『寂しがり屋のストレイ・ドッグ 前編』
【一日目】
初夏の雰囲気が漂うこの季節、風が新緑の薫りを運んでくる。
一人の少女が廊下をダッシュしている。少女の背中で、長い髪がバタバタと揺れている。
すでに、タイムリミットは過ぎている。
「セェェ―――フ!!」
「ふむ。なかなか、良いトレーニングになったな」
勢いよく扉が開き、二人の生徒が飛び込んでくる。もちろん、相良宗介軍曹と千鳥かなめの二人である。
「……せ、せ、先生、ア、アウトですか?」
息が上がり、汗びっしょりである。
まあ、駅から学校までノンストップでダッシュしたんだから、仕方ない。
「……特別に、セーフにしときます」
その勇猛な姿にパチパチと拍手が起きる。だが、恵里先生は呆れ顔だ。
さすがに、下駄箱でタイムリミットの8:45を過ぎた時には、もうダメかと思った。努力と根性と気合の勝利である。
「ははっ、どうも、どうも」
拍手に笑顔と軽い会釈で答える。
「千鳥さんも、相良くんも席について下さいね」
恵里先生は、出席簿の欄のバツを消す。
どうやら、遅刻は免れたみたいだ。ほっと胸を撫で下ろし、慌てて席に着く。
(あっつい、あっつい)
制服の背中が汗でぴったりと張り付いて、すんごくきもち悪い。
『打開策その一、更衣室で制服を着替える』
さすがにこの案は、授業が始まっているのでマズイ。
遅刻した上に、『着替えるので更衣室に行っていいですか?』なんて聞けるほど、自分は図々しくない。
『打開策その二、窓を全開にして、涼しい風が吹き込んでくることを期待する』
これも却下。
今日は快晴、風が全く吹いてない。
『打開策その三、人力に頼る』
結局、その三の案に落ち着く。
鞄から下敷きを取り出すとパタパタと扇ぐ。しかし、送られてくるのは生温い風ばかり、嫌になる。
(あれ、キョーコは?)
見れば、隣りの恭子の席が空になっている。
「先生!!」
「何ですか、千鳥さん」
黒板に向っていた恵里先生が振り返る。
「あのキョーコは、どうしたんです。休みですか?」
「先生も聞いてないんですけど、千鳥さん何か聞いてません?」
逆に、恵里先生に聞き返されてしまう。
「何も聞いてませんけど……」
「じゃあ、先生が後でお家の方に確認しときます」
再び黒板に向かうと、英語の文章を書き始める。
(どうしたんだろ、キョーコ?)
恭子が休む時は、だいたい自分に連絡してくる。別に昨日は、体調も悪そうじゃなかった。
(ソースケが……知ってるわけないかぁ〜)
宗介はこちらの視線に気がついたのか、小声で話しかけてくる。
『千鳥。常盤は、テロリストに誘拐されたのかもしれん。最近では、活動資金調達の為に誘拐を多用するテログループが存在するからな』
いきなり物騒なことを呟く。
冗談にしか聞こえないが、言っている本人は至極当然といった顔つきである。
『今頃、家に身代金を要求する電話がかかっているに違いない』
『それは、ないと思うけど……』
恵里先生の視線を気にしながら、ヒソヒソと話を続ける。
『千鳥。自分はこれから常盤の家を監視しに行くが、君も同行するか。人手は、多い方が良い』
『ちょっ、ちょと待ちなさいよ……』
『千鳥。君は、常盤の身が心配ではないのか。君がそんな薄情な人間だったとは、失望したぞ』
鞄を持って立ち上がろうとする。
「待てと、言っとるだろ――――が!!」
宗介の頭を鞄で叩き倒す。
ゴツッと、鈍い音がした。ちょうど、金具の部分が当たったのか、宗介は机の上に突っ伏したまま動かなくなった。
教室に響く大絶叫と鈍い音。クラス全員が、驚いた顔でこちらを見ていた。
「……ははっ、何でもありません。失礼しました」
ぺこぺこと頭を下げて謝る。
「千鳥さん。先生の授業ペースが早いなら、そう言って下さい……。何も、そんな大声で抗議しなくても……グスッ……」
ポケットからハンカチを取り出すと、目元にあてる。
「あ、そのっ、別にそういう意味じゃないんですけど……」
「じゃあっ、学級崩壊なのね……グスッ」
教壇の上では、先生がハンカチを握り締めながら泣いていた。


一時間目の授業が終わったあと、かなめは少し不機嫌だった。
「たくっ、あんたは何であーなの?」
「……すまない」
とりあえず謝ってくる宗介。本当に、わかっているのだろうか。かなめには、わざとやっているんじゃないかと思えてくる。
「しかし、自分は常盤の身を案じてだな……ムグッ」
「ちょっと、ストップ。あんたの思考に合せれば、え〜と」
暴走しそうな宗介の口を手で塞ぐ。
「情報もないのに動くのは、部隊に迷惑をかけるんじゃないの?」
「その通りだ」
真剣な顔で頷く。
「戦いは、情報を制した者が勝つんでしょ。とりあえず、恭子の家に電話して事情を聞いてから。わかった?」
「うむ、適切な作戦だ。感心したぞ」
ようやく納得してくれたようだ。
「じゃあ、電話するわよ」
かなめは、携帯電話のリダイアルボタンを押す。昨日、恭子と話したまんまだ。
プルッル〜、プルッル〜。
呼び出し音が響く。
(出ないなぁ、キョーコ?)
その時、廊下の方から独特のコール音が聞こえる。恭子の携帯電話だ。
「カナちゃん……」
見ると、教室の後ろのドアから恭子が顔を覗かせている。
どことなくキョロキョロと落ち着かない感じだ。
「キョーコ。どうしたのよ、そんなとこで。入ってきたら?」
「常盤、無事だったのか。一体どうやってテロリストから、逃れてきたのだ。敵の人数、戦力、アジトを教えるのだ。自分がテロリスト供を殲滅する」
「こんのおぉ〜、大バカもんがぁぁ―――」
フルスイングのハリセンが頭にヒットし、宗介は沈黙する。
やっぱり、わかっていなかったみたい。
「……え〜とっ、カナちゃん。ちょっと、いいかな?」
「いいけど、どうして?」
「うん、ちょっと……」
申し訳なさそうな顔をする。
(キョーコには、似合わない顔だなあ。どうしたんだろ?)
いつも元気な恭子にしては珍しいことである。
「まさか、家族を人質に取られているのか。交渉なら、自分が行なうが?」
「はいはい、あんたは黙ってて」
宗介の戯言は無視することに決定。これ以上は、付き合ってられない。
「中庭で待ってるから……」
そう言うと、さっさと姿を消した。
(まさか、愛の告白ってことはないと思うけど……)

……
……
……
『カナちゃん。好き』
『へっ!?』
目の前で、トンボ眼鏡の少女が頬を染めている。
『前から、大好きなのカナちゃんのこと』
『ちょっと、キョーコ。落ち着いてよ』
『うんうん。カナちゃんのこと、相良くんに盗られるなんて……あたし、耐えられないよ!!』
『ちょ、ちょっと……あたしとソースケは、そ、そんな仲じゃないんだから』
『なら、あたしと付き合って!!』
『えっ、それは……ほらっ、あたし達、女の子どうしでしょ?』
『あたしは、いいよ。カナちゃんのこと好きだから』
……
……
……

(ははっ、まさかね……)
なんだか変な想像をしてしまった。これも、暑さの所為だろう……きっと、いや多分。
隣りでは、宗介が神妙な面持ちで何か考えている。また、暴走しなきゃいいんだけど。
「ふ〜む。犯罪の匂いがする」
「馬鹿言ってないで、行くわよ」
恭子の態度に不審な物を感じながら、二人は中庭へと向った。
植え込みの陰に、恭子が立っていた。やたら、キョロキョロと周囲を気にしている。明らかに、挙動不審である。
「で、どうしたの?」
「カナちゃん。あ、あのね……、あのね……」
口篭もる。
その時、恭子の服の下で、何かがごそごそと動く。
「餌あげたらついてきちゃった……どうしよう?」
制服の中から、可愛い小犬が顔を覗かせていた。
三人は、とりあえずその足で職員室に向った。
恵里先生には、説明しておかなくちゃいけない。多分、心配しているだろうから。
「そうだったの。先生も心配してたのよ。お家に電話したら、学校に行ったって、おっしゃるし」
「ゴメンナサイ、先生」
恭子は、恵里先生に謝ってる。
「でも、常盤さんを叱るわけにはいかないわね。こんなに可愛いんですもの」
恵里先生も、恭子が抱いている子犬の頭を撫でる。
真っ白な毛並みの犬で、まだ小さい。特徴と言えば、真っ白な体と対照的に、足先は茶色の毛で覆われている。まるで、靴下でも履いている感じだ。
「じゃあ、とりあえずこの子は、用務員さんに預かって貰っておくから、授業にはきちんと出て頂戴ね」
「はい」
小犬を恵里先生に渡す。すると、すぐに恵里先生の腕の中で丸くなっている。その姿に、恭子はホッとしたような表情を浮かべていた。
「失礼しました」
恭子は名残惜しそうに、職員室を後にした。
「……ごめんね、カナちゃん」
自分を心配させたことだろうか。
「しょーがないわよ、あんなに可愛いんだから。キョーコじゃなくたって、助けてあげたくなるわよ」
「うん、ありがと」
やっと笑顔が戻ってくる。やっぱり、恭子には笑顔が一番似合う。
「で、常盤。家族の誰が誘拐されたのだ。早急に救出プランを練らねばならんのだが……」
「お前は、話を聞いてなかったのかあ――――!!」
ハリセンの乱れ撃ちが炸裂していた。


昼休みになると、早速三人は用務員さんの所に向った。
「ふむ。だいたい事情は飲み込めた。危険はないのだな」
どうやら、ようやく理解してくれたようである。ここまで、説明するのに二〇分を要した。あの後も大変だった。
『常盤は人質を取られ、テロリストに口止めされている。だから、真実を喋れないのだ』
だの、
『体のどこかに盗聴マイクが仕掛けられているはず。身体検査をさせてくれないか』
だの、
勝手に一人で暴走した挙げ句、最後にはハリセンが炸裂した。そして、恭子と二人で事情を説明し、何とか宗介を宥めたのである。
「そうよ。たくっ、あんたは何でそう戦争バカなの?」
一人ぶちぶちと文句を言う。
「カナちゃん、もう、それにくらいにしといてあげたら?」
恭子は御機嫌で小犬の相手をしている。小犬も嬉しそうに恭子の服の袖を引っ張り、じゃれ合っている。
「ほらっ、相良くんも謝って、ね?」
「ふむ。すまなかった」
「うん。じゃあ、許してあげる」
恭子と小犬を見ていたら、怒る気も失せた。何だか、赤ちゃんとか動物の子供って無償で可愛いく思える。見ているだけで、心の奥があったかい幸せな気分になってくる。
「ねえねえ、カナちゃん。この子お腹が空いてるのかなあ?」
「そうかもね」
恭子の指を必死にペロペロ舐めている。
「千鳥。この犬は、腹が減っているのか?」
「多分ね」
「ここに、干し肉があるのだが、与えてみてはどうだ?」
懐から、彼の貴重な食糧源である干し肉を取り出している。
「あんたも、たま〜には役に立つわね」
かなめがジト目で見る。
早速、目の前に干し肉を置いてみる。しかし、小犬は一向に口をつけようとしない。
「食べないね。カナちゃん」
「そ〜ね、その干し肉がよっぽどマズイんじゃないの?」
「そんなことは、ないぞ。千鳥も食べてみるか?」
宗介が千切った肉片を口の中に放り込む。
「じゃあ、一口だけ……モグモグ、クチャクチャ、モグッモグッ……何よ、コレ?」
口の中の物体はいくら噛んでも、無くならない。いい加減顎が疲れてきた。
「干し肉だが」
「そういうことじゃなくて、異様に硬いわよ」
まるで、ゴムのようだし味もほとんどしない。
「咀嚼力を鍛えるには最適だぞ」
「……」
「噛む力を鍛えておけば、殴られた時ダメージを受けないのだ」
とりあえず、この干し肉が食えたものじゃないことだけはわかった。ひたすら、顎が疲れる。
「でも、どうしよう。カナちゃん?」
「う〜ん、どうしよっか?」
困った顔をしていると、後ろから声が聞こえてきた。
「だめよ、常盤さん」
「あっ、恵里先生」
振り返ると、そこには恵里先生。手には、コンビニの袋を持っている。
「この子は、まだ赤ちゃんよ。固形食より、ミルクの方がいいわよ」
袋から五〇〇ミリリットル入りの牛乳パックを取り出すと、紙皿にミルクを注ぐ。
すると、小犬は直ぐにミルクを飲み始めた。お腹が空いていたのか、スゴイ勢いだ。皿に注いだミルクが、みるみるうちに無くなっていく。
「わぁ、飲んでる、飲んでる」
恭子が嬉しそうな声をあげる。
「先生、わざわざ買ってきてくれたんですか?」
「ええっ。生徒の為ですもの。それに、わたしも昔、犬を飼ってたから……気になって」
だが、かなめはその表情に一瞬寂しそうな影がよぎったのを見逃さなかった。
(何か、あったのかな?)
「じゃあ、先生は次の授業の準備があるから。あっ、何か困ったことがあったら教えてね。力になれると思うから」
そう言うと、小走りで校舎の中に戻っていった。
「ふむ、良い先生だな」
「あんた、今度それ恵里先生の前で言ってあげたら。涙を流して喜ぶわよ」
「そうなのか?」
「そうよ」
二人の後ろでは、恭子が小犬と一緒になってじゃれ合っていた。


その日は、放課後が待ち遠しかった。
退屈な授業が終わると、三人は帰り支度もそこそこで、用務員さんの所に向った。
小犬は恭子の姿を見つけると、パタパタと尻尾を振りながら駆け寄ってくる。
「元気にしてた?」
その場所にしゃがみ込むと、頭をポンポンと撫でる。
恭子の言葉がわかるのか、わんと答える。
「へぇ〜、なついているわね。案外、恭子のことお母さんって思ってるんじゃない?」
「へへっ、そうかな」
恭子も満更じゃなさそうだ。
「しかし、どうするのだ。これから?」
宗介の言葉に顔を見合せる。
今日の所は、用務員さんに預かってもらうことになった。しかし、毎日頼むわけにはいかない。そもそも、この子犬が迷子なのか、捨て犬なのかどうかさえわからない。とりあえず、首輪はしていない。
「ソースケもあたしの所もダメだし……」
二人ともマンション暮らし。一応、ペット禁止ってことになっている。
(まあ、二、三日くらいなら大丈夫だと思うけど、それ以上はちょっとマズイな〜)
それに、宗介にペットの世話を出来るほど甲斐性があるとは思えない。何日も餌を与えず、飢え死にさせかねない。
「カナちゃん。あたし、家に帰ったら聞いてみるよ」
「そ〜ね。それでダメだったら、あたし達で飼ってくれる人を探すしかないわね。まあ、多分上手くいくでしょ」
「千鳥。希望的観測はよくないぞ。作戦とは、常に最悪の事態を想定して計画するものだ」
「わかってるわよ。それくらい……」
恭子の腕の中では、小犬が無邪気な顔で微笑んでいる。
「じゃあ帰ろっか、キョーコ。遅くなるといけないし」
「……うん」
その日、恭子は名残惜しそうに学校を後にした。

<中編につづく>


文頭へ 進む 毒を喰らわば一蓮托生へ
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