1
私は幸運だった。
そのことは、誰に聞いても間違いはないだろう。
家を飛び出しながら、暖かい仲間に恵まれ、輝かしいライトを浴びることができた。
高望みをしてはいけない。そう気付いていながら、一瞬の栄光に身を任せることができた。
もちろん、私自身の実力があってこそ走れる、スタァの道。
たくましい仲間たちと一緒に、スタァであり続けた。
……でも、それも今日でおしまい。
私が幕を引くのだ。帝劇のトップスタァも、帝都を守る華撃団の一員からも。
この神崎すみれが、全ての幕を下ろすのだ。
2
緞帳の下りている舞台は、いつになく暗い。
灯りをつけて、明日が最後となる舞台の中央に立つ。
「……明日が、最後の舞台となるのですわね」
身体が自然に舞い始めていた。
観客のいない、私だけの舞台。
常日頃からしていた、舞台の練習ではない、私だけの演舞。
腕にまとわりつく着物の袖は、悔しいほどに乱れることがない。
袖が乱れれば、それを理由にすることもできるのに。
息が乱れれば、それを理由に辞せるのに。
「この神崎すみれが、トップスタァであることの証明ですわね」
観客のいない舞台だとしても、ここは舞台。
私に相応しかった、トップスタァとしての戦場。
足首を固定して、静かに腕を下ろす。
袖の動きがおさまるのを待って、大きく腰を折った。
緞帳の向こうに見える、無数の観客のため。その先にいる、私の帰りを待ち受ける人のため。
これが、最後の舞台ですわ。
「……呆気ないものですわね」
終わってみれば、私の短い人生においてすらも、ほんの一瞬のできごと。
それだけの期間だったというのに、思い出はどの時代よりも多い。
初めての舞台、初めてのヒロイン降格、初めての舞台でのミス。
いろいろなことがあった。
それを思い出すことは、今は必要ないだろう。
私は明日での引退を決めた身。今はまだ、帝劇のトップスタァなのだから。
舞台の灯りの下で、私はもう一度、観客席に向かって頭を下げた。
それが、トップスタァとして舞台を離れるときの礼儀。
充分に礼をした後、私は舞台を背にした。
明日の公演が終われば、二度と上がることはない大帝国劇場の舞台に。
「すみれ……かしら」
「マリアさん」
夜の見回りでしょうね。本当に御苦労様。
支配人が貴方を選んだ理由は、想像に難くないですわ。
誰からも頼りにされる優しさを持ちながら、儚く折れそうな精神。
そして、死線を潜り抜けてきた戦士の目。
「もう、終わりましたわ」
「灯りを消してもいいのかしら」
「えぇ。お願いいたしますわ」
マリアさんが、舞台の灯りを消した。
明日の舞台も、彼女が舞台の灯りを落とすのだろうか。その、白い指先で。
思わず、彼女の指を見ていたのでしょうね。マリアさんの視線が、私を貫いていた。
「すみれ」
呼びかけられるまでそのことに気付かないなんて、私もどうかしていますわ。
仕方なく愛想笑いを浮かべて、私は首を横に振ってみせた。
「白い指先ですわね……」
「……何かあったの」
あぁ、この声。
この声があるから、私はここを離れられるのだ。
降魔大戦を潜り抜けてから、マリアさんに増えた声色。
他人をいたわる、優しさに満ちた声。
「明日で、舞台を退きますわ」
「えっ……」
「花組からも、帝劇からも。私のいるべき場所に、戻りますの」
言ってしまえば、簡単なことですわね。悩んだ時間が惜しまれるほどに。
灯りの落とされた舞台の上では、マリアさんの顔すらわからない。
それでも、言葉をつないでいる私がいた。
「マリアさんには、話しておきませんとね」
「舞台を退くって、貴方……」
「もう、明日の舞台で終わりですわ。帝劇のトップスタァ、神崎すみれの幕を下ろします」
自分の力で幕を下ろせるうちに。
誰かに幕を引かれる前に、私は自分で幕を下ろします。
「変わらないのね」
変わらない……何が変わっていないとおっしゃるの。
私は変わった。トップスタァとして、一人の女として。
「何が、変わらないとおっしゃるの」
「決意は変わらないのね」
「もちろんですわ。冗談で口にするほど、簡単なことではありませんわ」
少し深読みしすぎたのかしらね。
マリアさんのせいですわよ。いつも意味深な言葉を吐く、貴方だから。
「このこと、隊長には……」
「申しておりません。まずは貴方にお知らせするのが、筋というものでしょう」
いいえ、本当は逃げているのかもしれませんわね。
あの真っ直ぐで直情的な、大神一郎という隊長のことを。
だからこそ、貴方に話したのかもしれませんわ。
彼を止められる、唯一の貴方に。
「帝劇を離れて、どこに行くつもりなの」
「実家に帰りますわ。やはり、私を必要としているのは、神崎の家ですから」
この帝撃を守るために。
何者にも屈しない、帝撃を作るために。
……愛すべき仲間たちが、安心して戦えるように。
「貴方、まさか、また結婚の話を」
「勘違いなさらないで下さいまし。私は、私の意志で帰るのですわよ」
「すみれ」
もう、いいですわ。
私の伸ばした片手で、マリアさんは私の意志を汲み取ってくれたようですわね。
それ以上は何も言わずに、私を見送ってくれた。
先に歩き出した私にかけられた言葉は、彼女の精一杯の優しさかしら。
「すみれ、戻って来なさいとは言わないわ。貴方が選んだ道なのなら」
「……ありがとうございます」
「それでも、忘れないで。ここは、貴方の家だった場所よ。貴方の仲間がいた場所」
「えぇ、もちろんですわ」
かけがえのない場所ですもの。
この神崎すみれが、一生に一度の輝きを放ち続けた場所。
誰にも恥じることのない生き方を、私に教えてくれた場所。
その場所を捨てて、私はとび立つときを迎えたのですわ。
「巣立つ……と、いう言葉は似合いませんかしら」
突拍子もなく、口をついた言葉。
それでも、やはり貴方は生まれながらの王子様なのでしょう。
「すみれなら、この場所を巣立つこともできるわ。貴方の実力と、貴方の想いがあれば」
嬉しく思いますわ。マリアさん、貴方と出会えたことを。
貴方とともに、舞台に上がれたことを。
そして、私の相手役として、私に輝きを与えてくれたことを。
「失礼致しますわ。明日も、よろしくお願いしますわ」
「えぇ。すみれ、おやすみなさい」
感情の昂ぶりはない。
これなら、ゆっくりと寝ることもできるでしょう。
明日の舞台に支障はない程度に、私は満足のいく別れを告げることができた。
残りは明日、けじめをつければいいことですわ。<中編に続く>