花組のメンバーの誰かが手伝ってくれる事もあるのだが、今日に限っては皆忙しく、夕方にならないと帰ってこない。
「まったく『猫の手も借りたい』っていうのは、こういう時に言うんじゃないかしら」
「そうかもしれませんね」
そういう椿も、さっきまで一人で売店の掃除と売り物の整理整頓をしていたのだから、彼女の気持ちはよく判る。
「ご免下さい」
そんな時、事務局にひょっこりとやってきた人物がいた。
「あ、はい」
入口に近かった椿が応対に出る。やってきたのは帝劇の近所の酒屋のご用聞きだった。
「何か注文しましたっけ?」
何か酒屋に注文した覚えはないし、そういう話も聞いていない。
「つ、つ、椿ちゃん!?」
椿を見た途端、彼はその場に硬直している。
だが、自分が何のためにやってきたのかを思い出し、ぎくしゃくと一升瓶を差し出した。
「こ、こ、これ……支配人さんに」
それは兵庫県は灘の地酒だった。椿はそれを受け取る。渡した時に一瞬彼女の手に触れ、それだけで彼の頬が染まった。
大帝國劇場支配人である米田一基は、無類の酒好きで知られている。昼間からでもちびちびと酒を飲んでいる姿は、帝劇の人間はもとより、ここに馴染みの人間であれば誰でも知っている事だ。
「支配人が頼んだんですか?」
「は、はい。今度うちの店で、扱う事に、したんで、それを言ったら……『俺んトコに持ってこい』って、例の調子で」
ご用聞きのうつむきかげんの顔がどんどん赤くなっていく。それに比例して声もうわずっていく。
「判りました。ご苦労様です」
売店での応対で見せる、飾らないが可愛い笑顔を返す。その笑顔にご用聞きの顔は塗料を塗ったように赤くなる。
「そ、それじゃ」
うわずった声のままくるりと後ろを向いて、そのまま帰ろうとする。
「あ。ところで、代金は……」
事務局を出た椿に後ろから声をかけられ、彼はそれだけでびくんと硬直して棒立ちになる。
ご用聞きは慌てて振り向くと、バタバタとした様子で前かけのポケットから手書きの領収書を出して、椿に手渡す。
「す、す、すでに、支配人さんから、貰ってます。これ、領収書です。毎度どうも〜」
そう言って、うつむいたまま足早にその場を去っていった。
右手と右足を同時に出して歩き、来賓用の出入口の段差でけつまづいて転び、椿が手を貸そうとするより早く立ち上がって、自転車にまたがった。
「……やっぱり、慌てん坊な人なんだなぁ」
椿はぽかんとしてその一連の行動を見ていたが、一人でそう納得すると事務局に戻る。
「あの人……いつもあんな感じですね」
あんなに慌てん坊で、よくご用聞きが勤まるな、と首をかしげる椿を見て、
「そんな事ないわよ」
かすみが窓の外を見ている。視線の先には先程のご用聞きが心ここに非ずといった雰囲気のまま、自転車を止めて指先を見つめていた。
その恍惚とした顔には「椿ちゃんと直に会えた♪」と書いてあるも同然だ。
「あたしはあんまり事務局にいないから、驚いてたんですね」
椿が手をぱちんと叩いてうなづいている。
「……絶対、違うと思うけど」
彼女は少しばかり冷めた目で椿に言った。
椿はそんな視線に気づいた様子もなく、持っていた一升瓶を机の上に置くと、
「支配人にも困ったものですね」
「そうね。少しくらい控えてくれても……」
かすみは椿からその領収書を受け取り、何気なく未整理の伝票の山を見た。
「でも、この領収書の山が、全部支配人のお酒代だったら怖いですよね」
椿が冗談ぽくそう言うと、かすみは苦笑いを浮かべて、
「いくら支配人でも、そこまでは飲めないわよ。確かに多いけど」
かすみは椿からお茶の入った湯飲みを受け取り、一口すすると、
「私達は、お茶で充分」
済ました顔でしみじみと呟いた。


その頃、当の米田一基は、帝劇の屋根の平らな部分に登って、そこにあぐらをかいて座っていた。
傍らには一升徳利とぐい飲みがひとそろい。美しく晴れ渡った空を少々眩しそうに眺めると、ぐい飲みの酒を一気にあおった。
その姿は心底酒を愛する初老の男、といった風情が漂っている。
初老に見えても、実際には既に還暦を迎えている。だが、その背筋はしゃきっとしており、皺もそれほど多くはない。動作もかくしゃくとしているので十は若く見られる。
しかし、しまりのない顔でしみじみと酒を飲む彼の正体は、剣一本で軍隊に入り、日清・日露戦争で数々の武勲を立てた「軍神」と奉られる策略家の帝國陸軍の現役中将なのだが、とてもそうは見えないだろう。
そんな米田は喉を鳴らして酒を胃の腑に落とすと、
「……かーっ、うめぇ。お天道さんの下で飲むってのも、悪かぁねぇな」
これ以上ないくらい幸せそうに味わうと、傍らにぐい飲みを置いてしみじみと息をつく。
そんなささやかな幸せに包まれている赤ら顔の彼を、困った顔で見ている青年が一人。
この劇場でモギリを勤める青年・大神一郎である。
「支配人。もうお年なんですから、程々になさっては……」
「まだまだ若いモンにゃ負けん」
米田はじろりと大神を睨みつけると、小声で呟く。
「ったく、このところ小言ばっかり多くなりやがって」
大神はもちろんだが、花組の面々からもよく言われるようになった。
自分の身を案じての事とは判っていても、全員から揃って言われると、さすがにうっとうしく感じる。
「年寄りの数少ない楽しみを、邪魔してくれるな、大神よ」
「お年と実感しているなら、控えて下さいよ」
一本取られたとばかりに一瞬言葉に詰まる米田だが、すぐにいつもの調子で、
「バカ野郎。こうしてじっくりと美味い酒が飲めるってのは、世の中が平和だって証拠よぉ。野暮な事言ってんじゃねぇ」
心配そうに米田を見つめる大神に、ぴしゃりと言い返す。
「そんな調子で飲んでいたら、今夜の月見の分がなくなりますよ。あんなに楽しみにしてたじゃないですか」
太陰暦八月十五日に出る月を「十五夜」もしくは「仲秋の名月」という。
月の見える所にすすきを飾り、月見団子、里芋、枝豆などを盛り、お神酒を供えて宴会をする風習だ。
その約一ヶ月後の今日。太陰暦九月十三日の月夜を「十三夜」といい、この夜の月も美しいとして、昔から人々に愛されている。
特に今年の十五夜は曇りがちで月がよく見えなかったために、米田は今日の月見を楽しみにしていたのだ。
米田は彼の言葉をさらりと聞き流して、徳利の酒をぐい飲みに注ぐ。
「心配ねぇよ。今日あたり酒が届く事になってる。そいつで一杯……ととと」
こぼれるギリギリまで注いだ酒をこぼさないように口まで運び、口先でずずっとすする。
「しかも、灘の地酒だ。お味の方も格別に違いねぇ」
そう言って再び酒を一気に流し込む。
灘といえば日本有数の酒の産地である。
いい水いい米いい杜氏(とうじ)。美味い酒を作るにはそれらが絶対に欠かせない。灘はそれらが揃っている土地の一つだ。
米田はまだ見ぬ酒に思いを馳せつつ、大神にぐい飲みを突き出した。
「は、な、何でしょうか?」
ぐい飲みをきょとんとした顔で見下ろす大神に、米田はため息混じりに顔をしかめると、
「察しの悪い野郎だな。一から十まで言われなきゃ判らねえのか?」
そう言われた大神はようやく気づき、徳利を持って彼のぐい飲みに酒を注ぐ。
「しかしまぁ……何だな」
米田は酒の注がれたぐい飲みをじっと見つめてぽつりと呟く。
「こうしてのんびりと酒が飲めるのも、おめえ達が命を張って頑張ってくれてる証拠だ」
「な、何を急に」
どこか悲しそうにしんみりとした顔で、米田は続けた。
「軍神鬼神と奉りたててくれてもな。俺は所詮軍人だ。人を殺してナンボの商売よ。違うか?」
「その通り……だと思います」
大神はうつむいて、あえて無表情な顔を作って答えた。
大神も米田のこれまでの武勇伝は、覚え切れないほど聞いている。そのどれもがこの国のためを思っての事ではあるが、どんな理由があれ、人が殺しあうのが戦争であり、その戦争で戦うのが軍人だ。
大神も、今はモギリとして帝劇にいるが、本来は海軍の人間だ。
この帝劇の真の姿は、帝都を悪の手から霊力によって守る極秘部隊「帝國華撃団」。
大神はそこの実動部隊・花組の部隊長であり、米田は頂点に位置する総司令官だ。
「それが今じゃ、年若いおめえ達を戦場にほっぽり出して、椅子に座ってふんぞり返っているだけのダメ軍人さ」
「そんな事ないです!」
反射的に大神は叫んでいた。真摯な瞳で米田を見つめると落ち着いた声で、
「そんな事ないです、司令。確かに戦場で戦っているのは自分達です。でも、戦場以外の場所で、華撃団のために尽力を尽くして戦って下さっている事は、花組、いや、華撃団の全員が判っています。いくら御礼を言っても、感謝し足りない程です」
陸軍・海軍いずれにも属さない「帝國華撃団」という帝都防衛組織。霊力という力を使う関係上、構成員には年若き女性が多い。
まだまだ女性の社会進出が疎まれていたこの太正時代。
いくら女性の社会進出が目覚ましいと言われる帝都においても、女性が職につく事への抵抗感というものがまだまだあったのが現状である。
華撃団の存在を知る政財界のトップからは「帝都防衛という名誉ある職務を、年端も行かぬ女子供にやらせるなど」と陰口を叩かれる事も珍しくなかった。
米田は政財界からの援助を乞いつつも、そんな政治的・財界的な圧力からは、彼女達をまるで我が子同然にかばい、守っているのだ。
その働きは、実動部隊である大神達と何ら遜色はない。
大神の言葉を聞いた米田は、照れくさそうに口の端で笑い、三度酒をあおると、
「けっ。いっちょ前にいっぱしの口利きやがって……」
そう毒づくが、その表情はどこか嬉しそうな安堵感に満ちていた。まるで、我が子の成長を目の当たりにした父親のように。
米田は照れくさそうな表情を隠そうと、空元気を出してぐい飲みを突き出す。
「どうも年を取ると湿っぽくなっていけねえや。景気づけだ、もう一杯!」
「はい、司令」
大神は笑顔で米田のぐい飲みに酒をなみなみと注いだ。


かすみと椿は一服した後、一緒に伝票整理をしていた。
「ホントに多いですね、これ」
領収書を種類別に分けていく。必要経費といっても、その内訳は小道具制作費から食堂の仕入れまで様々だ。
劇団員によっては、私物を買ったのに「大帝國劇場」名義で領収書を貰ってきたりするので、それは別にしなければならない。
中には何の品物を買ったのか判らない――要は品物の名前が書かれていない領収書も交ざっており、そういったものはどれに分類してよいのか判断に困る事もある。それが一番厄介なのだ。
「……あ、かすみさん。これ、米田支配人のじゃないでしょうか?」
椿が作業の手を休めてかすみに差し出すように渡したのは、上野にある酒屋の領収書だった。
確かに備考欄にそっけなく「酒代」と書かれている。しかし、名前の欄には「大帝國劇場」と書かれいている。
「たまにあるわよ、それ」
かすみは手を休めずに領収書をちらと見ただけだ。
「少しならしょうがないと思うけど。数がかさむと、いくら何でも……ね」
顔にこそ出さないが、その言い方だとかなりの数があるように思える。
「支配人に言った方がいいんじゃないでしょうか?」
「支配人に?」
椿の言葉に、かすみが問いかける。
「だって、個人の物を買ってきて『大帝國劇場』で領収書を貰うのって、いけないんじゃないですか?」
「確かにいい事じゃないけど……」
「それに、支配人ももうお年ですから、そろそろお酒の量を控えて戴いた方が……」
かすみも手を止めて少し考え込む。
「そうかもしれないわね」
そう言って、かなり分厚くひとまとめにした領収書を別に分けて置いた。
それらは全部米田の酒の領収書に間違いなかった。


ほろ酔い加減で上機嫌の米田と、少々酒につきあわされた大神の二人は、支配人室に戻ってきた。
「ん? まだきてねぇらしいな」
出て行った時と変わらぬ支配人室の中を見回した米田が不思議そうに呟く。
酒屋のご用聞きは今日届けると言っていた。代金もすでに渡してある。
それがきていないという事は、やっぱりまだなのだろうか。米田はそんな風に考えた。
「先ほど言っていた、灘の地酒ですか?」
「おうよ。熱燗ってのもオツなんだが、冷やってのも捨て難いからな。ちょいと早めに冷やしておきたかったんだが……」
残念そうにため息をつくと、支配人室の椅子にどっかと座り込んだ。
「でもまぁ、早くこねえかなって待つのも悪くねえ。そういった『ゆとり』ってヤツを忘れちゃあいけねえよ。なぁ、大神」
「はぁ……そうですね」
大神の気のない返事に気分を害した様子もなく、米田は椅子に座ったままくるりと反転して外を見ている。
その時、支配人室のドアが静かにノックされた。
「おう、開いてるよ」
入口に背を向けたまま首だけ振り向いて、少し酔いのまわった声で返事をした。
ドアを開けて入ってきたのは、先程まで事務局で伝票整理をしていたかすみと椿だった。
二人は大神がいた事に少し驚いて軽く頭を下げる。
ドアを開けた途端漂ってきた酒の臭いに少し顔をしかめると、意を決してという感じで部屋に入ってきた。
「二人とも。一体どうしたんだい?」
大神がそう尋ねるが、二人はそのまま米田の前に立った。
「米田支配人。実は、お話ししたい事があるんです」
かすみは、背を向けたままの彼にそう切り出した。
「お話ししたい事があるんです、か。一体なんでぇ、そのお話しってのは」
そこでようやく椅子を回転させて二人の方を見る。すると椿は手に持っていたものを、支配人室の机にどさりと置いた。
「ん? こいつは……領収書じゃねえか」
彼はつまらなそうに領収書の山のてっぺんをぴんと弾く。するとどさどさと山が崩れ、一部が机から落ちた。
「全部支配人のお買いになったお酒の分です」
「こんなに!?」
かすみが淡々と言ったその言葉に、大神が驚きの声を上げる。その枚数たるや、十枚や二十枚ではないのだから無理もない。
「でもこれ……随分枚数があるけど。ここ数ヶ月分だろう?」
「いえ。今月分です」
椿もどうしたらよいものか、と言いたそうに大神に言った。
その答えを聞いて大神の表情が凍りついた。
米田が始終酒を飲んでいる事は、大神もよく判っている。
中でも日本酒を飲む事が多いが、特に「この銘柄がお気に入り」という話は聞いた事がないので、日本酒以外を色々飲んでいても不思議ではない。だから、一日の酒量もかなりの量になる。
頭では判っていたものの、実際に「領収書」という形ではあるが、まとまったものを目の当たりにすると――。
「正確には、食堂などで使用する分以外で購入したお酒の領収書です。今月だけで三十九円二十銭あります」
「三十九円!?」
そのあまりの金額に、もう大神は唖然とするしかなかった。

<中編につづく>


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